コバエチョロチョロが鬱陶しい ― 2025年09月01日
最近、デスクワークをしていると、やたら顔の前をチョロチョロ飛ぶ小さな虫がいる。視界の端でヒュッと動かれると集中力がゼロになる。なんなんだコイツら。1か月くらい前から「増えてきたな」と気づき始め、今では「ここ南国か?」と思うレベル。食べ物もない2階の作業部屋にまで現れるなんて、まったく招かれざる客である。どうやら正体はコバエ。調べてみると、あの異常な暑さと湿気が原因らしい。8月は連日35℃超え、湿度はサウナ並み。コバエにとってはリゾートホテルに温泉つきみたいな環境で、「ようこそ快適リゾートへ」とばかりに増えているわけだ。南国化してるのは気候じゃなく、うちの部屋のほうかもしれない。
しかもこのコバエ、ただ鬱陶しいだけじゃなくて、人体にもちょっかいを出すらしい。チョウバエは排水口から生まれて、まれに体内に侵入して「ハエ症」なんていうホラーみたいな症状を引き起こすとか。ショウジョウバエは食べ物に卵を産むし、ノミバエはお腹を壊す原因にもなる。要するに、「小さいから大丈夫」なんて油断していると痛い目を見る。さて、問題は侵入口。網戸なんて全然役に立たない。体長1〜2mmのコバエにとって、18メッシュの網戸は高速道路の料金ゲートみたいなものらしい。ならば24メッシュに替えればいいのだけど、風通しは悪くなるし、交換も面倒くさい。結局たどり着いたのは「スプレー一択」。
ただし注意点。家にあった「蚊がいなくなるスプレー」を試したけど、まったく効かず。どうやら蚊とハエでは効く成分が違うらしい。つまり「コバエを蚊扱いするな」ということだ。そこでドラッグストアで買ったのが「コバエムエンダー」。税込1500円。やや高いが、これが想像以上。数回シュッとして放置しておいたら、なんとゴキブリまで昇天していた。敵はコバエのはずだったのに、ついでにGまで倒すという副産物。ありがたいけれど、ちょっと怖い。
結論。コバエチョロチョロは鬱陶しい。しかし「ちょっとした侵入者」だと思っていたら、気候変化や都市生活の歪みを映す存在でもある。…とエラそうに書きつつ、今日も机の前を飛び回る1匹を見て、「ああ、また南国だ」とため息をついている。
しかもこのコバエ、ただ鬱陶しいだけじゃなくて、人体にもちょっかいを出すらしい。チョウバエは排水口から生まれて、まれに体内に侵入して「ハエ症」なんていうホラーみたいな症状を引き起こすとか。ショウジョウバエは食べ物に卵を産むし、ノミバエはお腹を壊す原因にもなる。要するに、「小さいから大丈夫」なんて油断していると痛い目を見る。さて、問題は侵入口。網戸なんて全然役に立たない。体長1〜2mmのコバエにとって、18メッシュの網戸は高速道路の料金ゲートみたいなものらしい。ならば24メッシュに替えればいいのだけど、風通しは悪くなるし、交換も面倒くさい。結局たどり着いたのは「スプレー一択」。
ただし注意点。家にあった「蚊がいなくなるスプレー」を試したけど、まったく効かず。どうやら蚊とハエでは効く成分が違うらしい。つまり「コバエを蚊扱いするな」ということだ。そこでドラッグストアで買ったのが「コバエムエンダー」。税込1500円。やや高いが、これが想像以上。数回シュッとして放置しておいたら、なんとゴキブリまで昇天していた。敵はコバエのはずだったのに、ついでにGまで倒すという副産物。ありがたいけれど、ちょっと怖い。
結論。コバエチョロチョロは鬱陶しい。しかし「ちょっとした侵入者」だと思っていたら、気候変化や都市生活の歪みを映す存在でもある。…とエラそうに書きつつ、今日も机の前を飛び回る1匹を見て、「ああ、また南国だ」とため息をついている。
「辞めるな」報じ「辞めろ」は黙殺 ― 2025年09月02日
官邸前に4000人が押し寄せ、「石破辞めろ‼」の大合唱が響いた猛暑の午後。参加者は「辞めるなデモ」の3倍以上。ところがどうだ、全国紙はほぼ沈黙。報じたのは産経だけ。他紙は知らぬ顔、テレビもTBSが申し訳程度に触れただけで、NHKも民放各局も“夏休みモード”。これが「報道の自由」の現実だ。「辞めるなデモ」は各紙が大見出しで持ち上げ、テレビは生中継までやってみせた。つまり「どの声を拾い、どの声を無視するか」。ここにメディアの体質が露骨に現れる。公平公正の看板が泣くというものだ。
新聞は軽減税率という“特権”を享受している。その理由は「民主主義の基盤を守るため」。だが、権力の顔色を伺い、都合の悪い市民運動を黙殺するような姿勢で、その資格があるのか。公共性を盾に甘い汁を吸っているだけではないか。見直し論が噴き出すのも当然だ。NHKも同罪だ。受信料を半ば税金のように強制徴収しながら、報道に角度をつける。スクランブル化も拒み、「見なくても払え」の一点張り。公共放送を名乗りながら、実態は国家に庇護された“強制放送機関”と揶揄されても仕方あるまい。
「辞めるな」は報じ、「辞めろ」は握り潰す。そんな報道姿勢は編集方針の範疇を超え、もはや制度不全の証拠である。ならば国民も“報道しない自由”に倣い、税や法律で“支援しない自由”を行使していいのではないか。報道の自由を守るために必要なのは、報道の公平性と公共性を制度的に担保することだ。新聞の軽減税率も、NHK受信料制度も、その資格を失いつつある。
