2025年04月15日

石井裕也監督が宮沢りえを主演に迎え、辺見庸の同名小説を映画化した作品。物語は、元有名作家の堂島洋子が、森の奥深くにある重度障がい者施設で働き始めるところから展開していく。洋子は、作家志望の陽子や絵を描くのが好きな青年さとくん、そして身体が動かせない入所者きーちゃんと出会い、次第にきーちゃんに親身になっていく。一方で、施設内では職員による暴力やひどい扱いが見え隠れし、それに対して憤りを募らせるさとくんの正義感が、どんどん加速していく。洋子の夫・昌平をオダギリジョー、さとくんを磯村勇斗、陽子を二階堂ふみが演じており、キャストは豪華だ。

社会の理不尽さや人間関係の葛藤を描くヒューマンドラマ──と聞けば響きはいいけれど、正直なところ、この映画はかなり重たくて暗い。観る者に深い問いかけを投げかける、と評価されているが、観終わったあとに残るのは、疑問とモヤモヤだった。原作は、相模原障害者施設殺傷事件、いわゆる「やまゆり園事件」をモチーフにしている。さとくんは、犯人・植松聖をモデルにしたキャラクターだ。しかし、彼がなぜ優性思想に至ったのかという部分について、監督の石井裕也は「生産性のないものを排除する」という考え方は今の社会全体が帯びているものであり、個人としての植松を掘り下げることには意味がない、としている。

生命を肯定するというのは本能的な欲求に根ざしており、他者の生命も自己と同様に尊重されるべきものだし、それを前提に社会生活が成り立っている。人の命を奪うという行為は、平等性や秩序の維持といった社会の基本原則に反しており、「殺してはいけない」という命題は、功利主義的にも論理的に成立する。そして、映画の中で描かれる思想──社会価値のない存在は「心のない者」であり、自己表現ができない障害者は人間ではない、そんな存在を社会が支える必要はなく、むしろ強制排除すべきだという考え方──これはあまりにも幼稚で、議論の土台にも乗らない話だ。

もし監督が言うように「今の社会そのものが排除の論理を帯びている」のだとすれば、それに対してもっと強く、正面から跳ね返すようなメッセージが欲しかった。そうでなければ、単に不快な現実をなぞっただけの作品になってしまう。また、重症の入所者が排せつ物を部屋で塗りたくるような描写が、「施設の日常」として淡々と描かれているのも疑問だ。そもそも、閉じ込められているという社会的・人的な環境こそが問題なのに、それを問うこともなく、あたかも「これがリアル」だと言わんばかりに見せるのは、方向を誤っている。そしてなぜか、「誰もが年を取り、生産性を失っていく存在になる」という当たり前の視点が、すっぽり抜け落ちているのも不自然だ。率直に言えば、これは駄作というより、悪質な映画だと感じた。俳優陣の演技は力強かっただけに、そんな作品に出演させられた彼らがかわいそうだと思ってしまった。

特別支援の「調整額」2025年04月12日

特別支援の「調整額」
文部科学省は、障害のある児童・生徒を担当する教員に支給されている特別支援の「調整額」を、2027年から段階的に引き下げる方針を明らかにした。現在は月給の3%相当が支給されているが、2027年と2028年の2年にわたりそれぞれ0.75%ずつ削減し、最終的に1.5%とする予定だ。背景には、「通常学級で学ぶ障害児が増え、特別支援教員の“特殊性”が薄れた」との認識と、教員全体の給与引き上げに向けた財源の確保がある。一方、特別支援調整額とは別に、教員全体を対象とした「教職調整額」の引き上げも国会で審議中だ。これは2026年から段階的に10%まで引き上げる法案が検討されており、この分で特別支援教員の減額分は相殺される。とはいえ、他の教員に比べて増額幅は相対的に小さくなる。文科省は「結果的に手取りは増える」と説明する。

