日本製が欲しい ― 2026年09月23日
先日、居間の中華製LED照明が壊れた。購入してまだ半年である。LED照明といえば長寿命が売り文句だ。十年持つだの四万時間持つだのと、まるで仙人のような寿命が語られる。ところが我が家へやって来た照明は、その長寿伝説を語り終える前に退場した。今日は、三万円ほどで購入した中華製タブレットも壮絶な最期を遂げている。購入から二年半、バッテリーが膨張し、画面を内側から押し上げた。最初はケースの歪みかと思ったが、違った。本体そのものが饅頭のように膨らんでいたのである。激安品なら諦めもつく。しかし三万円という値段は、決して「安いから仕方がない」で片付く価格でもない。
こういう話をすると、「安物を買うからだ」と得意げに言う人がいる。だが最近は、その言葉も少し事情が変わってきた気がする。昔の安物は品質が悪くても、とにかく安かった。壊れたら買い直せば済んだ。しかし今はそう単純ではない。本体価格が安く見える代わりに、故障した瞬間から別の負担が始まる。保証書を探す。原因を調べる。代替品を比較する。注文する。設定をやり直す。データを移行する。ケースや保護フィルムまで買い直す。どれも金額には表れないが、立派なコストである。しかも、その手間をかけている時間は何も生み出さない。壊れた製品の後始末をしているだけである。
昔から「安物買いの銭失い」と言う。しかし近頃は、どうも話がそれだけでは済まなくなっている。本当に失うのは銭だけではない。時間である。金なら働いて取り戻せる。しかし休日の午後を潰して故障対応に追われた数時間は返ってこない。メーカーは製品保証はしてくれても、人生の持ち時間までは補償してくれない。LED照明が半年で死んだからといって、交換の手間が戻るわけではない。タブレットが膨張したからといって、買い替えに費やした時間が返ってくることもない。利用者は故障するたび、自分の人生を小銭のように少しずつ支払っているのである。
もっとも、中国企業はAIを作り、ロボットを作り、ロケットまで飛ばしている。たいしたものである。技術は真似できる。図面も真似できる。設備も買える。人材も集められる。だが品質管理だけは簡単に真似できない。面倒な検査を省略しないこと。不良を見逃さないこと。十年後の故障率まで気にすること。その積み重ねが製品の寿命になる。月へロケットを飛ばす技術があっても、居間の照明が半年で死ねば消費者は首を傾げる。最先端技術への驚きより、「普通に十年動く」という当たり前への信頼の方が、実はずっと得難いのである。
願わくば日本製の商品が欲しい。別に愛国心を発揮したいわけではない。ただ長く安心して使いたいだけだ。ところが店へ行けば並んでいるのは海外生産品ばかりで、ようやく日本メーカーの名前を見つけても製造国は別の国だったりする。日本企業自身が採算の取れない分野から撤退してしまったのだから仕方がない。しかし消費者としては少々寂しい。安い商品が悪いわけではない。高い商品が偉いわけでもない。ただ、安さだけを根拠に選ぶと後から別の請求書が届く。その請求書には金額欄がない。代わりにこう書かれているように見える。
「お支払いは、お客様の時間でお願いいたします。」
現金払いもカード払いも不要である。人生から直接引き落とされる。ずいぶんな世の中ではないか。
こういう話をすると、「安物を買うからだ」と得意げに言う人がいる。だが最近は、その言葉も少し事情が変わってきた気がする。昔の安物は品質が悪くても、とにかく安かった。壊れたら買い直せば済んだ。しかし今はそう単純ではない。本体価格が安く見える代わりに、故障した瞬間から別の負担が始まる。保証書を探す。原因を調べる。代替品を比較する。注文する。設定をやり直す。データを移行する。ケースや保護フィルムまで買い直す。どれも金額には表れないが、立派なコストである。しかも、その手間をかけている時間は何も生み出さない。壊れた製品の後始末をしているだけである。
昔から「安物買いの銭失い」と言う。しかし近頃は、どうも話がそれだけでは済まなくなっている。本当に失うのは銭だけではない。時間である。金なら働いて取り戻せる。しかし休日の午後を潰して故障対応に追われた数時間は返ってこない。メーカーは製品保証はしてくれても、人生の持ち時間までは補償してくれない。LED照明が半年で死んだからといって、交換の手間が戻るわけではない。タブレットが膨張したからといって、買い替えに費やした時間が返ってくることもない。利用者は故障するたび、自分の人生を小銭のように少しずつ支払っているのである。
もっとも、中国企業はAIを作り、ロボットを作り、ロケットまで飛ばしている。たいしたものである。技術は真似できる。図面も真似できる。設備も買える。人材も集められる。だが品質管理だけは簡単に真似できない。面倒な検査を省略しないこと。不良を見逃さないこと。十年後の故障率まで気にすること。その積み重ねが製品の寿命になる。月へロケットを飛ばす技術があっても、居間の照明が半年で死ねば消費者は首を傾げる。最先端技術への驚きより、「普通に十年動く」という当たり前への信頼の方が、実はずっと得難いのである。
願わくば日本製の商品が欲しい。別に愛国心を発揮したいわけではない。ただ長く安心して使いたいだけだ。ところが店へ行けば並んでいるのは海外生産品ばかりで、ようやく日本メーカーの名前を見つけても製造国は別の国だったりする。日本企業自身が採算の取れない分野から撤退してしまったのだから仕方がない。しかし消費者としては少々寂しい。安い商品が悪いわけではない。高い商品が偉いわけでもない。ただ、安さだけを根拠に選ぶと後から別の請求書が届く。その請求書には金額欄がない。代わりにこう書かれているように見える。
「お支払いは、お客様の時間でお願いいたします。」
現金払いもカード払いも不要である。人生から直接引き落とされる。ずいぶんな世の中ではないか。
ベタなドラマの幸福 ― 2026年09月18日
あっちのドラマで裏切り者がいたといえば、ネットで夜とおし会議が開かれ、こっちの映画で謎の伏線が張られたといえば、翌朝スマホの画面を必死にスクロールして解説を探す。世の中はすっかり「考察」ブームである。伏線をたどったり、作り手の意図を深読みしたりする面白さを否定するつもりはない。けれど、近ごろのテレビ視聴はまるで、むずかしいお勉強をしているようでもあって、ひどく骨が折れる。見終わったあとも頭の中で答え合わせが続き、ちっとも休まらないのである。
そこへいくと、いま放送されている令和版『GTO』や新『大岡越前9』はどうだろう。これが、じつに素晴らしい。何が素晴らしいといって、見終わってテレビの主電源をパチリと切った瞬間、物語の筋書きを綺麗さっぱり忘れてしまう点である。こころに何の澱も残らない。翌週まで「あれは何だったのか」と考え続ける必要もなければ、ネットで考察記事を読み漁る必要もない。まことに文字通りの「空っぽ」になれるのだ。新『GTO』の地上波の視聴率が芳しくないという話を聞いたけれど、ネットの配信の世界では若い人たちがこぞって見ているらしい。
中身はといえば、往年の破天荒な鬼塚先生も五十を過ぎて少々丸くなるが、相変わらず演技はベタだ。生徒役の若者たちのセリフ回しも、お世辞にも達者とは言えない。だが、これがいい。見ているうちに、その不器用さが妙に癖になってくる。そして、子供は子供らしく、大人は大人らしく、教師は教師らしく振る舞う光景がかえってエモいのである。展開はいつだってお決まりのドタバタだ。生徒がネットの炎上やら何やらで大ピンチに陥ると、鬼塚が汗をかきかき全力で走ってきて、理屈抜きの力技でぶち壊す。そこへあの「ポイズン」のイントロが流れてくれば、もう「待ってました!」と快哉を叫ぶほかない。これはもう、現代の『水戸黄門』であり『暴れん坊将軍』なのだ。悪党が裏でコソコソ悪事を働き、主人公がドタバタと暴れ回り、最後はめでたく一件落着。ブレない正義のヒーローが、一時間のあいだに必ずすべてを解決してくれるという、この圧倒的な予定調和の安心感は、今晩の快眠を約束してくれる。
新『大岡越前』もまた、同じ魅力を持っている。約三十年続いた加藤剛版の国民的時代劇のDNAを、高橋克典版は実に律儀に受け継いでいる。高橋克典の渋いお白洲での名裁き、勝村政信や寺脇康文といったおじさんたちが繰り広げる極上の人情劇には、私たちが一ミリも裏切られないための「ベタさ」がぎっしりと詰まっている。お奉行はお奉行らしく、悪党は悪党らしく、最後にはきっちりお白洲で決着をつけてくれる。これがまた、いいのである。近ごろは「予想を裏切る展開」がもてはやされるが、毎週毎週裏切られていたら落ち着いてご飯も食べられない。ときには期待どおりに終わってくれることも、立派なサービスなのである。
