東海林風うまいコメが喰いたい ― 2026年04月20日
スーパーの米売り場というのは、どうしてああ、いつも静かなんだろう。肉売り場はジュワジュワ、魚売り場はピチピチ、総菜売り場はガヤガヤしているのに、米売り場だけは妙に落ち着いている。袋がドンと積まれて、こちらを見ている。「わたしら、そんなに騒ぐほどのことじゃありませんよ」とでも言いたげだ。ところが最近、その静かな米売り場の外側で、業界とメディアが大騒ぎしている。「米価が下がった!」「在庫が増えた!」「大変だ!」まるで米袋が倉庫で泣き叫んでいるかのような報道ぶりである。しかし売り場の米袋たちは、どこ吹く風である。
特にブランド米。コシヒカリ、あきたこまち。この2つは売り場の真ん中で、どっしり腕組みしているような風格だ。値札を見ると、5キロ4000円台。平年の倍近い値段でも、眉ひとつ動かさない。「値下がり? ああ、あれはブレンド米の話でしょ」と、どっこい知らん顔である。一方、ブレンド米。こちらは売り場の手前で、ヤケクソ気味に値札をぶら下げている。「3000円割れたぞー」「特売だぞー」と、もってけドロボー風の声が聞こえてきそうだ。味も香りも控えめで、値段も下がりやすい。ちょっと需給が緩むと、すぐに値崩れしてしまう。「わたしら、代わりはいくらでもいますから……」とでも言っているようで、なんだか健気でもある。
しかし、ここで問題なのは、メディアがこの「2種類の米」をひとまとめにして報じてしまうことだ。「在庫が増えた」「米価が下がった」——いや、それはブレンド米の話であって、ブランド米はどっこい知らん顔である。そもそも米価というのは、在庫で決まるのではない。需要より供給が多ければ下がり、供給より重要が多ければ上がる。在庫はその「結果」であって「原因」ではない。ところがニュースは、在庫を原因のように扱う。「在庫が増えたから値下がりした」——いやいや、逆である。供給が多いから在庫が増え、値段が下がるのだ。
ブランド米は味が違う。香りが違う。粘りが違う。だから需要が減らない。だから値段も下がらない。だから在庫も増えない。だから業界がどれだけ騒いでも、知らん顔である。そして、ここで私は叫びたくなる。「わしは安いコシヒカリの熱々ご飯が欲しいのだ!」湯気の立つ白いご飯を、茶碗にこんもりよそって、そこに梅干しを1つ置いて、「うむ、これぞ日本の朝だ」と言いたい。しかし現実はどうだ。ブランド米は4000円台で仁王立ち。値下がりの気配など、どこにもない。
さらに言えば、「ブランド米をもっと植え付ければいいじゃないか」と思うのだが、これができない。なぜなら、もう苗床ができてしまっているからだ。米というのは、2〜3月に苗を作り、4〜5月に田植えをする。つまり、今さら「ブランド米を増やせ」と言っても、もう遅い。今年の供給はすでに決まっている。増やしたくても増やせない。この「供給の硬直性」こそが、ブランド米の値段を支えている。
米売り場を歩いていると、ブレンド米が「わたし、値下げしました……」としょんぼりしている横で、ブランド米が「人生塞翁が馬」とでも言いたげな顔をしている。同じ米袋なのに、こうも態度が違うのかと感心してしまう。結局のところ、今回の「米価下落騒動」は、「米が下がった」のではなく、「ブレンド米が下がった」だけの話である。ブランド米はどっこい知らん顔で、4000円近辺にどっしり腰を据えている。そして、在庫ばかりを報じて需給メカニズムを説明しないメディアこそ、この騒動のいちばんの「混乱の元凶」なのだ。
特にブランド米。コシヒカリ、あきたこまち。この2つは売り場の真ん中で、どっしり腕組みしているような風格だ。値札を見ると、5キロ4000円台。平年の倍近い値段でも、眉ひとつ動かさない。「値下がり? ああ、あれはブレンド米の話でしょ」と、どっこい知らん顔である。一方、ブレンド米。こちらは売り場の手前で、ヤケクソ気味に値札をぶら下げている。「3000円割れたぞー」「特売だぞー」と、もってけドロボー風の声が聞こえてきそうだ。味も香りも控えめで、値段も下がりやすい。ちょっと需給が緩むと、すぐに値崩れしてしまう。「わたしら、代わりはいくらでもいますから……」とでも言っているようで、なんだか健気でもある。
しかし、ここで問題なのは、メディアがこの「2種類の米」をひとまとめにして報じてしまうことだ。「在庫が増えた」「米価が下がった」——いや、それはブレンド米の話であって、ブランド米はどっこい知らん顔である。そもそも米価というのは、在庫で決まるのではない。需要より供給が多ければ下がり、供給より重要が多ければ上がる。在庫はその「結果」であって「原因」ではない。ところがニュースは、在庫を原因のように扱う。「在庫が増えたから値下がりした」——いやいや、逆である。供給が多いから在庫が増え、値段が下がるのだ。
ブランド米は味が違う。香りが違う。粘りが違う。だから需要が減らない。だから値段も下がらない。だから在庫も増えない。だから業界がどれだけ騒いでも、知らん顔である。そして、ここで私は叫びたくなる。「わしは安いコシヒカリの熱々ご飯が欲しいのだ!」湯気の立つ白いご飯を、茶碗にこんもりよそって、そこに梅干しを1つ置いて、「うむ、これぞ日本の朝だ」と言いたい。しかし現実はどうだ。ブランド米は4000円台で仁王立ち。値下がりの気配など、どこにもない。
