子どもを扱う報道の責任2026年03月09日

子どもを扱う報道の責任
福島県郡山市の中学校で、生徒のノートに「自殺しろよ」との暴言が書き込まれた。この凄惨な言葉をめぐり、毎日新聞はノートの写真を掲げ、校長は卒業文集に記された告発文に手を加えようとしたとスクープした。卒業文集は保護者の抗議を受け、一文を除き内容を改めることなく刊行されたという。だが、一連の経緯を凝視するほどに、事案の重苦しさとは別の、拭いがたい危うさが浮き彫りになる。子どもを主役とする学校案件において、果たして取材の「矜持」と「慎重さ」は保たれていたのか。

いじめの本質は、構造的に「加害側」を規定してしまう点にある。事実関係が不透明な段階で、断片的な情報が「正義」の看板を背負って独り歩きすれば、無関係の生徒や教員までが不当な嫌疑に晒される。学校が調査を放棄すれば疑念は校内に澱(よど)み、報道が裏付けを欠けば、その疑念は社会という名の巨大な増幅器へと放たれる。生身の子どもが当事者である以上、この連鎖が招く「二次被害」を軽視することは許されない。

しかし、今回の報じ方には、肝心の学校や教育委員会に対する執拗なまでの「問い」の形跡が見えない。校長は沈黙を守ったのか、担任や生徒指導担当は現場で何を目撃していたのか。教育委員会が事態を捕捉したのはいつか。こうした一歩踏み込んだ取材の蹄跡(ていせき)がないまま、衝撃的な「絵」だけが提示される。これでは、SNSで消費される刹那的な「炎上素材」と、一体何が違うというのか。

むろん、学校側の不作為も指弾されるべきだ。いじめ防止対策推進法は、被害の訴えがあれば事実の存否に関わらず、即座に調査を開始することを命じている。本来、厳格な調査によって真実を析出し、その結果を糧に文集の扱いを教育的に判断すべきであった。手続きを正当に踏んでいれば、加害側とされる生徒を社会の面前に引きずり出すような、拙速な掲載も避けられたはずだ。

だが、現場で行われたのは「調査」ではなく、単なる「作文の書き直し要求」という帳尻合わせだった。これは制度理解の欠如というより、教育という看板を下ろした「自己防衛」の組織論に他ならない。さらに深刻なのは、こうした調査義務に実効的な罰則が伴わないという、日本の教育行政の構造的欠陥だ。処分のない義務は現場で空洞化し、同じ悲劇を反復させる温床となる。管理職の資質を問う声は、今のままでは暖簾に腕押しで終わるだろう。

しかし、学校の制度不備を、報道が免罪符にしてはならない。学校事案の報道には、二つの重責がある。一つは「不条理の告発」、もう一つは「事実の整理と責任の峻別」である。前者のみが暴走すれば、報道はジャーナリズムではなく「疑惑の拡散装置」へと変質する。今回のスクープは確かに火を放った。だが、その火がどこから生じ、どこを焼き尽くそうとしているのかという洞察が欠落している。学校を糾弾する武器にはなっても、子どもを救う盾にはなり得ない。

子どもは、メディアという巨大な土俵において、自ら反論する術を持たない社会的弱者である。学校を監視し、権力を衝くペンであっても、その先鋭さは同時に子どもを守るための「慈しみ」を帯びていなければならない。制度の欠陥を糾弾するならば、まず報道自身が、その批判に耐えうるだけの精度と責任を証明すべきである。

コメント

トラックバック