世の中は「意味があるもの」や「深く記憶に残るもの」を求めすぎている。もちろん、ときに心を激しく揺さぶる重厚な名作に出会うのもいい。『Tシャツが乾くまで』のような、テレビのスイッチを切ったあとも「うーむ」と唸りながら、あれこれ考え続けてしまうドラマも、それはそれで貴重である。けれど、疲れ切った日常のテレビ生活において本当に必要なのは、その一時間だけを全力で楽しませてくれて、翌朝には綺麗に消えてくれるような上質な「時間潰し」ではないだろうか。ハラハラして、スカッとして、あとは寝るだけ。学園ものでも刑事ものでも医療ものでもいい。最後にはめでたしめでたしで終わる。そんな時代劇風の勧善懲悪ドラマをもっと作ってほしいのである。そんなものを見たがるのは、やはり年のせいなのだろうか。もっとも、令和版『GTO』を若い人たちまで見ているという話を聞くと、どうも年齢の問題でもなさそうだ。案外みんな、考察するのに少々くたびれているのかもしれない。
そこへいくと、いま放送されている令和版『GTO』や新『大岡越前9』はどうだろう。これが、じつに素晴らしい。何が素晴らしいといって、見終わってテレビの主電源をパチリと切った瞬間、物語の筋書きを綺麗さっぱり忘れてしまう点である。こころに何の澱も残らない。翌週まで「あれは何だったのか」と考え続ける必要もなければ、ネットで考察記事を読み漁る必要もない。まことに文字通りの「空っぽ」になれるのだ。新『GTO』の地上波の視聴率が芳しくないという話を聞いたけれど、ネットの配信の世界では若い人たちがこぞって見ているらしい。
中身はといえば、往年の破天荒な鬼塚先生も五十を過ぎて少々丸くなるが、相変わらず演技はベタだ。生徒役の若者たちのセリフ回しも、お世辞にも達者とは言えない。だが、これがいい。見ているうちに、その不器用さが妙に癖になってくる。そして、子供は子供らしく、大人は大人らしく、教師は教師らしく振る舞う光景がかえってエモいのである。展開はいつだってお決まりのドタバタだ。生徒がネットの炎上やら何やらで大ピンチに陥ると、鬼塚が汗をかきかき全力で走ってきて、理屈抜きの力技でぶち壊す。そこへあの「ポイズン」のイントロが流れてくれば、もう「待ってました!」と快哉を叫ぶほかない。これはもう、現代の『水戸黄門』であり『暴れん坊将軍』なのだ。悪党が裏でコソコソ悪事を働き、主人公がドタバタと暴れ回り、最後はめでたく一件落着。ブレない正義のヒーローが、一時間のあいだに必ずすべてを解決してくれるという、この圧倒的な予定調和の安心感は、今晩の快眠を約束してくれる。
新『大岡越前』もまた、同じ魅力を持っている。約三十年続いた加藤剛版の国民的時代劇のDNAを、高橋克典版は実に律儀に受け継いでいる。高橋克典の渋いお白洲での名裁き、勝村政信や寺脇康文といったおじさんたちが繰り広げる極上の人情劇には、私たちが一ミリも裏切られないための「ベタさ」がぎっしりと詰まっている。お奉行はお奉行らしく、悪党は悪党らしく、最後にはきっちりお白洲で決着をつけてくれる。これがまた、いいのである。近ごろは「予想を裏切る展開」がもてはやされるが、毎週毎週裏切られていたら落ち着いてご飯も食べられない。ときには期待どおりに終わってくれることも、立派なサービスなのである。
世の中は「意味があるもの」や「深く記憶に残るもの」を求めすぎている。もちろん、ときに心を激しく揺さぶる重厚な名作に出会うのもいい。『Tシャツが乾くまで』のような、テレビのスイッチを切ったあとも「うーむ」と唸りながら、あれこれ考え続けてしまうドラマも、それはそれで貴重である。けれど、疲れ切った日常のテレビ生活において本当に必要なのは、その一時間だけを全力で楽しませてくれて、翌朝には綺麗に消えてくれるような上質な「時間潰し」ではないだろうか。ハラハラして、スカッとして、あとは寝るだけ。学園ものでも刑事ものでも医療ものでもいい。最後にはめでたしめでたしで終わる。そんな時代劇風の勧善懲悪ドラマをもっと作ってほしいのである。そんなものを見たがるのは、やはり年のせいなのだろうか。もっとも、令和版『GTO』を若い人たちまで見ているという話を聞くと、どうも年齢の問題でもなさそうだ。案外みんな、考察するのに少々くたびれているのかもしれない。
Tシャツが乾くまで ― 2026年09月14日
『Tシャツが乾くまで』は、不倫ミステリーの装いをまといながら、物語が進むほど“夫婦”や“家族”という枠組みが静かにほどけていく現代的なドラマである。瀬尾咲子(蒼井優)と瀬尾充(松山ケンイチ)は一見すると穏やかな夫婦。バス事故後、憔悴した咲子と園田樹生(中島歩)が、コインランドリーで出会うことで物語が始まる。キャスト陣が醸し出す静けさと絶妙な間合いが画面に独特の緊張を生み、パートナーを失った咲子と樹生の語らいは互いの心の避難場所となっていく。中盤までは、不倫の痕跡を拾い集める静かな心理サスペンスとして進行し、日常の隙間に潜む孤独が丁寧に描かれる。
樹生の妻・園田あずさ(夏帆)は高速バス事故で亡くなる。妻は家を出て充と行動を共にし、その直後に事故で亡くなり、充も同じバスに乗っていたと報じられたが、充の遺体だけは見つからないままだった。物語は充の突然の帰還によって大きく動き出す。この「蒸発直後のあずさの死亡」という事実が、樹生に決定的な誤解を生む。妻は充と行動を共にし、その直後に事故死し、充も同じバスに乗っていた──この外形が揃うことで、樹生の目には不倫の筋が成立してしまうのである。だが、あずさは充に誘われたのではなく、充の不可解な蒸発行動に興味を抱き、自発的に同行しただけだった。恋愛感情ではなく“他者の奇妙さへの関心”が彼女を動かしていたのであるが、この事実はドラマ後半まで明かされないので視聴者は樹生とともにずっともやもやする。
さらに物語は、帰宅した充の蒸発癖のカミングアウトによって咲子の大混乱へと進行する。意を決した咲子が充に明かす離婚歴“バツ4”によって、物語はもう一段ひっくり返る。咲子と充は価値観が真逆なのではなく、むしろ同じ“距離感リセット型”の人種であった。咲子は距離感がしっくりこなければ離婚してリセットし、充は距離感に疲れれば蒸発してリセットする。関係を修復するよりも、まずゼロに戻すことで自分の呼吸を取り戻す点で二人は一致している。だからこそ、充が蒸発という自分のリセットを終えて帰宅した直後に、咲子から離婚という“別方向のリセット”を突きつけられる展開は、充にとって強烈なカウンターパンチとなる。
一方で樹生は、最後まであずさの幻影を見続ける。彼が幻影を抱え続けるのは、あずさを深く愛していたからではなく、関係の終わり方を自分の中で整理できなかったからである。瀬尾夫婦との関わりの中で、樹生は自分が“あずさを知っているつもりで、実はほとんど知らなかった”ことに気づく。知らなさすぎることと、知りすぎることのどちらが幸せなのか──樹生はその狭間で揺れ続ける。この揺れは、距離感を軽やかにリセットする瀬尾夫婦の姿と鮮やかな対照を成し、夫婦であっても他人であっても“違って当然”という価値観へと樹生を導いていく。
物語は最終的に、「嘘はつかないが、言いたくないことは言わない」という瀬尾夫婦のルールへと伏線回収していく。すべてを共有することが誠実なのではなく、言わない自由が関係を軽くする。これは現代の夫婦像を象徴する“距離の哲学”であり、個人が自分の居場所を選び取る物語として描かれる。そして、この複雑な人間関係の湿度と距離感を、過度な説明なしに描き切った脚本家・生方美久の筆は見事だ。未婚の33歳という立場から、「結婚するかどうかは個人の自由であり、どちらの選択も尊重されるべきだ」と語る彼女のスタンスは、劇中で描かれた「縛り合わない距離感の肯定」とも重なっている。当たり前の価値観だがそれを恐れずに当たり前として提示する、その率直さにこそ確かな共感が宿る。『Tシャツが乾くまで』が展開の面白さで観る者を引っ張るのは、生方美久の本音への共感だろう。エンディングのスピッツ「見知らぬ糸」が心地よい。
間違う糸はほどけて また焦がれて
明かされないならペテンでも構わない
ありのままになる 少し強くなれる
