枠外輸入米前年比96倍?2026年01月31日

枠外輸入米前年比96倍?
関税341円/kgが課される「枠外輸入米」が、前年比約96倍の9万6779トンに急増したという。輸入元の大半は米国(7万5638トン)で、台湾(7024トン)、ベトナム(4515トン)が続いた。高関税を支払ってでも海外から米を調達するという選択は、国内市場における「価格」と「実効供給」のバランスがすでに崩壊していることを意味する。これは単なる価格差の問題ではない。2023年度以降に進行した食用米の実質的不足と、在庫があるにもかかわらず価格が下がらない構造的高止まりが、臨界点を超えた結果である。

事の発端は2023年度(令和5年産)に遡る。猛暑による品質悪化で白未熟米が増加し、精米歩留まりが大きく低下した。生産量は670万トンと表面上は平年並みだったものの、歩留まりの悪化による実質的な供給減は約10万トンに及んだ。一方で需要は外食回復や在留外国人の増加も重なり685万トン前後に膨らみ、需給ギャップは約25万トンへと拡大した。

翌2024年度(令和6年産)も状況は改善しなかった。生産量は679万トンにとどまり、需要は農水省自身が後に上方修正したとおり711万トンに達した。2年間で累積した不足は約57万トンにのぼり、民間在庫は150万トンへと急減した。市場で自由に動かせる「フリー在庫」は歴史的な薄さとなり、スーパーからはコメが消えた。やっと店頭に並んだ米袋の価格に市民は目を疑った。それでも農水省は「コメはある」と強弁し、春先まで備蓄米の放出をためらい続けた。ようやく放出に踏み切ったものの、量も品質も限られ、銘柄米の不足を補うには到底及ばず、実効性は乏しかった。

2025年度(令和7年産)は718万トンと増産に転じ、数量上は需給がほぼ均衡した。しかし、前年度までの累積不足は解消されず、倉庫に積み上がった在庫の多くは「売約済み」として確保されたものだった。統計上の在庫が回復しても、一般市場に出回る流通量は極端に少ないままだったのである。市場はこの「実効供給の乏しさ」という需給ギャップを正確に認識し、価格に反映させた。その結果、標準米は5kgで3500円を超え、銘柄米は5000円台という異例の高値が定着した。

にもかかわらず、農水省やメディアは「在庫は余っている」とのアナウンスを繰り返している。彼らが根拠としたのは玄米ベースの総在庫であり、そこには加工用や動かすことのできない売約済み在庫がすべて含まれている。消費者が手にする主食用米の動態とは別物であり、現実の需給は依然として供給が不足だ。農水大臣は「価格形成は市場に任せる」と静観を決め込んだが、市場が需給ギャップを反映して高値を付けている以上、政府の「在庫は十分」という認識こそが誤りだったことになる。市場に委ねるならば、政府は自らの需給把握の誤りを認め、統計情報の不備を是正する責任がある。

混乱に拍車をかけたのが、鈴木農水大臣による「備蓄米が70万トン不足しているため買い上げる」という発言だ。市場が高値で喘ぐ局面において、政府が不足した備蓄枠を埋めるために買い増しを行えば、市場からさらに米が吸い上げられ、価格が下支えされるのは自明の理である。しかし政府は、この買い上げが価格を押し上げるリスクを隠し、国民には「不足を補うための善後策」という誤ったメッセージとして伝えた。この政治的パフォーマンスが、結果として価格下落を阻害する要因となったことは否定できない。

本来、2026年度(令和8年産)は需給緩和のため、さらなる増産と流通の柔軟化が現実的な選択肢となるべき年だった。石破政権では増産を指示したが、続く高市政権では「農家所得の安定」を優先し、高値維持を容認する姿勢が強まった。結果、市場は安全弁を欠いたまま硬直化し、高関税を払ってでも輸入米を仕入れる方が合理的となる異常事態を招いている。米価高騰はもはや天候の問題ではない。需給の実態を見誤り、誤った情報を発信し続けた政策判断の連鎖が、日本の米市場を歪めている。

結局、輸入米急増の本質は「国内産のコメが足りない」という一点に尽きる。総選挙のさなか、語られるべきは目先の米価だけではなく、農水省の統計の欠陥そのものである。総在庫という「数字上の安心」を優先し、実効供給量という「市場の真実」を無視し続けた行政の責任を明らかにすべきだ。農水大臣が「市場に任せる」と言い切るならば、まず自らの需給認識の誤りを正す必要がある。正しい現状認識が共有されなければ、米不足と高騰という「政治が生んだ人災」は終わらない。

日本の食料安全保障を守るためには、統計の死角を取り除き、市場の実態を正確に反映する情報へと改めることが不可欠である。しかし、農政の構造問題を批判する議員はいても、統計処理そのものの誤りを正面から指摘する議員はほとんどいないので問題を長引かせている。現場の実態に即した政策判断が行われるよう、政治の側にも抜本的な姿勢転換を求めたい。

