ゴールポストをずらすな ― 2026年06月02日
沖縄・辺野古の海で、抗議活動団体の船に生徒が乗り込み事故が起きた。文科省は、フィールドワークを行った同志社国際高校に対し「政治的活動と一体化」し教育基本法に違反していると発表した。すると、これに真っ先に反発したのが共産党である。「教育への介入だ」「フィールドワークの自由を守れ」と、立派な言葉を次々と繰り出す。だが、その言葉の勢いとは裏腹に、肝心の現場の話になると急に口が重くなる。料理番組で「味付けが命です」と言いながら、鍋の中身だけは絶対に見せない、あのもどかしさである。
事実はそう複雑ではない。抗議活動が続く海域に出向き、その活動に関わる団体の船に乗り、講師は「自分たちは違法なこともしている」と語った。教師もそれを聞いていた。それでも学習を続けた。ここまで並べれば、議論の半分は終わっている。残るのは「その判断は適切だったのか」という一点だけだ。ところが、この“簡単な問い”ほど、共産党はなぜか遠回りしたがる。真っすぐ歩けば五分で着くのに、わざわざ峠道に入り、尾根を三つ越えて、道に迷い、気づけば元の場所に戻って目的地には到着しない。
案の定、話は妙な方向へ曲がる。「政党支持ではないから問題ない」「教育の自由が大事だ」「平和教育を委縮させるな」。どれも耳ざわりはいい。だが、それは鍋の“味付け”の話であって、“材料”の話ではない。文科省が問うているのは「政治的活動と一体化して偏向していないか」という一点なのに、その問いに正面から答えず、別の話にすり替える。材料を見せずに「この料理は自由の味がします」と言われても、こちらは困る。自由の味とは何か。塩なのか、砂糖なのか、それともただの言い訳なのか。
さらに厄介なのは、共産党の側も理屈に逃げたくなることだ。「中立性がどうだ」「法解釈がどうだ」と積み上げれば、それらしくは見える。だが、事実を見ずに論理だけ積むのは、砂の上に城を建てるようなものだ。形は立派でも、波が来れば一瞬で崩れる。しかも、その砂の城を前にして「これは平和と自由の象徴である」と言い出す人まで現れる。そこまで来ると、もう議論ではなく、砂遊びである。
本質はもっと単純だ。違法行為を含むと自ら語る主体の現場に、生徒を置いた。その判断は適切だったのか。ここに尽きる。違法性の細部を大仰に論じるまでもなく、その時点で教育としての線を越えている、と考えるのが自然だろう。ところが、この「自然」がまた気に食わないらしい。どれだけ大雨が降っていても「俺は風邪ひかない」と言い張って傘をささない人のように、当たり前のことでも認めようとしない。
結局のところ、議論とは難しい言葉を並べることではない。まず事実を拾い、その上で判断する。それだけの話である。当たり前のことを当たり前にやる。それができないとき、人は抽象論という季節外れの厚着をしてしまう。真夏にコートを着込んで汗だくになりながら、「これで理屈は通る」と妙に安心している姿である。今回の一件は、その姿をいやに鮮明に映し出している。議論の道は本来まっすぐなのに、わざわざ曲がり角を探しに行く。その癖が、今回も見事に顔を出したのである。
事実はそう複雑ではない。抗議活動が続く海域に出向き、その活動に関わる団体の船に乗り、講師は「自分たちは違法なこともしている」と語った。教師もそれを聞いていた。それでも学習を続けた。ここまで並べれば、議論の半分は終わっている。残るのは「その判断は適切だったのか」という一点だけだ。ところが、この“簡単な問い”ほど、共産党はなぜか遠回りしたがる。真っすぐ歩けば五分で着くのに、わざわざ峠道に入り、尾根を三つ越えて、道に迷い、気づけば元の場所に戻って目的地には到着しない。
案の定、話は妙な方向へ曲がる。「政党支持ではないから問題ない」「教育の自由が大事だ」「平和教育を委縮させるな」。どれも耳ざわりはいい。だが、それは鍋の“味付け”の話であって、“材料”の話ではない。文科省が問うているのは「政治的活動と一体化して偏向していないか」という一点なのに、その問いに正面から答えず、別の話にすり替える。材料を見せずに「この料理は自由の味がします」と言われても、こちらは困る。自由の味とは何か。塩なのか、砂糖なのか、それともただの言い訳なのか。
さらに厄介なのは、共産党の側も理屈に逃げたくなることだ。「中立性がどうだ」「法解釈がどうだ」と積み上げれば、それらしくは見える。だが、事実を見ずに論理だけ積むのは、砂の上に城を建てるようなものだ。形は立派でも、波が来れば一瞬で崩れる。しかも、その砂の城を前にして「これは平和と自由の象徴である」と言い出す人まで現れる。そこまで来ると、もう議論ではなく、砂遊びである。
本質はもっと単純だ。違法行為を含むと自ら語る主体の現場に、生徒を置いた。その判断は適切だったのか。ここに尽きる。違法性の細部を大仰に論じるまでもなく、その時点で教育としての線を越えている、と考えるのが自然だろう。ところが、この「自然」がまた気に食わないらしい。どれだけ大雨が降っていても「俺は風邪ひかない」と言い張って傘をささない人のように、当たり前のことでも認めようとしない。
