京都路面電車(LRT)導入構想2025年11月15日

京都路面電車(LRT)導入構想
京都商工会議所が「次世代型路面電車(LRT)」の導入構想を再び打ち出した。聞けば未来志向の交通システムらしいが、実際のところは「昔の市電の幻影」にすがっているようにも見える。低床式でバリアフリー、静音性も高いとされるLRTは、バスの混雑や定時性の低下を補う切り札だという。だが、京都の道路事情を知る人間からすれば「夢物語」に近い。東大路通や今出川通は幅員11〜12メートルしかなく、複線敷設は不可能。単線で交差点を全赤にして行き違いをする光景を想像してみればいい。観光都市の目抜き通りが、電車のために車も人も立ち往生する――これでは「渋滞緩和」どころか「渋滞製造機」だ。

さらに、総工費は路線ごとに120億円から598億円。京都市の財政事情を考えれば、財布の中身を見ずに高級ワインを注文するようなものだ。市民の生活感覚からすれば「また赤字を増やすのか」とため息が出る。沿線住民の反対も根強く、計画は長らく停滞。理念は立派でも、現実は厳しい。商工会が「未来の交通」と胸を張っても、足元は泥沼だ。

一方で、議論の中から浮かび上がるのは「地下鉄短絡線」という代替案だ。全面的な地下鉄延伸は数千億円規模で夢のまた夢だが、各私鉄の始発駅どうしを地下で短距離接続するだけなら、数百億円規模で済む。阪急河原町駅と地下鉄四条駅を直結すれば、徒歩10分の乗り換えが2〜3分に短縮される。阪急河原町駅の一日平均乗降客は約13万人、地下鉄四条駅は約9万人。仮に乗り換え利用者が2万人いるとすれば、毎日一人あたり7分の時間短縮、合計で「1日2万時間」もの時間が節約される。年間730万時間、金額にすれば数十億円規模の経済効果だ。これこそ「市民が実感できる未来の交通」ではないか。

さらに、北野白梅町から出町柳までを地下鉄で結べば、嵐電・叡電・京阪のネットワークが直結し、金閣寺から銀閣寺まで一本で繋がる。観光客は「バス渋滞に巻き込まれず、乗り換えなしで東西移動できる」体験を得られる。市民にとっても、通勤時間の短縮やバス依存からの脱却は生活の質を大きく変える。延長約3kmで900〜1500億円と試算されるが、LRTの「渋滞製造機」に数百億円投じるよりは、よほど筋が通っている。

結局のところ、商工会議所が推進するLRTは「見栄えのいいプレゼン資料」にはなるが、実現性も費用対効果も乏しい。むしろ商工会が本気で都市交通の利便性を高めたいのであれば、LRTよりも「河原町京阪〜四条阪急の短絡線」や「白梅町〜出町柳の地下鉄接続」といった具体的な短絡投資を私鉄に促す方が、はるかにマシだ。京都の交通政策の核心は、懐古的な市電復活ではなく、都市圏ネットワークの断絶をどう埋めるかにある。商工会の発表は「夢を語る場」ではなく「現実を直視する場」であるべきだ。

現金オンリーのうどん屋2025年11月02日

香の川製麺
今日は自家用車の点検ついでに、昼飯でも食べようと車屋の目の前にある『釜揚げ讃岐うどん 香の川製麺』へ。ここに来るのは実に3年ぶり。懐かしさもあって、カレーうどんを注文。ところが、レジ前で衝撃の事実。なんと、キャッシュレス決済が使えない。現金オンリー。今どきそんな店ある?と思いつつ、財布を確認。小銭が残ってたかも…と値段を聞くと750円。かき集めても730円しかない。レジのお姉さんに「後払いでいいから、電話番号と名前を書いてください」と言われる。いや、親切だけど、チェーン店でこの対応って珍しい。しかも、カレーうどんが750円って高くない?相場は600円くらいのはず。キャッシュレス非対応なら、むしろ安くしてほしいくらいだ。