樹生の妻・園田あずさ(夏帆)は高速バス事故で亡くなる。妻は家を出て充と行動を共にし、その直後に事故で亡くなり、充も同じバスに乗っていたと報じられたが、充の遺体だけは見つからないままだった。物語は充の突然の帰還によって大きく動き出す。この「蒸発直後のあずさの死亡」という事実が、樹生に決定的な誤解を生む。妻は充と行動を共にし、その直後に事故死し、充も同じバスに乗っていた──この外形が揃うことで、樹生の目には不倫の筋が成立してしまうのである。だが、あずさは充に誘われたのではなく、充の不可解な蒸発行動に興味を抱き、自発的に同行しただけだった。恋愛感情ではなく“他者の奇妙さへの関心”が彼女を動かしていたのであるが、この事実はドラマ後半まで明かされないので視聴者は樹生とともにずっともやもやする。
さらに物語は、帰宅した充の蒸発癖のカミングアウトによって咲子の大混乱へと進行する。意を決した咲子が充に明かす離婚歴“バツ4”によって、物語はもう一段ひっくり返る。咲子と充は価値観が真逆なのではなく、むしろ同じ“距離感リセット型”の人種であった。咲子は距離感がしっくりこなければ離婚してリセットし、充は距離感に疲れれば蒸発してリセットする。関係を修復するよりも、まずゼロに戻すことで自分の呼吸を取り戻す点で二人は一致している。だからこそ、充が蒸発という自分のリセットを終えて帰宅した直後に、咲子から離婚という“別方向のリセット”を突きつけられる展開は、充にとって強烈なカウンターパンチとなる。
一方で樹生は、最後まであずさの幻影を見続ける。彼が幻影を抱え続けるのは、あずさを深く愛していたからではなく、関係の終わり方を自分の中で整理できなかったからである。瀬尾夫婦との関わりの中で、樹生は自分が“あずさを知っているつもりで、実はほとんど知らなかった”ことに気づく。知らなさすぎることと、知りすぎることのどちらが幸せなのか──樹生はその狭間で揺れ続ける。この揺れは、距離感を軽やかにリセットする瀬尾夫婦の姿と鮮やかな対照を成し、夫婦であっても他人であっても“違って当然”という価値観へと樹生を導いていく。
物語は最終的に、「嘘はつかないが、言いたくないことは言わない」という瀬尾夫婦のルールへと伏線回収していく。すべてを共有することが誠実なのではなく、言わない自由が関係を軽くする。これは現代の夫婦像を象徴する“距離の哲学”であり、個人が自分の居場所を選び取る物語として描かれる。そして、この複雑な人間関係の湿度と距離感を、過度な説明なしに描き切った脚本家・生方美久の筆は見事だ。未婚の33歳という立場から、「結婚するかどうかは個人の自由であり、どちらの選択も尊重されるべきだ」と語る彼女のスタンスは、劇中で描かれた「縛り合わない距離感の肯定」とも重なっている。当たり前の価値観だがそれを恐れずに当たり前として提示する、その率直さにこそ確かな共感が宿る。『Tシャツが乾くまで』が展開の面白さで観る者を引っ張るのは、生方美久の本音への共感だろう。エンディングのスピッツ「見知らぬ糸」が心地よい。
間違う糸はほどけて また焦がれて
明かされないならペテンでも構わない
ありのままになる 少し強くなれる
年金保険料は半額にできる ― 2026年09月12日
新聞やニュースでは、社会保障費の増大によって日本の財政が危機的状況にあるかのように語られることが多い。予算要求額や国債費といった名目の大口数字だけが強調されれば、読者は「増えていて危険だ」と直感してしまう。しかし、こうした報道は制度の本質を欠いており、単年度の名目額だけで将来の持続性を判断することはできない。制度の可否を評価するには、名目成長率、年金基金の規模、高齢者人口の推移という三つの要素を統合して考える必要がある。名目額の増減だけを見て危機を語る構造そのものが、制度理解を妨げているのである。
第一に重要なのは人口構造の推移である。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、65歳以上人口は2040年代半ばに約3,950万人でピークを迎え、その後は減少に転じる。つまり、高齢者人口は永遠に増え続けるわけではなく、一定時点で頭打ちとなり、負担圧力が和らぐ局面に入る。社会保障費の将来像を語るには、この人口構造の転換点を踏まえることが不可欠である。高齢化が続くという印象だけで制度の未来を語れば、実態とは異なる危機感を生むことになる。第二に、約318兆円規模に達する世界最大の年金積立金(GPIF)の存在がある。巨額の資産と長期的な運用収益は制度の安定性を支える強力な基盤であり、単なる「使えば消える金」ではなく、負担軽減に活用し得る資産である。
第三に、保険料率を半額に引き下げた場合の財政構造である。保険料収入との間に差額は生じるが、現行の国庫負担や財政調整の枠組みを整理し、保険料収入と運用益、そして計画的な取り崩しで届かない不足分を国庫補助金で確実に補填する仕組みを位置づければ、2050年代にも200兆円規模の基金を残して財政を安定させる計算が成り立つ。給付人口が減少局面に入ることや名目成長の効果を踏まえれば、積立金の運用と国の調整機能を組み合わせることで、永続可能で負担の軽い年金モデルへの転換が可能となる。
第四に、保険料負担の軽減がもたらす経済効果である。現在の年金保険料収入は年間約40兆円であり、これを半額にすれば約20兆円の負担が軽減される。厚生年金は労使折半であるため、約10兆円は企業負担の軽減となり、賃上げや設備投資の原資となる。残り約10兆円は個人の手取り増となり、家計の消費拡大につながる。企業の投資と家計の消費が組み合わされば、名目3%成長の達成も現実的となり、税収や基金運用環境にも好循環が生まれる。保険料を高水準で維持することだけが安定化の道ではなく、負担軽減がむしろ制度の安定性を高める可能性がある。
にもかかわらず、政府は依然として高い年金保険料を維持し、国民の消費の弱さを放置している。莫大な基金と長期的な運用収益があり、高齢者人口もいずれ減少に転じる以上、保険料を高水準のまま徴収し続けることが最善とは言えない。国内の知能と専門性が最も集まるはずの政府中枢が、この構造的な改善余地を理解していないとは考えにくい。むしろ、理解していながら制度の慣性に押し流されているのだとすれば、皮肉にも日本で最も頭の良い場所が、最も大胆な改革を躊躇していることになる。制度を守るだけでなく、国民負担を減らし経済を活性化させる方向へとより良く変えることこそ、本来の知性の役割ではないだろうか。
第一に重要なのは人口構造の推移である。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、65歳以上人口は2040年代半ばに約3,950万人でピークを迎え、その後は減少に転じる。つまり、高齢者人口は永遠に増え続けるわけではなく、一定時点で頭打ちとなり、負担圧力が和らぐ局面に入る。社会保障費の将来像を語るには、この人口構造の転換点を踏まえることが不可欠である。高齢化が続くという印象だけで制度の未来を語れば、実態とは異なる危機感を生むことになる。第二に、約318兆円規模に達する世界最大の年金積立金(GPIF)の存在がある。巨額の資産と長期的な運用収益は制度の安定性を支える強力な基盤であり、単なる「使えば消える金」ではなく、負担軽減に活用し得る資産である。
第三に、保険料率を半額に引き下げた場合の財政構造である。保険料収入との間に差額は生じるが、現行の国庫負担や財政調整の枠組みを整理し、保険料収入と運用益、そして計画的な取り崩しで届かない不足分を国庫補助金で確実に補填する仕組みを位置づければ、2050年代にも200兆円規模の基金を残して財政を安定させる計算が成り立つ。給付人口が減少局面に入ることや名目成長の効果を踏まえれば、積立金の運用と国の調整機能を組み合わせることで、永続可能で負担の軽い年金モデルへの転換が可能となる。
第四に、保険料負担の軽減がもたらす経済効果である。現在の年金保険料収入は年間約40兆円であり、これを半額にすれば約20兆円の負担が軽減される。厚生年金は労使折半であるため、約10兆円は企業負担の軽減となり、賃上げや設備投資の原資となる。残り約10兆円は個人の手取り増となり、家計の消費拡大につながる。企業の投資と家計の消費が組み合わされば、名目3%成長の達成も現実的となり、税収や基金運用環境にも好循環が生まれる。保険料を高水準で維持することだけが安定化の道ではなく、負担軽減がむしろ制度の安定性を高める可能性がある。
にもかかわらず、政府は依然として高い年金保険料を維持し、国民の消費の弱さを放置している。莫大な基金と長期的な運用収益があり、高齢者人口もいずれ減少に転じる以上、保険料を高水準のまま徴収し続けることが最善とは言えない。国内の知能と専門性が最も集まるはずの政府中枢が、この構造的な改善余地を理解していないとは考えにくい。むしろ、理解していながら制度の慣性に押し流されているのだとすれば、皮肉にも日本で最も頭の良い場所が、最も大胆な改革を躊躇していることになる。制度を守るだけでなく、国民負担を減らし経済を活性化させる方向へとより良く変えることこそ、本来の知性の役割ではないだろうか。
