臨時国会召集要求と制度の空白2025年09月12日

臨時国会召集要求と制度の空白
衆参の野党が憲法53条に基づき臨時国会の召集を要求したのは、国会が開かれぬまま政治空白が続くことへの危機感ゆえだ。だが、この一件は単なる政局争いでは終わらない。制度の空白を巧みに悪用し、政治の劣化を露呈させた「鏡像」でもある。憲法53条はシンプルだ。議員の4分の1以上が求めれば、内閣は臨時国会を召集しなければならない──。ところが抜け穴がある。「いつ」開くかの規定がないのだ。内閣の胸三寸で引き延ばしが可能。これまでも政権はその曖昧さを都合よく利用してきた。まさに“合法的サボタージュ”の常習犯である。石破内閣もその路線を踏襲した。選挙で大敗しながらも辞任を先延ばし、総裁選後に臨時国会を開く日程をセット。内閣不信任案や首班指名のドタバタを避けるための姑息な延命策だった。制度に通じているはずの石破氏が、制度の余白を自らの保身に使う姿はあまりに滑稽。早々に辞任していれば正常な国会運営は可能だったはずだ。理念を捨て、権力の椅子にしがみつくその姿こそ、政治不信の最大の原因である。

だが野党の対応もお粗末だ。立憲民主党は召集要求に署名こそしたものの、本気で制度改革を進める覚悟は見えない。召集期限を明記する法案を出す気配がない。裏を返せば、彼らもまた制度の空白を「交渉カード」として温存したいのではないか。あたかも「招集期限法案を通すぞ」と牽制しつつ、与党からポストや議会運営上の譲歩を引き出す材料に使う。結果、改革は先送り、制度の空洞化はますます固定化される。もちろん、現時点で水面下の取引が進んでいると断言するつもりはない。だが、この国の政治が駆け引きとポスト配分に堕してきた歴史を思えば、そんな“たとえ話”が現実味を帯びるのも時間の問題だろう。制度を守るはずの政党が制度を人質にする──そんな構図が常態化すれば、国会はもはや公共性を語る舞台ではなくなる。

臨時国会の召集は、国民の声を国政に反映するための当然の権利である。政党の都合や権力ゲームに左右されるべきものではない。召集要求から一定期間内に国会を開くことを法律で義務づける──制度の実効性を確保する唯一の道だ。議員立法で可能なこの改革を、与野党が本気で取り組むかどうかが試されている。制度の空白を放置すれば、政治は「物語」と「駆け引き」の場に堕ち、公共性を失う。石破政権が残したのは、制度の形骸化と政局依存という二重の病だ。国会を道具にする政治家を放置すれば、民主主義はやせ細る一方である。制度の本質に立ち返り、説明責任と透明性を軸に政治を立て直すことだ。権力に執着するリーダーと、制度を人質にする野党──両者が鏡のように映し出すこの劣化劇を、私たちはただ眺めていていいのか。