2015年日銀議事録公開2026年01月30日

2015年日銀議事録公開
日銀が公開した2015年後半の金融政策決定会合の議事録は、単なる歴史資料ではない。それは、日本経済がなぜ30年以上も停滞から抜け出せなかったのか、その根源的な誤解を暴き出す「国家の自己告発文書」である。黒田東彦総裁のもとで始まった「異次元緩和」は、日本経済史における例外的な試みだった。市場に前例のない規模で資金を供給し、期待を塗り替え、2年で2%の物価上昇を実現する――それはデフレ体制を打破するための賭けだった。しかし2015年当時、消費税増税の余波と原油価格の急落が重なり、物価は再び沈んでいた。議事録には、日銀内部に広がる不安が生々しく刻まれている。「このまま進んでよいのか」「出口は見えているのか」。委員たちの意見は割れていた。

だが世間が見た「日銀の暴走」という構図は、本質を外している。問題は金融政策の過剰ではない。日本経済を縛ってきたのは、政府、とりわけ財務省が長年にわたり踏み続けてきた「緊縮という思想」だった。1990年代後半以降、日本の政策ミックスは異様な形を取った。本来、不況下では政府が財政拡張によって需要を支え、中央銀行が金融緩和で資金循環を促す。これは世界の標準的な政策運営である。ところが日本では、「財政規律」という理念が絶対化され、不況下で消費税を引き上げ、社会保障負担を拡大し、歳出を抑制する政策が繰り返された。

その結果、日本の名目GDPは1997年の約523兆円から長期にわたり停滞し、2020年代初頭までほぼ横ばいにとどまった。一方、米国は同期間に名目GDPを3倍以上に拡大し、ユーロ圏も2倍近く成長した。これは単なる景気循環の差ではなく、政策思想の差である。緊縮政策の影響は税収にも表れた。日本の税収は1990年代後半から長期にわたり伸び悩み、消費税率引き上げにもかかわらず、名目税収の増加は限定的だった。つまり、日本は「財政健全化」を掲げながら、結果として税収基盤そのものを弱体化させた。

一方、日銀もまた長らく「デフレは金融政策の問題ではなく、構造問題だ」として責任を回避し、積極的な緩和をためらってきた。政府は景気を冷やし、日銀は支えない。この「緊縮財政と消極金融」の組み合わせこそ、日本経済を長期停滞に閉じ込めた核心だ。黒田総裁の異次元緩和とは、この体制を金融政策の側面から破壊するための異例の決断だった。日銀が「何でもやる」という姿勢を示さなければ、日本社会を覆う閉塞感は打破できない――その認識が、異次元緩和の出発点だった。

もし日銀が従来の慎重姿勢を維持していたらどうなっていたか。デフレは固定化し、円高は日本の製造業をさらに圧迫し、名目GDPは縮小を続け、税収は枯渇しただろう。財務省が守ろうとした「財政健全化」も、不況の深化によって逆説的に崩壊していたに違いない。つまり、「失われた30年」は「失われた40年、50年」へと延長されていただけだった。重要なのは、緊縮政策が単なる官僚の暴走ではないという事実である。財務省の論理は、政治家と有権者が選び続けてきた結果でもある。「国の借金は悪」という直感的な恐怖が、緊縮を正義に変え、拡張を罪にした。この認識こそ、日本経済を縛る最も強固な鎖だった。

しかし現在、日本は再び同じ分岐点に立っている。インフレが現実のものとなった今、「財政再建のための増税」「金融正常化のための利上げ」という言葉が、再び正論として語られ始めている。だが、問うべきは単純な財政規律ではない。日本経済がようやく回復の兆しを見せ始めたこの局面で、再び需要を冷やす選択をするのかという国家の意思である。2015年の議事録は、過去の記録ではない。それは、日本が再び踏み出そうとしている未来の設計図である。日本経済の病根は、緩和が過剰だったことにあるのではない。極端な緩和を必要とするほど歪んだ政策環境を、自ら作り出してきた「国家の思想」にこそある。

問われているのは、日銀の手法ではない。緊縮という思想に、どのような終止符を打つのかという覚悟である。この問いから逃げる限り、日本経済は再び自らの足を引っ張り、ようやく見え始めた復活の兆しを、自らの手で摘み取ることになるだろう。

名張毒ぶどう酒事件再審開始2026年01月29日

名張毒ぶどう酒事件再審開始
名張毒ぶどう酒事件で、裁判所がようやく再審開始を認めたという報は、日本の刑事司法が抱える深い構造的欠陥を改めて突きつけた。半世紀以上にわたり冤罪の疑いが指摘され続けた事件が、被告本人の死後になってようやく再審に進むという事実は、「司法の進歩」ではなく、むしろ制度の硬直と無謬性への執着が生んだ悲劇の証左である。