味は悪くなかった。カレー出汁はしっかりしてて美味しかった。でも、肉の姿は見当たらず。具なしカレーうどんで750円かぁ…。支払いのため、近くのATMを探すことに。店員さんに聞くと、すぐ近くにコンビニがあるとのこと。外はあいにくの雨、しかも風が強い。国道沿いなので車が通るたびに水しぶきが飛んでくる。車で行きたいけど、点検中だから歩くしかない。5分ほど歩いてセブンイレブンに到着。ATMで現金を引き出すのも半年ぶり。すっかり忘れていたけど、1万円出金では千円札が引き出せない仕様。結局2回出金する羽目に。

それにしても、国道沿いの大型店でキャッシュレス非対応ってどうなの?文句を言っても仕方ないので、黙って支払い。改めて思う。うどんってこんなに高くなったんだな。3年前は500円くらいだったのに、5割も値上がりしてる。最近は飲み屋以外で外食しないから相場が分からなかったけど、「香の川製麺」だけが突出して高い気がする。ちなみに業界トップの丸亀製麺は640円。もちろんキャッシュレス対応済み。

レジに人手を割いてる時点で、利益率も下がるだろうし、経営陣の感覚がちょっと緩いのかも。「香の川製麺」が業界10位にも入らない理由、なんとなく分かった気がする。そんなことをぶつぶつ考えていたら、点検が終わった愛車が冬タイヤに履き替えて戻ってきた。さて、冬の車旅はどこへ行こうかと気を取り直す。

秋の夕暮れとコスモス2025年10月30日

秋の夕暮れとコスモス
夕方5時を過ぎると、もう日は傾き、空気がひんやりしてくる。あれほど「猛暑だ」と嘆いていたのが嘘のように、今では長袖が手放せない。昨日、ようやくキンモクセイの香りが漂ってきた。子どもの頃の記憶をたどると、いつもこの香りの中で運動会をしていた気がする。昔の体育の日あたりがその季節だったが、今年は少し遅れて秋がやってきたようだ。庭のコスモスも、ようやく遅咲きの花が咲き始めた。家人と連れ立って近所のコスモス畑へ出かけると、そこは一面の花の海。風に揺れる花々が夕陽を受けてきらめき、遠くでは虫の声が響いていた。秋の夕暮れとコスモスほど、季節を実感させてくれる組み合わせはない。

コスモスはキク科コスモス属の植物で、秋を代表する花だ。原産地はメキシコ。明治時代に日本へ渡来し、今ではどこの町でも見られる身近な花になった。学名 Cosmos bipinnatus はギリシャ語の「kosmos(秩序・調和・美)」に由来し、その整った花姿が名前の意味をよく表している。日本語の「秋桜(あきざくら)」という呼び名は当て字で、1977年に山口百恵が歌った『秋桜』によって広く知られるようになった。

開花期は9月から10月が見ごろ。早咲きの品種は6月頃から咲き始め、晩秋まで長く楽しめる。短日植物なので、日照時間が短くなると花を咲かせる性質があるという。花言葉は「乙女の真心」「調和」「謙虚」。色によっても意味が少しずつ異なるそうだ。

コスモスの季節が過ぎれば、京都はいよいよ紅葉のシーズンに入る。
けれど最近は嵐山や大原でクマの出没が相次ぎ、通行止めのニュースも耳にする。観光の書き入れ時に、なんとも“クマった話”である。

ムスリム対応の給食2025年10月14日

ムスリム対応の給食
「ムスリム対応の給食が始まったらしい」──そんな誤情報がSNSで拡散され、北九州市教育委員会が火消しに追われたのは今年9月のこと。実際には、アレルギー対応として豚肉など28品目を除いた給食を一日だけ提供しただけだった。だが、そこに「宗教配慮」と読み取った人々が「日本人が我慢させられている」と抗議を始め、千件を超える苦情が市に殺到した。この騒動、単なる誤解では済まされない。背景には、制度の限界を理解せずに「すべてに応えるべき」とする過剰な期待がある。公共制度は万能ではない。限られた財源と人員の中で、命に関わるアレルギー対応すら綱渡りで行われている現場に、宗教的禁忌への対応まで求めるのは、現場の実情を無視した善意の押しつけとなりかねない。