加えて、義務教育教員特別手当も2026年から、従来の1.5%から1.0%に引き下げられる予定だ。教員の給与を上げなければ人材確保が難しいという議論が進んでいたが、財務省の意向もあり、文科省は“痛み分け”のように少数派である特別支援教員の手当てを削ることで帳尻を合わせようとしている。すでに小中学校と特別支援学校の教員手当も、しれっと0.5%減らされようとしている。つまり、これまで特別支援学校や特別支援学級、通級指導教室の教員には、基本給に最大14%近い手当がついていたが、3年後には12%に下がる。一方で教職調整額が6%引き上げられて18%になるから、「差し引き4%増えてるでしょ、文句は言えないよね」という論理だ。そして、一般教員との差額、つまり「ご苦労さん料」は最終的に1.5%で我慢しろ、という話である。

だがその根拠とされた「通常学級で学ぶ障害児が増え、特別支援の特殊性が薄れた」という説明には大きな疑問が残る。およそ20年前まで、特別支援学級の対象は主に身体・知的障害のある子どもだった。だが次第に、知的な遅れのない発達障害のある子どもたち、特に行動面・対人関係・学習面で困難を抱える子どもたちが支援学級に受け入れられてきた。文科省は本来、こうした子どもへの対応は通常学級で行うべきだとしていたが、現実には都市部を中心に支援学級は増加の一途をたどっている。つまり支援学級の教員には、発達障害への対応スキルが新たに求められるようになってきたのだ。通常学級の担任や管理職が、学級運営が難しい子どもの保護者に「支援学級」を勧めてきた経緯もある。背景には、働き方改革の中でこれ以上担任の業務を増やせないという事情もあるだろう。文科省が「インクルーシブ教育」を唱えても、実際の現場ではむしろ逆行する「エクスクルーシブ化」が進んでいるのが実情だ。

数字を見ても明らかだ。過去10年で都市部の通常学級は少子化の影響で約1万4千学級(約18%)減少したが、特別支援学級は1000学級増え、約10%の増加となっている。このデータのどこを見て、「通常学級で学ぶ障害児が増えた」と言えるのか。通常学級にすでに在籍していた発達障害の子どもを、今になって「増えた」とカウントするのであれば、それは“統計マジック”によるごまかしでしかない。もちろん、担任する子どもの人数だけで見れば、通常学級の教員の方が4倍近い子どもを受け持っている分、業務負担が大きいのは確かだ。中には、通常学級でうまく対応できなかった教員が、特別支援に異動してきたケースもある。だが、大多数の特別支援教育担当者は、多様な学力・学習スタイルに対応し、子ども一人ひとりに合わせた教材と指導を提供している。子どもだけでなく保護者への対応も多く、精神的な負荷は計り知れない。これが1.5%、約5000円の「ご苦労さん料」で済む話だろうか。「通常学級で学ぶ障害児が増えた」なら全教職員に3%の手当てをするのが筋ではないか。

通信制高校約29万人2025年04月09日

通信制高校約29万人
令和6年度の通信制高校の生徒数は約29万人に達し、この10年間で約1.6倍に増加した。現在では高校生のおよそ10人に1人が通信制に在籍している。この背景には、コロナ禍を契機とした不登校の増加がある。近年では、角川ドワンゴ学園の「N高」など、多様なコースを提供する通信制高校が増加し、オンライン学習や個別指導といった新たな教育スタイルが広がっている。これにより、難関大学への進学実績やスポーツ分野での成果も注目されるようになった。文部科学省の統計によれば、令和5年度の不登校高校生は過去最多の6万8,770人に達しており、不登校の拡大とともに通信制高校の認知度も上昇している。一方、全日制高校の生徒数は減少傾向にあり、通信制高校の存在感はますます高まっている。通信制高校では、オンライン学習の活用により、生徒が自分のペースで学習を進められる柔軟性が評価されている。これにより、受験勉強やアルバイトなどとの両立も可能となり、多様なニーズに応える教育形態として注目を集めている。大学進学率については、通信制高校では21.2%と全日制に比べて依然として低いものの、近年は上昇傾向にある。なお、通信制高校は必ずしも不登校生の受け皿に限られたものではなく、多様な背景を持つ生徒が在籍している。ここで、中学校卒業生の進路全体を見てみると、年間約105万人の中学卒業生に対して、単純計算で生徒数は約315万人(3学年分)とされる。しかし、高校在籍者数は約290万人であり、約25万人が高校教育からこぼれ落ちている計算になる。