さて次は、「軽減税率辞めろ‼デモ」か「受信料制度見直せ‼集会」か。会場はもちろん新聞社本社とNHK放送センター前。各社報じられるかどうか? ──まあ、期待しない方が精神衛生にはいいのだが。
新聞は軽減税率という“特権”を享受している。その理由は「民主主義の基盤を守るため」。だが、権力の顔色を伺い、都合の悪い市民運動を黙殺するような姿勢で、その資格があるのか。公共性を盾に甘い汁を吸っているだけではないか。見直し論が噴き出すのも当然だ。NHKも同罪だ。受信料を半ば税金のように強制徴収しながら、報道に角度をつける。スクランブル化も拒み、「見なくても払え」の一点張り。公共放送を名乗りながら、実態は国家に庇護された“強制放送機関”と揶揄されても仕方あるまい。
「辞めるな」は報じ、「辞めろ」は握り潰す。そんな報道姿勢は編集方針の範疇を超え、もはや制度不全の証拠である。ならば国民も“報道しない自由”に倣い、税や法律で“支援しない自由”を行使していいのではないか。報道の自由を守るために必要なのは、報道の公平性と公共性を制度的に担保することだ。新聞の軽減税率も、NHK受信料制度も、その資格を失いつつある。
さて次は、「軽減税率辞めろ‼デモ」か「受信料制度見直せ‼集会」か。会場はもちろん新聞社本社とNHK放送センター前。各社報じられるかどうか? ──まあ、期待しない方が精神衛生にはいいのだが。
こんばんは、朝山家です。 ― 2025年09月03日
日曜の夜に放送中のドラマ『こんばんは、朝山家です。』。この作品は良い。主演は中村アンと小澤征悦。毒を吐く妻と、ぼやき続ける夫。反抗期の娘に、学校に馴染めない息子。どこかで見たことがあるようで、実際にはなかなか描かれてこなかった家族の姿が、ユーモアと痛みを織り交ぜてリアルに描かれている。中村アン演じる朝子。いわゆる“毒妻”だが、その毒はただのヒステリーではなく、家事も育児も仕事も背負いながら、夫の承認欲求や無責任さに振り回される中で積み重なった“生活の叫び”だ。ときに言葉の刃のように鋭く、ときにユーモアを帯びるその口調は、多くの視聴者に「わかる…」と共感させる。しかも彼女自身の美しさが、その毒をより切実で魅力的に見せてしまう。
一方、小澤征悦が演じる賢太は、ぼやきで自分を正当化する“残念な夫”。「言わなきゃいいのに…でもさー…だけどさー…」と繰り返す姿は、思わず笑ってしまうのに、どこか哀愁を漂わせる。マザコンぶりに呆れながらも「いるいる、こういう人」と思わせる妙な説得力がある。不器用で情けないのに、どこか憎めない存在感だ。子どもたちの演技も光っている。渡邉心結が演じる蝶子は、野球部の高校生。反抗期の真っ只中で母に反発しながらも、心の底では母を嫌いきれない複雑さを覗かせる。その微妙な心の揺れを自然に表現していて、観る側に切なさを残す。
そして注目すべきは、嶋田鉄太が演じる晴太。不登校気味で、学校ではなかなか周囲に馴染めない小学生という難しい役どころだ。彼のキャラクターは、ASD(自閉スペクトラム症)の一部のタイプをよく表現している。特別な才能や極端な個性を持っているわけではなく、「ちょっと変わっていて、集団の中で浮いてしまう」――そんな現実に即した姿だ。晴太は家庭や学校外ではよく喋る明るい子で、そのギャップがむしろ演技のリアリティを強めている。他のドラマでよく描かれるASD像は、空気を読まずに天才的な才能を発揮するキャラや、無表情で機械のように振る舞うキャラといった“ステレオタイプ”が多い。だが実際には、晴太のような「学校では不器用で浮いてしまうタイプ」のほうが多い。脚本家のリアルな観察眼には舌を巻く。
ドラマの面白さは、登場人物が“思ったことを全部口にする”ところにある。普通のホームドラマなら飲み込んでしまうような言葉が、朝山家では真正面からぶつけ合う。その衝突が痛快で、笑えて、そして少し胸に刺さる。さらに、激しいやり取りの中にもふとした優しさがのぞく。朝子がほんの少し柔らかくなる瞬間。賢太が子どもに寄り添おうとする不器用な仕草。そんな小さな揺らぎが「まだこの家族は壊れていない」と感じさせ、観ている側を安心させる。
『こんばんは、朝山家です。』は、笑いと痛みを同時に描くホームドラマの新しい形だ。毒やぼやきに込められた切実さを笑い飛ばしつつ、気づけば自分の家族や日常を重ねてしまう。キャストの熱演と脚本の緻密さがかみ合い、観終わった後にじんわり心に残る。今年のホームドラマの中でも異彩を放つ秀作だ。日曜の夜、テレビの前で自分の家族を少しだけ振り返ってみたくなる――そんな時間をくれる作品だ。
一方、小澤征悦が演じる賢太は、ぼやきで自分を正当化する“残念な夫”。「言わなきゃいいのに…でもさー…だけどさー…」と繰り返す姿は、思わず笑ってしまうのに、どこか哀愁を漂わせる。マザコンぶりに呆れながらも「いるいる、こういう人」と思わせる妙な説得力がある。不器用で情けないのに、どこか憎めない存在感だ。子どもたちの演技も光っている。渡邉心結が演じる蝶子は、野球部の高校生。反抗期の真っ只中で母に反発しながらも、心の底では母を嫌いきれない複雑さを覗かせる。その微妙な心の揺れを自然に表現していて、観る側に切なさを残す。