さらに言えば、「ブランド米をもっと植え付ければいいじゃないか」と思うのだが、これができない。なぜなら、もう苗床ができてしまっているからだ。米というのは、2〜3月に苗を作り、4〜5月に田植えをする。つまり、今さら「ブランド米を増やせ」と言っても、もう遅い。今年の供給はすでに決まっている。増やしたくても増やせない。この「供給の硬直性」こそが、ブランド米の値段を支えている。
米売り場を歩いていると、ブレンド米が「わたし、値下げしました……」としょんぼりしている横で、ブランド米が「人生塞翁が馬」とでも言いたげな顔をしている。同じ米袋なのに、こうも態度が違うのかと感心してしまう。結局のところ、今回の「米価下落騒動」は、「米が下がった」のではなく、「ブレンド米が下がった」だけの話である。ブランド米はどっこい知らん顔で、4000円近辺にどっしり腰を据えている。そして、在庫ばかりを報じて需給メカニズムを説明しないメディアこそ、この騒動のいちばんの「混乱の元凶」なのだ。
東海林さだお追悼と太陽光発電 ― 2026年04月18日
東海林さだおさんが亡くなった。若いころ、仕事でくたびれた頭をふっと軽くしてくれる一服の清涼水であり、夜、布団に入ってから読むとそのまま眠りに落ちてしまう安眠枕でもあった。世間では『あさって君』が高く評価されているが、私にとっては、あのエッセーと挿絵の「丸かじりシリーズ」こそ最強だった。惜しい、残念、無念――どれだけ言葉を並べても足りない。しばらくブログの文体を東海林風にアレンジして、ささやかな追悼の意を表したい。
まずは太陽光発電をおかずにしたい。「太陽光は正義である」と言い切る人が増えてきた。こちらは何もしていないのに、なぜか少しだけ後ろめたい気分にさせられる。学級委員長というのは、昔からそういう力を持っている。給食の牛乳を飲み残すと「骨が弱くなる」と言ってくるタイプである。こちらとしては牛乳より揚げパンの油のほうが気になっていたのだが、そういう話は聞いてくれない。
太陽の光で電気をつくる。たいへん結構である。煙も出ないし、音も静かだ。パネルの黒光りなんか、妙に“働き者の背中”みたいで、ちょっと頼もしい。あれを見ていると、休日でも会社に来て書類を整理していそうな雰囲気がある。ところがである。その“やさしさ”がどういう仕組みで成り立っているのかと考えはじめると、話が少々込み入ってくる。だいたい、やさしいものというのは裏で苦労している。豆腐だって、あれだけ柔らかいのに、作るのは案外手間がかかる。
山野を覆い尽くしたメガソーラーは地球に優しいのだろうか。木を切る。土が出る。雨が降ると、その土が流れる。これはまあ、見れば分かる話である。川が濁るのも、見れば分かる。問題はその先である。森の土や落ち葉というのは、ただのゴミではなくて、どうやら栄養らしい。それが川を下り、海に届く。海では植物プランクトンがそれを使って増える。ここまでは理科の時間に聞いたような気もする。あの頃はプランクトンと聞くと給食のわかめスープを思い出したものだが、どうも関係はないらしい。だが、わかめはわかめで、あれはあれで独自に頑張っている。
そのプランクトン、何をしているかというと、CO₂を取り込んでいる。CO₂は水に溶けると少し酸っぱくなる性質がある。つまり海は、空気中のCO₂が増えると、じわじわと酸っぱくなっていく。これを酸性化というらしい。最近よく聞く話である。そこでプランクトンの出番である。増えればCO₂を取り込む。減れば取り込まない。当たり前といえば当たり前だが、この当たり前がどうも効いてくる。山が変わり、海に届くものが変わると、このプランクトンの働きも少し変わるらしい。プランクトンも材料が届かないと腹が減って仕事ができないのだ。料理番組で材料が揃っていないときの、あの気まずさに似ている。
結果としてどうなるか。海はもともとCO₂で少しずつ酸っぱくなっている。その流れは止まらない。そこへCO₂を取り込む側の力が弱くなると、どうなるか。これはまあ、強い者が弱くなる話ではなく、弱い者がさらに弱くなる話である。踏ん張りが効かなくなる、と言ったほうが早いかもしれない。梅干しを食べたあとに水を飲むと、余計に酸っぱく感じる、あの感じである。海も「ちょっと待って」と言いたいだろう。
では砂漠ならどうか。「何もないから大丈夫」と言われる。しかし何もないようで、どうもいろいろあるらしい。踏むと怒られそうなものが、うっすらと表面を覆っている。生物被膜というらしい。名前だけ聞くと、冷蔵庫の奥に貼りついている謎の膜みたいだが、実際は砂漠の大事な“皮膚”である。そこへ重機が入る。これを「何もないところの活用」と言い切るには、やや勇気がいる。砂漠のほうも「いや、あるよ」と言いたいに違いない。
結局のところ、太陽光発電そのものが悪いわけではない。屋根の上にちょこんと載せる分には、たいへん具合がよろしい。文句を言う理由が見当たらない。漬物を漬けたり梅酒を造ったりするのと同じ延長線上の「自家製」として捉え、「自分の家で電気が作れる」という“ベランダ太陽光発電所”を開設するのに、目くじらを立てる気はさらさらない。だが山を丸ごと使うとなると、話は別である。どうも最近は、CO₂という科目だけで通知表をつけているようで、それが満点なら他は見ない、という採点法になっているらしい。体育も図工も家庭科も、全部「まあいいや」で済ませるタイプである。
しかし世の中、そう単純でもない。山と海はつながっていて、その間にいるものも、いろいろ仕事をしている。みんな黙って働いているのだ。学級委員長には一度、バッジを外して、山の土を手に取ってみていただきたい。見た目はただの土である。だがどうも、あれがいなくなると、海のほうまで少し困るらしいのである。土というのは、見た目よりずっと働き者なのだ。