この25万人のうち、専門学校や特別支援学校などに進学した生徒も一部含まれると推定されるが、それでも進学しなかった生徒は約18万人、全体の6%程度に上る。この6%の子どもたちの進路実態はほとんど把握されておらず、今後の大きな課題である。また、中学校で不登校だった生徒のうち、高校進学後も安定した就労に至らないケースが多い。統計的推計によれば、高校進学から漏れた約6万人のうち5割、つまり3万人が就労に至らない可能性がある。これが毎年続けば、40年間で約120万人が就労できないまま過ごすことになる。これは、日本の40年後の就労人口約5300万人に対して約2%が恒常的に非就労者となる計算であり、3880万人に達する高齢者人口と合わせると、就労世代と非就労・高齢世代がほぼ近づいていくことを意味する。したがって、不登校の子どもたちに適切な後期中等教育(高校教育や職業教育)を保障することは、単なる教育福祉の問題にとどまらず、国全体の総生産額・総消費額、ひいては「国力」の維持に直結する重要課題である。授業料一律無償化は通信高校生も恩恵は被るが、教育機会からこぼれ落ちた子供には届かない。私学や通信制高校の増加は逆に言えば、公教育への失望が増えているとも言える。義務制の小中学校の段階や公立高校に向け、柔軟な教育機会の保障と進路保障ができるように、重点的に投資をすることが、今後の教育政策の要となるべきである。

寝屋川ショック2025年03月21日

寝屋川ショック
大阪府立高校では、伝統校で倍率が1倍を下回る定員割れが相次ぎ、「寝屋川ショック」として波紋が広がった。少子化の影響に加え、授業料無償化による私立高校人気や定員増が背景にある。特に、私立高校の進学実績重視の風潮が広がる中、公立高校が同様の競争に巻き込まれるのは適切ではない。生徒が部活動や学校行事などを通じて成長できる環境づくりが重要であり、各校が特色を打ち出すことが求められる。また、保護者や生徒も進学実績にとらわれず、学校生活全般を重視した進路選択を考える必要がある。一方、私立高校への進学には授業料以外の費用負担が大きく、公立高校の役割が再評価されるべきだ。教育行政も、公立高校が多様な学びを提供できるよう資源を適切に配分し、地域に根ざした教育の充実を図る必要がある。この論説は大阪公立大教授の西田芳正氏(教育社会学)のもので、納得のいくものだ。しかし、大阪府や維新の会は少子化により中堅公立校の定員割れが避けられないとして、今後3年間定員割れが続けば統廃合を検討し、私学とのバランスを図る方針を示している。一方、文理学科を持つ公立10校は今も人気が集中している。文理学科は文系と理系を分け隔てなく学ぶことを掲げているものの、実態は有名私学の特別進学コースと変わらない。進学率も私学の特進科と同等で、結果的に上位層の生徒をめぐる競争が成り立っている。

この構図は、学力の高い「上澄み」の生徒の奪い合いのために、公立校の統廃合があるように見える。私学無償化などの公費を投入しない限りは私学がどのような教育を提供しようといくら学費を取ろうと経営の自由である。一方、公立高校は有名大学進学だけでなく、幅広い生徒のニーズに応える責任がある。生徒数が減った分、指導者を充実させ、きめ細かな指導への投資を行うべきだ。また、低学力の生徒の中には、単なる怠学ではなく発達障害など学び方の違う生徒が含まれている。彼らの特性を理解し、適切な学習指導や職業指導を行うことは、公立高校が担うべき公益的な役割である。さらに、こうした生徒は小中学校で十分な支援を受けられなかったケースが多いため、公立高校がその不足を補う責任があると言える。