そして注目すべきは、嶋田鉄太が演じる晴太。不登校気味で、学校ではなかなか周囲に馴染めない小学生という難しい役どころだ。彼のキャラクターは、ASD(自閉スペクトラム症)の一部のタイプをよく表現している。特別な才能や極端な個性を持っているわけではなく、「ちょっと変わっていて、集団の中で浮いてしまう」――そんな現実に即した姿だ。晴太は家庭や学校外ではよく喋る明るい子で、そのギャップがむしろ演技のリアリティを強めている。他のドラマでよく描かれるASD像は、空気を読まずに天才的な才能を発揮するキャラや、無表情で機械のように振る舞うキャラといった“ステレオタイプ”が多い。だが実際には、晴太のような「学校では不器用で浮いてしまうタイプ」のほうが多い。脚本家のリアルな観察眼には舌を巻く。
ドラマの面白さは、登場人物が“思ったことを全部口にする”ところにある。普通のホームドラマなら飲み込んでしまうような言葉が、朝山家では真正面からぶつけ合う。その衝突が痛快で、笑えて、そして少し胸に刺さる。さらに、激しいやり取りの中にもふとした優しさがのぞく。朝子がほんの少し柔らかくなる瞬間。賢太が子どもに寄り添おうとする不器用な仕草。そんな小さな揺らぎが「まだこの家族は壊れていない」と感じさせ、観ている側を安心させる。
『こんばんは、朝山家です。』は、笑いと痛みを同時に描くホームドラマの新しい形だ。毒やぼやきに込められた切実さを笑い飛ばしつつ、気づけば自分の家族や日常を重ねてしまう。キャストの熱演と脚本の緻密さがかみ合い、観終わった後にじんわり心に残る。今年のホームドラマの中でも異彩を放つ秀作だ。日曜の夜、テレビの前で自分の家族を少しだけ振り返ってみたくなる――そんな時間をくれる作品だ。
移民政策のない日本 ― 2025年09月04日
アフリカの一部メディアで「日本がアフリカからの人びとに町を提供し、特別なビザを出す」といった記事が流れた。実際には国際協力機構(JICA)が行う人材交流の取り組みを誤解した報道であり、移住政策とは関係がない。しかし、この誤報が注目を集めたのは、日本の外国人の受け入れ方について、多くの国民が不安や疑問を抱いていたからだ。日本政府は長年「移民政策はとっていない」と説明してきた。確かに、外国人に永住を前提として受け入れる大規模な制度はない。しかし現実には、2024年末の時点で日本に住む外国人は約379万人にのぼり、国民全体の3%を占める。そのなかで技能実習や特定技能といった資格で働く人は80万人を超えている。さらに不法に滞在している人も7万人以上確認されている。国際的には「1年以上住む外国人」は移民と呼ぶのが一般的であるため、日本もすでに移民を受け入れている国といえる。
地方都市や工場の多い地域では、ブラジルやベトナムなど特定の国から来た人々が集まって暮らす地域ができつつある。学校や医療、住宅などをめぐって日本人住民との間に課題も出てきている。よく耳にする「外国人犯罪の増加」という声についてはデータ上の根拠はなく、外国人による犯罪件数は2000年代の初めをピークにむしろ減少している。治安より大きな問題は、不安定な仕事や賃金未払いといった雇用側の問題が、不法滞在や違法な働き方を助長する点である。
同じように人口減少や高齢化に直面する国として、ドイツや韓国の例は参考になる。ドイツは2000年代に「移民基本法」をつくり、外国人の権利と義務を決めたうえで、ドイツ語教育や社会統合の仕組みを国として整備した。韓国もかつては「移民は受け入れない」という立場だったが、人口減少をきっかけに政策を変え、結婚や仕事を理由に来る人々を法律で位置づけ、多文化家庭の支援に取り組んでいる。両国に共通するのは、実際に移民を受け入れる以上、それを隠すのではなく制度として明示し、社会との橋渡しを用意している点である。ただ、両国とも制度があっても移民は持ちこたえきれないとする事態に陥っているのも事実である。良い制度があれば自動的に移民との共生社会が安定するわけではないのだ。まして制度や明確な政策がない日本は言わずもがなである。
日本はこれまで、外国人を使いながら「移民ではない」と言い続けてきた。このあいまいさが国民の不安や不信感を広げ、誤報や憶測に振り回されやすい状況をつくっている。今必要なのは、外国人の受け入れ方針をはっきり示すこと、地域社会とつながる仕組みを整えること、公平な働き方を守ること、不法滞在を減らすためのルールを徹底することである。結局のところ、日本はすでに「移民を受け入れている国」である。問うべきは「受け入れるかどうか」ではなく「どう受け入れるか」である。きれいごとよりも、誠実でわかりやすい制度設計と、慎重で緩やかな変化こそが、国民の安心を生み、社会の安定につながる。共生社会を急かす妙なプロパガンダは国民を分断するだけだ。