1961年、三重県名張市で起きた毒ぶどう酒事件は、決定的な物証を欠いたまま、状況証拠と自白に依拠して1964年に津地裁が死刑判決を下した。しかし1968年、名古屋高裁は「合理的疑い」を認めて逆転無罪を言い渡す。本来ならここで物語は終わるはずだった。だが1972年、最高裁は無罪判決を破棄し差し戻し、1975年の差戻し審で再び死刑判決が下された。三審制は冤罪を防ぐ防波堤ではなく、一度下された有罪判断を維持する方向へと制度そのものが傾き、誤りを生み続ける“仕組み”へと変質していた。

再審請求の過程では、検察が握る証拠の開示が極端に制限され、「確定判決を覆すほど明白な証拠ではない」という定型句が繰り返された。冤罪の疑念があっても足りず、被告側が誤判を“完全に証明”しなければならないという倒錯した構造が続いた。しかも、その証明に不可欠な証拠を握るのは、有罪維持を組織的利益とする検察自身である。これは制度ではなく、自己正当化を優先する権力構造の産物である。

では、なぜこの構造が半世紀以上も放置されたのか。その背景には、日本の議会が司法制度改革に踏み込めない歴史的構造がある。戦後、「司法の独立」が過度に聖域化され、最高裁は下級裁判所の人事権を握る巨大組織となり、法務省(=検察)は起訴独占と証拠管理を通じて強大な権限を持った。議員は専門性の高さから司法制度に踏み込みにくく、国民審査は形骸化し、国民の怒りが制度に届くルートが存在しない。結果として、国会は“肝心な領域ほど手を出せない”構造に閉じ込められた。

この閉塞を破るには、法務省の運用改善では不十分である。司法行政を省益から切り離し、国家レベルで再設計するためには、内閣府のガバナンスが不可欠となる。第一に、証拠開示の完全義務化を法的に定め、検察が不利な証拠を秘匿できる余地を制度的に排除すること。第二に、英国のCCRCに倣った独立再審審査委員会を内閣府の下に設置し、裁判所と検察から独立した第三者が科学的・客観的に再審の可否を判断する仕組みを整えること。第三に、最高裁の事件選別や判断過程の透明化を義務づけ、重大事件については説明責任を果たす制度を構築すること。第四に、司法行政を国会と内閣府が監視する仕組みを整え、法務省の閉鎖性を打破することが必要だ。

冤罪は偶然の悲劇ではない。組織が誤りを認めない限り、必ず生まれる制度の副産物だ。名張事件は、いま選挙のただ中にある私たちに突きつけている。司法は真実を救うために存在するのか。それとも、組織の面子を守るために存在するのか。この国の司法が抱える構造的な歪みは、まさに今、投票によって問われているはずだ。だが現実には、冤罪を防ぐ改革は票にならず、候補者の多くは沈黙を選ぶ。市民の人生より組織の無謬神話を優先する国家を、このまま続けてよいのか。選挙が行われている今、その問いから逃げてはならない。

プルデンシャル生命の不正事件2026年01月28日

プルデンシャル生命の不正事件
外資系生命保険の至宝と目されたブランドが、足元から静かに腐り落ちていた。プルデンシャル生命の営業職員ら100人超が、顧客から約31億円もの現金を不正に受け取っていた事件である。未返還額は約23億円、被害者は500人に及ぶ。1月23日の記者会見で頭を下げた経営陣は第三者委員会の設置と全額補償を約束したが、問われるべきは金銭的解決ではない。なぜ、合理主義の権化であるはずの外資系金融機関において、これほど前代未聞の「集団的逸脱」が長期間放置されたのか。その一点である。

世に溢れるメディアの論調は、相も変わらず「成果主義の弊害」という手垢のついた物語に終始している。過酷なノルマが職員を追い詰め、不正に走らせたという筋書きだ。しかし、この解釈はあまりに短絡的で、本質を見誤っている。成果主義やインセンティブ制度は、外資系生保であれば標準的な装備であり、同様の環境下で健全に機能している組織は無数に存在する。制度そのものが原因ならば、なぜ同社においてのみ、100人規模の「不正の連鎖」が常態化したのか。答えは明白だ。真犯人は外資的な成果主義ではなく、むしろその対極にある「過剰に日本的な人間関係」だ。

プルデンシャル生命の日本支社に深く根付いていたのは、ドライな契約社会の論理ではなく、ウェットな共同体意識だった。同社の営業職員はしばしば顧客と家族ぐるみの深い親交を結び、人生の伴走者であることを標榜する。この「顧客密着」こそが同社の強みの源泉であったはずだが、同時にそれが猛毒へと転じた。 欧米の金融機関であれば、顧客と営業の間に厳格な「物理的・心理的距離」が存在する。金銭の授受はシステムを介してのみ行われ、個人の介在する余地は制度的に抹消されている。しかし日本では、信頼の証として現金を手渡す、あるいは保険の枠を超えた「儲け話」に耳を貸すといった、前近代的な密着営業が「美徳」として許容されてきた。外資系という洗練された皮をかぶりながら、その実態は「情」に依存した日本的な村社会の営業スタイルだった。