35年目のラブレター2025年03月20日

35年目のラブレター
久しぶりに、上映中に観客のすすり泣く声が聞こえた映画だった。今日は祝日ということもあり、そこそこの込み具合だった。戦時中に生まれ、十分な教育を受けられず文字の読み書きができない65歳の西畑保(鶴瓶、重岡大毅)は、貧しい家庭に育ち、生きづらさを抱えてきた。運命的に出会った皎子(原田知世、上白石萌音)と結婚するが、文字が読めないことを隠していた。半年後、事実が明らかになり別れを覚悟するが、皎子は「私があなたの手になる」と支え続けることを誓う。彼女への感謝を込めたラブレターを書きたいと願った保は、定年後に夜間中学に通い始め、学ぶ決意をする。『35年目のラブレター』は、西畑保が実際に体験した出来事に基づいている。西畑氏は2003年、住友信託銀行主催の「60歳のラブレター」に応募し、金賞を受賞した。そのエピソードはテレビ番組『ザ!世界仰天ニュース』でも取り上げられ、司会者の笑福亭鶴瓶が感銘を受ける。鶴瓶の弟子である笑福亭鉄瓶がこれを基に創作したノンフィクション落語『生きた先に』が披露され、その記事を目にした毎日新聞論説委員の小倉孝保が西畑夫妻に取材を開始。夫妻の深い絆や感謝の思いを描いた物語として2024年に執筆し映画化された。主人公は戦後の貧困から公教育を受けられず、読み書きができなかったというストーリーだ。映画では、夜間中学校での多様な人との学びの楽しさが描かれるが、主人公の学びの困難さには深く切り込んではいない。

主人公は「誰でもやればできる」という答辞を昼間・夜間中学校の合同卒業式で語るが、やや違和感を覚えた。この作品を監修する読み書き障害の専門家がいなかったのだろう。主人公はディスレクシアであると思われる。実話でも、主人公は7年かかって読み書きを獲得し、ラブレターを書き上げたとされるが、映画での文字の練習場面は、マスの中に何度も字を書き続けるドリル学習ばかりだ。もちろん40年前の教育界には、読み書き障害の知見や指導法がなく、「良い指導者」は根気強くドリル学習に付き合う教員だった。今なら、7年間もディスレクシア者に書字のドリル指導を繰り返す指導者はあり得ない。7年かかっても読み書きを獲得したことは事実なのだから、ケチをつけるなという意見もあるかもしれない。しかし、話が感動的であればあるほど、「感動ポルノ」という言葉が頭をよぎってしまう。とはいえ、原田知世の演技は美しかったし、結婚当時を演じた重岡大毅と上白石萌音も見事な演技を見せた。この手の作品では、関西アクセントが不自然だと作品そのものが台無しになるが、原田と上白石は関西アクセントをかなり練習したことがうかがえる。良い映画であったことは間違いない。