地方都市や工場の多い地域では、ブラジルやベトナムなど特定の国から来た人々が集まって暮らす地域ができつつある。学校や医療、住宅などをめぐって日本人住民との間に課題も出てきている。よく耳にする「外国人犯罪の増加」という声についてはデータ上の根拠はなく、外国人による犯罪件数は2000年代の初めをピークにむしろ減少している。治安より大きな問題は、不安定な仕事や賃金未払いといった雇用側の問題が、不法滞在や違法な働き方を助長する点である。
同じように人口減少や高齢化に直面する国として、ドイツや韓国の例は参考になる。ドイツは2000年代に「移民基本法」をつくり、外国人の権利と義務を決めたうえで、ドイツ語教育や社会統合の仕組みを国として整備した。韓国もかつては「移民は受け入れない」という立場だったが、人口減少をきっかけに政策を変え、結婚や仕事を理由に来る人々を法律で位置づけ、多文化家庭の支援に取り組んでいる。両国に共通するのは、実際に移民を受け入れる以上、それを隠すのではなく制度として明示し、社会との橋渡しを用意している点である。ただ、両国とも制度があっても移民は持ちこたえきれないとする事態に陥っているのも事実である。良い制度があれば自動的に移民との共生社会が安定するわけではないのだ。まして制度や明確な政策がない日本は言わずもがなである。
日本はこれまで、外国人を使いながら「移民ではない」と言い続けてきた。このあいまいさが国民の不安や不信感を広げ、誤報や憶測に振り回されやすい状況をつくっている。今必要なのは、外国人の受け入れ方針をはっきり示すこと、地域社会とつながる仕組みを整えること、公平な働き方を守ること、不法滞在を減らすためのルールを徹底することである。結局のところ、日本はすでに「移民を受け入れている国」である。問うべきは「受け入れるかどうか」ではなく「どう受け入れるか」である。きれいごとよりも、誠実でわかりやすい制度設計と、慎重で緩やかな変化こそが、国民の安心を生み、社会の安定につながる。共生社会を急かす妙なプロパガンダは国民を分断するだけだ。
「抗日勝利」北京パレード ― 2025年09月05日
北京・天安門広場を覆った「抗日戦争勝利80年記念行事」。習近平の横にプーチン、さらに金正恩までが並ぶ──まさに“反日三兄弟”の顔見世興行だ。戦車が地を揺らし、ミサイルが林立する中、国営テレビは「歴史を忘れぬ中国の強さ」を何度も垂れ流す。そしてそこに、厚かましくも“お呼びでない”鳩山由紀夫元首相がちゃっかり登場。悪の三兄弟に加わる迷子のピエロかと思いきや、国際的な珍景と化している。だが、それ以上に不気味なのは、日本の沈黙だ。首相も外相も口を閉ざし、野党党首も一言も言わない。まるで“見ざる聞かざる言わざる”の三猿外交。
歴史の核心を見れば、中国共産党の後出しじゃんけんのような捏造が際立つ。国民党は命を懸けて抗日戦争に戦い抜いた一方で、毛沢東率いる共産党はその足を引っ張り、国民党の戦力を削ぎつつ自党の権力基盤を温めていた。戦後になってから政権奪取した共産党は、この事実をきれいさっぱり消し、自分たちが抗日の勝者だったかのように物語を塗り替えた。これこそ“歴史の盗人”かつ、現代版“大本営発表”だ。ただ、忘れてはならないのは、日本の侵略で中国国民が甚大な被害を受けた現実だ。戦闘や占領下での殺害・略奪・暴行──規模や性格は議論があっても、市民が犠牲になった事実は消えない。だから日本は、自らの加害をあいまいにせず、事実に基づき語り続ける責任がある。共産党の都合のいい歴史に迎合する必要など微塵もない。
戦前の日本は「大本営発表」で現実を隠し、国民を都合のいい夢に閉じ込めた。最後は破局的な敗戦だ。今の中国共産党がやっていることは、まさに同じ道を歩むこと。抗日戦争を「共産党が主役」とすり替え、勝利を誇示する軍事パレード──これも、後出しじゃんけんの捏造そのものである。日本にとっても他人事ではない。中国の虚構に沈黙することは、過去の日本が犯した愚行を自ら繰り返すことと同じだ。黙ることは責任放棄、嘘の歴史に加担する行為である。
北京の軍事パレードは、中国の力を誇示する場であると同時に、日本の覚悟のなさをさらけ出す舞台でもあった。モディ首相ですら歴史認識の違いから参加を拒んだのに、鳩山はノコノコと出席。退任後の彼は、常識を外れた“迷走老人”と化し、国際社会で日本を笑いものにする「歩く珍景」でしかない。だが笑いものは日本全体かもしれない。鳩山の珍行動を笑って済ませる間に、中国共産党は歴史を書き換え、世界に広める。政府も野党も、沈黙という逃げをやめ、被害の事実と加害の事実を正しく語り、毛沢東の後出しじゃんけん的捏造を暴かなければならない。
中国国民にも、日本国民にも、歴史を直視する苦痛はある。しかし現実から逃げる国家は必ず行き詰まる。中国に警告し、日本に警鐘を鳴らす──そのために、事実を語り、虚構を暴くことこそ、今の私たちの責任なのだ。