さらに組織内部を蝕んでいたのは、日本企業特有の「沈黙の同調圧力」である。100人が関与し、500人が被害に遭うほどの規模の不正が、周囲に全く気づかれずに行われるはずがない。同僚や上司、あるいはコンプライアンス部門のどこかで、必ず兆候は察知されていたはずだ。それでもブレーキがかからなかったのは、組織全体が「波風を立てない」「成功しているスタープレーヤーに異を唱えない」という、日本的組織の典型的な病理に支配されていたからに他ならない。

では、なぜ長年温存されてきた膿が「今」になって噴出したのか。それは、かつての「日本的信頼関係」という牧歌的な幻想が、デジタル化と透明性を求める現代社会の力学に耐えきれなくなったからである。SNSやネットを通じた情報の非対称性の解消は、密室内で行われていた「特別な投資話」の化けの皮を剥ぎ取った。古き良き(あるいは悪しき)日本的密着営業が、もはやシステムとしてのガバナンスと共存できない段階に達したのである。

今回の事件は、単なる一企業の不祥事ではない。外資系という最強のガバナンスを導入したはずの組織でさえ、日本市場の土着的な文化に適応する過程で、その合理性を去勢され、腐敗に飲み込まれるという事実を突きつけている。 我々が直視すべきは、成果主義という分かりやすい悪役ではない。信頼という言葉を免罪符にして、個人の逸脱を組織が黙認し続ける日本社会そのものの構造的欠陥である。プルデンシャル生命の崩壊は、日本型ビジネスモデルの限界を映し出す不都合な鏡なのである。

保守王国福井の臨界点2026年01月27日

保守王国福井の臨界点
福井県政は、静かに、しかし決定的に、ひとつの時代を終えた。前知事のセクハラ辞職という前代未聞の不祥事を受けた知事選。その結果は、35歳の無所属新人・石田嵩人氏の初当選だった。得票数13万4620票(48.0%)。対する自民党本部と県議会主流派が擁立した元越前市長・山田賢一氏は13万0290票(46.4%)。その差、わずか4330票。この数字を「僅差」と片付けるのは、あまりに鈍感だ。むしろ4330票という差こそが、福井の保守政治がすでに“不可逆的な臨界点”を越えていたことを示す証拠にほかならない。

投票率46.29%。県政への不信と政治的無関心が同時進行する中で、勝敗を分けたのは政策でも理念でもなかった。露わになったのは、自民党という巨大組織の「内側からの崩壊」である。今回の知事選は、事実上の保守分裂選挙だった。県議会最大会派が山田氏を担ぐ一方、福井市議団は「調整不足」を理由に離反し、石田氏支持へと雪崩を打った。さらに異例だったのは、県連会長である山崎正昭参院議員までが石田氏側に回ったことだ。

県議会、市議会、県連、そして党本部。本来なら鉄壁の結束を誇るはずの「自民党の中枢」が、三方向に引き裂かれた。もし自民党が組織として正常に機能していれば、この選挙結果は容易に逆転していただろう。逆に言えば、組織の自己崩壊という“敵失”なしに、35歳の新人が知事の椅子に座る余地はほとんどなかった。

石田氏は、その亀裂を正確に見抜いた。外務省出身という経歴を「中央官僚」ではなく、「旧弊を打破する外部の視点」と再定義し、SNSを武器に無党派層を動員。終盤には参政党が支援に加わり、保守票の分散は決定的となった。

だが、この選挙で最も象徴的だったのは、勝者でも敗者でもない。沈黙を選んだ政治家の存在である。福井1区を地盤とする稲田朋美衆院議員。県議、市議、県連が激突する分裂劇の中で、稲田氏は事実上の静観を貫いた。どちらかに肩入れすれば、地元組織との致命的な衝突を招く。政治家としての損得勘定としては、合理的な選択だったのかもしれない。しかし、有権者の審判は冷酷だ。

国政でハラスメント撲滅や女性の権利を声高に訴えてきた“横綱級”の政治家が、セクハラ辞職という郷土の危機に際し、土俵に上がることなく沈黙を守った。この「言葉と行動の乖離」は、支持者の心に決定的な不信を刻んだ。事実、稲田氏の集票力は明確に衰えている。2021年に約15万票を記録した得票は、直近の衆院選で10万票へと激減した。かつて「自民党の絶対聖域」と呼ばれた福井1区は、すでに激戦区へと変貌している。