PECSフェイズ6が大事2025年03月09日

PECS 桜が咲いています
PECS研究会を開催した。京都でPECSの実践に積極的に取り組む南山城学園から、利用者の日常生活におけるPECSの活用状況について報告を受けた。PECSといえば、言語・コミュニケーション能力の弱い自閉症児が絵カードを用いて要求を伝える手段と理解されがちであり、おやつやおもちゃの要求に限られると思われている節がある。しかし、それは習得の入り口に過ぎない。PECS(絵カード交換コミュニケーション)は、1985年に考案された代替・拡大コミュニケーションシステムである。アメリカのデラウェア州自閉症プログラムにおいて、自閉症の未就学児に対して実践され、その後、世界中に広まり、年齢や認知・身体・コミュニケーションの障害を問わず、多くの人々に活用されている。PECSの手続きは、応用行動分析(ABA)の理論に基づいており、特定のプロンプトや強化方法を活用してコミュニケーションを指導する。また、学習を促進するための系統的なエラー修正手続きも含まれている。言語による促しを用いないため、自発的なコミュニケーションを促し、対人依存を防ぐことができる。PECSは6つのフェイズ(段階)で構成されている。フェイズIでは、対象者が欲しいものを得るために絵カードを交換する方法を学ぶ。フェイズIIでは、異なる環境や相手とのやり取りを通じてスキルを般化し、持続的なコミュニケーション能力を身につける。フェイズIIIでは、複数の絵カードの中から正しいものを選択し、フェイズIVでは、文カードを用いて「〇〇をください」といった簡単な文章を構成する。フェイズVでは、「何が欲しいのか」といった質問にPECSを用いて応答し、フェイズVIでは、「何が見えるか」などの質問に答え、コメントするスキルを習得する。PECSの目標は、機能的なコミュニケーション能力の向上である。研究においては、PECSを使用することで発語が促進される事例や、音声出力装置(SGD)への移行が見られることが報告されている。PECSはエビデンスベースの指導法であり、その効果を実証する研究は多数発表されている。

私がPECSに取り組み始めたのは、言葉を持たない自閉症児を担当していた約20年前のことである。それまでは、スケジュールの視覚化など、彼らが環境を理解するためのTEACCHプログラムに代表される構造化支援に携わっていた。しかし、コミュニケーションにおいて最もストレスを感じるのは、自分の思いが伝わらないときである。海外旅行をした際、「コーク」と注文してもコーヒーが出てきた場合、飲めるからいいかと諦め続けるうちに、次第に卑屈になってしまう。絵付きのメニューがあれば指さして注文でき、助かった経験がある人も多いのではないか。言葉を持たない障害者が暴れることが少なくないのは、思いが通じないからだと考えれば納得できる。また、「何が欲しいの?」と聞かれない限り要求が実現しない環境では、常に援助者の言動を気にしなければならず、依存的にならざるを得ない。結果として、指示されるまで行動しないことが生きる術となってしまう。しかし、コミュニケーションは要求ができればよいというものではない。私たちの日常会話のほとんどはコメントで満たされている。「梅が咲いたね」「今日は寒いね」「いい天気だね」といった何気ないやり取りこそが、対人関係を築く上で重要な役割を果たす。障害の重い人が同じレベルでコミュニケーションを取れるかは分からないが、PECSはフェイズVIまでのトレーニングを通じてコメントの表出を目指している。自分の発したコメントに「そうだね」「おもしろいね」「悲しいね」と返してもらうことで、人は安心し、絆を深めることができる。障害が重いからといってフェイズIVで止まらず、ぜひフェイズVIまで取り組んでほしいと思う。

DV聴取は脳ダメージが大2025年03月02日

言葉によるDV聴取の方が脳へのダメージが大
友田明美氏の講演会に参加した。友田氏はマルトリートメント(不適切な子育て)とその予防に取り組む医師で、熊本大学発達小児科から米マサチューセッツ州の病院を経て、ハーバード大学医学部精神科学教室の客員助教授を歴任。現在は福井大学医学部教授を務めている。NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」や「クローズアップ現代+」などのメディアにも多数取り上げられており、その業績は広く知られている。彼女の研究の特筆すべき点は、小児の脳画像技術を用いて虐待を受けた子どもの脳の変容を可視化し、そのエビデンスを日本に広めたことである。医学では因果関係の解明は当然の手法かもしれないが、原因と結果を明示することが、虐待の深刻さを社会に説得力をもって伝える大きな役割を果たしている。講演会場には約350人の保護者や関係者が詰めかけ、関心の高さがうかがえた。言葉による虐待(暴言虐待)は脳に深刻な影響を与える。暴言を受けた子どもの聴覚野の一部は平均14.1%増加し、暴言の程度が強いほど影響が大きくなる。また、言語理解に関わる弓状束の異常も発見された。これは暴言によって過剰なシナプス形成が進み、神経伝達の効率が低下する可能性を示している。一方で、過度の体罰も脳にダメージを与える。厳格な体罰を受けた人は右前頭前野内側部が19.1%、右前帯状回が16.9%、左前頭前野背外側部が14.5%減少し、これらの損傷はうつ病や素行障害のリスクを高めることが報告されている。

