宗教と共産党2026年05月08日

宗教と共産党
イランの戦争だ、ウクライナの戦争だ、ウイグルの弾圧だと原因をたどっていくと、どういうわけか宗教と共産党がいつも顔を出す。宗教団体と共産党。片方は神様、もう片方は革命。見た目はまるで違うのに、中身を覗けば驚くほどよく似ている。どちらも「真理はひとつッ!」と胸を張り、異論を差し挟めば「違うッ!」と烈火のごとく怒る。そして怒るのは決まって上のほうの、やたらとふんぞり返った人たちだ。不思議なのは、その「下」にいる人たちの善良さである。末端の人たちは誠実で、真面目で、近所に住んでいたら回覧板を回し合うような、実に好感の持てるタイプばかりだ。ところが組織の「上」にいくほど、急に腕組みが深くなり、「正しいのはこっちだ」と動かなくなる。この「末端の善意」と「中央の硬直」は世の中のあちこちで見られるが、宗教と共産党はその極致である。

私が睨んでいるのは、宗教団体や共産党が掲げる「絶対的な教義」や「歴史的必然」といった立派な看板が、民主主義という“面倒な手続き”を煙に巻くための目くらましになっていることだ。本来、社会を動かすのは「最後に誰が決めるのか」という極めて現実的な問題であり、責任の押し付け合いをどう防ぐかという泥臭いネジ回しの話である。ところが宗教団体も共産党も、あるいはナチズムのような似非民族宗教も、その一番大事なネジの部分にヒラヒラと美しい風呂敷を被せて隠してしまう。「神の意志」「人民の意思」「血の誇り」といった反論しにくい巨大な言葉をドカンと置き、誰がどうやって決めるのかという肝心な仕組みをボヤかしてしまうのだ。

気がつくと、その風呂敷の下で“中央”や“総統”が「私が解釈しました」という顔で君臨し、異論を言う者は「不信心者!」「裏切り者!」として放り出される。立派な教義であればあるほど、民主主義という“正気のルール”を麻痺させる麻酔薬として働いてしまう。看板の文字が眩しすぎると、人間は足元のネジが外れていることに気づかなくなる。かつてのワイマール憲法も看板はピカピカだったが、社会が「民主主義なんてまどろっこしい」と目を逸らした瞬間、内側のネジが一本、また一本と外れ、独裁という化け物に食われてしまった。

結局、宗教団体も共産党も、ある意味で“別格”なのだ。教義が絶対で、権威の出所が曖昧で、内部批判はタブー。これでは地方の党員や信者がどれだけ誠実でも、組織そのものが民主的であるという理屈は成り立たない。独裁というのは、思想そのものが悪いというより、派手な看板に目を奪われて「ネジ回し」をサボったときに背後から忍び寄ってくる。民主主義を守るために必要なのは、眩しい看板を拝むことではない。風呂敷を剥ぎ取り、「最後に決めるのは自分たちだ」という、あの地味な権利を握りしめておくことだ。

いわば、得体の知れない居酒屋で「大将、あとよろしく。お任せで!」と丸投げしてしまうようなものだ。そんな調子のいいことを言っている間に、奥の厨房では勝手に「独裁盛り合わせ」や「権威主義特上ネタ」が用意され、気がつけばテーブルの上には食べきれないほどの“不自由”が並んでいる。慌てて逃げ出そうとしたところで、もう遅い。最後にはバカ高い勘定書を突きつけられ、自由の財布はすっかり空っぽになっている。

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