広域オレオレ詐欺的花火大会 ― 2026年08月14日
8月末に予定されていた「琵琶湖三市同時花火大会」が突然中止になった。花火大会といえば、浴衣だのかき氷だの、あのゆるい夏の風景がつきものなのだが、今回のはどうも様子が違った。SNSで派手に宣伝され、三市同時だのドローン演出だのと、未来の花火大会みたいな装いで登場したのである。ところがふたを開けてみれば、これは単なるイベントの頓挫ではなく、「広域オレオレ詐欺型」の新種が琵琶湖の上にふわっと浮かび上がったような話だった。
主催者を名乗った「琵琶湖三市同時花火大会実行委員会」は、長浜・彦根・高島の三市名を堂々と掲げていた。三市が一斉に夜空を彩るという触れ込みで、まるで琵琶湖版ラスベガスのような勢いである。しかし三市は「そんな話は聞いていない」とそろって否定し、観光協会も「うちは関係ない」と冷静にコメント。さらに、花火に必須の消防法や火薬類取締法の許認可申請が期限までに行われていなかったという。つまり、鍋もコンロもないのに「すき焼きパーティーやります」と言って会費だけ集めていたようなものだ。それでも自治体名を前面に出して宣伝するあたり、これは典型的な「信用の借用」である。
それでも主催者は2026年1月下旬から、7,000円〜2万円の指定席チケットを売り、飲食店からは1店舗5万円の出店料を徴収し続けた。事業計画も資金の裏付けも見えないまま、集金だけが先行する構造は、まさに「広域化したオレオレ詐欺型」の特徴そのものだ。SNS広告と自治体名のブランドを使えば、広範囲の不特定多数から短期間で資金を吸い上げることができる。電話で「オレだよオレ」と言っていた時代よりもはるかに効率がよく、地理的範囲も桁違いに広い。
中止が発表されても、実行委員会は「法的専門家に相談中」と言うばかりで、財務状況も返金の見通しも示さない。問い合わせにも応じず、沈黙を続ける姿勢は、購入者や出店者の不信をさらに深める。もちろん、これを直ちに詐欺と断定することはできない。しかし問題は、詐欺なのか杜撰なのか、その境界すら外部から確認できない状態で資金が集められていたという点にある。これは「意図の不透明性」と「責任主体の曖昧さ」が制度の盲点を突いた典型例である。
さらに厄介なのは、主催組織が法人格を持たない任意団体であることだ。任意団体の場合、誰が契約主体なのか、誰に返金義務があるのかを個別に確認しなければならない。数万円の返金のために弁護士費用を払うのは割に合わず、結果として泣き寝入りが生まれやすい。財布を貸したらそのまま走って逃げられたようなものだが、裁判をするほどの金額でもない。そこがこの手口のいやらしいところである。
SNSの普及で、誰でも短期間で「それらしい団体」を名乗り、広域に向けて宣伝と集金ができるようになった。一方で、こうした広域型の集金を未然にチェックする仕組みは昭和のまま時間が止まっている。ハイテク化した集金手法とアナログな法規制の隙間を突く「広域オレオレ詐欺型」を防ぐには、事前許認可の確認制度や任意団体の資金管理の透明化、悪質主催者への救済手段の再設計など、法的セーフティーネットの強化が不可欠である。琵琶湖の風景は穏やかだが、その裏で起きた今回の騒動は、現代社会の「隙」を見事に突いた事件だったといえる。
主催者を名乗った「琵琶湖三市同時花火大会実行委員会」は、長浜・彦根・高島の三市名を堂々と掲げていた。三市が一斉に夜空を彩るという触れ込みで、まるで琵琶湖版ラスベガスのような勢いである。しかし三市は「そんな話は聞いていない」とそろって否定し、観光協会も「うちは関係ない」と冷静にコメント。さらに、花火に必須の消防法や火薬類取締法の許認可申請が期限までに行われていなかったという。つまり、鍋もコンロもないのに「すき焼きパーティーやります」と言って会費だけ集めていたようなものだ。それでも自治体名を前面に出して宣伝するあたり、これは典型的な「信用の借用」である。
それでも主催者は2026年1月下旬から、7,000円〜2万円の指定席チケットを売り、飲食店からは1店舗5万円の出店料を徴収し続けた。事業計画も資金の裏付けも見えないまま、集金だけが先行する構造は、まさに「広域化したオレオレ詐欺型」の特徴そのものだ。SNS広告と自治体名のブランドを使えば、広範囲の不特定多数から短期間で資金を吸い上げることができる。電話で「オレだよオレ」と言っていた時代よりもはるかに効率がよく、地理的範囲も桁違いに広い。
中止が発表されても、実行委員会は「法的専門家に相談中」と言うばかりで、財務状況も返金の見通しも示さない。問い合わせにも応じず、沈黙を続ける姿勢は、購入者や出店者の不信をさらに深める。もちろん、これを直ちに詐欺と断定することはできない。しかし問題は、詐欺なのか杜撰なのか、その境界すら外部から確認できない状態で資金が集められていたという点にある。これは「意図の不透明性」と「責任主体の曖昧さ」が制度の盲点を突いた典型例である。
さらに厄介なのは、主催組織が法人格を持たない任意団体であることだ。任意団体の場合、誰が契約主体なのか、誰に返金義務があるのかを個別に確認しなければならない。数万円の返金のために弁護士費用を払うのは割に合わず、結果として泣き寝入りが生まれやすい。財布を貸したらそのまま走って逃げられたようなものだが、裁判をするほどの金額でもない。そこがこの手口のいやらしいところである。
SNSの普及で、誰でも短期間で「それらしい団体」を名乗り、広域に向けて宣伝と集金ができるようになった。一方で、こうした広域型の集金を未然にチェックする仕組みは昭和のまま時間が止まっている。ハイテク化した集金手法とアナログな法規制の隙間を突く「広域オレオレ詐欺型」を防ぐには、事前許認可の確認制度や任意団体の資金管理の透明化、悪質主催者への救済手段の再設計など、法的セーフティーネットの強化が不可欠である。琵琶湖の風景は穏やかだが、その裏で起きた今回の騒動は、現代社会の「隙」を見事に突いた事件だったといえる。
還付通知書 ― 2026年08月01日
ある日、役所から封筒が届いた。税金の通知といえば、たいてい「払ってください」である。ところが今回は違った。開けると「還付通知書」。返してくれるらしい。おや、ずいぶん気前がいいではないかと思って金額を見ると、400円。思わず桁を見直したが、やはり400円である。コンビニのコーヒーなら2杯ほど。その400円を返すために、役場は通知書を印刷し、封筒に入れ、郵送する。さらに返送された申請書を職員が確認し、振込処理を行う。自治体によって差はあるが、還付1件あたりの事務費は数百円規模になる例もあるという。400円を返すために数百円を使う。何とも不思議な仕事である。
住民の側も決して楽ではない。高齢者なら、まず通帳を探すところから始まる。「あれはどこへしまったかな」と家中を歩き回り、ようやく見つけたら、今度は老眼鏡を探す。口座番号を確認し、必要なら返信の手続きをする。真夏なら炎天下を郵便ポストまで歩くことにもなる。400円を受け取るために汗と時間を使う。金額は軽いのに、そこへたどり着くまでの手間は妙に重い。還付というより、小さな障害物競走のようである。
今回、町では税額更正に伴い、住民税課税者に少額の還付が発生する。総額はいくらになるのだろうか。一方で、その還付事務にも1件あたり数百円規模の経費が発生し、還付人数分だけ積み重なる。役場の職員が悪いわけではない。法令どおり通知を作成し、審査し、支払い手続きを進めているだけである。しかし、同じ作業を何度も繰り返せば、人件費も郵送費も積み重なる。紙は静かに増え続け、人の時間だけが少しずつ削られていく。しかも全国ほとんどの自治体でこの無駄が積み上げられている。
大阪市などが進めるマイナポータル連携の公金受取口座を使えば、還付額の計算や法定確認こそ残るものの、口座確認や入力作業といった事務負担は大きく減らせる。紙ベースの給付事務を電子化することで、定型的な作業がごっそり削れることは、すでに多くの自治体が実証している。公金受取口座を利用すれば、口座情報の記入や通帳の写しの添付といった“昭和の手続き”も省略できる。
そもそも給付DXを実現している自治体であれば、還付DXができない理由はない。給付と還付は小規模自治体では同じ職員が同じ机で同じシステムを使って処理しているのだから、還付だけが特別に複雑という説明は成り立たない。希望しない住民には紙ベースの作業が残るなど制度上の制約はあるにせよ、「前からこうしている」だけで紙中心の運用を続けるのは、住民にも職員にも優しい仕組みとは言い難い。