保守層の一部は参政党などの新興勢力へ流出し、政治的重心は静かに移動している。これは一過性の現象ではない。保守の内部で、価値観と忠誠の軸が分裂し始めているのだ。強い政治家ほど、危機の瞬間に立場を明確にする。横綱が土俵際で踏ん張ることを恐れれば、観衆はその「弱さ」を見抜く。勝てる局面で沈黙を選ぶ政治家は、有権者の目には、すでに敗者として映る。

4330票という僅差。それは偶然ではない。保守政治が「組織の力」だけで勝利を独占できた時代の終焉を告げる、臨界点の数字である。福井で起きた出来事は、決して地方の特殊例ではない。むしろ、これから全国の保守王国で連鎖するであろう「組織解体」の先行モデルだ。政治家にとって、沈黙は中立を意味しない。沈黙とは、変化する時代に対する敗北宣言である。そして4330票は、その宣告書だった。

WHO離脱と情報の民主化2026年01月26日

WHO離脱
米国が世界保健機関(WHO)からの脱退手続き完了を公表し、WHO側が「米国と世界をより危険にさらす」と強い遺憾を表明した――。2020年、当時のトランプ政権による「中国寄り」や「対応の失敗」という痛烈な批判に端を発したこの応酬は、今なお国際社会に深い爪痕を残している。しかし、この衝突を単なる一政権による政治的レトリックや、一時的な外交的確執として片付けるのはあまりに近視眼的だ。この対立の本質は、特定の指導者の気まぐれでも、国家間の感情的な相克でもない。それは、第二次世界大戦後に構築された「主権国家の善意と自制」に依存しきった国際保健ガバナンスそのものが抱える、逃れようのない構造的な破綻である。

感染症対策の成否は、一に「初動情報の速度」、二に「その正確性」にかかっている。しかし、現行の国際保健規則(IHR)という枠組みにおいて、WHOは驚くほど無力な存在だ。WHOには、加盟国に対して独自調査を強制する権限も、情報の隠蔽や虚偽報告に対する制裁手段も与えられていない。ただ加盟国からの自発的な報告を「待つ」ことしかできないのが実情である。2020年の事態において、中国政府が情報を制限した際、WHOはそれを検証する手段を持たなかった。中国を強く批判すれば、現場へのアクセスやサンプル提供という生命線とも言える協力関係が途絶える。結果として、WHOは「外交的配慮」という名の曖昧な言葉を選び続け、危機の深刻さを世界に伝える貴重な時間を浪費した。この制度的制約こそが、本来問われるべき初期対応の過失を霧散させ、代わりに「米国の政治的暴走」という矮小化された議論へとすり替えさせたのである。

冷静に見れば、米国の批判には無視できない合理性が含まれている。戦後の国際協調システムは、権威主義国家に対しても「ルールを守らないまま国際社会に参加できる余地」を与え続けてきた。自由民主主義諸国が透明性を重んじてルールを遵守する一方で、一部の国家が情報を隠蔽しながら国際組織の権威を利用するという、極めて不公平な「タダ乗り」を止める仕組みを、我々は持たぬまま今日に至っている。米国の離脱は、こうしたシステムの限界を露呈させた警告灯であった。米国が秩序を破壊したのではない。すでに壊れていた国際秩序の空洞化を、無視できないほど明るい光で照らし出したに過ぎないのだ。

だが、この機能不全の裏側で、すでに新たな秩序の兆しは現れている。象徴的なのは台湾の事例だ。WHOから不当に排除されていた台湾は、皮肉にもその「孤立」ゆえにWHOの情報に依存せず、衛星画像、SNSのトレンド、独自の情報網を駆使して武漢の異変をいち早く察知した。そして、世界に先駆けて国境封鎖とマスクの増産体制を構築し、被害を最小限に食い止めたのである。これは、国家による「情報の独占」が崩壊しつつあることを示している。現代では、民間研究者のデータ解析やデジタル技術によるオープン・ソース・インテリジェンスが、権威主義国家の隠蔽工作を無効化し始めている。もはや、情報の透明性を確保できない国は、国際組織の権威を隠れ蓑にすることすら困難な時代に入っている。

今、我々に問われているのは、米国かWHOかという二項対立ではない。「主権国家の善意」という砂上の楼閣の上に築かれた、20世紀型の空洞化した国際秩序を、いかにして実効性のある、あるいは「分散型」の監視ネットワークへと再構築するかという問いである。具体的には、G7やクアッド(Quad)のような価値観を共有する有志国連合によるデータシェアリング・プラットフォームの構築や、AIを用いたリアルタイムの監視システムの導入など、もはや一つの国際機関の「権威」に頼らない多層的な防御網が必要とされている。もし、この構造的欠陥から目を背け、形骸化した「国際協調」の看板にしがみつき続けるならば、次のパンデミックは、今回よりもはるかに残酷な、そして取り返しのつかない代償を人類に払わせることになるだろう。我々は今、黄昏ゆく古い秩序の先に、新たな連帯の形を模索しなければならない。