そもそも、アレルギー対応と宗教対応はまったく別物だ。前者は医学的リスクに基づく安全配慮であり、学校側には法的義務がある。後者は信仰や文化的価値観の尊重であり、政教分離原則や予算制約のもと、制度的には任意対応にとどまる。これを混同して「なぜアレルギーに配慮するのにムスリム食はないのか」というのは、制度の設計意図を理解していない証左だ。例えるなら、うどん屋に入って「スパゲッティを出せ」と言うようなものだ。出てこないのは差別ではない。単なる入店者の錯誤である。制度には提供可能な範囲があり、それを超えた要求は「拒絶」ではなく「不適合」なのだ。

では、どうすればよいのか。まずは制度の限界を明示し、対応可能な範囲を丁寧に説明することが必要である。そして、「みんなで同じものを食べる」ことを善とする発想から脱却し、「違っていても共にある」ことを前提に制度を設計すべきである。一律対応ではなく、選択肢のある柔軟な枠組みへと移行すること。それこそが、真の多文化共生の姿である。

限られた財政状況のもとでは、最低限の給食サービスの内容を明示し、それを超える個別のニーズについては、弁当持参という選択肢を認めることで対応すべきである。さらに高度な個別的なサービスを求める場合には、現場に負担を強いるのではなく、民主的な手続きを通じて制度改善に取り組めばよい。北九州市の事例は、制度設計と市民理解の間に存在する深い溝を浮き彫りにした。今後の公共対応において求められるのは、感情的な包摂ではなく、構造的公正を基盤とした冷静かつ持続可能な制度設計である。

移民子息の義務教育問題2025年10月03日

移民子息の義務教育問題
先日のニュースが伝えた数字に、胸がざわついた。記事によれば、令和6年の文科省調査で、義務教育年齢の外国籍の子どもたちのうち1097人が学校に通っていないと判明したという。さらに連絡が取れず就学状況が確認できない子どもが7322人、学齢簿に記載がなく教育委員会の把握対象外だった子が13人。合計すると8432人が「不就学の可能性あり」と分類されている――その冷たい合計の背後には、確かに生きた子どもたちの顔があるのだ。

数字だけ見ると遠い話のようだが、想像してみてほしい。朝の校門、黄ばんだランドセルの列に混じらない一人。放課後の公園で、言葉が通じず輪に入れない子。親は働き詰めで、日本語の手続きや学校との連絡が後回しになっているかもしれない。義務教育の網の目からこぼれ落ちたその瞬間が、長い孤立の始まりになる。

この状況は「教育行政の不手際」だけでは説明しきれない。外国籍の子どもには現行の日本法上、就学義務がない。教育支援は自治体任せで、制度としての保障が弱い。その空白を埋めているのは、多くの場合、現場の教師や保護者、地域のボランティアの善意だ。だが善意は持続可能な制度ではない。支えが届かない子は、言葉や学びの機会を失い、社会から取り残されていく。

すでに日本には約300万人の外国人が暮らし、都市部では外国人の比率が高い地域もある。にもかかわらず「日本は移民国家ではない」という立場が政策の根底にあり、受け入れの枠組みや責任の所在はぼやけたままだ。結果として、外国人子弟の教育は制度に組み込まれず、場当たり的な対応が常態化している。

海外の例を参照すれば遅れは明白だ。ドイツやフランスでは、国籍にかかわらず就学が義務づけられ、言語支援や多文化教育が制度化されている。移民が一定比率に達した段階で、教育・福祉・労働の仕組みを整備してきた。OECDや国連が指摘するように、日本は対応が数十年遅れていると言わざるを得ない。

予測では2035年ごろに外国人比率が5%を超えるという。今、この「教室の空席」が放置されれば、やがて成人する子どもたちの就労や暮らしに深刻な影響が出るだろう。非正規雇用に追いやられ、生活困窮に陥り、社会的孤立を深める。治安も当然悪くなる。そうした個々の不幸が積み重なれば、地域社会の絆も損なわれる。