歴史の核心を見れば、中国共産党の後出しじゃんけんのような捏造が際立つ。国民党は命を懸けて抗日戦争に戦い抜いた一方で、毛沢東率いる共産党はその足を引っ張り、国民党の戦力を削ぎつつ自党の権力基盤を温めていた。戦後になってから政権奪取した共産党は、この事実をきれいさっぱり消し、自分たちが抗日の勝者だったかのように物語を塗り替えた。これこそ“歴史の盗人”かつ、現代版“大本営発表”だ。ただ、忘れてはならないのは、日本の侵略で中国国民が甚大な被害を受けた現実だ。戦闘や占領下での殺害・略奪・暴行──規模や性格は議論があっても、市民が犠牲になった事実は消えない。だから日本は、自らの加害をあいまいにせず、事実に基づき語り続ける責任がある。共産党の都合のいい歴史に迎合する必要など微塵もない。
戦前の日本は「大本営発表」で現実を隠し、国民を都合のいい夢に閉じ込めた。最後は破局的な敗戦だ。今の中国共産党がやっていることは、まさに同じ道を歩むこと。抗日戦争を「共産党が主役」とすり替え、勝利を誇示する軍事パレード──これも、後出しじゃんけんの捏造そのものである。日本にとっても他人事ではない。中国の虚構に沈黙することは、過去の日本が犯した愚行を自ら繰り返すことと同じだ。黙ることは責任放棄、嘘の歴史に加担する行為である。
北京の軍事パレードは、中国の力を誇示する場であると同時に、日本の覚悟のなさをさらけ出す舞台でもあった。モディ首相ですら歴史認識の違いから参加を拒んだのに、鳩山はノコノコと出席。退任後の彼は、常識を外れた“迷走老人”と化し、国際社会で日本を笑いものにする「歩く珍景」でしかない。だが笑いものは日本全体かもしれない。鳩山の珍行動を笑って済ませる間に、中国共産党は歴史を書き換え、世界に広める。政府も野党も、沈黙という逃げをやめ、被害の事実と加害の事実を正しく語り、毛沢東の後出しじゃんけん的捏造を暴かなければならない。
中国国民にも、日本国民にも、歴史を直視する苦痛はある。しかし現実から逃げる国家は必ず行き詰まる。中国に警告し、日本に警鐘を鳴らす──そのために、事実を語り、虚構を暴くことこそ、今の私たちの責任なのだ。
不注意の力 ― 2025年09月06日
この日のブログを書き忘れていたことに、今頃(9月24日)気づいた。不注意なのは生まれつきだが、この歳になると、それが妙に気になってくる。有り余る時間の中で、ルーティンの作業を忘れるとは情けない。もっとも、この作業を忘れたところで日常生活に支障はなく、誰も困るわけではない。だが、衰えていく自分の脳みそを突きつけられているようで、なんとも悲しい。「そういえば、近頃……」と、記憶や作業にまつわる自分の不甲斐なさを思い出してしまうからだ。
もともとずぼらな性格なのに、せっかちなところもあって、一つずつ物事を片付けるのが苦手で、できるだけ同時に処理しようとする癖がある。例えば、今使っているものを持ちながら別のものを取ろうとして、手が滑り、両方とも落としてしまう。いったん今の作業を止めるという行為を省いてしまうのだ。こうしたことが、どうも増えてきている。
なまじ認知心理学をかじったせいで、認識と行為の関連性を考えずにはいられず、それがさらに自己肯定感を下げるという悪循環に陥っている。そのくせ、こうして他愛もない自分の失敗を目にすると、今から出かけなければならないのに、修正せずにはいられない。こだわりが強くなっているというより、優先順位を判断する統制力が落ちてきているのだ。
「老人力」という考え方では、忘れたことを忘れる力、自己の失敗を許せない力、今やりたいことを押し通す力といった具合に、衰えを「力」として言い換え、失敗を肯定的に捉える。だが、そうは言っても、なんだかなあ……と呟いている。
もともとずぼらな性格なのに、せっかちなところもあって、一つずつ物事を片付けるのが苦手で、できるだけ同時に処理しようとする癖がある。例えば、今使っているものを持ちながら別のものを取ろうとして、手が滑り、両方とも落としてしまう。いったん今の作業を止めるという行為を省いてしまうのだ。こうしたことが、どうも増えてきている。
なまじ認知心理学をかじったせいで、認識と行為の関連性を考えずにはいられず、それがさらに自己肯定感を下げるという悪循環に陥っている。そのくせ、こうして他愛もない自分の失敗を目にすると、今から出かけなければならないのに、修正せずにはいられない。こだわりが強くなっているというより、優先順位を判断する統制力が落ちてきているのだ。
「老人力」という考え方では、忘れたことを忘れる力、自己の失敗を許せない力、今やりたいことを押し通す力といった具合に、衰えを「力」として言い換え、失敗を肯定的に捉える。だが、そうは言っても、なんだかなあ……と呟いている。
80兆円の不都合な真実 ― 2025年09月07日
トランプ大統領と日本政府が打ち出した「総額80兆円(5,500億ドル)規模の対米投資枠」。ホワイトハウスは「大統領の指揮下で進める」と誇示し赤沢大臣は「日米関係の深化に資する」と胸を張って答えたが、その中身をのぞけば、絵に描いた餅どころか、日本の財布を差し出す危うい構造が浮かび上がる。日本企業の対米投資は、ここ数年でも年間9兆円前後。これをいきなり30兆円級に膨らませる? 採算、リスク、制度──どこを切っても現実離れした話だ。政府は「民間主導」とうたいながら、実態はJBICやNEXIといった政府系金融が融資・保証で穴埋めする仕組み。企業に米国投資額の法的な義務はなく、負担が重くのしかかるのは結局「国」=国民の財布だ。