特に注目すべきは、夫婦間の不和による子どもの脳へのダメージだ。児童虐待防止法では、夫婦間のDV目撃は心理的虐待の一種と定義されている。DVを目撃した子どもは知能や語彙理解力に影響を受けやすく、11〜13歳の時期に悪影響が強まる。DVを平均4.1年間目撃した子どもは視覚野(舌状回)の容積が平均3.2%減少し、さらに言葉によるDVを聴取した場合は19.8%も減少していた。複数の虐待タイプが重なると影響は深刻化し、DV目撃と暴言聴取の組み合わせが最も重篤なトラウマ症状を引き起こすことが示されている。親の暴言やDV目撃は、身体的虐待以上に精神的ダメージを与える可能性があることから、非身体的虐待の深刻さをより重視すべきという話が印象的だった。もちろん脳は可塑性の高い臓器であり、治療は可能だが、幼少期のダメージは大きく、回復にも長い時間が必要である。自身を振り返れば、直接的な虐待も間接的な虐待も何度もやらかしてきたことに胸が痛くなる。特に暴言にさらされた経験は自分の幼少期の記憶にも強く残っている。科学の力で虐待の連鎖を断ち切る時代になったことに、勇気をもらった。

インクルーシブ高校2024年12月14日

インクルーシブ教育
奈良県立山辺高校の自立支援農業科は、障害のある生徒とない生徒が共に学ぶ「インクルーシブ教育」を実践しているという毎日新聞の記事。社会生活で役立つ言葉遣いや態度を学び、農業体験では協力や実践力を身につけることを目指している。学校は「障害」という言葉の冷たさに抵抗し、知的障害を持つ生徒を対象とした農業教育を通じて自立を支援する姿勢を貫いている。教師たちは、生徒の素直さや成長に触れ、教育の原点を再認識しており、特別支援学校の資格を新たに取得する教諭もいる。自立支援農業科の卒業生たちは、幅広い職場で実習を経験する一方で、農業を選ぶ者は少ない。奈良県内の小規模農家が多いことが背景にあるが、校長は農福連携を目指しながら、まずは生徒たちが社会で生き抜く力と自己肯定感を育むことを重視しているという。全国にこの種の高校の職業教育が拡がっていることは歓迎すべきだと思う。これまでの日本の教育は場所(学校種)につく支援で個(生徒)につく支援ではなかった。必要な支援を受けようとすると普通教育では行われていないからと特別な学校を紹介されてきた。その結果、都市部の特別支援学校の高等部が膨れ上がり、逆に人口減少地の公立高校や職業高校は定員を割り込む事態が続いてきた。さらに、高校授業料の無償化で私学志向が進み公立校は縮小の憂き目にあっている。こういう要素もあって障害のある人もない人も共に通学できる公立学校が拡がる土壌ができたとも言える。