まずは太陽光発電をおかずにしたい。「太陽光は正義である」と言い切る人が増えてきた。こちらは何もしていないのに、なぜか少しだけ後ろめたい気分にさせられる。学級委員長というのは、昔からそういう力を持っている。給食の牛乳を飲み残すと「骨が弱くなる」と言ってくるタイプである。こちらとしては牛乳より揚げパンの油のほうが気になっていたのだが、そういう話は聞いてくれない。
太陽の光で電気をつくる。たいへん結構である。煙も出ないし、音も静かだ。パネルの黒光りなんか、妙に“働き者の背中”みたいで、ちょっと頼もしい。あれを見ていると、休日でも会社に来て書類を整理していそうな雰囲気がある。ところがである。その“やさしさ”がどういう仕組みで成り立っているのかと考えはじめると、話が少々込み入ってくる。だいたい、やさしいものというのは裏で苦労している。豆腐だって、あれだけ柔らかいのに、作るのは案外手間がかかる。
山野を覆い尽くしたメガソーラーは地球に優しいのだろうか。木を切る。土が出る。雨が降ると、その土が流れる。これはまあ、見れば分かる話である。川が濁るのも、見れば分かる。問題はその先である。森の土や落ち葉というのは、ただのゴミではなくて、どうやら栄養らしい。それが川を下り、海に届く。海では植物プランクトンがそれを使って増える。ここまでは理科の時間に聞いたような気もする。あの頃はプランクトンと聞くと給食のわかめスープを思い出したものだが、どうも関係はないらしい。だが、わかめはわかめで、あれはあれで独自に頑張っている。
そのプランクトン、何をしているかというと、CO₂を取り込んでいる。CO₂は水に溶けると少し酸っぱくなる性質がある。つまり海は、空気中のCO₂が増えると、じわじわと酸っぱくなっていく。これを酸性化というらしい。最近よく聞く話である。そこでプランクトンの出番である。増えればCO₂を取り込む。減れば取り込まない。当たり前といえば当たり前だが、この当たり前がどうも効いてくる。山が変わり、海に届くものが変わると、このプランクトンの働きも少し変わるらしい。プランクトンも材料が届かないと腹が減って仕事ができないのだ。料理番組で材料が揃っていないときの、あの気まずさに似ている。
結果としてどうなるか。海はもともとCO₂で少しずつ酸っぱくなっている。その流れは止まらない。そこへCO₂を取り込む側の力が弱くなると、どうなるか。これはまあ、強い者が弱くなる話ではなく、弱い者がさらに弱くなる話である。踏ん張りが効かなくなる、と言ったほうが早いかもしれない。梅干しを食べたあとに水を飲むと、余計に酸っぱく感じる、あの感じである。海も「ちょっと待って」と言いたいだろう。
では砂漠ならどうか。「何もないから大丈夫」と言われる。しかし何もないようで、どうもいろいろあるらしい。踏むと怒られそうなものが、うっすらと表面を覆っている。生物被膜というらしい。名前だけ聞くと、冷蔵庫の奥に貼りついている謎の膜みたいだが、実際は砂漠の大事な“皮膚”である。そこへ重機が入る。これを「何もないところの活用」と言い切るには、やや勇気がいる。砂漠のほうも「いや、あるよ」と言いたいに違いない。
結局のところ、太陽光発電そのものが悪いわけではない。屋根の上にちょこんと載せる分には、たいへん具合がよろしい。文句を言う理由が見当たらない。漬物を漬けたり梅酒を造ったりするのと同じ延長線上の「自家製」として捉え、「自分の家で電気が作れる」という“ベランダ太陽光発電所”を開設するのに、目くじらを立てる気はさらさらない。だが山を丸ごと使うとなると、話は別である。どうも最近は、CO₂という科目だけで通知表をつけているようで、それが満点なら他は見ない、という採点法になっているらしい。体育も図工も家庭科も、全部「まあいいや」で済ませるタイプである。
しかし世の中、そう単純でもない。山と海はつながっていて、その間にいるものも、いろいろ仕事をしている。みんな黙って働いているのだ。学級委員長には一度、バッジを外して、山の土を手に取ってみていただきたい。見た目はただの土である。だがどうも、あれがいなくなると、海のほうまで少し困るらしいのである。土というのは、見た目よりずっと働き者なのだ。
備蓄米の買い戻しで米価高 ― 2026年02月17日
時事通信が「政府備蓄米の買い戻しが米価を押し上げる恐れ」と報じた。備蓄が適正水準を割り込み、農水省が対応に苦慮しているという構図だ。しかし、この報道は本質を外している。問題は買い戻しそのものではない。日本のコメ需給が、すでに構造的に逼迫している点にある。主食用米の需要は、直近の需給見通しで697万〜711万トン程度とされている。長期的には人口減少や食生活の変化を背景に減少傾向と説明されてきたが、足元では訪日客需要の増加などもあり下げ止まりの動きがみられ、従来想定より高い水準で推移している。一方生産は2022年が約679万トン、2023年は670万トン前後、2024年は猛暑の影響もあり680万トン前後となっている(いずれも主食用米、農林水産省統計ベース)。単純計算でも年間20万~30万トン規模の不足が続いてきたことになる。