400円という金額は小さい。しかし、この400円騒動は、日本の行政が抱える問題をよく映している。1件では取るに足らない非効率も、何万件、何百万件と積み重なれば、失われる税金も時間も決して小さくない。行政改革とは、大きな制度を作り替えることだけではない。400円を返すために数百円規模の事務費をかける。その当たり前を一度立ち止まって見直すことも、立派な改革だと思う。そして今日、役所からご丁寧に支払通知書「振込400円」が郵送で届いていた。
住民の側も決して楽ではない。高齢者なら、まず通帳を探すところから始まる。「あれはどこへしまったかな」と家中を歩き回り、ようやく見つけたら、今度は老眼鏡を探す。口座番号を確認し、必要なら返信の手続きをする。真夏なら炎天下を郵便ポストまで歩くことにもなる。400円を受け取るために汗と時間を使う。金額は軽いのに、そこへたどり着くまでの手間は妙に重い。還付というより、小さな障害物競走のようである。
今回、町では税額更正に伴い、住民税課税者に少額の還付が発生する。総額はいくらになるのだろうか。一方で、その還付事務にも1件あたり数百円規模の経費が発生し、還付人数分だけ積み重なる。役場の職員が悪いわけではない。法令どおり通知を作成し、審査し、支払い手続きを進めているだけである。しかし、同じ作業を何度も繰り返せば、人件費も郵送費も積み重なる。紙は静かに増え続け、人の時間だけが少しずつ削られていく。しかも全国ほとんどの自治体でこの無駄が積み上げられている。
大阪市などが進めるマイナポータル連携の公金受取口座を使えば、還付額の計算や法定確認こそ残るものの、口座確認や入力作業といった事務負担は大きく減らせる。紙ベースの給付事務を電子化することで、定型的な作業がごっそり削れることは、すでに多くの自治体が実証している。公金受取口座を利用すれば、口座情報の記入や通帳の写しの添付といった“昭和の手続き”も省略できる。
そもそも給付DXを実現している自治体であれば、還付DXができない理由はない。給付と還付は小規模自治体では同じ職員が同じ机で同じシステムを使って処理しているのだから、還付だけが特別に複雑という説明は成り立たない。希望しない住民には紙ベースの作業が残るなど制度上の制約はあるにせよ、「前からこうしている」だけで紙中心の運用を続けるのは、住民にも職員にも優しい仕組みとは言い難い。
400円という金額は小さい。しかし、この400円騒動は、日本の行政が抱える問題をよく映している。1件では取るに足らない非効率も、何万件、何百万件と積み重なれば、失われる税金も時間も決して小さくない。行政改革とは、大きな制度を作り替えることだけではない。400円を返すために数百円規模の事務費をかける。その当たり前を一度立ち止まって見直すことも、立派な改革だと思う。そして今日、役所からご丁寧に支払通知書「振込400円」が郵送で届いていた。
検察官の醜態動画公開 ― 2026年07月17日
この事件の本質を一言で言えば、不動産会社と学校法人の間に入り込んだ詐欺師が、双方を巧妙に欺いて21億円をだまし取った事件である。そして、その巧妙なからくりは当事者だけにとどまらず、検察までも虚構の物語へと引き込み、存在しない横領構図をあたかも現実であるかのように描かせてしまった。プレサンスコーポレーション元社長・山岸忍氏の逮捕は、日本の刑事司法が長年抱え込んできた「人質司法」という病を、これ以上なく鮮やかに照らし出した出来事であった。
検察は、学校法人への資金提供を不正な資金流出と位置づけ、その意思決定を主導したとして山岸氏の刑事責任を追及した。しかし、この立件の出発点には、不動産開発の実務に対する根本的な誤解があった。マンション開発では、土地の売主が移転できなければ事業は一歩も進まない。そのため、売主が新たな移転先を確保できるよう、デベロッパーが資金や用地の手当てを行うことは、決して珍しい話ではない。むしろ円滑に事業を進めるための、ごく常識的な実務である。
ところが検察は、この資金の流れだけを切り取り、「横領」という筋書きを組み立てた。しかし、その物語を支えるべき肝心の事実は驚くほど乏しい。山岸氏に私的利益が還流したことを示す客観的証拠は見当たらず、資金の流れを超えて横領の故意を裏付ける証拠も十分には示されなかった。それにもかかわらず、「資金が動いた」という事実だけが肥大化し、「横領」という言葉だけが独り歩きしたのである。
その物語を支えた証拠もまた心許ない。山岸氏の関与を直接示す客観的証拠は乏しく、捜査は密室で形成された供述に大きく依存した。法廷で公開された取調べ映像には、検察官が怒声を浴びせ、被疑者を心理的に追い詰める様子が映っていた。あれを見て、論理で人を説得していると思う者は少ないだろう。威圧によって供述を形づくろうとする姿は、法治国家というより、筋書きを先に決めて役者に台詞を言わせる芝居小屋を思わせる。本来なら証拠があって身体拘束が許されるべきなのに、この事件では身体拘束によって証拠を探そうとしているかのようだった。法の順序が、見事に逆立ちしていたのである。
さらに検察は、山岸氏らが会社や弁護士とともに行った尋問対策の協議メモを見つけて「証拠隠滅の教唆」と位置づけた。しかし、不当な嫌疑をかけられたと考える者が会社や弁護士と相談し、取調べへの備えをすることは、防御権そのものである。動画はこのメモの作成動機をめぐっての詰問だった。法が保障した権利を犯罪の兆候に読み替えるなら、誰も安心して弁護士に相談できなくなる。大川原化工機事件でも、「まず結論ありき」で証拠を後から当てはめようとした捜査が破綻した。本件もまた、その延長線上にあるように見えてならない。
プレサンス事件では、会社側は当初、検察と正面から争わず、早期収束を期待した。しかし、人質司法という病に対して沈黙は万能薬ではない。密室で進む捜査には、報道により世論という光を当てなければならない。近年ようやく取調べの録画や内部告発によって、刑事司法の密室にも風が通い始めた。「証拠なくして人を拘束してはならない」という、民主国家ではあまりにも当然の原則が、ようやく現実の司法でも語られ始めたのである。
にもかかわらず、事件全体を振り返る報道は、山岸氏の冤罪には光を当てても、その立件の過程で重要な位置を占めたK氏の事件にはほとんど踏み込まない。公開された取調べ映像を見れば、強い心理的圧力の下で供述が形成される危うさは誰の目にも明らかである。K氏の事件についても、その供述形成の過程や有罪認定の根拠が十分検証されているとは言い難い。事件を本当に検証するというなら、そこまで掘り下げなければ片手落ちであろう。司法を監視する最後の砦は裁判所だけではない。事実を掘り起こし、密室に光を当て続ける報道もまた、その重い責任を負っているのである。
検察は、学校法人への資金提供を不正な資金流出と位置づけ、その意思決定を主導したとして山岸氏の刑事責任を追及した。しかし、この立件の出発点には、不動産開発の実務に対する根本的な誤解があった。マンション開発では、土地の売主が移転できなければ事業は一歩も進まない。そのため、売主が新たな移転先を確保できるよう、デベロッパーが資金や用地の手当てを行うことは、決して珍しい話ではない。むしろ円滑に事業を進めるための、ごく常識的な実務である。
ところが検察は、この資金の流れだけを切り取り、「横領」という筋書きを組み立てた。しかし、その物語を支えるべき肝心の事実は驚くほど乏しい。山岸氏に私的利益が還流したことを示す客観的証拠は見当たらず、資金の流れを超えて横領の故意を裏付ける証拠も十分には示されなかった。それにもかかわらず、「資金が動いた」という事実だけが肥大化し、「横領」という言葉だけが独り歩きしたのである。
その物語を支えた証拠もまた心許ない。山岸氏の関与を直接示す客観的証拠は乏しく、捜査は密室で形成された供述に大きく依存した。法廷で公開された取調べ映像には、検察官が怒声を浴びせ、被疑者を心理的に追い詰める様子が映っていた。あれを見て、論理で人を説得していると思う者は少ないだろう。威圧によって供述を形づくろうとする姿は、法治国家というより、筋書きを先に決めて役者に台詞を言わせる芝居小屋を思わせる。本来なら証拠があって身体拘束が許されるべきなのに、この事件では身体拘束によって証拠を探そうとしているかのようだった。法の順序が、見事に逆立ちしていたのである。