結局のところ、議論とは難しい言葉を並べることではない。まず事実を拾い、その上で判断する。それだけの話である。当たり前のことを当たり前にやる。それができないとき、人は抽象論という季節外れの厚着をしてしまう。真夏にコートを着込んで汗だくになりながら、「これで理屈は通る」と妙に安心している姿である。今回の一件は、その姿をいやに鮮明に映し出している。議論の道は本来まっすぐなのに、わざわざ曲がり角を探しに行く。その癖が、今回も見事に顔を出したのである。
阿部元監督逮捕と記者クラブ ― 2026年05月30日
阿部慎之助前監督の家族内トラブルが、なぜか全国ニュースのトップを飾った。胸ぐらをつかんでポンと投げたといっても怪我なしで、普通の家庭なら「お父さんまた怒鳴ってるよ」で終わる話である。それが発生当夜に全国一斉報道、翌日には監督辞任という、まるで“巨人監督専用・緊急速報ボタン”でも押されたかのようなスピード感だ。市民は「うわ、阿部やっちゃったよ」と飛びつき、スナック菓子のように軽いスキャンダルをサクサク消費する。食べても何も残らないのに、つい手が伸びる、あの感じである。
今回の件で特に妙なのは、そもそも逮捕要件を満たしていなかった可能性が極めて高い点である。家族内トラブルで怪我なし、現場はすでに収束、逃亡のおそれゼロ、証拠隠滅の余地もほぼなし。法律の教科書に照らせば「逮捕の必要性なし」と赤ペンで書かれるレベルである。本来なら現場警官は「任意同行で事情を聞く」が正解だった。しかし現場は“逮捕”としてしまい、署に戻った時点でも上司が訂正できなかった。警察組織では、現場の逮捕判断を否定すると責任問題になるため、誤りを誤りとして扱えない。書類を作る段階でも、逮捕の必要性を説明するのは相当無理があったはずだ。
その結果、朝まで拘留すらできず、わずか五時間程度で釈放することになった。これは警察自身が「逮捕の必要性がなかった」と行動で認めたようなものである。ところが、ここで矛盾が生じる。逮捕の必要性がなかったなら、なぜ逮捕したのか。なぜ訂正しなかったのか。なぜ書類を作ったのか。こうした疑問を封じるために、警察は“先に世論を作る”必要に迫られた。そこで使われたのが、記者クラブへの即時リークである。
さて、この記者クラブというのがまた独特で、行政の建物内にちゃっかり住みつく“下宿人”のような存在である。しかもこの下宿、大家(行政)の家の中にあるのに、なぜか「権力を監視します」と胸を張っている。大家の家に住んで大家を監視する――そんな芸当ができるなら、世の中もっと平和である。
しかし実際は、下宿人は大家の顔色をうかがい、廊下で大家とすれ違うと背筋がピンと伸び、冷蔵庫のプリンには「食べないでください」と自分で貼った付箋をそっと確認し、毎日「今日もよろしくお願いします」と頭を下げ、家賃代わりに“記事”を書いている。これでは監視どころか、ほぼ内弟子である。
本来なら記者会見で「逃亡のおそれって何ですか」「証拠隠滅って何を隠すんですか」と聞くべきなのに、聞かない。聞けない。聞いたら翌日から大家(警察)からの差し入れ(リーク)がもらえなくなる。差し入れがないと記事が書けない。記事が書けないとデスクに怒られる。怒られると胃が痛くなる。胃が痛くなると、もう質問どころではない。こうして“質問しない下宿人”が完成する。
その結果、大家が「これ、ちょっと大げさに書いといて」と言えば、下宿人は「はいはい」と全国に配達する。まるでホースの先を握らずに蛇口をひねったように、情報がビャーッと飛び散る。飛び散った先で、当事者のプライバシーだけがズブ濡れになる。報道の自由とは、本来“大家の言い分を疑う自由”であるはずなのに、現実は“大家の言い分を運ぶ自由”になってしまっている。今回のように逮捕要件がスカスカでも、誰も「おかしい」と言わないまま、行政の判断がそのまま“ニュース”として流通してしまう。
記者クラブがなければ、警察は即時リークという便利なボタンを押せなかったし、下宿人も大家の言い分をそのまま全国にばらまくことはなかっただろう。独立した記者が自由に質問し、自由に検証し、自由に書く環境であれば、今回のような“誤った逮捕の正当化ショー”は成立しなかったはずだ。つまり記者クラブとは、行政の誤りを隠し、当事者のプライバシーを傷つけ、社会全体を大騒ぎに巻き込む“静かなる下宿制度”である。音はしないが、確実に増幅する。今回の件は、その下宿制度がフル稼働した結果だと言える。
今回の件で特に妙なのは、そもそも逮捕要件を満たしていなかった可能性が極めて高い点である。家族内トラブルで怪我なし、現場はすでに収束、逃亡のおそれゼロ、証拠隠滅の余地もほぼなし。法律の教科書に照らせば「逮捕の必要性なし」と赤ペンで書かれるレベルである。本来なら現場警官は「任意同行で事情を聞く」が正解だった。しかし現場は“逮捕”としてしまい、署に戻った時点でも上司が訂正できなかった。警察組織では、現場の逮捕判断を否定すると責任問題になるため、誤りを誤りとして扱えない。書類を作る段階でも、逮捕の必要性を説明するのは相当無理があったはずだ。
その結果、朝まで拘留すらできず、わずか五時間程度で釈放することになった。これは警察自身が「逮捕の必要性がなかった」と行動で認めたようなものである。ところが、ここで矛盾が生じる。逮捕の必要性がなかったなら、なぜ逮捕したのか。なぜ訂正しなかったのか。なぜ書類を作ったのか。こうした疑問を封じるために、警察は“先に世論を作る”必要に迫られた。そこで使われたのが、記者クラブへの即時リークである。