さらに米側のファクトシートには衝撃的な文言が並ぶ。案件の承認権は大統領にあり、利益の9割は米国側へ。日本側は「それは株式投資部分の話。融資や保証には金利や保証料収入がある」と弁明するが、米国が「9割」と言い切っている時点で、国民にとって不利な構造であることは隠しようがない。担保や返済リスクも霧の中だ。JBICやNEXIは本来、資産や収益権を担保にするのが常識だが、今回の枠組みで同等の条件が確保されているかは一切明らかにされていない。政府は「心配ない」と繰り返すが、条項非公開のまま赤沢氏曰く「黄金の未来」をうたうのは、空疎なレトリックにしか聞こえない。
さらに一部には「日本が1兆ドル超を保有する米国債を背景資産のように使える」との発想まで飛び出す。しかし米国債は確かに世界で最上位級の担保資産だが、日本にとっては為替市場安定のための外貨準備。財務省も「交渉カードに使うことはない」と明言している。国民資産を米国の投資リスクに差し出すなど、制度的にも政策的にも到底許されない話だ。メディアもこの点を十分に掘り下げていない。利益配分の不公平には触れても、肝心の担保や返済リスクには踏み込まない。制度の複雑さに甘えた報道の怠慢か、それとも「政治的配慮」という名の自主規制か。
赤沢大臣が語る「日米の黄金の未来」とやらは、耳障りこそ華やかだが、実態は日本の制度的自壊の序章にしか映らない。真に問われるべきは、米国の喝采を誘う大風呂敷ではなく、国民資産をいかに守るかという冷徹な制度設計と説明責任である。しかし、関税交渉に「最後まで責務を果たす」と見得を切った石破首相は、その本質には一切関心を示していないように見える。
さらに米側のファクトシートには衝撃的な文言が並ぶ。案件の承認権は大統領にあり、利益の9割は米国側へ。日本側は「それは株式投資部分の話。融資や保証には金利や保証料収入がある」と弁明するが、米国が「9割」と言い切っている時点で、国民にとって不利な構造であることは隠しようがない。担保や返済リスクも霧の中だ。JBICやNEXIは本来、資産や収益権を担保にするのが常識だが、今回の枠組みで同等の条件が確保されているかは一切明らかにされていない。政府は「心配ない」と繰り返すが、条項非公開のまま赤沢氏曰く「黄金の未来」をうたうのは、空疎なレトリックにしか聞こえない。
さらに一部には「日本が1兆ドル超を保有する米国債を背景資産のように使える」との発想まで飛び出す。しかし米国債は確かに世界で最上位級の担保資産だが、日本にとっては為替市場安定のための外貨準備。財務省も「交渉カードに使うことはない」と明言している。国民資産を米国の投資リスクに差し出すなど、制度的にも政策的にも到底許されない話だ。メディアもこの点を十分に掘り下げていない。利益配分の不公平には触れても、肝心の担保や返済リスクには踏み込まない。制度の複雑さに甘えた報道の怠慢か、それとも「政治的配慮」という名の自主規制か。
赤沢大臣が語る「日米の黄金の未来」とやらは、耳障りこそ華やかだが、実態は日本の制度的自壊の序章にしか映らない。真に問われるべきは、米国の喝采を誘う大風呂敷ではなく、国民資産をいかに守るかという冷徹な制度設計と説明責任である。しかし、関税交渉に「最後まで責務を果たす」と見得を切った石破首相は、その本質には一切関心を示していないように見える。
裸の王様の「空洞政治」 ― 2025年09月08日
石破茂首相がついに白旗を上げた。参院選の大敗から1カ月半。続投にしがみつき、最低賃金引き上げや米国との通商交渉で「仕事をしている感」を演出したが、もはや誰も耳を貸さなかった。党内の支持は瓦解し、総裁選前倒しの声に追い詰められ、ついに退陣…というより逃亡である。辞任のタイミングはあまりにも露骨だ。総裁選の意思確認が行われれば、石破支持派の議員が白日の下にさらされる。そうなればお仲間もろとも吹き飛ぶ危険があった。石破氏はそれを避け、投票直前で退陣を決断した。責任を取るポーズを取りながら、実はお仲間を守り、自分の生き残りの余地を残した。美談どころか、政治的保身の典型である。
これこそ石破政治の正体だ。口先は達者、理屈はこね回すが、実行力は皆無。党の方針に楯突いては注目を浴び、地位には執着。孤立しても「自分は改革派」と思い込む姿は、裸の王様そのものだ。周囲が冷笑しても本人だけは見えない服を着て歩いていた。国の舵取りを任せるに値しない人物を、なぜ首相にしたのか。答えは簡単だ。自民党の制度疲労である。派閥の計算、世論調査の人気、他候補の不在──すべて場当たり的な理由で石破を担ぎ上げた。資質も覚悟も度外視された結果が、この惨状だ。人材難では済まされない。政党としての公共性を放棄した自民党そのものの劣化だ。
