「月」やまゆり園事件2025年04月15日

石井裕也監督が宮沢りえを主演に迎え、辺見庸の同名小説を映画化した作品。物語は、元有名作家の堂島洋子が、森の奥深くにある重度障がい者施設で働き始めるところから展開していく。洋子は、作家志望の陽子や絵を描くのが好きな青年さとくん、そして身体が動かせない入所者きーちゃんと出会い、次第にきーちゃんに親身になっていく。一方で、施設内では職員による暴力やひどい扱いが見え隠れし、それに対して憤りを募らせるさとくんの正義感が、どんどん加速していく。洋子の夫・昌平をオダギリジョー、さとくんを磯村勇斗、陽子を二階堂ふみが演じており、キャストは豪華だ。

社会の理不尽さや人間関係の葛藤を描くヒューマンドラマ──と聞けば響きはいいけれど、正直なところ、この映画はかなり重たくて暗い。観る者に深い問いかけを投げかける、と評価されているが、観終わったあとに残るのは、疑問とモヤモヤだった。原作は、相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」をモチーフにしている。さとくんは、犯人・植松聖をモデルにしたキャラクターだ。しかし、彼がなぜ優性思想に至ったのかという部分について、監督の石井裕也は「生産性のないものを排除する」という考え方は今の社会全体が帯びているものであり、個人としての植松を掘り下げることには意味がない、としている。

生命を肯定するというのは本能的な欲求に根ざしており、他者の生命も自己と同様に尊重されるべきものだし、それを前提に社会生活が成り立っている。人の命を奪うという行為は、平等性や秩序の維持といった社会の基本原則に反しており、「殺してはいけない」という命題は、功利主義的にも論理的に成立する。そして、映画の中で描かれる思想──社会価値のない存在は「心のない者」であり、自己表現ができない障害者は人間ではない、そんな存在を社会が支える必要はなく、むしろ強制排除すべきだという考え方──これはあまりにも幼稚で、議論の土台にも乗らない話だ。

もし監督が言うように「今の社会そのものが排除の論理を帯びている」のだとすれば、それに対してもっと強く、正面から跳ね返すようなメッセージが欲しかった。そうでなければ、単に不快な現実をなぞっただけの作品になってしまう。また、重症の入所者が排せつ物を部屋で塗りたくるような描写が、「施設の日常」として淡々と描かれているのも疑問だ。そもそも、閉じ込められているという社会的・人的な環境こそが問題なのに、それを問うこともなく、あたかも「これがリアル」だと言わんばかりに見せるのは、方向を誤っている。そしてなぜか、「誰もが年を取り、生産性を失っていく存在になる」という当たり前の視点が、すっぽり抜け落ちているのも不自然だ。率直に言えば、これは駄作というより、悪質な映画だと感じた。俳優陣の演技は力強かっただけに、そんな作品に出演させられた彼らがかわいそうだと思ってしまった。

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