では、どう手を打つか。まず必要なのは理念だけで終わらない実務的な制度設計だ。就学義務の法制化、日本語教育と母語支援の仕組み、教育委員会と住民台帳の情報連携、多文化教育の全国的な導入——これらはどれも「やったらいいね」で済む話ではない。受け入れ数を管理する枠組み(移民基本法に相当するもの)と、教育権を実務的に保障する立法が同時に進まなければ、責任の所在は曖昧なままだ。

いくつかの党が示すような理念先行の「多文化共生法」は、かえって国論を二分しかねない。また、近隣の外国人問題を契機にした感情的な移民拒否も問題の解決にはならない。もちろん、違法外国人問題は速やかに解決するのが行政の責任だ。しかし、移民政策も法制度もない中では根本問題は解決はしない。まずは誰が何をするのかが明確になる実務法から着手すべきだ。教育は、社会統合の出発点である。教室で交わされた挨拶や隣り合って覚えた言葉が、人と人を結び、将来の仕事や地域活動へとつながる。教室の椅子に座れない子が一人でもいることが、日本全体の持続力を削いでいるのだと肝に銘じたい。

国と地方は「見えない子ども」を見えるようにする責任を問われている。制度を整えるのは面倒で、時に政治的に難しい作業だ。しかし、その先にあるのは、誰も取り残さない社会だ。子どもたちが教室で笑い、学ぶ日常を取り戻すことこそ、私たちの未来への最良の投資である。

押し寄せるクマ・臨界点突破2025年09月21日

押し寄せるクマ・臨界点突破現象
今年の9月、日本列島は異様な熱気に包まれた。いや、正確には“恐怖の冷気”が覆ったと言うべきかもしれない。原因は、例年以上の頻度と深刻さで人里に出没するクマたちの存在だ。福島、秋田、岩手、宮城、そして北海道——連日報じられる人的被害のニュースは、もはや他人事では済まされないレベルに達している。この異常事態は、「山にクマがいた」時代から「街にクマがいる」時代への、質的な転換を示唆している。かつては登山者やキノコ採りが山奥で遭遇するのが定番だったが、今やクマは住宅地、学校、介護施設にまで姿を現す。福島県喜多方市では、墓地で作業中の70代女性が襲われ、頭と腕に重傷を負う痛ましい事故が発生。宮城県富谷市では、住宅地で男性が襲われた後、体長1.36m・体重約120kgの巨体が駆除された。そのサイズは、単なる好奇心で人里に降りてきた個体ではないことを物語っている。

では、なぜここまでクマの出没が常態化したのか。背景には、個体数の増加、生息環境の悪化、里山の荒廃、エサ不足など、複合的な要因がある。しかし、それだけではこの急激で広範な変化は説明しきれない。もし単に環境が悪化しているだけなら、ここまで爆発的な出没増加は起こらないはずだ。特定の時期に、特定の地域で、まるで堰を切ったようにクマが大量発生する現象には、別のロジックが必要となる。そこで注目したいのが、物理学の「臨界点」という概念だ。線形的増加とは、クマの数が増えれば出没も比例して増えるという、予測可能な漸進的変化。しかし今起きているのは、ある閾値を超えた瞬間に状況が質的に変化する“臨界点突破”だ。境界が消え、クマは山と街を隔てる見えない壁を認識しなくなった。人里はもはや“侵入先”ではなく、“新たな生息域”と化している。この構造は、感染症のパンデミックやSNSの炎上にも通じる。ある一定の広がりを超えると、爆発的に拡散・増殖する。量的変化が質的転換を引き起こす——まさにその典型例が、今のクマ出没なのだ。

では、この新たな現実にどう向き合うべきか。もはや「クマに注意」と書かれた看板や、笛の携帯といった個別対策では不十分。それは火山の噴火に対して「火傷に注意」と呼びかけるようなものだ。求められるのは、より根本的で構造的な対策である。長野県がドローンやセンサーカメラ、防護服に2328万円の補正予算を計上したように、まずはテクノロジーの活用が急務だ。行動パターンの分析、出没予測モデルの構築によって、先回りした対応が可能になる。加えて、放棄された里山の再整備、生ゴミ管理の徹底、電気柵や緩衝帯の設置なども対症療法として有効だ。ただし、それらは線形的増加時代の対応策に過ぎない。臨界点を超えた今、根本的な解決には、クマの個体数をかつての水準まで戦略的に削減する必要がある。駆除は倫理的な議論を伴う重い決断だが、住民の安全を守るためには現実的かつ効果的な手段でもある。