さて、この記者クラブというのがまた独特で、行政の建物内にちゃっかり住みつく“下宿人”のような存在である。しかもこの下宿、大家(行政)の家の中にあるのに、なぜか「権力を監視します」と胸を張っている。大家の家に住んで大家を監視する――そんな芸当ができるなら、世の中もっと平和である。
しかし実際は、下宿人は大家の顔色をうかがい、廊下で大家とすれ違うと背筋がピンと伸び、冷蔵庫のプリンには「食べないでください」と自分で貼った付箋をそっと確認し、毎日「今日もよろしくお願いします」と頭を下げ、家賃代わりに“記事”を書いている。これでは監視どころか、ほぼ内弟子である。
本来なら記者会見で「逃亡のおそれって何ですか」「証拠隠滅って何を隠すんですか」と聞くべきなのに、聞かない。聞けない。聞いたら翌日から大家(警察)からの差し入れ(リーク)がもらえなくなる。差し入れがないと記事が書けない。記事が書けないとデスクに怒られる。怒られると胃が痛くなる。胃が痛くなると、もう質問どころではない。こうして“質問しない下宿人”が完成する。
その結果、大家が「これ、ちょっと大げさに書いといて」と言えば、下宿人は「はいはい」と全国に配達する。まるでホースの先を握らずに蛇口をひねったように、情報がビャーッと飛び散る。飛び散った先で、当事者のプライバシーだけがズブ濡れになる。報道の自由とは、本来“大家の言い分を疑う自由”であるはずなのに、現実は“大家の言い分を運ぶ自由”になってしまっている。今回のように逮捕要件がスカスカでも、誰も「おかしい」と言わないまま、行政の判断がそのまま“ニュース”として流通してしまう。
記者クラブがなければ、警察は即時リークという便利なボタンを押せなかったし、下宿人も大家の言い分をそのまま全国にばらまくことはなかっただろう。独立した記者が自由に質問し、自由に検証し、自由に書く環境であれば、今回のような“誤った逮捕の正当化ショー”は成立しなかったはずだ。つまり記者クラブとは、行政の誤りを隠し、当事者のプライバシーを傷つけ、社会全体を大騒ぎに巻き込む“静かなる下宿制度”である。音はしないが、確実に増幅する。今回の件は、その下宿制度がフル稼働した結果だと言える。
日本海マグロ大漁問題 ― 2026年05月29日
最近、日本海のマグロが大漁らしい。水温の上昇だの、餌のイワシが湧いただの、理由はいくつかあるが、とにかく海の中では「今年は俺たちの天下だ」とばかりに黒い弾丸が右へ左へ暴れ回っている。佐渡の定置網など、朝の網起こしが“マグロの出勤点呼”と化している。上げれば、どっさり。ところが漁師さんの顔は晴れない。「ありがたいけど、ありがたくない」。この一言に、いまの漁業の歪みが丸ごと詰まっている。
理由は単純で、漁獲枠という“お上の線引き”があるからだ。一定量を超えると、どれだけ網に入っても獲ってはいけない。だからどうするか。せっかく入ったマグロを海に戻す。だが戻されたマグロは体表を傷つけ、酸欠気味で、海に戻った瞬間に「もう無理」と沈んでいく。資源保護の名のもとに行われているのは、実のところ“無駄死にの量産”である。現場にすれば、これほど虚しい作業はない。
しかもマグロが増えすぎた影響は、海の“脇役たち”にまで及んでいる。タイやイナダが例年の一割しか獲れないという声が、佐渡だけでなく能登、山形からも上がる。マグロだけが大食い大会に出場して、他の魚を片っ端から平らげているようなものだ。海のバランスが崩れているのは明らかだが、ルールの側は驚くほど鈍感である。
太平洋クロマグロは、日本海を含めた太平洋全体で一つの資源として管理される。つまり、日本海でいくら増えようが、太平洋側が「まだ回復途上」とされている限り、枠は動かない。海はつながっている、という理屈はもっともだが、その結果として起きているのは、「目の前に魚がいるのに獲れない」という寓話のような現実だ。しかも放流しても死ぬ。これでは“資源保護”ではなく“資源浪費”である。本来なら、魚が増えたら獲る、減ったら控える——そんな当たり前の調整を毎年やればいいのに、日本は“真面目の国”として枠を動かさない。
国際枠は変えずとも、日本海と太平洋は、まず運用だけでも分けてしまえばいい。日本海は増えすぎ、太平洋は魚が来ない。だから日本海では稚魚を守り、網目を大きくし、漁法を選び、定置網は季節で動かす。太平洋側は、来ない魚を追い回すより燃料を無駄にしない操業に切り替える。日本海で出た利益は太平洋に回す。これだけで、海の無駄も陸のいさかいも「まあまあ、落ち着こうや」と勝手に収まる。落ち着かないのは人間のほうだ。データを日替わりで共有し、枠や漁期をその場で調整すれば、太平洋では“獲れないまま走り回る”ことが減る。資源が少ない海域には補填を、資源が多い海域の利益は不漁地域に回す。育てる側が損をしない仕組みだ。