だが野党も笑えない。石破が「解散も辞さず」と脅しをかけたとき、本来なら「望むところだ」と立ち上がるべきだった。ところが腰砕け、不信任案も出せず、対案すら示せない。気迫ゼロ、覚悟ゼロ。結局、石破延命に加担しただけだ。これでは政権交代の受け皿どころか、与党の付属物にすぎない。報道もまた同罪だ。辞任直前まで「石破支持派は多い」と現実離れした記事を垂れ流し、世論調査の数字を根拠に政局を語るだけ。結果として国民を欺き、政治の腐敗を助長した。公共空間の信頼性は地に落ちた。
この1カ月半は、政治も野党も報道も、そろって責任を放棄し、国民を裏切った「空白の時間」だった。石破辞任は幕引きではない。むしろ、政党もメディアも野党も劣化し尽くした日本政治の「空洞」を白日の下にさらしたのだ。
これこそ石破政治の正体だ。口先は達者、理屈はこね回すが、実行力は皆無。党の方針に楯突いては注目を浴び、地位には執着。孤立しても「自分は改革派」と思い込む姿は、裸の王様そのものだ。周囲が冷笑しても本人だけは見えない服を着て歩いていた。国の舵取りを任せるに値しない人物を、なぜ首相にしたのか。答えは簡単だ。自民党の制度疲労である。派閥の計算、世論調査の人気、他候補の不在──すべて場当たり的な理由で石破を担ぎ上げた。資質も覚悟も度外視された結果が、この惨状だ。人材難では済まされない。政党としての公共性を放棄した自民党そのものの劣化だ。
だが野党も笑えない。石破が「解散も辞さず」と脅しをかけたとき、本来なら「望むところだ」と立ち上がるべきだった。ところが腰砕け、不信任案も出せず、対案すら示せない。気迫ゼロ、覚悟ゼロ。結局、石破延命に加担しただけだ。これでは政権交代の受け皿どころか、与党の付属物にすぎない。報道もまた同罪だ。辞任直前まで「石破支持派は多い」と現実離れした記事を垂れ流し、世論調査の数字を根拠に政局を語るだけ。結果として国民を欺き、政治の腐敗を助長した。公共空間の信頼性は地に落ちた。
この1カ月半は、政治も野党も報道も、そろって責任を放棄し、国民を裏切った「空白の時間」だった。石破辞任は幕引きではない。むしろ、政党もメディアも野党も劣化し尽くした日本政治の「空洞」を白日の下にさらしたのだ。
石破政権崩壊の舞台裏 ― 2025年09月09日
石破茂総理が辞意を表明したが、政権崩壊のカウントダウンは確実に進んでおり誰も驚きに値しなかった。異様だったのは、森山幹事長がその事実を知ったのが会見のわずか3時間前だったと報道に漏らしたことだ。通常なら真っ先に伝えるべき幹事長を外したのは、参院選敗北直後に森山氏が一足先に辞意を示した“前科”への報復だとの見方が広がる。しかし、森山氏は議員総会後、辞表を出すのではなく「進退伺」を提出し、最後まで石破氏への気遣いをにじませていた。つまり信頼を切ったのは森山氏ではなく、石破氏の側だった。そして「情報統制の瓦解」はさらに露骨に現れる。幹事長よりも早く事情を察知したのは、報道各社だった。前夜の菅元総理・小泉農相との密談、官邸の不自然な動き、政権幹部からのリーク。もはやメディアのほうが政権中枢よりも先に動くという異常事態だった。これは参院選直後の「号外狂騒曲」でも生じていた。各紙が「石破退陣」を報じる中、本人は「誤報だ」と否定。政権は混乱し、メディアは暴走する──これこそ関係性の希薄さを物語っていた。
さらに辞任翌日には林官房長官が総裁選出馬を表明した。前日まで「最後まで支える」と語っていたのは一体何だったのか。忠誠を装いながら実際には“石破後”を狙っていたことが露呈した瞬間だった。しかも石破氏が林氏に事前相談をした痕跡すらなく、政権内の協調性はすでに壊死していた。その一方で、辞任に「心底残念」と涙ぐんだのが、よりにもよって村上総務相、岩屋外相、赤沢経済再生担当相という面々。世間からは「疑惑と失策のデパート」と揶揄される三人衆である。村上氏は旧統一教会との関係を否定しきれず、岩屋氏は外交交渉で迷走を繰り返し、赤沢氏に至っては国際会議で「格下の私に会ってくれてありがたい」と発言し、日本の品格を地に落とした。こうした人物が「石破推し」を名乗っていたこと自体、政権の人材難を象徴している。
結局、石破政権は「孤高(自己中)の代償」を支払う形で幕を下ろした。信念と現実の乖離、情報伝達の不均衡、信頼関係の欠如──三つの歯車が狂った結果である。自己中心的なトップの姿勢は、永田町という現場では致命傷だった。次の政権に求められるのは、美辞麗句でも強がりの孤独でもなく、「まともな仲間を作る力」に他ならない。
さらに辞任翌日には林官房長官が総裁選出馬を表明した。前日まで「最後まで支える」と語っていたのは一体何だったのか。忠誠を装いながら実際には“石破後”を狙っていたことが露呈した瞬間だった。しかも石破氏が林氏に事前相談をした痕跡すらなく、政権内の協調性はすでに壊死していた。その一方で、辞任に「心底残念」と涙ぐんだのが、よりにもよって村上総務相、岩屋外相、赤沢経済再生担当相という面々。世間からは「疑惑と失策のデパート」と揶揄される三人衆である。村上氏は旧統一教会との関係を否定しきれず、岩屋氏は外交交渉で迷走を繰り返し、赤沢氏に至っては国際会議で「格下の私に会ってくれてありがたい」と発言し、日本の品格を地に落とした。こうした人物が「石破推し」を名乗っていたこと自体、政権の人材難を象徴している。