私たちは今、自然と人間社会の新たな共存モデルを模索する岐路に立っている。クマという存在を通じて、これまで当然としてきた生活様式や自然との向き合い方を問い直す——それは、私たちに突きつけられた壮大な課題なのかもしれない。この「臨界点」を超えた日本の風景は、私たちに何を語りかけているのだろうか。

伊東市政の迷走2025年09月11日

伊東市政の迷走
伊東市の政治は、もはや政策論争の舞台ではなく「田舎芝居」の見世物小屋と化している。図書館建設中止、メガソーラー反対、議会解散、市長不信任──本来なら地域の将来像を冷静に議論すべきテーマが、単なる権力ゲームの小道具にすり替えられてしまった。確かに田久保真紀市長の学歴詐称疑惑や説明責任の欠如は重い失点だ。だが議会側もまた「制度の番人」として冷静に対応するのではなく、全会一致で不信任を可決し、市長を政治的に吊し上げた。その光景は、まるで村社会の見せしめ裁判。制度の健全性を守るのではなく、地元政治の「誰が勝ったか」を競う権力ゲームに堕していた。結果、市長は議会解散という暴発に踏み切り、市政全体が迷走する悪循環を招いたのである。

本来なら、図書館建設の是非は政策的に議論されるべきだった。42億円という事業規模は人口6万人の自治体として他と比較すると必ずしも突出したものではない。むしろ教育・文化インフラとして地域経済に寄与し、将来世代への投資ともなり得る。にもかかわらず市長は「無駄遣い」とレッテルを貼り、代替案も出さずに建設中止を打ち出した。一方の議会は、まともな反論をせずに学歴詐称問題にすり替えて政争の材料に使い、市長攻撃に転化させただけだった。市民にとっては、政策論より「政局ショー」の印象ばかりが強まった。

メガソーラー問題も同じである。自然破壊や中国製パネル依存、再エネ賦課金の問題性といった具体的な論点を整理すれば、十分に政策論争の軸となり得たはずだ。田久保市長は議会全体がメガソーラーに賛成しているかのような構図を演出し、反市長運動をけん制する材料に使った。議会もまたメガソーラーに対する議論をせず詐称問題にのみ焦点化した。市長も議会も政策論ではなく、象徴的立場や政治的駆け引きが優先したことが、市政の混乱に拍車をかけた。

田久保市長が「迫害される改革者」を演じることで対抗したのもいただけない。55歳の市長を「ジャンヌ・ダルク」に見立てる支持層の熱狂は、地方政治特有の感情依存を物語っている。だが、その幻想に酔う一方で、制度や政策整合性を重視する若い世代からは冷めた視線を浴びているのも事実だ。結局、伊東市政の混乱は、市長と議会の双方が制度を軽んじ、物語と政局で市民を振り回した結果である。説明責任の空洞化が積み上げた政治的コストは決して小さくない。次の市長選で本当に問われるべきは、候補者個人の「物語」ではなく、制度をどう運用し、市民に説明責任を果たすのかという一点に尽きる。議会が再び「田舎政局劇」の演出に走るなら、伊東市は永遠に「漂流市政」のレッテルから逃れられないだろう。

