スマホに奪われた「読書脳」 ― 2025年10月27日
信じがたいが、これは現実の数字だ。ベネッセと東京大学社会科学研究所が昨年実施した調査によると、小中高生の53%が「1日の読書時間0分」と答えた。半分以上の子どもが本を一行も読んでいない。2015年の34%からほぼ1.5倍。もはや「活字離れ」ではない──これは「活字絶食」である。そして、この“知的飢餓”の黒幕は、言うまでもなくスマートフォンだ。調査によれば、スマホの利用時間が長いほど読書時間が減る。たとえば小学高学年でスマホを3時間以上使う子の読書時間は平均9.5分。スマホを使わない子の半分以下だという。中高生になると、この差はさらに拡大する。つまり、「知るための道具」が「考える力」を奪っているのだ。
皮肉な話だ。子どもたちは“情報”に囲まれながら、言葉を失い、文章を読めず、考えることに耐えられなくなっている。SNSで数秒の動画を見て笑う代わりに、長文を前にすると「めんどくさい」と言う。脳がスマホ仕様に変質し始めている。だが読書は、単なる“勉強の下準備”ではない。東北大学や文科省の研究が繰り返し示すように、読書時間が長い子どもほど語彙力・読解力が高く、学力も良好だ。しかも読書はIQにも影響する。双子を追跡した研究では、初期IQが同じでも、読書量の多い方がIQが高くなることが確認されている。つまり読書とは、単なる趣味ではなく、脳のトレーニングだ。知識を増やすだけでなく、論理的思考や問題解決力といった「知能の筋肉」を鍛える行為なのだ。
その「筋トレ時間」を削ってまで、いまの学校は何を教えているのか。
小学校では英語が教科化され、プログラミング授業も増加。授業時間はこの10年で週2時間も増えた。だが、その裏で減っているのが国語と読書の時間だ。結果、全国学力調査では中学生の英語スピーキング正答率が2019年の30.8%→2023年12.4%へと激減。英語嫌いの児童も増えているという。つまり、「英語が大事」と叫ぶほど英語ができなくなり、「読書が大事」と言いながら読む時間がなくなる。──まるで教育行政のブラックジョークである。
文科省は「国際化」「情報化」を錦の御旗に、次々と新教科を押し込むが、それが子どもの発達段階を無視した“政策的スマホ依存”であることに気づいていない。現場の教師が「読書の時間が削られている」と声を上げても、上層部は「デジタル教材の充実」と言って耳を塞ぐ。だが、読解力が衰えれば、英語も数学も何も理解できなくなる。日本の教育は、根を切ったまま葉を磨こうとしている。
家庭でも読書習慣が維持できない今、公教育こそがその“最後の砦”であるはずだ。読書は学力の根を育てる「水」。英語もプログラミングも、その水で咲く「花」にすぎない。だが水を枯らせば、花は咲かない。それでもなお、教育行政は花壇のデザインばかり議論している。
「スマホが悪い」のではない。それに支配される大人の無策こそが、子どもたちの知性を干からびさせている。読書時間の確保は“文化政策”ではない。“国家の存続戦略”だ。今こそ、文科官僚も政治家も、タブレットを置いて一冊の本を読むべきだろう。せめて「考える」という行為が、どういうことだったのかを思い出すために。
皮肉な話だ。子どもたちは“情報”に囲まれながら、言葉を失い、文章を読めず、考えることに耐えられなくなっている。SNSで数秒の動画を見て笑う代わりに、長文を前にすると「めんどくさい」と言う。脳がスマホ仕様に変質し始めている。だが読書は、単なる“勉強の下準備”ではない。東北大学や文科省の研究が繰り返し示すように、読書時間が長い子どもほど語彙力・読解力が高く、学力も良好だ。しかも読書はIQにも影響する。双子を追跡した研究では、初期IQが同じでも、読書量の多い方がIQが高くなることが確認されている。つまり読書とは、単なる趣味ではなく、脳のトレーニングだ。知識を増やすだけでなく、論理的思考や問題解決力といった「知能の筋肉」を鍛える行為なのだ。
その「筋トレ時間」を削ってまで、いまの学校は何を教えているのか。
小学校では英語が教科化され、プログラミング授業も増加。授業時間はこの10年で週2時間も増えた。だが、その裏で減っているのが国語と読書の時間だ。結果、全国学力調査では中学生の英語スピーキング正答率が2019年の30.8%→2023年12.4%へと激減。英語嫌いの児童も増えているという。つまり、「英語が大事」と叫ぶほど英語ができなくなり、「読書が大事」と言いながら読む時間がなくなる。──まるで教育行政のブラックジョークである。
文科省は「国際化」「情報化」を錦の御旗に、次々と新教科を押し込むが、それが子どもの発達段階を無視した“政策的スマホ依存”であることに気づいていない。現場の教師が「読書の時間が削られている」と声を上げても、上層部は「デジタル教材の充実」と言って耳を塞ぐ。だが、読解力が衰えれば、英語も数学も何も理解できなくなる。日本の教育は、根を切ったまま葉を磨こうとしている。
家庭でも読書習慣が維持できない今、公教育こそがその“最後の砦”であるはずだ。読書は学力の根を育てる「水」。英語もプログラミングも、その水で咲く「花」にすぎない。だが水を枯らせば、花は咲かない。それでもなお、教育行政は花壇のデザインばかり議論している。
「スマホが悪い」のではない。それに支配される大人の無策こそが、子どもたちの知性を干からびさせている。読書時間の確保は“文化政策”ではない。“国家の存続戦略”だ。今こそ、文科官僚も政治家も、タブレットを置いて一冊の本を読むべきだろう。せめて「考える」という行為が、どういうことだったのかを思い出すために。