この不足は在庫の取り崩しで吸収されてきた。その結果、市場の緩衝材は薄くなった。昨年、政府が約60万トンの備蓄米を放出したのは、まさにその延長線上の措置である。注目すべきは、これだけの数量が市場に出てもほとんど価格が崩れなかったことだ。需給に余裕があれば相場は軟化する。高止まりが続いたという事実は、累積不足が相当規模に達していたことを示している。その状況は輸入動向にも表れている。国内価格の上昇を受け、関税枠外での輸入米が急増している。高関税を支払っても採算が合う水準に達したからだ。枠外輸入が“爆発的に増加”しているという現象は、市場が国内不足を補おうとしている証左にほかならない。国内に余剰があれば、関税を払ってまで輸入する合理性はない。
2025年産は統計上増産となった。しかし夏の高温で等級低下が進み、歩留まりは悪化している。収穫量すべてが主食用として流通するわけではない。実効ベースでは700万トン前後にとどまる可能性が高く、711万トン需要を十分に満たす水準とは言い難い。在庫を積み増せる局面にはない。
さらに市場心理を左右しているのが政策シグナルの揺らぎだ。昨年の小泉農相は需給逼迫を踏まえ増産方針を掲げた。供給力を強化する方向性を明確に示したのである。しかし高市政権下の鈴木農相は増産に慎重姿勢を示し、方針は曖昧になった。コメは短期で生産が増える作物ではない。中期的な供給見通しが不透明になれば、「将来も不足が続く」との観測が価格に織り込まれるのは自然な流れだ。この状態で政府が備蓄米を買い戻せば価格が反応するのは当然である。だがそれは原因ではない。薄い市場に追加需要が入るから動くのだ。とはいえ放出分の買い戻しは制度上の義務であり、履行しなければ備蓄は痩せ、食料安全保障の土台が弱まる。価格が高止まりしたまま買い戻し、それがまた価格をつりあげる踏んだり蹴ったりの現象だ。
「買い戻しが価格を押し上げる」という単純な図式では、本質は見えない。需要は711万トン規模へと下げ止まり、生産は追いつかず、在庫は削られ、備蓄は放出され、輸入は急増し、政策は揺れた。こうした累積の結果として現在の価格が形成されているのであって、価格を動かしているのは備蓄ではない。需給構造そのものだ。報道メディアは、政府や識者の発言をそのまま流すのではなく、難しい計算ではないのだから、数量の整合を自ら確かめた上で真実を報じるべきである。
この不足は在庫の取り崩しで吸収されてきた。その結果、市場の緩衝材は薄くなった。昨年、政府が約60万トンの備蓄米を放出したのは、まさにその延長線上の措置である。注目すべきは、これだけの数量が市場に出てもほとんど価格が崩れなかったことだ。需給に余裕があれば相場は軟化する。高止まりが続いたという事実は、累積不足が相当規模に達していたことを示している。その状況は輸入動向にも表れている。国内価格の上昇を受け、関税枠外での輸入米が急増している。高関税を支払っても採算が合う水準に達したからだ。枠外輸入が“爆発的に増加”しているという現象は、市場が国内不足を補おうとしている証左にほかならない。国内に余剰があれば、関税を払ってまで輸入する合理性はない。
2025年産は統計上増産となった。しかし夏の高温で等級低下が進み、歩留まりは悪化している。収穫量すべてが主食用として流通するわけではない。実効ベースでは700万トン前後にとどまる可能性が高く、711万トン需要を十分に満たす水準とは言い難い。在庫を積み増せる局面にはない。
さらに市場心理を左右しているのが政策シグナルの揺らぎだ。昨年の小泉農相は需給逼迫を踏まえ増産方針を掲げた。供給力を強化する方向性を明確に示したのである。しかし高市政権下の鈴木農相は増産に慎重姿勢を示し、方針は曖昧になった。コメは短期で生産が増える作物ではない。中期的な供給見通しが不透明になれば、「将来も不足が続く」との観測が価格に織り込まれるのは自然な流れだ。この状態で政府が備蓄米を買い戻せば価格が反応するのは当然である。だがそれは原因ではない。薄い市場に追加需要が入るから動くのだ。とはいえ放出分の買い戻しは制度上の義務であり、履行しなければ備蓄は痩せ、食料安全保障の土台が弱まる。価格が高止まりしたまま買い戻し、それがまた価格をつりあげる踏んだり蹴ったりの現象だ。
「買い戻しが価格を押し上げる」という単純な図式では、本質は見えない。需要は711万トン規模へと下げ止まり、生産は追いつかず、在庫は削られ、備蓄は放出され、輸入は急増し、政策は揺れた。こうした累積の結果として現在の価格が形成されているのであって、価格を動かしているのは備蓄ではない。需給構造そのものだ。報道メディアは、政府や識者の発言をそのまま流すのではなく、難しい計算ではないのだから、数量の整合を自ら確かめた上で真実を報じるべきである。
枠外輸入米前年比96倍? ― 2026年01月31日
関税341円/kgが課される「枠外輸入米」が、前年比約96倍の9万6779トンに急増したという。輸入元の大半は米国(7万5638トン)で、台湾(7024トン)、ベトナム(4515トン)が続いた。高関税を支払ってでも海外から米を調達するという選択は、国内市場における「価格」と「実効供給」のバランスがすでに崩壊していることを意味する。これは単なる価格差の問題ではない。2023年度以降に進行した食用米の実質的不足と、在庫があるにもかかわらず価格が下がらない構造的高止まりが、臨界点を超えた結果である。
事の発端は2023年度(令和5年産)に遡る。猛暑による品質悪化で白未熟米が増加し、精米歩留まりが大きく低下した。生産量は670万トンと表面上は平年並みだったものの、歩留まりの悪化による実質的な供給減は約10万トンに及んだ。一方で需要は外食回復や在留外国人の増加も重なり685万トン前後に膨らみ、需給ギャップは約25万トンへと拡大した。