兄やんの声が沁みる2025年08月19日

『花まんま』
人は、愛する人を思い続けることで、時を超えて生きていけるのかもしれない。映画『花まんま』は、輪廻転生という設定を借りながら、描いているのはその問いに対する静かな答えだ。舞台は東大阪。河内弁が飛び交う町で、兄・俊樹(鈴木亮平)は妹・フミ子(有村架純)を守るという亡き父との約束を胸に生きてきた。妹の結婚を機に安堵する俊樹だったが、フミ子が幼少期から抱えていた“別の女性の記憶”が再び浮上する。この作品が際立つのは、輪廻転生という非現実的な設定を、物語の中心に据えるのではなく、兄妹と二つの親子の絆を照らすための装置として扱っている点だ。生まれ変わりの記憶は、過去の人生を語るためではなく、今の関係性を深く掘り下げるためにある。俊樹とフミ子の間に流れる沈黙や、言葉にならない感情の往復が、観る者の胸にじわじわと染みてくる。

構成面でも、時間軸の設計が秀逸だ。物語は現在の兄妹の関係を軸に進みながら、フミ子の記憶を通じて過去の人生が断片的に挿入される。回想ではなく“記憶の再生”として描かれることで、過去と現在が並列に存在するような感覚が生まれ、観客は「今ここにある絆」が、実は時間を超えて織り上げられてきたものだと気づかされる。転生という設定が、情の継承として機能している。

そして何より、言語のリアリティが抜群だ。河内弁が自然に使われるだけでなく、「兄やん」「〜してはる」といった言葉が、登場人物の距離感や情の深さを的確に表現する。関西出身の俳優陣──兵庫出身の鈴木亮平と有村架純、大阪出身のファーストサマーウイカ──が主役を固めていることで、関西人でも違和感なく没入できる。変なアクセントで集中を削がれる心配は皆無だ。この点で思い出すのが、テレビドラマ『能面検事』。観月ありさの関西弁は、イントネーションも語彙も不自然で、関西人には「この人、どこ出身やねん」とツッコミたくなるレベル。テレビドラマは制作スピードや放送頻度の制約があるため、多少の言語的破綻は目をつぶれるが、映画は違う。2時間という限られた時間に完成度を凝縮する必要がある。アクセントが外れていれば、それだけで物語の信頼性が崩れる。

『花まんま』は、誰かを思い続けることの切なさと、言葉にできない情の深さを、静かに、しかし確かに描いている。兄やんの声が沁みるのは、そこに理屈ではなく、時間を超えて積み重ねられた想いがあるからだ。転生という設定を借りながらも、描かれているのは「今も変わらず、愛する人を思っている」という感情そのもの。観終えたあと、誰かの名前を心の中で呼びたくなる。そんな映画だった。

下水管内ガス中毒死2025年08月03日

下水管内ガス中毒死
昨日、埼玉県行田市。老朽化した下水管の点検中、作業員がマンホールに転落。後を追って救助に入った3人の同僚も次々に倒れ、4人全員が命を落とした。硫化水素による中毒死。防げたはずの死である。現場は、直径わずか90センチ、深さおよそ10メートルの下水管。中には約1.8メートルもの汚泥が堆積し、有毒ガスが高濃度で充満していた。硫化水素は、低濃度では腐卵臭があるが、ある閾値を超えると嗅覚を麻痺させ、数回吸い込んだだけで意識を失わせる。まさに、沈黙の毒である。驚くべきは、現場に転落防止のロープも安全帯も、換気装置も設置されなかった可能性があるという。しかも、事前のガス濃度測定も不十分だった可能性が高い。これらは、いずれも法律で義務付けられている“最低限の備え”だ。にもかかわらず、それがなかった。

今回の点検は、同県内の八潮市で起きた道路陥没を受けた緊急対応の一環。委託業者が市の依頼で作業を行っていた。背景にあるのは、公共工事の“最安値落札”という制度設計だ。コストを削る圧力はまず安全対策に向けられ、末端の作業員にしわ寄せがいく。さらに、下請け・孫請けの多重構造が責任を希薄にし、「危険を感じても口をつぐむ」空気を現場に蔓延させる。そして、いつものように作業を始め、二度と戻らない人が出る。これでは200年前の前近代的な坑内作業環境と変わらない。厚労省の統計では、2004年から2023年までに硫化水素による事故は68件、死亡者は36名。致死率は約4割。それだけ危険性が知られているにもかかわらず、なぜ“同じ死”が繰り返されるのか。一因は、法制度の形骸化にある。労働安全衛生法や酸素欠乏症防止規則は存在するが、違反の罰則は軽く、監督官庁のチェックも限られている。安全対策は“書類の上では完璧”でも、現場では見て見ぬふりがまかり通る。命を守るはずのルールが、現場では空文化しているのだ。