さらに検察は、山岸氏らが会社や弁護士とともに行った尋問対策の協議メモを見つけて「証拠隠滅の教唆」と位置づけた。しかし、不当な嫌疑をかけられたと考える者が会社や弁護士と相談し、取調べへの備えをすることは、防御権そのものである。動画はこのメモの作成動機をめぐっての詰問だった。法が保障した権利を犯罪の兆候に読み替えるなら、誰も安心して弁護士に相談できなくなる。大川原化工機事件でも、「まず結論ありき」で証拠を後から当てはめようとした捜査が破綻した。本件もまた、その延長線上にあるように見えてならない。
プレサンス事件では、会社側は当初、検察と正面から争わず、早期収束を期待した。しかし、人質司法という病に対して沈黙は万能薬ではない。密室で進む捜査には、報道により世論という光を当てなければならない。近年ようやく取調べの録画や内部告発によって、刑事司法の密室にも風が通い始めた。「証拠なくして人を拘束してはならない」という、民主国家ではあまりにも当然の原則が、ようやく現実の司法でも語られ始めたのである。
にもかかわらず、事件全体を振り返る報道は、山岸氏の冤罪には光を当てても、その立件の過程で重要な位置を占めたK氏の事件にはほとんど踏み込まない。公開された取調べ映像を見れば、強い心理的圧力の下で供述が形成される危うさは誰の目にも明らかである。K氏の事件についても、その供述形成の過程や有罪認定の根拠が十分検証されているとは言い難い。事件を本当に検証するというなら、そこまで掘り下げなければ片手落ちであろう。司法を監視する最後の砦は裁判所だけではない。事実を掘り起こし、密室に光を当て続ける報道もまた、その重い責任を負っているのである。
現役VS高齢者?保険料負担 ― 2026年07月15日
与党が「高齢者の窓口負担を見直す」と骨太方針に書き込んだというニュースが流れた。政治家は「現役世代の負担を軽くするためだ」と胸を張る。こちらは朝の食卓で焼き海苔をちぎりながら、「また話を単純化してくれたものだ」とため息をつく。高齢者の1割負担を3割にすれば若者が助かる──そんな年齢対立の物語は耳目を集めやすく、説明も簡単で、政治には実に都合がいい。しかし制度の中身を見れば、話はまったく違う。
後期高齢者の医療費は本人が1割を払い、残り2割は公費で賄われている。現役世代の保険料(支援金)はこの2割には使われていない。つまり窓口負担を3割にするとは、公費で支えていた2割を高齢者本人に肩代わりさせるだけで、現役の保険料が軽くなる話ではない。現役の負担は1ミリも動かない。動くのは公費だけだ。鍋底の焦げだけを見て「料理全体が分かった」と言い張るようなものである。
数字を見れば、この構図が財政トリックであることはすぐ分かる。高齢者の平均的な自己負担は月7,000~8,000円。それを3倍にすれば2万円を超える。一方、現役の保険料は制度構造上まったく変わらない。医療費総額が同じである以上、支援金が軽くなる余地はない。「若者が助かる」という物語は、制度の実態とは噛み合っていないのである。
年金10万円台で暮らす人にとって、2万円の医療費は重い。病気は我慢できず、多くの人は払わざるを得ない。その代わりに削られるのは食費であり、光熱費であり、日々の暮らしそのものだ。医療費の負担増とは生活費の切り下げにほかならない。味噌汁の具が豆腐のかけらだけになる暮らしを想像すれば十分である。
それほど生活を切り詰めてもらって得られる「改革の成果」が、公費負担を減らすことだけだとしたら、それを公平な制度改革と呼べるだろうか。現役と高齢者は別々の人間ではない。誰もが制度を支える側から支えられる側へ移る。にもかかわらず、議論は「若者対高齢者」という静止画ばかりを描きたがる。人は一生のうちに保険料を負担する側にも、給付を受ける側にもなる。それが社会保険という仕組みである。
制度の持続可能性を考えるなら、窓口負担ではなく、所得に応じた負担の在り方そのものを見直すべきだ。とりわけ現役の保険料制度には重大な欠陥がある。標準報酬月額の上限によって高所得者の保険料は頭打ちとなり、支払い能力に応じた負担になっていない。その不足分を、老後の金融資産やその所得から回収しようとする制度案も提示されている。しかし金融資産とは、現役時代に税と社会保険料を支払った後の剰余を蓄積したものであり、金融所得も全世代共通に20%の金融課税がすでに行われている。こうした課税済みストックや課税済み所得に保険料率を重ねるのは、税原理と保険原理の混同であり、実質的な二重課徴というゆがみを不可避に生む。
本当に問われるべきは高齢者ではない。制度そのものである。世代を競わせる物語ではなく、病気という誰にでも訪れ得るリスクを社会全体で支え合う──その社会保険の原理を守ることこそ、本来の制度改革ではないだろうか。
後期高齢者の医療費は本人が1割を払い、残り2割は公費で賄われている。現役世代の保険料(支援金)はこの2割には使われていない。つまり窓口負担を3割にするとは、公費で支えていた2割を高齢者本人に肩代わりさせるだけで、現役の保険料が軽くなる話ではない。現役の負担は1ミリも動かない。動くのは公費だけだ。鍋底の焦げだけを見て「料理全体が分かった」と言い張るようなものである。
数字を見れば、この構図が財政トリックであることはすぐ分かる。高齢者の平均的な自己負担は月7,000~8,000円。それを3倍にすれば2万円を超える。一方、現役の保険料は制度構造上まったく変わらない。医療費総額が同じである以上、支援金が軽くなる余地はない。「若者が助かる」という物語は、制度の実態とは噛み合っていないのである。
年金10万円台で暮らす人にとって、2万円の医療費は重い。病気は我慢できず、多くの人は払わざるを得ない。その代わりに削られるのは食費であり、光熱費であり、日々の暮らしそのものだ。医療費の負担増とは生活費の切り下げにほかならない。味噌汁の具が豆腐のかけらだけになる暮らしを想像すれば十分である。
それほど生活を切り詰めてもらって得られる「改革の成果」が、公費負担を減らすことだけだとしたら、それを公平な制度改革と呼べるだろうか。現役と高齢者は別々の人間ではない。誰もが制度を支える側から支えられる側へ移る。にもかかわらず、議論は「若者対高齢者」という静止画ばかりを描きたがる。人は一生のうちに保険料を負担する側にも、給付を受ける側にもなる。それが社会保険という仕組みである。
制度の持続可能性を考えるなら、窓口負担ではなく、所得に応じた負担の在り方そのものを見直すべきだ。とりわけ現役の保険料制度には重大な欠陥がある。標準報酬月額の上限によって高所得者の保険料は頭打ちとなり、支払い能力に応じた負担になっていない。その不足分を、老後の金融資産やその所得から回収しようとする制度案も提示されている。しかし金融資産とは、現役時代に税と社会保険料を支払った後の剰余を蓄積したものであり、金融所得も全世代共通に20%の金融課税がすでに行われている。こうした課税済みストックや課税済み所得に保険料率を重ねるのは、税原理と保険原理の混同であり、実質的な二重課徴というゆがみを不可避に生む。
本当に問われるべきは高齢者ではない。制度そのものである。世代を競わせる物語ではなく、病気という誰にでも訪れ得るリスクを社会全体で支え合う──その社会保険の原理を守ることこそ、本来の制度改革ではないだろうか。
「骨太ショック」 ― 2026年07月13日
日本の報道というものは、数字を扱うとき妙に潔癖である。潔癖というより、数字を一つだけ摘み上げ、それに都合のよい物語を貼り付ける手際が実に鮮やかだ。おかげで複数の統計を因果の網の目の中で読み解くという、世界ではごく当たり前の作法が、どうにも日本では根付かない。円安が進めば「家計の悲鳴」、金利が上がれば「国債暴落の前兆」、景況感DIが悪化すれば「日本経済の終幕」である。まるでオーケストラを前にしてティンパニだけを叩き続け、「これが交響曲だ」と胸を張っているようなものだ。経済とは本来、無数の旋律が互いを支え、ときに打ち消し合いながら均衡を保つ、多声的な交響楽なのである。
この単眼の癖は、新聞社へ入ってから身につくわけではない。教育の段階で、すでに静かに仕込まれている。高校の「公共」や「政治・経済」は数字そのものは教える。しかし数字同士の関係はほとんど教えない。インフレ率と失業率、政策金利とエネルギー価格、実質賃金と名目GDPを結び付け、「さて、この国はいまどちらへ歩いているのだろう」と考えさせる授業には、めったに出会わない。対照的に米国では、多くの州で中等教育の段階から複数の統計を関連付けて経済現象を説明する訓練が行われ、Council for Economic Educationの教育基準でも、データを横断して解釈する力が学習目標として掲げられている。数字を覚える国と、数字を読む国。その違いは、単なる授業内容の差ではない。社会が何を知性とみなし、何を教養と考えるかという理念の差であり、制度の差なのである。
