小学校 それは小さな社会2025年04月17日

小学校 それは小さな社会
日本の公立小学校に通う1年生と6年生の学校生活を、春夏秋冬の四季を通して追ったドキュメンタリー映画。新入生が4月に挙手の仕方、廊下の歩き方、給食当番のやり方などを学ぶ姿が映し出される一方で、6年生はその補助役として行動しながら、自覚と責任を育んでいく。教師たちはコロナ禍の中、行事の実施を巡って悩み、議論を重ねる。そのすべてが丁寧に記録され、3学期には1年生が新入生のために音楽演奏に挑む場面までが描かれている。監督は、イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ氏。150日間、のべ4000時間にわたる長期取材を行い、「特活(TOKKATSU=特別活動)」を通じて、日本の子どもたちが協調性を身につけていく様子をカメラに収めた。フィンランドでは4カ月にわたるロングラン上映を記録するなど、海外でも大きな反響を呼んだ。

だが、なぜ今、日本の教育に国際的な注目が集まるのだろうか。おそらく礼儀や協調性の育成、裏返せば管理教育の弊害である没個性や同調圧力の構造への興味なのだろうか。個人的には、自分が教員をしていた時代から、教育現場が一歩も前に進んでいないという印象を受けた。印象的だったのは、合奏練習でシンバルが叩けなかった1年生の女子を、教師が全体の前で厳しく「指導」する場面。現代ではパワハラだと批判されてもおかしくない。誰よりも早く出勤し、教室の机を並べていた6年生担任には、ワーカホリックという言葉が投げかけられるかもしれない。縄跳びダンスがうまくできない子に、ペアの子が「ここが下手」と指摘する姿や、徒競走で3着だった子に「来年は1等賞が取れたらいいね」と励ます母親にも、「跳べなくてもいい」「3着でも十分」という声が上がるのだろう。そして、多くの人がこう言うはずだ――「先進国ではもっと個性が尊重されている」と。その延長線上で、「だから不登校が増え、教職が敬遠されるのだ」と、日本の教育の課題を説明しようとするかもしれない。

だが、子どもが映る映像というのは、どんなテーマであれ、その純真さゆえに無批判に受け入れられやすい。40年前に教壇に立っていた私にとっては、こうした学校の光景は当たり前のものだ。教師は子どもを鍛え、子どもはその期待に応えようと努力する。それのどこが悪いのかと、つい思ってしまう。もし教師が子どもに期待をかけず、「サボるのも個性」と許容し始めたら、学校は何を教える場所なのかと疑問にすらなる。日本人の心を持ちながら外国人の視点を理解する山崎エマ監督は、こうした問いを私たちに投げかけたかったのかもしれない。つまり、この作品の目的は確かに達成されたのだ。ただ、卒業式後の教員反省会で、6年生担任が「もういっぱいいっぱいで、ダメかと思った時もあった。でも皆の支えで乗り切れた」と涙ながらに語ったとき、私はふと、自分がかつてどれだけ教職の過酷さに無自覚だったかを振り返った。教育とは、そして学校とは何なのか――この映画はその本質を、静かに、しかし鋭く問いかけてくる。

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