結果、今回の事故のような“予防可能な死”が発生する。そして、また一歩、人が地下に降りる仕事から遠ざかっていく。危険と低賃金がセットになった点検作業の担い手は年々減り、誰もやりたがらない「社会の基盤維持」が静かに崩れ始めている。制度改革は待ったなしだ。総合評価方式への移行、安全対策費の明示・義務化、作業員の拒否権保障、自治体間での安全基準の統一、そして事故時には第三者による徹底検証。命をコストで換算するような公共事業のあり方に、終止符を打たねばならない。都市の血管とも言える下水管。その中に潜り、私たちの「当たり前の生活」を黙って支える仕事がある。その命がこんなにもあっけなく失われてよいはずがない。いま必要なのは、“誰が悪かったか”を問うことではない。この構造を変えない限り、次の犠牲者も確実に出る。

津波避難指示のあり方2025年07月30日

津波避難指示のあり方
カムチャツカ沖でM8.8の巨大地震が発生し、日本列島にも津波警報が鳴り響いた。関西では潮位1メートル程度の予測ながら、自治体はこぞって「警戒レベル4」の避難指示を発令。防災無線が騒がしくなると、人々は一斉に避難所へと押し寄せた。だがその先に待っていたのは、“命を守る場所”とはほど遠い光景だった。猛暑の中、冷房は頼りなく、水も不十分。逃げ込んだ先が「避難所という名のサウナ」では、どこに安全があるのか。うちわ片手にぐったり座り込む高齢者と子どもたち。そんな光景を私たちは、すでにニュースで何度も見せられている。この既視感。コロナ禍真っ只中の2020年、台風と豪雨が重なったあの夏。感染症対策もままならぬ避難所に「行くのが怖い」「密になるくらいなら家にいる」と、住民たちは判断を迫られた。結果、自治体の想定を上回る“在宅避難”が発生。支援も連携も届かず、見えない被災者が増えていった。それから5年。学んだはずの教訓は、どうやら記憶の彼方に消えたらしい。冷房整備率は全国平均で2割程度。災害が来るたびに、「水がない」「エアコンがない」「密になる」の三拍子が繰り返されている。

そして忘れてはならないのが、2019年の台風19号。多摩川氾濫の危機が迫る中、都内の複数自治体が「出すべきか迷った末に避難指示を出した」が、肝心の避難所が開いていなかった。行く場所がない。住民はSNSで情報を探し、右往左往。なぜ、同じ過ちが繰り返されるのか。それはひとえに、「指示は出すが環境は整えない」という、自治体の構造的な欠陥。そしてそれを支えるのが、おなじみ“横並び行政”である。

「周りが出してるから、うちも出す」「万一があったら責任を問われる」――そうした空気に押され、市町村長たちはリスク評価より“保身の空気”を優先。中身のない避難指示が乱発され、暑さと混乱が避難所を襲う。制度的な歪みも深刻だ。津波は気象庁、熱中症は環境省と厚労省、避難所整備は地方自治体――縦割り行政の迷路のなかで、複合災害への一元対応など望むべくもない。いま必要なのは、「避難指示を出した」という既成事実をつくることではない。出したあとにどんな環境を用意できるか――その責任を明確にすることである。潮位とWBGT(暑さ指数)を組み合わせた複合リスク評価、冷房有無による避難所の分類、要支援者の優先導線、環境条件を明記した避難指示文書……、やるべきことは山ほどある。

だが現実はどうか。コロナの教訓も、台風の反省も風化し、「またか」の声すら聞こえなくなりつつある。政治家は口をそろえて「防災が重要」と言うが、今年に入って何が改善されたのか。「防災に力を入れる」と言っていた某首相は、この半年でこの問題に一体どれだけ取り組んだのか。記者会見の原稿には書かれていても、避難所の天井からは冷たい風はまだ吹いてこない。