結局、石破政権は「孤高(自己中)の代償」を支払う形で幕を下ろした。信念と現実の乖離、情報伝達の不均衡、信頼関係の欠如──三つの歯車が狂った結果である。自己中心的なトップの姿勢は、永田町という現場では致命傷だった。次の政権に求められるのは、美辞麗句でも強がりの孤独でもなく、「まともな仲間を作る力」に他ならない。
比例議員の“議席持ち逃げ” ― 2025年09月10日
維新の分裂騒動が泥沼化している。衆院議員3名が相次いで離党届を提出したが、中でも目を引くのは比例代表で当選した斉木武志(北陸信越)と阿部弘樹(九州)の2人だ。党の名簿に守られて議席を得ながら、選挙を経ずに離党して新会派を立ち上げる――これは有権者の信任を裏切る“議席持ち逃げ”にほかならない。比例代表制は個人ではなく政党に信任を与える制度であり、有権者は政党名に投票し、議席は名簿を通じて配分される。比例で選ばれた議員は「政党の代表者」として資格を得ている以上、離党しても議席を保持できる現行制度は理念を空洞化させ、民意を踏みにじる。離党と同時に議員資格を失う仕組みこそ筋である。韓国ではすでに比例議員が離党すれば資格を失う制度が導入され、日本の「議席は個人に属する」という時代遅れの方便は、制度の正統性を掘り崩している。
今回のケースで3人が結成するのは「会派」にすぎず、政党要件である国会議員5人以上を満たしていないため、新党としての資格はない。したがって政党助成金を新たに受け取ることはできず、直接的に「助成金の持ち逃げ」が起きるわけではない。だが制度の抜け穴自体は放置されたままだ。過去にはこの仕組みを利用して新党が助成金を得た前例がある。国会議員が5人集まれば、選挙を経ることなく新党を名乗り、翌年には数千万円単位の助成金が転がり込む――この構造そのものが歪んでいる。
2023年、前原誠司氏らは国民民主党を離党し、比例選出議員2名を含む5人で「教育無償化を実現する会」を結成。総務省に届け出ただけで、政党助成金の対象となった。選挙で民意を問わず、議員数だけで税金を受け取れるこの制度は、政党政治の公共性を著しく損なう。しかも助成金の算定基準日は毎年1月1日。この日までに届け出さえすれば、実態の乏しい団体でも公金を受け取れる。離党や分裂で議員数が減っても返還義務は一切ない。“合法的持ち逃げ”が公然とまかり通っているのだ。
比例代表制の信頼を守るには、離党した比例議員の即時資格抹消を制度化することが不可欠だ。さらに政党助成金の交付条件を厳格化し、離党や分裂の際には返還を義務づけるべきである。現行制度は議席も税金も“持ち逃げ自由”。この状態を放置すれば、国民の政治不信は回復不能に陥るだろう。比例代表制は政党への信任を前提とした仕組みだ。その根幹を揺るがす行為に歯止めがないのは、民主主義の設計として致命的である。今回の維新比例議員による離党劇は、単なる政局の一幕ではない。制度そのものの正統性を突き崩す深刻な警告だ。にもかかわらず、維新は連立の誘いに浮足立ち、組織統制すら保てぬ姿をさらしている。緊張感を欠いた政党運営の果てに待つのは、制度への信頼の後退である。前原誠司氏の「政党の死神」としての影が、その現実を一層際立たせている。
今回のケースで3人が結成するのは「会派」にすぎず、政党要件である国会議員5人以上を満たしていないため、新党としての資格はない。したがって政党助成金を新たに受け取ることはできず、直接的に「助成金の持ち逃げ」が起きるわけではない。だが制度の抜け穴自体は放置されたままだ。過去にはこの仕組みを利用して新党が助成金を得た前例がある。国会議員が5人集まれば、選挙を経ることなく新党を名乗り、翌年には数千万円単位の助成金が転がり込む――この構造そのものが歪んでいる。
2023年、前原誠司氏らは国民民主党を離党し、比例選出議員2名を含む5人で「教育無償化を実現する会」を結成。総務省に届け出ただけで、政党助成金の対象となった。選挙で民意を問わず、議員数だけで税金を受け取れるこの制度は、政党政治の公共性を著しく損なう。しかも助成金の算定基準日は毎年1月1日。この日までに届け出さえすれば、実態の乏しい団体でも公金を受け取れる。離党や分裂で議員数が減っても返還義務は一切ない。“合法的持ち逃げ”が公然とまかり通っているのだ。
比例代表制の信頼を守るには、離党した比例議員の即時資格抹消を制度化することが不可欠だ。さらに政党助成金の交付条件を厳格化し、離党や分裂の際には返還を義務づけるべきである。現行制度は議席も税金も“持ち逃げ自由”。この状態を放置すれば、国民の政治不信は回復不能に陥るだろう。比例代表制は政党への信任を前提とした仕組みだ。その根幹を揺るがす行為に歯止めがないのは、民主主義の設計として致命的である。今回の維新比例議員による離党劇は、単なる政局の一幕ではない。制度そのものの正統性を突き崩す深刻な警告だ。にもかかわらず、維新は連立の誘いに浮足立ち、組織統制すら保てぬ姿をさらしている。緊張感を欠いた政党運営の果てに待つのは、制度への信頼の後退である。前原誠司氏の「政党の死神」としての影が、その現実を一層際立たせている。