健保組合半分が赤字? ― 2025年09月25日
全国の大企業社員らが加入する健康保険組合のうち、2024年度決算で実に47.9%が赤字に転落した。健保連の発表によれば、その主因は「高齢者医療への拠出負担の増加」だという。だが、この説明を額面通りに受け取っていいのだろうか。大企業の保険料率は協会けんぽよりやや低めに抑えられている一方で、医療費の支払いだけでなく、人間ドックの補助や保養施設の運営、付加給付といった“医療以外”の支出も多い。特に資金に余裕のある組合では、こうした豪華サービスが手厚く、組合間の格差は年々広がってきた。
一方で、健保組合の加入者は退職すれば国民健康保険や後期高齢者医療制度に移っていく。つまり健保組合は、人生の一時期を支える「通過点」にすぎない。赤字を「老人医療のせい」と断じるのは、あまりに短絡的ではないか。そもそも、私たちは誰もがやがて高齢者になる。いま負担を担う現役世代も、十年二十年先には支えられる側に回る。そのとき、「医療や介護は自分たちにとってどれだけ安心できる制度であるか」という問いは、遠い他人事ではなく自分自身の生活の問題になる。今日の赤字報道を、単に「高齢者が重荷だ」と受け取るのは、未来の自分に石を投げるようなものだろう。
さらに報道の構成にも違和感がある。赤字の原因を高齢者医療に限定し、前年度より赤字割合が減ったことを「改善」として強調する──これでは読者に特定の印象を植え付ける恣意的な編集に見える。準備金の取り崩し状況や支出の妥当性、制度全体の持続可能性には十分に触れられていない。健保組合はこれまで黒字を積み重ね、準備金という“緩衝材”を蓄えてきた。しかし近年、その取り崩しが進み財政の余裕は失われつつある。保険料率を上げようにも企業の反発が強く、制度の持続性は危うい。では協会けんぽに一本化すればいいのかといえば、それも簡単ではない。企業側は独自の給付や保険料率を維持したい思惑があり、国にとっても財政負担の増大は避けられない。
結局のところ、健保組合の赤字は「老人医療のせい」ではなく、保険制度そのものに潜む構造的な歪みの表れだ。公平性や持続可能性をどう担保するか、そして人生のどの時期にどの制度で支え合うのか──これは社会全体の設計を問い直す問題である。
そして忘れてはならないのは、「高齢者とは誰か」という視点だ。高齢者は特別な存在ではなく、未来の自分自身であり、いまも隣に暮らす仲間である。報道の見出しに踊らされるのではなく、その裏に潜む本質を見抜く目を持ちたい。医療保険制度は、私たちが年を重ねても安心して暮らせる社会をどう作るかという、きわめて人間的なテーマなのだから。
一方で、健保組合の加入者は退職すれば国民健康保険や後期高齢者医療制度に移っていく。つまり健保組合は、人生の一時期を支える「通過点」にすぎない。赤字を「老人医療のせい」と断じるのは、あまりに短絡的ではないか。そもそも、私たちは誰もがやがて高齢者になる。いま負担を担う現役世代も、十年二十年先には支えられる側に回る。そのとき、「医療や介護は自分たちにとってどれだけ安心できる制度であるか」という問いは、遠い他人事ではなく自分自身の生活の問題になる。今日の赤字報道を、単に「高齢者が重荷だ」と受け取るのは、未来の自分に石を投げるようなものだろう。
さらに報道の構成にも違和感がある。赤字の原因を高齢者医療に限定し、前年度より赤字割合が減ったことを「改善」として強調する──これでは読者に特定の印象を植え付ける恣意的な編集に見える。準備金の取り崩し状況や支出の妥当性、制度全体の持続可能性には十分に触れられていない。健保組合はこれまで黒字を積み重ね、準備金という“緩衝材”を蓄えてきた。しかし近年、その取り崩しが進み財政の余裕は失われつつある。保険料率を上げようにも企業の反発が強く、制度の持続性は危うい。では協会けんぽに一本化すればいいのかといえば、それも簡単ではない。企業側は独自の給付や保険料率を維持したい思惑があり、国にとっても財政負担の増大は避けられない。
結局のところ、健保組合の赤字は「老人医療のせい」ではなく、保険制度そのものに潜む構造的な歪みの表れだ。公平性や持続可能性をどう担保するか、そして人生のどの時期にどの制度で支え合うのか──これは社会全体の設計を問い直す問題である。
そして忘れてはならないのは、「高齢者とは誰か」という視点だ。高齢者は特別な存在ではなく、未来の自分自身であり、いまも隣に暮らす仲間である。報道の見出しに踊らされるのではなく、その裏に潜む本質を見抜く目を持ちたい。医療保険制度は、私たちが年を重ねても安心して暮らせる社会をどう作るかという、きわめて人間的なテーマなのだから。