食料品消費税0政策の比較2026年01月25日

食料品消費税0政策の比較
読売新聞のインタビューで、高市首相は食料品の消費税率ゼロについて「2年間の時限措置であれば、特例公債に頼らず実施可能」との認識を示した。給付付き税額控除の導入までの経過措置と位置づけ、減税を恒久政策ではなく制度移行の一段階として設計する考えを明らかにした。永田町で繰り広げられる減税論争は、理念の対立というより、政策の成熟度を測る試金石である。高市政権の構想と中道改革連合の政策を並べれば、その差は思想ではなく、準備の深さにあることが見えてくる。

高市構想の特徴は、減税の出口を最初から設計に組み込んでいる点にある。食料品の消費税ゼロは、給付付き税額控除という恒久制度への橋渡しにすぎない。減税は目的ではなく手段であり、制度移行のプロセスとして位置づけられている。この発想は、日本の政治ではむしろ例外的だ。財源論は、より具体的である。食料品にかかる消費税収は年間約5兆円とされる。ゼロ税率を2年間実施すれば、必要財源は単純計算で約10兆円に達する。高市氏が挙げる財源は、税外収入、租税特別措置の見直し、補助金の整理などだが、現実的に積み上げられる規模は年間2〜3兆円程度にとどまると見られる。残る不足分をどう埋めるかが最大の焦点となる。

ここで、高市構想の現実主義が浮かび上がる。租税特別措置や補助金は、これまで「削れない制度」として温存されてきた。しかし、高市案は減税を契機にこれらを見直す方向へと動かすしたたかな意図も含んでいると考えられる。さらに、不足分を税収の自然増で補うという見立ても、単なる願望ではない。来年度のGDP成長率については複数の機関が予測を示しており、名目成長の継続は既に既定路線に近い。景気拡大に伴う税収増を前提に置く発想は、政治的な楽観論というより、マクロ経済の延長線上にある合理的な計算に近い。

これに対し、中道改革連合が掲げる政府系ファンド構想は、設計の甘さを象徴している。外為特別会計は為替安定を目的とする制度であり、株式市場を操作する仕組みではない。しかし、その運用益が国庫に納付され、国債償還に使われているのは事実だ。外為特会は米国債運用を中心に、年3〜5%程度の比較的安定した利回りを確保してきた。これに対し、政府系ファンドが期待できる超過収益は0.5〜1%程度にすぎず、しかも価格変動リスクを伴う。確実に得られる収益を手放し、不確実なリスクを取る政策が、本当に必要なのかという問いは避けられない。

このファンド構想に限らず、中道改革連合の政策全体は、理念は立派でも制度設計が粗い。減税の期限、代替制度への移行条件、財源の優先順位――いずれも明確ではなく、「生活支援」という言葉だけが先行する。数字の裏付けを欠いた政策は、どうしてもスローガンに近づく。

減税は一度始めればやめられない、という批判もある。しかし、その論理を突き詰めれば、あらゆる政策は実行不能になる。給付付き税額控除の完成を終了条件とするなら、減税は制度として終わらせることができる。問題は政治的意思ではなく、設計の精度である。

結局のところ、今回の論争の本質は減税の是非ではない。政策をどこまで技術として構築できているか、その差である。高市構想は、減税をスローガンではなく制度として扱おうとする姿勢を示した。一方、中道改革連合の政策は、理念の正しさに比して、設計の緻密さが決定的に不足している。政治に必要なのは正しさだけではない。用意周到な政策設計である。減税論争が露わにしたのは、その冷酷な現実だった。

中道連合の増税なき減税政策2026年01月23日

中道連合の増税なき減税政策
「増税なき減税」という甘美な言葉ほど、日本政治を堕落させてきたスローガンはない。その最新版が、立憲民主党と公明党が掲げる新党「中道改革連合」の政策である。食料品の消費税を恒久的にゼロにし、その財源として外貨準備を原資とする政府系ファンド(SWF)を創設し、運用益を充てる——。中道を名乗りながら、その発想は財政の常識から最も遠い。

まず押さえるべきは、日本の外貨準備と外為特会の関係である。外貨準備は主に米国債などで運用され、その利回りは近年3〜5%程度に達している。そして、その運用益はすでに外為特会の収入として計上され、国債償還などに充てられてきた。つまり、米国債の利回りは「余っている財源」ではなく、既存の財政構造の中に組み込まれている。

ここに新たな政府系ファンドを設けたとしても、魔法のように財源が増えるわけではない。ファンドが生み出せるのは、既存の外為特会運用を上回る「超過収益」にすぎない。仮に外貨準備の半分、90兆円をファンドに移し、より積極的な運用を行ったとしても、外為特会の従来収益に対する上積みは、年率でせいぜい1%程度にとどまる。

数字に置き換えれば明白だ。90兆円の1%は9000億円である。一方、食料品の消費税収は年間4〜5兆円規模に達する。必要財源との差は歴然としている。中道改革連合の構想は、計算式の段階で成立していない。