これらの教育内容は特別支援学校の高等部で実践されてきている内容の焼き直しではある。都市部では需要の多いサービス業、特に小売りのバックヤード作業や清掃作業などを中心とした教育内容となっている。大事なことは働くことを通して思春期青年期の自己有能感をどう育てるかということだ。理解できぬ教科学習で長年劣等感に苛まれてきた生徒たちに「できる」という体験をどれだけ用意するかがこの教育の本質だ。また、それまでの学校生活で日常コミュニケーション機会の少なさから生じている社会生活スキルの育ちそびれにも手を当てる必要もある。就業スキルを教えることよりも対人関係スキルを育てることは難しいと言われてきた。彼らの離職の原因のほとんどは助けを求める事の難しさからだ。これには、そうした彼らの困り感に気づく社会全体の育ちも必要となる。子供時代はもちろん成人期も場所を分けずに「みな違う」ということを前提に助け合う文化の醸成が大事だともいえる。

サークル同窓会2024年11月10日

大学時代のサークル同窓会に行った。親同士の会議で子供の保育をするボランティアサークル活動は学生の自主的な活動として各地で展開されている。今では障害児保育など公的に親の時間が保障されることも多くはなってきたが、親も働いているので休日の会議となり、公的な子供の休日保育は多くはない。障害児の保育を将来の職業として志す学生はボランティアサークルに所属して実践ができるので福祉系の学生が参加している。自分は教師を目指していたが障害児教育を専攻していたのでこのサークルに所属した。とはいうものの大学には様々な活動があり、目移りしやすい自分はこのサークルにはあまり積極的には参加をしていなかった。案の定、紹介される写真ライブラリーには自分の姿は一つもなかった。知った顔は数人しかおらず、居心地は悪かったが同窓生の話を聞いているうちになんとなく温かい気持ちになった。

障害を持つ子供やその家族の問題に触れることによって将来の方向性を選択したという意見が多かった。まっすぐな感想を聞くたびに中途半端にしか参加していなかった自分が恥ずかしくなった。それでも、先輩と慕ってくれた後輩が何人かはいたが、先輩という言葉に余計にこそばゆくなっていた。大学のサークルなどに入る動機などは、人それぞれだし、そこに所属していた学生がどんな道を歩むかも色々だ。それでも、同窓を懐かしんで集う爺さん婆さんたちの意図は、若かりし頃の記憶を蘇らせ今はしょぼくれていても自分にも熱い日々があったことを確認するためなのかもしれない。

読み書きのバリアフリー2024年09月28日

読み書きバリアフリー
発達性読み書き障害の事例研に参加した。ひらがなを定着させる方略はあるが、読み書き障害の中核的な音韻障害、文字と文字を結びつける単語認識の向上についてエビデンスのある方略はない。「あ」「か」「い」を見て「赤い」と瞬時に認識するには、このひとつづつの音を結び付けて「あかい」と認識し、記憶の中から「赤い」を意味とともに引き出して認識する過程がある。これをチャンキングというが、この機能がうまくいかないのが音韻意識の弱さの本質だ。ひらがな一音づつが認識できてもこれを結びつけることが難しいのが発達性ディスレクシアの中心的な問題である。確かに一音一文字を合致させひらがな50音を覚えることが必要なのは間違いないが、ひらがなの一音一音を結び付けるためには単語をひと固まりとして認識する必要がある。音韻障害はここに大きな壁がある。

重篤な音韻障害がない限りは何とか読み書きできるようになる。しかし、文字のつながりを認識できない人には、これだけでは解決しない。単語を認識するには、文字の塊を単語として認識する必要があるが、ここに障害を抱えている人には次のステップはかなり大きい。エビデンスが証明されたトレーニングの実践もない。今のところは、単語が認識できない方には、読み書きにこだわらずに聞く喋るに特化した教育が求められる。読み書きはあきらめて他の方法で知識や思考を育てることが大事だ。機能的に歩けない人に回復の見通しのない歩行訓練をするより、バリアフリー環境を準備する方が社会参加の有効な手立てとなる。機能的に読み書きが難しい人に、読み書きの訓練を行うより、読み書きしなくても学習ができる環境を準備した方が才能を開発できる。重篤な音韻障害の事例に出会うたびに、読み書きのバリアフリー概念の普及を願うばかりだ。
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