政府の骨太方針をめぐる「骨太ショック」報道は、その欠落を見事なまでに露呈した。長期金利がわずかに動いただけで、「財政危機の足音」「市場が骨太方針に反乱」と勇ましい見出しが紙面を踊る。新聞というものは、ときどき見出しを書くために世の中が存在していると思っている節がある。しかし同じ週に名目GDPが上方改定され、税収が増え、企業収益が改善していたという、経済のもう一つの顔にはほとんど触れられなかった。円安が輸出企業の利益を押し上げ、金利上昇が金融機関の収益を改善する側面も、都合よく舞台袖へ追いやられる。長期金利が米国金利や国際資金フローの影響を強く受けるという、ごく当たり前の事実さえ、「骨太ショック」という筋書きには少々都合が悪かったらしい。数字は揃っている。欠けていたのは、数字そのものではなく、その読み方である。
行政もまた、縦割りという古くて頑丈な壁から自由ではない。役所というところは、自分の井戸の水位は毎日量る。しかし隣村の川が干上がっていても、それは所管外ということになりやすい。農政は需給DIと在庫を見つめ、財政は税収を見つめ、金融政策は物価と金利を見つめる。それぞれの数字については驚くほど詳しいのに、それらを横断して一枚の風景として読む段になると、急に心もとなくなる。専門化が進めば知識は深まる。しかし視野まで深まるとは限らない。むしろ専門が細分化されるほど、木を見る力は増し、森を見る力は痩せていく。数字は十分にあるのに、景色だけが見えてこないのである。
だから日本では、社会へ出ても、一つの数字だけを根拠に議論が進みやすい。コメ価格でもエネルギー価格でも長期金利でも、川上で起きている変化を見ず、川下に現れた現象だけを追い掛ける。政策金利の引上げを求めながら、長期金利の上昇には驚いてみせるという、因果のねじれも珍しくない。欠けているのは統計ではない。統計を複眼で読み、互いの因果をたどり、判断へ結び付ける制度と文化である。統計とは未来を占う水晶玉ではなく、現在という複雑な風景を読み解くための地図にほかならない。地図はすでに手元にある。足りないのは、それを広げ、方角を確かめ、隣り合う地形を見比べながら歩く習慣だけである。
この単眼の癖は、新聞社へ入ってから身につくわけではない。教育の段階で、すでに静かに仕込まれている。高校の「公共」や「政治・経済」は数字そのものは教える。しかし数字同士の関係はほとんど教えない。インフレ率と失業率、政策金利とエネルギー価格、実質賃金と名目GDPを結び付け、「さて、この国はいまどちらへ歩いているのだろう」と考えさせる授業には、めったに出会わない。対照的に米国では、多くの州で中等教育の段階から複数の統計を関連付けて経済現象を説明する訓練が行われ、Council for Economic Educationの教育基準でも、データを横断して解釈する力が学習目標として掲げられている。数字を覚える国と、数字を読む国。その違いは、単なる授業内容の差ではない。社会が何を知性とみなし、何を教養と考えるかという理念の差であり、制度の差なのである。
政府の骨太方針をめぐる「骨太ショック」報道は、その欠落を見事なまでに露呈した。長期金利がわずかに動いただけで、「財政危機の足音」「市場が骨太方針に反乱」と勇ましい見出しが紙面を踊る。新聞というものは、ときどき見出しを書くために世の中が存在していると思っている節がある。しかし同じ週に名目GDPが上方改定され、税収が増え、企業収益が改善していたという、経済のもう一つの顔にはほとんど触れられなかった。円安が輸出企業の利益を押し上げ、金利上昇が金融機関の収益を改善する側面も、都合よく舞台袖へ追いやられる。長期金利が米国金利や国際資金フローの影響を強く受けるという、ごく当たり前の事実さえ、「骨太ショック」という筋書きには少々都合が悪かったらしい。数字は揃っている。欠けていたのは、数字そのものではなく、その読み方である。
行政もまた、縦割りという古くて頑丈な壁から自由ではない。役所というところは、自分の井戸の水位は毎日量る。しかし隣村の川が干上がっていても、それは所管外ということになりやすい。農政は需給DIと在庫を見つめ、財政は税収を見つめ、金融政策は物価と金利を見つめる。それぞれの数字については驚くほど詳しいのに、それらを横断して一枚の風景として読む段になると、急に心もとなくなる。専門化が進めば知識は深まる。しかし視野まで深まるとは限らない。むしろ専門が細分化されるほど、木を見る力は増し、森を見る力は痩せていく。数字は十分にあるのに、景色だけが見えてこないのである。
だから日本では、社会へ出ても、一つの数字だけを根拠に議論が進みやすい。コメ価格でもエネルギー価格でも長期金利でも、川上で起きている変化を見ず、川下に現れた現象だけを追い掛ける。政策金利の引上げを求めながら、長期金利の上昇には驚いてみせるという、因果のねじれも珍しくない。欠けているのは統計ではない。統計を複眼で読み、互いの因果をたどり、判断へ結び付ける制度と文化である。統計とは未来を占う水晶玉ではなく、現在という複雑な風景を読み解くための地図にほかならない。地図はすでに手元にある。足りないのは、それを広げ、方角を確かめ、隣り合う地形を見比べながら歩く習慣だけである。
全東信倒産の仕組み ― 2026年07月12日
先日、決済代行会社の全東信(大阪市中央区)が力尽きてしまった。ニュースでは「全国の小さなお店が売上金を受け取れず大混乱」と騒いでいるけれど、画面を見ているこちらは思わずお茶を飲む手が止まった。だってこの会社、カード会社からの入金を待たず、お店へ先に売上金を支払う「早期入金サービス」を売りにしていたのだ。聞こえは便利だが、仕組みを少し考えれば眉間にしわが寄る。本当にこんな綱渡りが長く続くのだろうか、と。
算数の得意な小学生なら「先生、これ続きません」と手を挙げるだろう。お店の売上を先に立て替え、あとから少しだけ手数料を受け取る商売だ。しかも便利な“立て替え屋さん”になればなるほど、「はいはい、先に払いますよ」と差し出すお金は雪だるま式に膨らんでいく。昨日の立て替えを回すために今日も立て替え、明日もまた立て替える。こぎ続けなければ倒れる自転車なのに、前へ進むほど立て替え額という荷物だけが重くなる。そんな、じわじわ体力を削られる商売なのである。
それなのに、この会社は二十年以上も事業を続け、最後は粉飾決算にまで手を染めたというのだから、「ええっ」と声が出る。資金繰りが苦しくなれば、赤字を隠してでも資金調達を続けたいという誘惑が生まれるのは珍しい話ではない。会計士や税理士も関わっていたらしいが、結局は止められなかった。止めようとした人はいたのかもしれない。それでも経営者が「うちは大丈夫」と言い張れば、組織はそちらへ流れてしまう。非上場の中堅企業の社長というのは、売上が伸びているときほど妙に自信満々になり、耳がふさがってしまうことがある。周囲は陰で苦笑しながらも、本気では止め切れない。学校で妙にテンションが高い男子を誰も止められず、遠巻きに見守る空気によく似ている。
そもそも、この会社が相手にしていたのは、資金繰りに余裕のない小規模事業者や、売上の変動が大きい店だった。名義上は健全に見える加盟店も少なくなかったが、その名義のいくつかは、全東信がカード会社の審査を通すために用意した“偽装”であり、本来なら審査に通らない事業者を別名義の傘の下へ潜り込ませるために使われていた。つまり、健全に見える名義の中に、実態としては高リスクの店が意図的に混ぜ込まれていたのである。こうなると事故率はじわじわ跳ね上がる。
信用の弱い店ほど「今日の売上を今日ほしい」と早期入金を求め、立て替え額は膨らみ続ける。まともな店が積み上げる利益より、高リスク加盟店が生む損失のほうが重くなれば、経営は追い詰められていく。決済代行会社と呼ばれてはいたが、早期入金サービスだけ見れば、実態は短期の運転資金を供給する金融業に近い。本来なら厳しい信用管理が求められる事業なのに、無担保で資金を差し出しているような危うさがあった。手数料を少々高くしても、とても吸収しきれない構造だったのである。そこへ来て偽装発覚で銀行融資が止まり、万事休すとなったのが事件の全容だ。
そして一番気の毒なのは、売上金が入らなくなったお店の人たちだ。未入金は約二万件、五十三億円規模。給料が払えない。仕入れもできない。家賃も払えない。数字は冷たいが、その裏には「今日もお客さんが来てくれるだろうか」と胸を締めつけられながら店を開けてきた人たちの暮らしがある。そこへ突然「売上金は入りません」と告げられるのだから、泣くしかない。レジ横の観葉植物まで、しょんぼりして見えてくる。