それでもこの政策が掲げられた理由は明白だ。選挙で最も響くのは「痛みのない減税」だからである。しかし、その裏側には財政原理への明確な背信がある。外貨準備とは、為替市場が動揺した際に即座に投入するための国家の最後の防衛線だ。実際、日本は2022年の急激な円安局面で約9兆円の為替介入を行った。危機時には単年で10兆円規模の資金が必要になることも珍しくない。その非常用資金を恒久減税の財源に転用する発想は、財政運営として禁じ手に等しい。

さらに問題なのは、国債との関係である。外貨準備の運用益を減税に回すということは、国債償還に充てる資金を減らすことを意味する。不足分は新たな国債発行で補われる。構造的には「借金で減税する」という倒錯だ。財政規律を語りながら、実態は財政拡張に依存する——これが中道改革連合の政策の本質である。

市場は冷酷だ。外貨準備の価値は「いつでも介入できる」という信認に支えられている。政治目的で拘束されれば、市場はそれを「使えない資金」と判断する。円安が進めば輸入物価は跳ね上がる。円安が10%進めば輸入物価は7〜8%押し上げられる。食料自給率が38%にとどまる日本では、食料品価格の上昇によって減税効果は相殺される。減税のために減税効果を破壊する——中道改革連合の構想は、この自己矛盾を内包している。

国際的に見ても、この発想は孤立している。ノルウェーやシンガポールのSWFでさえ、運用益は財政安定化や将来世代のために使われ、恒久減税には用いられない。外貨準備を政治目的で動員した国は例外なく通貨危機を経験してきた。外貨準備の政治化は通貨の信認を破壊する。これは理論ではなく、歴史の教訓である。

それでも、この政策は選挙で喝采を浴びるかもしれない。しかし、論理の破綻を理解した上で掲げているなら、それは国民を愚弄する行為だ。逆に、本気で実現可能だと信じているなら、財政・金融・為替の基礎理解が欠落している。どちらに転んでも、政党としての政策能力に重大な疑問が残る。

国家財政の王道は奇策ではない。生産性を高め、成長によって税収の自然増を実現することである。外貨準備の超過収益をつまみ食いする政策は、短期的な政治メッセージにはなっても、持続可能な制度設計とは言えない。中道改革連合の消費税ゼロ構想は、改革ではなく財政ポピュリズムの完成形に近い。危険なのは減税そのものではない。減税の名を借りて国家の金融インフラを切り崩そうとする発想そのものにこそ、深刻な問題がある。

NHK「ビットコイン悪玉論」2026年01月23日

NHK「ビットコイン悪玉論」
「やはりビットコインは危険だ」――。NHKスペシャル『File.11 消えた470億円 ビットコイン巨額窃盗事件』を見終えた視聴者の多くが、そうした“予定調和の感想”にたどり着いたとすれば、それは偶然ではない。番組は、そこに至るために周到に設計されていた。2014年、世界最大級の暗号資産取引所マウントゴックスを襲った巨額流出事件。元社長の独白、各国捜査当局の証言、ハッカーの影――素材は一級品であり、編集も巧みだ。国家レベルの陰謀論めいた示唆まで織り交ぜ、ドキュメンタリーとしての“見応え”は確かにあった。だが、その完成度の高さこそが、今回の問題の本質を覆い隠している。

番組が巧妙に避けたのは、ただ一つの「前提」だ。そもそも、ビットコインとは何なのか。2009年に誕生したビットコインは、国家や中央銀行といった強大な管理主体を持たず、数学と暗号技術によって価値の移転を成立させる仕組みとして設計された。ブロックチェーンと呼ばれる分散型台帳により、特定の管理者がいなくとも取引履歴は共有され、改ざんは事実上不可能となる。恣意的な通貨増刷もできない。貨幣の歴史を俯瞰すれば、これは単なる新金融商品ではない。既存の通貨システムに対する、静かだが根源的な挑戦だった。

しかしNスペは、この肝心な技術的背景をほぼ語らない。基礎知識を与えないまま事件だけを見せる。その結果、視聴者の頭の中では、「巨額窃盗」→「ビットコイン」→「危険」という短絡的な連想が、何の抵抗もなく完成する。公共放送が犯した最大の罪は、誤解を生んだことではない。誤解が生まれるよう、前提説明を意図的に放棄した不作為にある。

マウントゴックス事件の実態は、すでに明らかになっている。失われた470億円相当の資産は、ビットコインの仕組みそのものが破られた結果ではない。取引所という“集積点”が管理していた秘密鍵――すなわち資産へのアクセス権――の管理が、致命的なまでに杜撰だったのだ。堅牢な金庫が破られたのではない。警備員が裏口の鍵を放置していただけの話である。その間も、ビットコインのネットワーク自体は一度も止まっていない。事件の最中も、今この瞬間も、淡々とブロックを刻み続けている。だが番組は、「技術の安全性」と「運用の失敗」という決定的な違いを意図的に曖昧にした。結果、視聴者の手元に残ったのは、「暗号資産=得体が知れない危険なもの」という、十年前から何一つ更新されていない恐怖心だけだった。

