負け方の作法2026年07月02日

負け方の作法
ヒューストンの空気は、焼け残ったホットドッグのように湿っていた。今回のブラジル戦は、幾度も世界の頂点に立った、はるかに格上のチームとの対戦だった。日本は防戦に苦しみながらも、怯まず、逃げず、先制点をもぎ取った。佐野海舟は「結果がすべて」と言い、森保一は「力がなくてすいません」と頭を下げた。あの一礼には、日本人が昔から大切にしてきた負け方の作法がにじんでいた。格上相手に挑み、倒れ、また立ち上がる。スポーツとは、そういう世界である。逃げ場がないからこそ、潔さが育つ。湿度を含んだ空気の中で、選手たちの背筋だけが妙にまっすぐに見えた。

ところが国会はどうだろう。選挙では減税も政治資金の透明化も、どの党も競うように公約へ掲げた。ならば国会が始まれば、その勝負が始まるのだろうと思っていた。ところが始まったのは、週刊誌報道をめぐる応酬だった。「本当なのか」「いや違う」とボールとは別のところで人だかりができる。そのうち衆院比例代表の定数削減を議題にしようという話になると、今度は理事会だ、集中審議だと笛ばかりが鳴り、試合そのものが動かなくなる。採決では数で負ける。だから審議そのものを止める。そんな構図にしか見えない場面が続いた。見ている国民としては、「今日は何の競技だったかな」と首をかしげるばかりである。ポップコーンだけが湿気ていく。

本来、政治家にとって試合とは国会である。政策をぶつけ合い、論戦を交わし、法案を審議し、その結果を国民に示す。その積み重ねを採点する日が選挙だ。選挙は試合ではない。試合の結果を告げるスコアボードであり、成績表である。だからこそ、選挙で厳しい判定を受けたなら、なおさら議場に立たなければならない。政策を練り直し、論戦で存在感を示し、「次は任せてもよい」と国民に思わせる。その舞台が国会なのである。スポーツなら、リーグ戦で敗れたチームが次の試合を放棄することはない。悔しさを抱えたままでもピッチに立つ。立つからこそ、次の勝利がある。

今回の国会では、試合より笛の音のほうがよく聞こえた。減税も政治資金の透明化も定数削減も、選挙中はあれほど元気だったのに、国会へ来ると急に影が薄くなる。代わりに議事進行をめぐる押し問答ばかりが続く。スポーツなら、相手が強いからといって試合を止めるチームはない。まずピッチへ出る。勝つか負けるかは、そのあとである。観客はプレーを見に来たのであって、ホイッスルの吹き方を見に来たのではない。売店のホットドッグだけが冷めていく。冷めたホットドッグほど、むなしいものはない。

ヒューストンで頭を下げた日本代表の姿は、その意味で国会の風景とは対照的だった。負けることは恥ではない。負けを認めず、戦う場所から姿を消すことのほうが、よほど信頼を失う。スポーツも政治も、勝負は負けた瞬間には終わらない。次に何をするかで評価は変わる。国民はサポーターであると同時に審判でもある。その目の前に立たない選手を、誰が応援するだろう。今日もまた、湿気たポップコーンと冷めたホットドッグを手にした国民は、試合開始の笛が鳴っているのに、いつまでもピッチに姿を見せない選手を待ち続けている。