猟銃許可取消事件と公安委員会2026年03月29日

猟銃許可取消事件と公安委員会
北海道で起きた猟銃許可取消事件について、最高裁判所は最終的に「違法」と断じた。発端は、猟銃所持者が山中で発砲した際、弾が建物に向かった可能性があるとする北海道公安委員会の推定を根拠に、許可取消が行われたことにある。通報も被害もなく、現場検証でも危険性は確認されなかった。それでも処分は維持され、当事者は八年にわたり裁判で争うことを強いられた。最高裁は「建物に向けたと認める証拠はない」と断じ、処分の違法性を確定させた。だが問われるべきは、この違法判断の後に何が行われるかではない。そもそも、なぜこのような処分が成立し、八年もの時間が費やされたのかである。判断の誤りは個別のミスでは済まされない。問題は、それを可能にした制度の側にある。

警察法に基づく公安委員会は、匿名の合議制で運営され、決裁は委員会名義で行われる。誰が賛成し、誰が異議を唱えたのか、議論が存在したのかすら外部からは検証できない。ここで見落としてはならないのは、誤った判断だけではなく、本来行うべき調査や検証を怠った“不作為”が、制度上まったく可視化されないという点である。本件でも、危険性の調査を十分に行わなかったという不作為が、判断過程から完全に消えている。つまり判断は行われるが、行われなかった判断──不作為──は記録にも残らず、責任も特定されない。違法と断じられても、責任の所在は制度の中で霧散する構造になっている。

他の行政分野では考えにくい状況である。生活保護の却下、税務課税、建築確認――いずれも決裁過程には具体的な責任者が記録され、違法とされた場合には是正や賠償が行われる。さらに重要なのは、必要な調査を怠った“不作為”も行政判断として問題視される点だ。十分とは言えないにせよ、「誰が判断し、誰が判断しなかったのか」を追跡する仕組みは制度として担保されている。ところが公安委員会においては、その前提すら成立していない。制度が責任を吸収し、個人の判断も不作為も不可視化される。これでは誤った判断だけでなく、最も危険な不作為すら検証不能だ。

国際的に見ても、この構造は例外的である。例えばアメリカでは各都市に独立した市民監察機関(Civilian Review Board)が設けられ、警察対応の適否だけでなく、警察が「何をしなかったか」も含めて検証される。イギリスでも警察行為独立監察局が警察の不正や不作為を調査し、責任の所在を明らかにする。制度の違いはあっても、「判断主体を特定し、行為と不作為の双方を検証可能にする」という原則は共通している。

これに対し、日本の公安委員会制度は、戦後改革の理念とは裏腹に、その後の法改正と運用を通じて、責任の所在が曖昧な構造へと回帰している。説明責任の観点から見れば、制度は明らかに後退している。違法な処分が確定しても、誰がその判断に関与したのか、そして何を怠ったのかすら検証できない。この構造を放置したままでは、同様の事案は繰り返されるだけだ。今回の事件は例外ではない。制度が予定通りに機能した結果である。責任を問われない仕組みの下では、判断の質が低下するのは必然だ。問題は個々の資質ではなく、責任を回避できる制度設計そのものにある。

必要なのは小手先の改善ではない。議事録の公開範囲を広げるだけでは不十分である。記名による意思表示の導入や、外部機関による検証の義務化など、「誰が判断し、何を判断しなかったのか」を明確にする制度へと改める必要がある。最高裁の違法判断は単なる個別事案の終結ではない。法治国家としての前提を問い直す警告として受け止めるべきである。

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