さらに罪深いのは、暗号資産を犯罪の象徴として描く、その執拗な演出である。ブロックチェーン分析企業のデータによれば、暗号資産取引全体に占める犯罪利用の割合は、近年では1%未満に過ぎない。テロ資金供与やマネーロンダリングの主役は、依然として圧倒的に現金だ。世界で年間数十兆円から数百兆円規模とされるマネロンの大半は、既存の銀行システムと紙幣を介して行われている。だが現金は「日常」に溶け込み、暗号資産だけが“新参者の悪役”として強調される。公共放送がこの歪んだ構図を無批判に再生産することは、果たして「公平」と言えるのか。

現在の暗号資産を取り巻く環境は、マウントゴックス事件当時とは別世界だ。コールドウォレットの常態化、法規制と監査体制の整備、さらにはビットコインETFの上場によって、世界最大の資産運用会社や国家までもが保有を検討する段階に入っている。かつての“怪しい新技術”は、すでに既存金融の内部に組み込まれつつある。

NHKが果たすべき役割は、恐怖を煽ることではない。なぜ世界がこの技術に注目し、どこに本当のリスクがあり、何が革新なのか。その材料を提示し、視聴者が自ら判断できる環境を整えることだ。過去の失敗談だけを切り取り、「危険だ」と叫ぶ。それは報道ではなく、思考停止の押し売りに近い。公共放送がこの姿勢を改めない限り、日本はいつまでも「十年前の亡霊」に怯え続け、技術と金融の進化から取り残されることになるだろう。問われているのは、ビットコインの是非ではない。公共放送が、事実を多角的に伝える意思があるのかという問いだ。

BRAVIAよ、お前もか2026年01月22日

BRAVIAよ、お前もか
ルンバの中華製移転を嘆いていたら、今度は愛用してきたBRAVIAまでが中国資本の軍門に下ったという報道が飛び込んできた。先日、ソニーがテレビ事業「BRAVIA」を中国TCLとの合弁会社へ移管すると発表したのだ。出資比率はTCL51%、ソニー49%。製品には引き続き「ソニー」「BRAVIA」の名が残るというが、長年ソニーのテレビを買い続けてきた身としては、「BRAVIAよ、お前もか」と呟かずにはいられない。思えばソニーのテレビは、日本の映像技術の象徴だった。小学生の頃に家にあったトリニトロン管、ウォークマンや小型テレビで培われた技術、そして近年ではプレイステーションと連動した映像表現。BRAVIAは単なる家電ではなく、「ソニー=日本の誇り」を体現する存在だった。その看板が、中国メーカーとの合弁という形で存続する。感情的な喪失感が先に立つのは無理もない。

だが、現実はさらに冷酷だ。世界の薄型テレビ市場で、ソニーのシェアは2005年の約9%から2024年には2%台へと縮小した。一方でTCLは10%を超える世界有数のメーカーに成長している。勝敗を分けたのは技術力ではない。量産規模と調達力、そして赤字を恐れずに投資を続けられる体力だ。テレビはもはや「精巧な工芸品」ではなく、「巨大な物流産業」になってしまった。ソニーが選んだのは、その現実を直視した上での延命策である。画質エンジンや映像アルゴリズムといった“頭脳”は自社で守り、製造と調達という“筋肉”はTCLに委ねる。技術流出や安全保障の懸念は当然あるが、それを理由に単独路線を貫ける体力は、もはや残っていなかったというのが本音だろう。

振り返れば、日本のテレビ産業はすでに瓦解している。日立は撤退し、東芝はハイセンスに売却、シャープは鴻海傘下、パナソニックも存続を迷い続けてきた。ソニーだけが「高付加価値路線」で踏みとどまっているかのように見えたが、その実態は、敗北を先送りしていただけだったのかもしれない。それでも今回の決断を、単なる「身売り」や「屈服」と切り捨てるのは短絡的だ。市場構造が変わった以上、勝ち方を変えるしかない。問題は別のところにある。日本企業はいつも、勝てなくなってからようやくルール変更に気づく。その間に、主導権はすべて他国に渡っている。

BRAVIAは生き残るだろう。だが、それはもはや「日本のテレビ」ではない。ブランドは残り、技術も残る。しかし、産業としての主導権は完全に手放した。その現実を直視せず、「合理的判断だった」と自分たちを慰める限り、日本のものづくりは同じ敗北を何度でも繰り返す。敗北そのものよりも、敗北を敗北と認めるのが遅すぎたこと――そこにこそ、日本企業の本当の敗因がある。