問題は、それが“できない理由”である。国内配分は日本の裁量で動かせるのに、行政も政治もそっと目をそらす。「政治リスク」などと難しく言うが、実態は町内会の揉め事に口を出すと、連合会の役員が“このままじゃ宴会が押す”と時計ばかり気にして、本来の調整役をそっとサボる、あの感じである。全体の利益よりも、宴会の開始時刻のほうが大事らしい。太平洋側の議員は漁獲量が上がらないのに補助金の増額だけを要求し、「はい、仕事しました」と胸を張る。日本全体を見る視野が、どうにも見当たらない。
本当は、この“当たり前の組み合わせ”をやれば地域は息を吹き返すのに、誰もやらない。海は変わり、魚は動くのに、配分だけが石のように動かない。救われていないのは漁師でも魚でもなく、“ルール”だけである。
理由は単純で、漁獲枠という“お上の線引き”があるからだ。一定量を超えると、どれだけ網に入っても獲ってはいけない。だからどうするか。せっかく入ったマグロを海に戻す。だが戻されたマグロは体表を傷つけ、酸欠気味で、海に戻った瞬間に「もう無理」と沈んでいく。資源保護の名のもとに行われているのは、実のところ“無駄死にの量産”である。現場にすれば、これほど虚しい作業はない。
しかもマグロが増えすぎた影響は、海の“脇役たち”にまで及んでいる。タイやイナダが例年の一割しか獲れないという声が、佐渡だけでなく能登、山形からも上がる。マグロだけが大食い大会に出場して、他の魚を片っ端から平らげているようなものだ。海のバランスが崩れているのは明らかだが、ルールの側は驚くほど鈍感である。
太平洋クロマグロは、日本海を含めた太平洋全体で一つの資源として管理される。つまり、日本海でいくら増えようが、太平洋側が「まだ回復途上」とされている限り、枠は動かない。海はつながっている、という理屈はもっともだが、その結果として起きているのは、「目の前に魚がいるのに獲れない」という寓話のような現実だ。しかも放流しても死ぬ。これでは“資源保護”ではなく“資源浪費”である。本来なら、魚が増えたら獲る、減ったら控える——そんな当たり前の調整を毎年やればいいのに、日本は“真面目の国”として枠を動かさない。
国際枠は変えずとも、日本海と太平洋は、まず運用だけでも分けてしまえばいい。日本海は増えすぎ、太平洋は魚が来ない。だから日本海では稚魚を守り、網目を大きくし、漁法を選び、定置網は季節で動かす。太平洋側は、来ない魚を追い回すより燃料を無駄にしない操業に切り替える。日本海で出た利益は太平洋に回す。これだけで、海の無駄も陸のいさかいも「まあまあ、落ち着こうや」と勝手に収まる。落ち着かないのは人間のほうだ。データを日替わりで共有し、枠や漁期をその場で調整すれば、太平洋では“獲れないまま走り回る”ことが減る。資源が少ない海域には補填を、資源が多い海域の利益は不漁地域に回す。育てる側が損をしない仕組みだ。
問題は、それが“できない理由”である。国内配分は日本の裁量で動かせるのに、行政も政治もそっと目をそらす。「政治リスク」などと難しく言うが、実態は町内会の揉め事に口を出すと、連合会の役員が“このままじゃ宴会が押す”と時計ばかり気にして、本来の調整役をそっとサボる、あの感じである。全体の利益よりも、宴会の開始時刻のほうが大事らしい。太平洋側の議員は漁獲量が上がらないのに補助金の増額だけを要求し、「はい、仕事しました」と胸を張る。日本全体を見る視野が、どうにも見当たらない。
本当は、この“当たり前の組み合わせ”をやれば地域は息を吹き返すのに、誰もやらない。海は変わり、魚は動くのに、配分だけが石のように動かない。救われていないのは漁師でも魚でもなく、“ルール”だけである。
対外純資産で3位転落? ― 2026年05月28日
財務省が発表した対外純資産の数字を見て、またぞろ「日本の順位が下がった!」と大騒ぎする報道が出てきた。ドイツと中国に抜かれて3位ですって? まるで、運動会で抜かれた子どもを見て「うちの子はもうダメだ」と嘆く親みたいな反応である。しかし実態はどうか。日本の純資産はむしろ増えている。順位が下がったのは、為替と貿易構造の違いがつくった“順位のいたずら”にすぎない。にもかかわらず、順位だけを見て国力の未来を語ろうとするのは、順位表だけ見て健康を判断するようなものだ。
ドイツは輸出黒字で食べてきたが、エネルギー高とEVシフトで足元がぐらついている。中国は外貨準備こそ巨大だが、政治リスクと資本規制で、財布の中身があっても自由に使えない状態だ。その点、日本はというと、企業も個人も年金基金も、海外でコツコツ利子と配当を稼いでくる。いわば“働き者の財布”である。年間30兆円規模の第一次所得収支がある国など、そうそうない。順位ではなく「どう稼ぐか」で見れば、日本はむしろ一番手堅い。
さらに、円安と巨額の対外資産。これがまた、国内産業を立て直すには絶好の材料なのだが、「外貨を円に替えたら円高になる」といった単純な話がまかり通っている。為替市場は1日数百兆円が飛び交う大海原である。そこにバケツ一杯の水を戻したところで、波の高さは変わらない。円安の主因は金利差であって、資金移動そのものではない。つまり、外貨を国内に戻して産業に投資する余地は、ちゃんとある。
人手不足もサプライチェーンの揺らぎも、悲観するよりむしろ「そろそろ体質改善しなさいよ」という天の声のようなものだ。自動化投資が進み、低生産性企業が退出し、労働が高付加価値部門へ移る。海外生産の“安くて安全”という神話も崩れ、国内回帰は合理的な選択になった。ところが、この流れを後押しするはずの政策が、なぜか逆方向を向いている。
