甲子園の黙とう儀式2026年08月16日

甲子園の黙とう儀式
戦後の甲子園には、8月15日の正午になると試合を止めて黙とうをする。いかにも「恒例らしい恒例」だ。こういう恒例は、一度根を張ると妙に生命力が強い。まるで誰も打ち崩せない伝統のフォークボールである。気がつけば60年以上、見逃し続けている。なぜ続くのかといえば、続ける側が「続ける理由」を考えなくても済む仕組みになっているからである。そしてもっと深刻なのは、これを“強要している”という感覚を1ミリも持っていないことだ。強制のストライクゾーンがどこにあるのか、そもそも見えていないのである。

今年も熱中症対策のために、高野連は最高気温の時間帯の試合を避けるよう配慮している。ところが、8月15日の甲子園では、午前8時に第1試合、午前10時30分に第2試合、午後1時に第3試合、午後3時30分に第4試合という日程が組まれた。そして第2試合は正午になると試合を中断する。つまり、正午の黙とうが試合の途中に入るのである。ここが面白い。いや、面白がっている場合ではない。午前中に2試合を詰め込み、第2試合を正午にまたがらせる。これはもう、日程そのものが「儀式に合わせてバントをする」ようなものだ。試合のほうが儀式に合わせている。スポーツ大会なのに、である。球場にサイレンが鳴り、アナウンスが流れ、選手も観客も立つ。ここで「黙とうしません」という変化球を投げられる人間が、いったい何人いるだろうか。高校生が満員の甲子園で黙とう拒否などできるはずがない。これはどう見ても「全員参加の儀式」である。

それなのに、強制している側は強制していると思っていない。ここが最大の問題である。高野連の意思決定層には、元校長や元教育委員会関係者など、いわば「引退後の第2の職場」のような顔ぶれが並ぶ。彼らが現役選手だった時代と、今の酷暑の甲子園では、環境がまるで違う。理解できないからこそ、儀式はそのまま残る。残る理由は「昔からやっているから」。やめる理由は誰も言わない。そして、儀式をやらされている生徒や観客の存在は、彼らの視界からすっぽり抜け落ちている。強要しているという自覚がないのだから、議論が起きるはずもない。

近年はビデオ判定まで導入され、アウトかセーフかは映像で精密に決められるようになった。だが、そんなものを持ち込む前に、もっと先に入れるべき判定がある。暑さ指数、つまりWBGTである。WBGTが28を超えれば「厳重警戒」、31を超えれば「運動は原則中止」。スポーツの安全管理では、暑さを「気合」で処理しないのが現代の常識である。ところが甲子園では、ビデオ判定で「アウトかセーフか」は決めるのに、「生きるか倒れるか」は根性で決める。これは判定の優先順位が完全に逆である。炎天下の正午は選手にも観客にも厳しい時間帯で、フィールドは猛烈に熱くなり、観客は日陰を探して右往左往する。その一方で、正午になると試合を止めて全員で黙とうする。安全のために止めるのではない。60年以上続いている儀式のために止めるのである。

高野連が変わるかといえば、簡単には変わらない。構造的に変わりにくいからである。意思決定層が固定化され、外部の批判が届きにくく、若い世代の感覚も入りにくい。だから儀式の意味を問い直すこともなく、60年以上続いてしまった。しかし、60年以上続いたからといって、64年目も続けなければならない理由にはならない。戦没者を追悼することが悪いのではない。問題は、それを高校生の競技に組み込み、球場全体を巻き込み、「やらない」という選択肢を事実上なくしてしまうことである。スポーツは儀礼の器ではない。まず選手の安全と競技の質があり、その上に伝統があるべきだ。伝統の名を借りた形式が、若い選手の身体と時間を奪う理由にはならない。「昔からやっているから」は理由ではない。それは、考えることをやめた人間が最後に取り出す便利な逃げ球である。

コメント

トラックバック