翌2024年度(令和6年産)も状況は改善しなかった。生産量は679万トンにとどまり、需要は農水省自身が後に上方修正したとおり711万トンに達した。2年間で累積した不足は約57万トンにのぼり、民間在庫は150万トンへと急減した。市場で自由に動かせる「フリー在庫」は歴史的な薄さとなり、スーパーからはコメが消えた。やっと店頭に並んだ米袋の価格に市民は目を疑った。それでも農水省は「コメはある」と強弁し、春先まで備蓄米の放出をためらい続けた。ようやく放出に踏み切ったものの、量も品質も限られ、銘柄米の不足を補うには到底及ばず、実効性は乏しかった。
2025年度(令和7年産)は718万トンと増産に転じ、数量上は需給がほぼ均衡した。しかし、前年度までの累積不足は解消されず、倉庫に積み上がった在庫の多くは「売約済み」として確保されたものだった。統計上の在庫が回復しても、一般市場に出回る流通量は極端に少ないままだったのである。市場はこの「実効供給の乏しさ」という需給ギャップを正確に認識し、価格に反映させた。その結果、標準米は5kgで3500円を超え、銘柄米は5000円台という異例の高値が定着した。
にもかかわらず、農水省やメディアは「在庫は余っている」とのアナウンスを繰り返している。彼らが根拠としたのは玄米ベースの総在庫であり、そこには加工用や動かすことのできない売約済み在庫がすべて含まれている。消費者が手にする主食用米の動態とは別物であり、現実の需給は依然として供給が不足だ。農水大臣は「価格形成は市場に任せる」と静観を決め込んだが、市場が需給ギャップを反映して高値を付けている以上、政府の「在庫は十分」という認識こそが誤りだったことになる。市場に委ねるならば、政府は自らの需給把握の誤りを認め、統計情報の不備を是正する責任がある。
混乱に拍車をかけたのが、鈴木農水大臣による「備蓄米が70万トン不足しているため買い上げる」という発言だ。市場が高値で喘ぐ局面において、政府が不足した備蓄枠を埋めるために買い増しを行えば、市場からさらに米が吸い上げられ、価格が下支えされるのは自明の理である。しかし政府は、この買い上げが価格を押し上げるリスクを隠し、国民には「不足を補うための善後策」という誤ったメッセージとして伝えた。この政治的パフォーマンスが、結果として価格下落を阻害する要因となったことは否定できない。
本来、2026年度(令和8年産)は需給緩和のため、さらなる増産と流通の柔軟化が現実的な選択肢となるべき年だった。石破政権では増産を指示したが、続く高市政権では「農家所得の安定」を優先し、高値維持を容認する姿勢が強まった。結果、市場は安全弁を欠いたまま硬直化し、高関税を払ってでも輸入米を仕入れる方が合理的となる異常事態を招いている。米価高騰はもはや天候の問題ではない。需給の実態を見誤り、誤った情報を発信し続けた政策判断の連鎖が、日本の米市場を歪めている。
結局、輸入米急増の本質は「国内産のコメが足りない」という一点に尽きる。総選挙のさなか、語られるべきは目先の米価だけではなく、農水省の統計の欠陥そのものである。総在庫という「数字上の安心」を優先し、実効供給量という「市場の真実」を無視し続けた行政の責任を明らかにすべきだ。農水大臣が「市場に任せる」と言い切るならば、まず自らの需給認識の誤りを正す必要がある。正しい現状認識が共有されなければ、米不足と高騰という「政治が生んだ人災」は終わらない。
日本の食料安全保障を守るためには、統計の死角を取り除き、市場の実態を正確に反映する情報へと改めることが不可欠である。しかし、農政の構造問題を批判する議員はいても、統計処理そのものの誤りを正面から指摘する議員はほとんどいないので問題を長引かせている。現場の実態に即した政策判断が行われるよう、政治の側にも抜本的な姿勢転換を求めたい。
事の発端は2023年度(令和5年産)に遡る。猛暑による品質悪化で白未熟米が増加し、精米歩留まりが大きく低下した。生産量は670万トンと表面上は平年並みだったものの、歩留まりの悪化による実質的な供給減は約10万トンに及んだ。一方で需要は外食回復や在留外国人の増加も重なり685万トン前後に膨らみ、需給ギャップは約25万トンへと拡大した。
翌2024年度(令和6年産)も状況は改善しなかった。生産量は679万トンにとどまり、需要は農水省自身が後に上方修正したとおり711万トンに達した。2年間で累積した不足は約57万トンにのぼり、民間在庫は150万トンへと急減した。市場で自由に動かせる「フリー在庫」は歴史的な薄さとなり、スーパーからはコメが消えた。やっと店頭に並んだ米袋の価格に市民は目を疑った。それでも農水省は「コメはある」と強弁し、春先まで備蓄米の放出をためらい続けた。ようやく放出に踏み切ったものの、量も品質も限られ、銘柄米の不足を補うには到底及ばず、実効性は乏しかった。
2025年度(令和7年産)は718万トンと増産に転じ、数量上は需給がほぼ均衡した。しかし、前年度までの累積不足は解消されず、倉庫に積み上がった在庫の多くは「売約済み」として確保されたものだった。統計上の在庫が回復しても、一般市場に出回る流通量は極端に少ないままだったのである。市場はこの「実効供給の乏しさ」という需給ギャップを正確に認識し、価格に反映させた。その結果、標準米は5kgで3500円を超え、銘柄米は5000円台という異例の高値が定着した。