とりわけ脱炭素を成長戦略の中心に据える発想は、現実の産業構造とズレている。再エネ比率を増やせば電力コストが上がるのは欧州が証明済みで、日本も同じ道をたどりかねない。高コスト電力で産業を再建しようというのは、順位を上げたいと言いながら足に重りをつけて走るような矛盾である。必要なのは、高効率火力と原子力による安定した電力供給で、その上に自動車、石油精製、半導体といった基盤産業を再編することだ。
円安、外貨資産、人手不足、供給網の再編――これらはすべて「今こそ国内投資だよ」と同じ方向を指している。ところが報道は、順位というわかりやすい指標に固執し、日本の進むべき道を見失わせる。問題は順位ではない。順位に振り回されて、肝心の“どこへ向かうか”を忘れてしまうことである。
ドイツは輸出黒字で食べてきたが、エネルギー高とEVシフトで足元がぐらついている。中国は外貨準備こそ巨大だが、政治リスクと資本規制で、財布の中身があっても自由に使えない状態だ。その点、日本はというと、企業も個人も年金基金も、海外でコツコツ利子と配当を稼いでくる。いわば“働き者の財布”である。年間30兆円規模の第一次所得収支がある国など、そうそうない。順位ではなく「どう稼ぐか」で見れば、日本はむしろ一番手堅い。
さらに、円安と巨額の対外資産。これがまた、国内産業を立て直すには絶好の材料なのだが、「外貨を円に替えたら円高になる」といった単純な話がまかり通っている。為替市場は1日数百兆円が飛び交う大海原である。そこにバケツ一杯の水を戻したところで、波の高さは変わらない。円安の主因は金利差であって、資金移動そのものではない。つまり、外貨を国内に戻して産業に投資する余地は、ちゃんとある。
人手不足もサプライチェーンの揺らぎも、悲観するよりむしろ「そろそろ体質改善しなさいよ」という天の声のようなものだ。自動化投資が進み、低生産性企業が退出し、労働が高付加価値部門へ移る。海外生産の“安くて安全”という神話も崩れ、国内回帰は合理的な選択になった。ところが、この流れを後押しするはずの政策が、なぜか逆方向を向いている。
とりわけ脱炭素を成長戦略の中心に据える発想は、現実の産業構造とズレている。再エネ比率を増やせば電力コストが上がるのは欧州が証明済みで、日本も同じ道をたどりかねない。高コスト電力で産業を再建しようというのは、順位を上げたいと言いながら足に重りをつけて走るような矛盾である。必要なのは、高効率火力と原子力による安定した電力供給で、その上に自動車、石油精製、半導体といった基盤産業を再編することだ。
円安、外貨資産、人手不足、供給網の再編――これらはすべて「今こそ国内投資だよ」と同じ方向を指している。ところが報道は、順位というわかりやすい指標に固執し、日本の進むべき道を見失わせる。問題は順位ではない。順位に振り回されて、肝心の“どこへ向かうか”を忘れてしまうことである。
「琉球民族」認定勧告 ― 2026年05月26日
沖縄の祖国復帰54周年の式典で、琉球王家の末裔である尚衛さんがメッセージを寄せた。これがなんとも静かなのである。静かなのだけれど、背筋がピッと伸びている。まるで、誰も気づかないうちに核心をスッと差し出すような、不思議な凄みがある。なぜ尚さんがわざわざ釘を刺したかというと、中国が国連の場で「沖縄は日本のものじゃない」「沖縄の人々は先住民族だ」といった話を、まるで“今日もこの話題でいきます”とばかりに繰り返しているからだ。これに対し尚さんは、「沖縄の地位はすでに決まっている。係争地のように扱うのは危険だ」と淡々と、しかし確かな温度でクギを刺した。放置しておくと、物語が勝手に歩き出すことがあるからだ。
国連も国連で、2008年以降、沖縄を先住民族として認めるよう日本に6回も勧告している。6回である。一度や二度なら「まあ意見としては分かる」で済むが、6回となると、これはもう“ストーカー”の領域だ。しかもその根拠は、一部の独立派NGOの提出資料が中心で、沖縄県民の多数意見とはどうにも噛み合っていない。ここで思い出されるのが、アイヌ先住民族認定のときの流れだ。2007年に国連が先に宣言を採択し、翌年、日本政府が追認した。北海道の人たちが「え、どういうこと?」と言っている間に、国際的な流れが先に形を作ってしまった。「国連 → 国内政策」という順番で、地域の議論が置き去りになった。この前例を見て、「国連を使えば日本の内部問題を国際化できる」と考える国が出てきても不思議ではない。
そして、我々日本人の“戦後のクセ”がここで顔を出す。国連(=連合国)と聞くと、どうにも弱い。敗戦時の記憶がどこかに沈殿しているのか、「国連が言うなら正しいのだろう」と条件反射的に思ってしまう。まさにパブロフの犬である。ベルが鳴ったら反応、国連が言ったら従順。そろそろ卒業したい習性だ。しかも困ったことに、国連の組織の中には、中国が主導権を握っているものが少なくない。にもかかわらず、「国連=中立で正しい」という思い込みが根強い。印籠を見せられた町人のように「ははーっ」とひれ伏してしまう。だが、その印籠、よく見ると誰が持っているのか、誰が磨いているのか、誰が裏で使い方を決めているのか――そこまで気にする人は意外と少ないのである。