つまり今回の騒ぎは、信用管理と資金管理を誤った経営を誰も止められないまま二十年以上引っ張り、そのツケを最後に一番弱い立場の人たちが背負わされたという、なんとも後味の悪い話なのである。ニュースを閉じたあと、胸のあたりがじんわり重くなる。食べようと思っていたプリンを誰かに先に食べられたときの、あのやるせなさに少し似ている。もっとも、プリンはまた買えばいい。潰れた店は、そうはいかない。
追記:
今回の全東信方式の破綻という出来事は、一企業の資金管理やガバナンスの失敗として片づけてしまうには、どこか惜しい気がする。もちろん、直接の原因は企業の内部にある。しかし、世の中には一社だけを眺めていては見えてこない景色というものがある。都市という生き物は、地域経済の危険をどう嗅ぎ取り、どう受け止めるのか──今回問われているのは、そのことである。
大阪市行政には昔から、縦割りだとか閉鎖性だとか、いろいろ言われてきた。役所というものは、どこの国でも放っておけば書類は縦に積み上がるが、情報は横へ流れにくい。消費者相談は消費者行政へ、中小企業の資金繰りは産業部門へ、金融機関の動きはまた別の部署へという具合である。行政組織図を眺めていると、なるほど情報が一か所に集まりにくい理由がよく分かる。全東信のような事業が、その隙間へ入り込んだとしても、さほど不思議な話ではないのかもしれない。
もちろん、実際にどれほどの情報が行政に集まり、それを束ねれば危険を早く察知できたのかは分からない。ここは実証を待つしかない。しかし、だからといって都市行政には何の役割もないと言ってしまえば、少々乱暴である。都市は法律を執行するだけではなく、地域経済を眺め、その変調を感じ取る役目も担っているはずだからだ。許認可権限はなくとも、注意喚起を行い、情報を集め、関係機関を結び付け、必要であれば制度改善を国に求める。そんな「柔らかな防波堤」を築く余地は、確かにあったように思われる。
東京都との比較や都構想については、もう少し慎重でありたい。制度を統合すれば万事うまくいくというほど、行政は単純ではない。しかし、情報が一つの器に集まりやすい制度と、組織の境界を何度もまたがなければならない制度とでは、危険を見つける速さに違いが生まれる可能性はある。その程度のことは言ってもよいだろう。行政というものは、器の形が変われば、情報の流れ方も変わるのだから。
結局のところ、今回の出来事が問いかけているのは、一企業の失敗ではなく、都市は自分の経済をどこまで自分で守る気があるのか、ということである。答えはまだ出ていない。しかし、この問いだけは、全東信とともに倒産させてしまってはいけない。都市が危険を察知し、自ら防波堤を築こうとする。その意思があるかどうかは、おそらく次の危機が教えてくれる。
算数の得意な小学生なら「先生、これ続きません」と手を挙げるだろう。お店の売上を先に立て替え、あとから少しだけ手数料を受け取る商売だ。しかも便利な“立て替え屋さん”になればなるほど、「はいはい、先に払いますよ」と差し出すお金は雪だるま式に膨らんでいく。昨日の立て替えを回すために今日も立て替え、明日もまた立て替える。こぎ続けなければ倒れる自転車なのに、前へ進むほど立て替え額という荷物だけが重くなる。そんな、じわじわ体力を削られる商売なのである。
それなのに、この会社は二十年以上も事業を続け、最後は粉飾決算にまで手を染めたというのだから、「ええっ」と声が出る。資金繰りが苦しくなれば、赤字を隠してでも資金調達を続けたいという誘惑が生まれるのは珍しい話ではない。会計士や税理士も関わっていたらしいが、結局は止められなかった。止めようとした人はいたのかもしれない。それでも経営者が「うちは大丈夫」と言い張れば、組織はそちらへ流れてしまう。非上場の中堅企業の社長というのは、売上が伸びているときほど妙に自信満々になり、耳がふさがってしまうことがある。周囲は陰で苦笑しながらも、本気では止め切れない。学校で妙にテンションが高い男子を誰も止められず、遠巻きに見守る空気によく似ている。
そもそも、この会社が相手にしていたのは、資金繰りに余裕のない小規模事業者や、売上の変動が大きい店だった。名義上は健全に見える加盟店も少なくなかったが、その名義のいくつかは、全東信がカード会社の審査を通すために用意した“偽装”であり、本来なら審査に通らない事業者を別名義の傘の下へ潜り込ませるために使われていた。つまり、健全に見える名義の中に、実態としては高リスクの店が意図的に混ぜ込まれていたのである。こうなると事故率はじわじわ跳ね上がる。
信用の弱い店ほど「今日の売上を今日ほしい」と早期入金を求め、立て替え額は膨らみ続ける。まともな店が積み上げる利益より、高リスク加盟店が生む損失のほうが重くなれば、経営は追い詰められていく。決済代行会社と呼ばれてはいたが、早期入金サービスだけ見れば、実態は短期の運転資金を供給する金融業に近い。本来なら厳しい信用管理が求められる事業なのに、無担保で資金を差し出しているような危うさがあった。手数料を少々高くしても、とても吸収しきれない構造だったのである。そこへ来て偽装発覚で銀行融資が止まり、万事休すとなったのが事件の全容だ。
そして一番気の毒なのは、売上金が入らなくなったお店の人たちだ。未入金は約二万件、五十三億円規模。給料が払えない。仕入れもできない。家賃も払えない。数字は冷たいが、その裏には「今日もお客さんが来てくれるだろうか」と胸を締めつけられながら店を開けてきた人たちの暮らしがある。そこへ突然「売上金は入りません」と告げられるのだから、泣くしかない。レジ横の観葉植物まで、しょんぼりして見えてくる。
つまり今回の騒ぎは、信用管理と資金管理を誤った経営を誰も止められないまま二十年以上引っ張り、そのツケを最後に一番弱い立場の人たちが背負わされたという、なんとも後味の悪い話なのである。ニュースを閉じたあと、胸のあたりがじんわり重くなる。食べようと思っていたプリンを誰かに先に食べられたときの、あのやるせなさに少し似ている。もっとも、プリンはまた買えばいい。潰れた店は、そうはいかない。
追記:
今回の全東信方式の破綻という出来事は、一企業の資金管理やガバナンスの失敗として片づけてしまうには、どこか惜しい気がする。もちろん、直接の原因は企業の内部にある。しかし、世の中には一社だけを眺めていては見えてこない景色というものがある。都市という生き物は、地域経済の危険をどう嗅ぎ取り、どう受け止めるのか──今回問われているのは、そのことである。
大阪市行政には昔から、縦割りだとか閉鎖性だとか、いろいろ言われてきた。役所というものは、どこの国でも放っておけば書類は縦に積み上がるが、情報は横へ流れにくい。消費者相談は消費者行政へ、中小企業の資金繰りは産業部門へ、金融機関の動きはまた別の部署へという具合である。行政組織図を眺めていると、なるほど情報が一か所に集まりにくい理由がよく分かる。全東信のような事業が、その隙間へ入り込んだとしても、さほど不思議な話ではないのかもしれない。
もちろん、実際にどれほどの情報が行政に集まり、それを束ねれば危険を早く察知できたのかは分からない。ここは実証を待つしかない。しかし、だからといって都市行政には何の役割もないと言ってしまえば、少々乱暴である。都市は法律を執行するだけではなく、地域経済を眺め、その変調を感じ取る役目も担っているはずだからだ。許認可権限はなくとも、注意喚起を行い、情報を集め、関係機関を結び付け、必要であれば制度改善を国に求める。そんな「柔らかな防波堤」を築く余地は、確かにあったように思われる。
東京都との比較や都構想については、もう少し慎重でありたい。制度を統合すれば万事うまくいくというほど、行政は単純ではない。しかし、情報が一つの器に集まりやすい制度と、組織の境界を何度もまたがなければならない制度とでは、危険を見つける速さに違いが生まれる可能性はある。その程度のことは言ってもよいだろう。行政というものは、器の形が変われば、情報の流れ方も変わるのだから。
結局のところ、今回の出来事が問いかけているのは、一企業の失敗ではなく、都市は自分の経済をどこまで自分で守る気があるのか、ということである。答えはまだ出ていない。しかし、この問いだけは、全東信とともに倒産させてしまってはいけない。都市が危険を察知し、自ら防波堤を築こうとする。その意思があるかどうかは、おそらく次の危機が教えてくれる。