にもかかわらず、農水省やメディアは「在庫は余っている」とのアナウンスを繰り返している。彼らが根拠としたのは玄米ベースの総在庫であり、そこには加工用や動かすことのできない売約済み在庫がすべて含まれている。消費者が手にする主食用米の動態とは別物であり、現実の需給は依然として供給が不足だ。農水大臣は「価格形成は市場に任せる」と静観を決め込んだが、市場が需給ギャップを反映して高値を付けている以上、政府の「在庫は十分」という認識こそが誤りだったことになる。市場に委ねるならば、政府は自らの需給把握の誤りを認め、統計情報の不備を是正する責任がある。
混乱に拍車をかけたのが、鈴木農水大臣による「備蓄米が70万トン不足しているため買い上げる」という発言だ。市場が高値で喘ぐ局面において、政府が不足した備蓄枠を埋めるために買い増しを行えば、市場からさらに米が吸い上げられ、価格が下支えされるのは自明の理である。しかし政府は、この買い上げが価格を押し上げるリスクを隠し、国民には「不足を補うための善後策」という誤ったメッセージとして伝えた。この政治的パフォーマンスが、結果として価格下落を阻害する要因となったことは否定できない。
本来、2026年度(令和8年産)は需給緩和のため、さらなる増産と流通の柔軟化が現実的な選択肢となるべき年だった。石破政権では増産を指示したが、続く高市政権では「農家所得の安定」を優先し、高値維持を容認する姿勢が強まった。結果、市場は安全弁を欠いたまま硬直化し、高関税を払ってでも輸入米を仕入れる方が合理的となる異常事態を招いている。米価高騰はもはや天候の問題ではない。需給の実態を見誤り、誤った情報を発信し続けた政策判断の連鎖が、日本の米市場を歪めている。
結局、輸入米急増の本質は「国内産のコメが足りない」という一点に尽きる。総選挙のさなか、語られるべきは目先の米価だけではなく、農水省の統計の欠陥そのものである。総在庫という「数字上の安心」を優先し、実効供給量という「市場の真実」を無視し続けた行政の責任を明らかにすべきだ。農水大臣が「市場に任せる」と言い切るならば、まず自らの需給認識の誤りを正す必要がある。正しい現状認識が共有されなければ、米不足と高騰という「政治が生んだ人災」は終わらない。
日本の食料安全保障を守るためには、統計の死角を取り除き、市場の実態を正確に反映する情報へと改めることが不可欠である。しかし、農政の構造問題を批判する議員はいても、統計処理そのものの誤りを正面から指摘する議員はほとんどいないので問題を長引かせている。現場の実態に即した政策判断が行われるよう、政治の側にも抜本的な姿勢転換を求めたい。
柿と大根のおすそ分け ― 2025年11月16日
秋になると、農家の友人が「豊作で捨てるには忍びないから」と言って、大根や柿をおすそ分けしてくれる。実は昨日も、先週も、老人クラブの仲間から柿やサラダ菜をいただいたばかりだ。大きな大根を二本ももらえば、夫婦二人では半月はもつ。柿は関西では今年豊作らしく、何かの集まりがあるたびに誰かが持ってきてくれるのだが、正直なところ、もう食べ飽きてしまった。最近では、熊の出没が話題になっており、庭先の柿を早めに処分したほうがよいという話も耳にする。そんな事情もあってか、私の周囲では柿のインフレーションが続いている。ありがたいけれど、冷蔵庫にも胃袋にも限界がある。
さて、目の前にある立派な大根をどうすべきか。大根は、煮物、炒め物、サラダ、漬物など、調理法の幅が広く、台所では頼もしい存在だ。特に秋冬の旬には甘みが増し、味が染みやすくなるため、家庭料理において重宝される。煮物なら「豚バラ大根」や「鶏大根のにんにく煮」、「ブリ大根」などが定番。醤油、みりん、酒を使った甘辛い味付けが基本で、肉の旨味が大根に染み込むと、主菜としての満足感も高い。圧力鍋や電子レンジを使えば、短時間で調理できるのもありがたい。
葉付きの大根なら、葉も無駄にはできない。「じゃことの炒め煮」や「ふりかけ」にすれば、ご飯が進む一品になる。シャキシャキとした食感と香ばしさが魅力だ。漬物としては「紅白なます」や「浅漬け」、「柚子胡椒なます」などがあり、保存性にも優れ、箸休めにぴったり。さらに、「ふろふき大根」や「大根ステーキ」といった、素材の味を活かしたシンプルな料理も捨てがたい。
葉は栄養価も高く、炒め物や菜飯、味噌汁などに活用できる。保存するなら、冷蔵でも冷凍でも可能で、下茹でしておけば煮物や汁物にすぐ使える。一本の大根で主菜から副菜までこなせるのだから、やはり台所の味方である。とはいえ、冷蔵庫の空きと相談しながら、さて、どう使い切ったものか。そんなことを考えるのも、秋の楽しみのひとつかもしれない。
さて、目の前にある立派な大根をどうすべきか。大根は、煮物、炒め物、サラダ、漬物など、調理法の幅が広く、台所では頼もしい存在だ。特に秋冬の旬には甘みが増し、味が染みやすくなるため、家庭料理において重宝される。煮物なら「豚バラ大根」や「鶏大根のにんにく煮」、「ブリ大根」などが定番。醤油、みりん、酒を使った甘辛い味付けが基本で、肉の旨味が大根に染み込むと、主菜としての満足感も高い。圧力鍋や電子レンジを使えば、短時間で調理できるのもありがたい。
葉付きの大根なら、葉も無駄にはできない。「じゃことの炒め煮」や「ふりかけ」にすれば、ご飯が進む一品になる。シャキシャキとした食感と香ばしさが魅力だ。漬物としては「紅白なます」や「浅漬け」、「柚子胡椒なます」などがあり、保存性にも優れ、箸休めにぴったり。さらに、「ふろふき大根」や「大根ステーキ」といった、素材の味を活かしたシンプルな料理も捨てがたい。