さらに笑えないのが、中国の“人権”の使い方である。自国内では、新疆ウイグル自治区での強制的な同化政策や、チベットでの宗教・文化への厳しい統制など、国際社会から何度も問題視されている民族弾圧を抱えている。ところが、そういう国に限って、沖縄のように深刻な人権弾圧が存在しない地域に対して「これは重大な人権問題だ!」と声を上げるのだから、これはもう“盗人猛々しい”という日本語がピタリと当てはまる。人権の香りは一ミリもせず、代わりに第一列島線を揺さぶるための地政学的な計算だけが、ツンと鼻をつく。
そもそも民族の問題というのは、その土地の人と国が時間をかけて向き合うべきもので、外部が軽々しく口を出すべきではない。沖縄で深刻な人権侵害が起きているわけでもないのに、国連の委員会がロビー活動に影響されて“先住民族”のラベルを貼ろうとするのは、やはり慎重さを欠く。沖縄の歴史や文化を大切にすることと、外部の政治的利用を警戒することは両立する。むしろ今は、その両方が必要だ。誰かが勝手に“沖縄の物語”を書き始める前に、当事者が「それは違う」と言うこと。その大切さを、尚衛さんの静かな言葉が教えてくれている。
国連も国連で、2008年以降、沖縄を先住民族として認めるよう日本に6回も勧告している。6回である。一度や二度なら「まあ意見としては分かる」で済むが、6回となると、これはもう“ストーカー”の領域だ。しかもその根拠は、一部の独立派NGOの提出資料が中心で、沖縄県民の多数意見とはどうにも噛み合っていない。ここで思い出されるのが、アイヌ先住民族認定のときの流れだ。2007年に国連が先に宣言を採択し、翌年、日本政府が追認した。北海道の人たちが「え、どういうこと?」と言っている間に、国際的な流れが先に形を作ってしまった。「国連 → 国内政策」という順番で、地域の議論が置き去りになった。この前例を見て、「国連を使えば日本の内部問題を国際化できる」と考える国が出てきても不思議ではない。
そして、我々日本人の“戦後のクセ”がここで顔を出す。国連(=連合国)と聞くと、どうにも弱い。敗戦時の記憶がどこかに沈殿しているのか、「国連が言うなら正しいのだろう」と条件反射的に思ってしまう。まさにパブロフの犬である。ベルが鳴ったら反応、国連が言ったら従順。そろそろ卒業したい習性だ。しかも困ったことに、国連の組織の中には、中国が主導権を握っているものが少なくない。にもかかわらず、「国連=中立で正しい」という思い込みが根強い。印籠を見せられた町人のように「ははーっ」とひれ伏してしまう。だが、その印籠、よく見ると誰が持っているのか、誰が磨いているのか、誰が裏で使い方を決めているのか――そこまで気にする人は意外と少ないのである。
さらに笑えないのが、中国の“人権”の使い方である。自国内では、新疆ウイグル自治区での強制的な同化政策や、チベットでの宗教・文化への厳しい統制など、国際社会から何度も問題視されている民族弾圧を抱えている。ところが、そういう国に限って、沖縄のように深刻な人権弾圧が存在しない地域に対して「これは重大な人権問題だ!」と声を上げるのだから、これはもう“盗人猛々しい”という日本語がピタリと当てはまる。人権の香りは一ミリもせず、代わりに第一列島線を揺さぶるための地政学的な計算だけが、ツンと鼻をつく。
そもそも民族の問題というのは、その土地の人と国が時間をかけて向き合うべきもので、外部が軽々しく口を出すべきではない。沖縄で深刻な人権侵害が起きているわけでもないのに、国連の委員会がロビー活動に影響されて“先住民族”のラベルを貼ろうとするのは、やはり慎重さを欠く。沖縄の歴史や文化を大切にすることと、外部の政治的利用を警戒することは両立する。むしろ今は、その両方が必要だ。誰かが勝手に“沖縄の物語”を書き始める前に、当事者が「それは違う」と言うこと。その大切さを、尚衛さんの静かな言葉が教えてくれている。
利上げ前線北上中? ― 2026年05月25日
日銀がまた利上げをするのではないか、と最近よく言われる。テレビをつければ「利上げ前線北上中」、ネットを見れば「市場は追加利上げを織り込みへ」。なんだか台風情報みたいである。長期金利が2.8%に上がった、などというニュースが流れると、スタジオの空気は急に深刻になる。「インフレ再燃ですね」「日銀も動かざるを得ませんね」と、みんなで顔を曇らせる。しかし、こういうときほど、少し落ち着いて数字を見た方がいい。東京都区部のコアコアCPIは1.9%。もちろんゼロではない。物価は上がっている。しかし、「日本経済が熱々で大暴走」というほどの感じでもない。需給ギャップはほぼ中立で、賃金上昇も加熱と言えるほどではない。
しかも、去年12月には0.25%の利上げが実施されている。金利というのは、注射みたいに打った瞬間に効くものではない。あとからじわじわ効いてくる。最近インフレ率が少し落ち着いてきたのも、その影響が出始めているのだろう。実質賃金はまだ弱く、個人消費も力強いとは言い難い。設備投資だって、金利上昇に敏感になり始めている。つまり、「超低金利が続きすぎているから急いで正常化しなければならない」というほどの状況ではない。むしろ、薬が効き始めた患者に向かって、「念のため、もう一錠どうですか」と勧めているようなところがある。
