東海林風「軽油補助金」と談合 ― 2026年04月22日
軽油補助金と談合話を聞いていると、どうにも頭の中で江戸の町が立ち上がってくる。日本橋界隈の真ん中にどっしり構える油問屋、巨大な油樽がずらりと並び、油の匂いが鼻にまとわりつく。あれは匂いというより“油の気配”で、樽の前を通るだけで袖口がテカテカしてくる気がする。樽の木目がやけに艶っぽいのも気になる。あれは油が染みているのか、店主が毎朝磨いているのか。雑巾もきっとテカテカだ。現代でいえば元売りで、町の灯りの行灯や灯明、天ぷらの揚げ油とみんなこの樽頼みである。で、この油問屋の奥には、なぜか悪代官が“ふらりと”現れる。ふらりと来るくせに足音だけは妙に重い。「油問屋よ、例の“下々へのご自愛の金子”の沙汰じゃがな……」と袖の下の匂いを漂わせながら現れる。この“ふらり感”が実に胡乱で、しかも帳簿は奥の間のさらに奥、なぜか屏風の裏に立てかけてある。屏風の裏に帳簿を置く家なんて見たことがないが、江戸の“見せぬ文化”は現代の不透明さと妙に重なる。
一方、町場には商いが軒を連ねる。油屋の看板がずらりと並び、どの店もなぜか同じような字体で「油」と書いてある。あれは町内の書道の先生が指導しているのかもしれない。表向きは「うちは安いよ」と競い合っているように見えるが、日が暮れると店主たちがこそこそ集まり、「なあ、来月から一升あたり二文、揃えて上げようじゃありませんか」「師走は二文半でどうです」「値下げの折も足並み揃えませんか」と相談を始める。これが談合である。表では「いやあ、仕入れ値が高うございまして」と頭をかくが、その頭のかき方がまた妙に同じ角度で、見ていると“談合のクセ”が身体に染みついているように思えてくる。裏では“値寄せの寄り合い”。この裏の結束だけは江戸も現代も変わらない。町人は「油の値が揃いすぎてやしねえか」と首をひねるが、商いはどこ吹く風で、むしろ「揃ってるから安心でございましょ」みたいな顔をしている。いや、安心じゃない。
そこへ現れるのが奉行所。現代でいえば公取委だ。この奉行所、なかなか目が利く。町場の油売りどもが夜な夜な値を寄せ合っていたことまではきっちり嗅ぎつけ、「油売り一同、密々に値を取り決めておった証拠、奉行所にてしかと改めた。これよりお白州にて沙汰を申し付ける」と淡々と申し渡す。奉行所の役人は、なぜか皆、眉の角度が同じで、怒っていないのに怒っているように見える絶妙な角度だ。怒鳴らないが、言葉が妙に冷たい。こういう冷たさがいちばん効く。しかし、である。奉行所がいくら目を凝らしても、その奥にいる油問屋と悪代官の“屏風の裏の密談”まではどうにも手が届かない。屏風の裏というのは、どうしてこうも都合よく“見えない場所”として使われるのだろう。あそこにはたいてい猫が寝ているものだが、今回は帳簿が寝ている。猫より静かで、猫より質が悪い。
町人たちは困り果て、「金子はどこへ消えたんでい」「油の値は下がらず、むしろ上がってんじゃねえか」と嘆くが、油問屋の帳簿は屏風の裏、悪代官はふらりと現れては消え、商いは横並びで値を上げ、奉行所は町場までしか斬り込めない。こうしてみると今回の話は「油問屋と悪代官の屏風の裏」「町場の商い」「そこまでしか行けぬ奉行所」の三幕芝居になっている。そしてここまで来ると、江戸芝居を見慣れた町人としてはどうしても期待してしまうのだ。――そろそろ、ふすまがバァンと開き、片肌脱ぎの遠山の金さんが現れるんじゃないか、と。もろ肌脱いで「油問屋、悪代官、屏風の裏はこの桜吹雪がお見通しだぜい!」と啖呵を切る、あの場面を。だが現実は芝居ほど気が利いていない。ふすまは、いつまで経っても開かない。それでも人は、あの桜吹雪を一度くらい見たくなる。そう思わせるほど、この構図は江戸の町と、いやに似ているのである。
一方、町場には商いが軒を連ねる。油屋の看板がずらりと並び、どの店もなぜか同じような字体で「油」と書いてある。あれは町内の書道の先生が指導しているのかもしれない。表向きは「うちは安いよ」と競い合っているように見えるが、日が暮れると店主たちがこそこそ集まり、「なあ、来月から一升あたり二文、揃えて上げようじゃありませんか」「師走は二文半でどうです」「値下げの折も足並み揃えませんか」と相談を始める。これが談合である。表では「いやあ、仕入れ値が高うございまして」と頭をかくが、その頭のかき方がまた妙に同じ角度で、見ていると“談合のクセ”が身体に染みついているように思えてくる。裏では“値寄せの寄り合い”。この裏の結束だけは江戸も現代も変わらない。町人は「油の値が揃いすぎてやしねえか」と首をひねるが、商いはどこ吹く風で、むしろ「揃ってるから安心でございましょ」みたいな顔をしている。いや、安心じゃない。
そこへ現れるのが奉行所。現代でいえば公取委だ。この奉行所、なかなか目が利く。町場の油売りどもが夜な夜な値を寄せ合っていたことまではきっちり嗅ぎつけ、「油売り一同、密々に値を取り決めておった証拠、奉行所にてしかと改めた。これよりお白州にて沙汰を申し付ける」と淡々と申し渡す。奉行所の役人は、なぜか皆、眉の角度が同じで、怒っていないのに怒っているように見える絶妙な角度だ。怒鳴らないが、言葉が妙に冷たい。こういう冷たさがいちばん効く。しかし、である。奉行所がいくら目を凝らしても、その奥にいる油問屋と悪代官の“屏風の裏の密談”まではどうにも手が届かない。屏風の裏というのは、どうしてこうも都合よく“見えない場所”として使われるのだろう。あそこにはたいてい猫が寝ているものだが、今回は帳簿が寝ている。猫より静かで、猫より質が悪い。
町人たちは困り果て、「金子はどこへ消えたんでい」「油の値は下がらず、むしろ上がってんじゃねえか」と嘆くが、油問屋の帳簿は屏風の裏、悪代官はふらりと現れては消え、商いは横並びで値を上げ、奉行所は町場までしか斬り込めない。こうしてみると今回の話は「油問屋と悪代官の屏風の裏」「町場の商い」「そこまでしか行けぬ奉行所」の三幕芝居になっている。そしてここまで来ると、江戸芝居を見慣れた町人としてはどうしても期待してしまうのだ。――そろそろ、ふすまがバァンと開き、片肌脱ぎの遠山の金さんが現れるんじゃないか、と。もろ肌脱いで「油問屋、悪代官、屏風の裏はこの桜吹雪がお見通しだぜい!」と啖呵を切る、あの場面を。だが現実は芝居ほど気が利いていない。ふすまは、いつまで経っても開かない。それでも人は、あの桜吹雪を一度くらい見たくなる。そう思わせるほど、この構図は江戸の町と、いやに似ているのである。