葉は栄養価も高く、炒め物や菜飯、味噌汁などに活用できる。保存するなら、冷蔵でも冷凍でも可能で、下茹でしておけば煮物や汁物にすぐ使える。一本の大根で主菜から副菜までこなせるのだから、やはり台所の味方である。とはいえ、冷蔵庫の空きと相談しながら、さて、どう使い切ったものか。そんなことを考えるのも、秋の楽しみのひとつかもしれない。
秋の夕暮れとコスモス ― 2025年10月30日
夕方5時を過ぎると、もう日は傾き、空気がひんやりしてくる。あれほど「猛暑だ」と嘆いていたのが嘘のように、今では長袖が手放せない。昨日、ようやくキンモクセイの香りが漂ってきた。子どもの頃の記憶をたどると、いつもこの香りの中で運動会をしていた気がする。昔の体育の日あたりがその季節だったが、今年は少し遅れて秋がやってきたようだ。庭のコスモスも、ようやく遅咲きの花が咲き始めた。家人と連れ立って近所のコスモス畑へ出かけると、そこは一面の花の海。風に揺れる花々が夕陽を受けてきらめき、遠くでは虫の声が響いていた。秋の夕暮れとコスモスほど、季節を実感させてくれる組み合わせはない。
コスモスはキク科コスモス属の植物で、秋を代表する花だ。原産地はメキシコ。明治時代に日本へ渡来し、今ではどこの町でも見られる身近な花になった。学名 Cosmos bipinnatus はギリシャ語の「kosmos(秩序・調和・美)」に由来し、その整った花姿が名前の意味をよく表している。日本語の「秋桜(あきざくら)」という呼び名は当て字で、1977年に山口百恵が歌った『秋桜』によって広く知られるようになった。
開花期は9月から10月が見ごろ。早咲きの品種は6月頃から咲き始め、晩秋まで長く楽しめる。短日植物なので、日照時間が短くなると花を咲かせる性質があるという。花言葉は「乙女の真心」「調和」「謙虚」。色によっても意味が少しずつ異なるそうだ。
コスモスの季節が過ぎれば、京都はいよいよ紅葉のシーズンに入る。
けれど最近は嵐山や大原でクマの出没が相次ぎ、通行止めのニュースも耳にする。観光の書き入れ時に、なんとも“クマった話”である。
コスモスはキク科コスモス属の植物で、秋を代表する花だ。原産地はメキシコ。明治時代に日本へ渡来し、今ではどこの町でも見られる身近な花になった。学名 Cosmos bipinnatus はギリシャ語の「kosmos(秩序・調和・美)」に由来し、その整った花姿が名前の意味をよく表している。日本語の「秋桜(あきざくら)」という呼び名は当て字で、1977年に山口百恵が歌った『秋桜』によって広く知られるようになった。
開花期は9月から10月が見ごろ。早咲きの品種は6月頃から咲き始め、晩秋まで長く楽しめる。短日植物なので、日照時間が短くなると花を咲かせる性質があるという。花言葉は「乙女の真心」「調和」「謙虚」。色によっても意味が少しずつ異なるそうだ。
コスモスの季節が過ぎれば、京都はいよいよ紅葉のシーズンに入る。
けれど最近は嵐山や大原でクマの出没が相次ぎ、通行止めのニュースも耳にする。観光の書き入れ時に、なんとも“クマった話”である。
球根泥棒 ― 2025年01月24日
朝庭先を見ると、チューリップの球根を植えた花壇が掘り返され球根が無くなり良く見ると芽の部分だけが捨てられていた。1カ月度前も同じように球根が掘り出されていたが、食べられた跡はなかったので元に戻し、周囲に大き目の石で囲っておいた。今回は石が蹴飛ばされていたので明らかに球根狙いなのだろう。庭先にはねこ除けのために、フラッシュライトと超音波で動物を追い払うセンサーライトを1基だけ置いている。この場所はちょうどセンサーの守備範囲から外れており反応しない場所だ。センサーが働く範囲のチューリップ花壇は球根が見えているものもあるのに一切被害がないのだ。球根泥棒はセンサーの守備範囲を巧みに避けて球根を掘り返し食ったのに違いない。センサーをよけるとは映画に出てくるスパイのような賢さだと感心した。
夜行性の動物で球根を掘り出して食す輩は、ネズミ・ハクビシン・アライグマらしい。猫はセンサーライトを学習しているらしく設置後2年一度も侵入していないし、球根は食さない。ネズミにしては動かした石が大きすぎるし穴も大きい。ハクビシンは猫に似た希少動物だがご近所での発見は聞かない。近所の目撃を耳にするのはアライグマだ。神奈川でアライグマによる農作物被害が拡大しており、被害額が約2600万円に急増しているとか、札幌市の住宅街で家庭菜園のトウモロコシ約120本がアライグマに食べられる被害はニュースで見たが、普通の住宅地にも野生化したアライグマがすみついているらしい。アライグマならセンサー範囲を回避して球根泥をしそうな感もある。前回は1か月前なので住宅街全体を漁っているようだ。発見されたのはかなり離れた河川周辺域なので別の個体かもしれない。もう一度大きな石を置いて観察をしている。
夜行性の動物で球根を掘り出して食す輩は、ネズミ・ハクビシン・アライグマらしい。猫はセンサーライトを学習しているらしく設置後2年一度も侵入していないし、球根は食さない。ネズミにしては動かした石が大きすぎるし穴も大きい。ハクビシンは猫に似た希少動物だがご近所での発見は聞かない。近所の目撃を耳にするのはアライグマだ。神奈川でアライグマによる農作物被害が拡大しており、被害額が約2600万円に急増しているとか、札幌市の住宅街で家庭菜園のトウモロコシ約120本がアライグマに食べられる被害はニュースで見たが、普通の住宅地にも野生化したアライグマがすみついているらしい。アライグマならセンサー範囲を回避して球根泥をしそうな感もある。前回は1か月前なので住宅街全体を漁っているようだ。発見されたのはかなり離れた河川周辺域なので別の個体かもしれない。もう一度大きな石を置いて観察をしている。