しかも今回の長期金利上昇には、海外要因がかなり混じっている。アメリカの金利が上がれば、日本もつられて上がる。原油価格も、中東情勢や戦争で簡単に動く。こういうものは、日銀が短期金利を少しいじったところで、「はい止まりました」とはならない。台風が来ているときに、扇風機を強にして対抗するようなものだ。それなのに、「長期金利上昇=利上げ不可避」という話だけがどんどん大きくなる。最近の経済報道は、数字を見ているのか、空気を見ているのか、だんだん分からなくなってくる。なんだか“市場の実況中継”ばかりが盛り上がって、本来の経済分析が後ろへ下がっている感じがする。
もちろん、利上げを歓迎する人たちがいるのは理解できる。低金利が長く続けば、銀行の利ざやは細る。しかし、銀行収益の改善と、日本経済全体に追加利上げが必要かどうかは別問題である。利上げをすれば、住宅ローンは重くなる。企業の借入負担も増える。設備投資も鈍るかもしれない。特に日本は、まだ「景気が強すぎて困る」という国ではない。需要の勢いは限定的で、賃金上昇もようやく始まったばかりだ。そこで追加利上げを急げば、せっかく動き始めた景気の芽を冷やしてしまう可能性もある。「少し熱っぽいですね」と言いながら、冷房を18度設定にするような危うさがあるのである。
本来、金融政策というのは、もっと地味なもののはずだ。コアコアCPIが1.9%なら、その中身を見る。長期金利が上がったなら、それが国内要因なのか海外要因なのかを分けて考える。需給ギャップや実質賃金、消費動向を静かに確認する。そういう、目立たない作業の積み重ねで決めるべき話である。ところが最近は、「利上げするのか、しないのか」という実況中継ばかりが盛り上がる。だが、金融政策は空気で決めるものではない。必要なのは、「正常化」という言葉に酔うことでも、「インフレ再燃」と大声を出すことでもなく、本当に国内需要主導のインフレが定着しているのかを、数字ベースで静かに見極めることだろう。
しかも、去年12月には0.25%の利上げが実施されている。金利というのは、注射みたいに打った瞬間に効くものではない。あとからじわじわ効いてくる。最近インフレ率が少し落ち着いてきたのも、その影響が出始めているのだろう。実質賃金はまだ弱く、個人消費も力強いとは言い難い。設備投資だって、金利上昇に敏感になり始めている。つまり、「超低金利が続きすぎているから急いで正常化しなければならない」というほどの状況ではない。むしろ、薬が効き始めた患者に向かって、「念のため、もう一錠どうですか」と勧めているようなところがある。
しかも今回の長期金利上昇には、海外要因がかなり混じっている。アメリカの金利が上がれば、日本もつられて上がる。原油価格も、中東情勢や戦争で簡単に動く。こういうものは、日銀が短期金利を少しいじったところで、「はい止まりました」とはならない。台風が来ているときに、扇風機を強にして対抗するようなものだ。それなのに、「長期金利上昇=利上げ不可避」という話だけがどんどん大きくなる。最近の経済報道は、数字を見ているのか、空気を見ているのか、だんだん分からなくなってくる。なんだか“市場の実況中継”ばかりが盛り上がって、本来の経済分析が後ろへ下がっている感じがする。
もちろん、利上げを歓迎する人たちがいるのは理解できる。低金利が長く続けば、銀行の利ざやは細る。しかし、銀行収益の改善と、日本経済全体に追加利上げが必要かどうかは別問題である。利上げをすれば、住宅ローンは重くなる。企業の借入負担も増える。設備投資も鈍るかもしれない。特に日本は、まだ「景気が強すぎて困る」という国ではない。需要の勢いは限定的で、賃金上昇もようやく始まったばかりだ。そこで追加利上げを急げば、せっかく動き始めた景気の芽を冷やしてしまう可能性もある。「少し熱っぽいですね」と言いながら、冷房を18度設定にするような危うさがあるのである。
本来、金融政策というのは、もっと地味なもののはずだ。コアコアCPIが1.9%なら、その中身を見る。長期金利が上がったなら、それが国内要因なのか海外要因なのかを分けて考える。需給ギャップや実質賃金、消費動向を静かに確認する。そういう、目立たない作業の積み重ねで決めるべき話である。ところが最近は、「利上げするのか、しないのか」という実況中継ばかりが盛り上がる。だが、金融政策は空気で決めるものではない。必要なのは、「正常化」という言葉に酔うことでも、「インフレ再燃」と大声を出すことでもなく、本当に国内需要主導のインフレが定着しているのかを、数字ベースで静かに見極めることだろう。
国力研究会 ― 2026年05月24日
JiB(ジブ) という略称は、国力研究会の発足と同時に永田町へポンと投げ込まれた。ところが、この三文字の出生届をたどっていくと、高市首相の強い意志も、麻生太郎氏の「うむ、それでいこう」という鶴の一声も見当たらない。派閥解消でふわふわ宙に浮いた議員たちを、とりあえず一つの“器”にギュッと押し込み、結果として“最大会派”の巨大パックを作る──そのために事務局が若手受けを狙ったのか慌ただしくこしらえた英語風ブランド名らしい、というあたりが実に永田町的である。
