奪われた熱狂「WBC観戦」2026年03月12日

奪われた熱狂「WBC観戦」
馴染みのパブのドアを開けると、やけに静かだった。サッカーW杯やオリンピックの夜には、見知らぬ隣人と肩を組み、グラスを鳴らして歓声を上げた場所だ。店主にWBCの放映予定を尋ねると、彼は苦笑して首を振った。「うちは流せないんだ。ネフリの独占だから」。なんということだ。2026年のWBCはNetflixの独占配信になったという。パブや飲食店が自由にパブリックビューイングを行う仕組みはなく、主催者公認のイベントを除けば、店側が正規契約を結んで放映する制度がない。つまり独占配信が決まった瞬間、その試合を街の店で「みんなで観る」合法的な方法は、この社会から事実上消えてしまったのである。

驚くべきことだが、これは企業の強欲でも技術の問題でもない。単純に、日本の制度が追いついていないからだ。かつてテレビ放送は放送法の枠組みにあり、飲食店での視聴は実務上ほとんど問題視されてこなかった。ところがネット配信は著作権法上「自動公衆送信」と扱われ、配信サービスの利用規約も個人の非商業利用に限られる。店のモニターに映せば権利侵害と見なされる可能性がある。結果として、街のパブやスポーツバーはスクリーンを消すしかなくなる。

だが、ここで問われるべきは配信企業の戦略ではない。この社会が「共有体験」をどう扱うのかという問題である。国際大会をみんなで観戦する文化は単なる娯楽ではない。店に人が集まり、知らない者同士が同じ瞬間に歓声を上げる。その時間は地域社会をつなぐ見えない接着剤のようなものだ。スポーツがしばしば「国民的イベント」と呼ばれるのも、その瞬間を社会全体が共有するからである。海外では、この価値を制度として守る動きがある。欧州ではワールドカップや五輪などを「listed events」に指定し、国民が無料で視聴できる環境を確保している。巨大スポーツイベントを社会全体の共有財産とみなす発想だ。配信の時代になったからといって、日本だけがこの共有体験を失わなければならない理由はない。

必要なのは、ほんの小さな制度の更新である。例えば「入場料を取らない」「試合そのものを商品化しない」という条件のもとで、飲食店や地域施設による非営利のパブリックビューイングを認める。店は通常の飲食を提供でき、著作権者の利益も守られる。欧州でも広く採られている現実的な折衷案だ。具体的には、放送法に「国民的重要イベントの公衆視聴特例」を設けてネット配信も対象に含め、同時に著作権法で非営利・無料の共同視聴を上映権の例外として整理すればよい。

制度の隙間は、それほど難しい改正ではない。考えてみれば不思議な話である。技術は進歩し、世界中の試合をスマートフォンで観られる時代になった。それなのに、街の店で肩を並べて観戦するという、いちばん原始的で人間的な楽しみ方だけが法律の隙間で消えようとしている。あのパブに再び歓声が戻るかどうか。それは単なるスポーツファンの願いではない。ネット配信の時代に、社会が「みんなで楽しむ」という文化を守れるのかどうか――その試金石なのだと思う。

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