朝顔は短日性 ― 2024年07月15日
雨の合間を縫って、プランターで大きくなったひまわりやコスモスの地植えをした。ところがプランターの中に根を張りつくして分けて地植えしにくい。一気にプランターで種まきをするよりポッドの方が地植えには向いているようだ。アサガオのツルが相当伸びてきた。玄関前にネットを張ってツルを巻かせている。朝顔は日本でもっとも発達した園芸植物とも言われ「古典園芸植物」と呼ぶ。日本には奈良時代末期に、中国を通じて薬として伝わったのが最初だと言われる。「朝顔」という名が確認されるようになったのは平安時代で、「朝に咲く美しい花」という意味で「朝の容花(かおばな)」と呼ばれたのが由来という。朝顔の種には下剤や利尿剤となる成分が含まれ生薬として用いられていた。花の美しさから観賞用としても栽培されそのほとんどは江戸時代に改良された。
そろそろ開花しても良いころだが、葉が茂っているのに、花付きがまだない。花が咲きにくいのは「短日性」という朝顔の性質が理由だという。「短日性」は、日ごとに昼の時間が短くなる頃に花をつける植物を指す。朝顔には日照時間が短くなることを感知して花を咲かせている。日中が過ぎたら室内の明かりや屋外灯から遠ざけ、なるべく暗い場所に置くようにするのが良いらしい。朝顔は暗い夜のうちから開花を始め、早朝には開花を終えてしまう植物なので光の調節が肝要だという。しかし、玄関前はリビングからの灯りがこぼれている。どうしたものか。
そろそろ開花しても良いころだが、葉が茂っているのに、花付きがまだない。花が咲きにくいのは「短日性」という朝顔の性質が理由だという。「短日性」は、日ごとに昼の時間が短くなる頃に花をつける植物を指す。朝顔には日照時間が短くなることを感知して花を咲かせている。日中が過ぎたら室内の明かりや屋外灯から遠ざけ、なるべく暗い場所に置くようにするのが良いらしい。朝顔は暗い夜のうちから開花を始め、早朝には開花を終えてしまう植物なので光の調節が肝要だという。しかし、玄関前はリビングからの灯りがこぼれている。どうしたものか。
ナメ退治ベイト ― 2024年06月23日
ナメクジ被害で少しは知識を得た。カタツムリもナメクジも「陸貝」という巻貝の仲間。背中に殻がないのが特徴のナメクジはカタツムリから進化した。外敵の攻撃から身を守るため、岩の裏やプランターの下といった狭い隙間に入れるようになり、敵から見つからないことで身を守るようになった。ナメクジは夜行性の生き物で、じめじめと湿った場所を好んで生活している。普段は植木鉢や落ち葉の下などの「日が当たらない場所」に身を隠しながら住んでいる。寒い日には冬眠をしプランターや石の下で身を隠している。ナメクジは雑食の生き物で「野菜・果物・花・葉っぱ・キノコ・苔・虫の死骸・コンクリート」など、何でも食べ植物を食い荒らす。ヌメヌメとした粘液を出してその上を歩く。夜な夜な出てきては、庭中の植物を食い散らかしてまた棲み処へと戻っていく。1日の歩行距離は4mにも及ぶ。ナメクジには線虫が多く寄生しており、人体に入り込むと、重篤な症状(広東住血線虫に起因する疾病など)が現れるケースがある。
今回購入したのは住友化学園芸のナメ退治ベイト。メタアルデヒドが成分で、ナメクジ類、カタツムリ類及び淡水性リンゴガイ科巻貝の経口吸収や腹足部からの接触吸収により毒性を発揮する。腹足部の筋肉が収縮し、大量の粘膜分泌物を出して麻痺が起こり、身体を収縮させて殺虫する。この成分自身は土壌には問題なく分解されていくらしい。
今回購入したのは住友化学園芸のナメ退治ベイト。メタアルデヒドが成分で、ナメクジ類、カタツムリ類及び淡水性リンゴガイ科巻貝の経口吸収や腹足部からの接触吸収により毒性を発揮する。腹足部の筋肉が収縮し、大量の粘膜分泌物を出して麻痺が起こり、身体を収縮させて殺虫する。この成分自身は土壌には問題なく分解されていくらしい。
ナメクジ対策 ― 2024年06月22日
この3週間ひまわりの種を撒いても撒いても双葉のうちに食いちぎられている。昼間観察すると雀が楽しそうに遊んでいるを発見したので容疑が深まる。しかし、夜が明けると完全に茎だけになっているのも発見。よく見るとナメクジが這っている。どうやらこの時期はナメクジらが双葉を好んで食べてしまうらしい。たまに雀が土を掘って種を食べるという説もあるが、とりあえずはナメクジ一択で防虫剤を買いに行くことにする。昨年はこんな被害は少なかったので植える時期にあったのかもしれぬ。ダンゴムシも地中で根を食べるので良くないとの説もある。ダンゴムシは枯葉を食べて分解して土を豊かにすると言われているがどうやらうちの庭では良い働きはしてないようだ。
夜行性で見つけにくいナメクジ対策には、ナメクジ専用の薬剤「ナメトール」がおすすめらしい。「まくだけ」で簡単にナメクジ退治ができ雨や湿気に強く効果が持続し、優れた誘因作用で夜行性のナメクジを夜の間に引き寄せて殺虫する。有効成分は天然の土壌中にも存在する成分で、土に分解される成分だから残っても徐々に土に還るらしい。
夜行性で見つけにくいナメクジ対策には、ナメクジ専用の薬剤「ナメトール」がおすすめらしい。「まくだけ」で簡単にナメクジ退治ができ雨や湿気に強く効果が持続し、優れた誘因作用で夜行性のナメクジを夜の間に引き寄せて殺虫する。有効成分は天然の土壌中にも存在する成分で、土に分解される成分だから残っても徐々に土に還るらしい。