そもそも JiB には公式の英語展開がない。Japan initiative Boost(日本のイニシアティブ促進)でも、Japan innovation Base(日本のイノベーション基盤)でも、あとから好きな味をつけられる“空白の三文字”。語感だけがスタスタ先に歩き、意味は後ろで息を切らして「ちょっと待って」と追いかけてくる。そのうえ「JiB」という音は、英語では jibe(しりごみする)を連想させるというのだから、国力研究会の威厳とはどうにも相性が悪い。
では、なぜそんな略称が採用されたのか。背景には、派閥解消で行き場を失った議員たちを“檻”にまとめて収容し、巨大な数字で政権の延命を図るという萩生田氏らの計算があった。三百四十七人を詰め込めば、「党の八割が支持」という巨大なハリボテが完成する。中身がスカスカでも、数字だけは立派に見える。だからこそ、略称も中身より“見た目”が優先された。英語三文字にすれば若者にウケるだろう、という昭和マーケティングの亡霊が、ここでひょっこり顔を出したわけだ。
しかし、この“雰囲気づくり”は見事に裏目に出た。以下の訳の方が完璧に一致するのだ。JiB の「i」はirregular。ただの「不規則」ではない。英語では統制されていない、まとまりがない、即席の、規律を欠いたという、 なかなか手厳しいニュアンスを帯びる。まさに、思想も立場もバラバラの三百四十七人を押し込んだ現状を、ピタリと言い当ててしまった。政策議論は薄味の湯豆腐のように方向性を失い、 JiB の「B」は bunch。 bunch(寄せ集め)と言う単語がぴったり合う。
そして、この“巨大会派”の対極として、反主流派の存在感がむしろクッキリと浮かび上がってきた。JiB が大きくなればなるほど、「政策軸を持つ少数派」という希少種が、かえって目立つ。反主流派は、JiB の曖昧さを背景に、逆説的に“筋の通った集団”として見えてしまう。
さらに、かつて永田町を一喝できた麻生氏の求心力も、この雑多な気配にまぎれて輪郭を失っていく。昭和政治が信じていた「数は力だ」という呪文は、令和の世論の風の前ではすっかり効き目がない。むしろ、数をかき集めた瞬間に力がスルスル抜け落ちていく。語感だけで作られた三文字は、巨大組織の空虚さをそのまま映し出す鏡になってしまったのである。JiB(ジブ):Japan irregular Bunch(日本烏合の衆)。
そもそも JiB には公式の英語展開がない。Japan initiative Boost(日本のイニシアティブ促進)でも、Japan innovation Base(日本のイノベーション基盤)でも、あとから好きな味をつけられる“空白の三文字”。語感だけがスタスタ先に歩き、意味は後ろで息を切らして「ちょっと待って」と追いかけてくる。そのうえ「JiB」という音は、英語では jibe(しりごみする)を連想させるというのだから、国力研究会の威厳とはどうにも相性が悪い。
では、なぜそんな略称が採用されたのか。背景には、派閥解消で行き場を失った議員たちを“檻”にまとめて収容し、巨大な数字で政権の延命を図るという萩生田氏らの計算があった。三百四十七人を詰め込めば、「党の八割が支持」という巨大なハリボテが完成する。中身がスカスカでも、数字だけは立派に見える。だからこそ、略称も中身より“見た目”が優先された。英語三文字にすれば若者にウケるだろう、という昭和マーケティングの亡霊が、ここでひょっこり顔を出したわけだ。
しかし、この“雰囲気づくり”は見事に裏目に出た。以下の訳の方が完璧に一致するのだ。JiB の「i」はirregular。ただの「不規則」ではない。英語では統制されていない、まとまりがない、即席の、規律を欠いたという、 なかなか手厳しいニュアンスを帯びる。まさに、思想も立場もバラバラの三百四十七人を押し込んだ現状を、ピタリと言い当ててしまった。政策議論は薄味の湯豆腐のように方向性を失い、 JiB の「B」は bunch。 bunch(寄せ集め)と言う単語がぴったり合う。
そして、この“巨大会派”の対極として、反主流派の存在感がむしろクッキリと浮かび上がってきた。JiB が大きくなればなるほど、「政策軸を持つ少数派」という希少種が、かえって目立つ。反主流派は、JiB の曖昧さを背景に、逆説的に“筋の通った集団”として見えてしまう。
さらに、かつて永田町を一喝できた麻生氏の求心力も、この雑多な気配にまぎれて輪郭を失っていく。昭和政治が信じていた「数は力だ」という呪文は、令和の世論の風の前ではすっかり効き目がない。むしろ、数をかき集めた瞬間に力がスルスル抜け落ちていく。語感だけで作られた三文字は、巨大組織の空虚さをそのまま映し出す鏡になってしまったのである。JiB(ジブ):Japan irregular Bunch(日本烏合の衆)。
「STAP細胞」騒動 ― 2026年05月23日
2014年の「STAP細胞」騒動というのは、科学の不正だの研究倫理だのと白衣の袖口みたいに清潔ぶった言葉で片づけられるような代物ではなかった。むしろ、科学の仮面をかぶった巨大な利権劇場、政治と学界が裏で糸を引きまくった平成最後の見世物小屋である。2024年にアメリカで関連特許が認められたと聞いた途端、「やっぱりあったんだ」と手のひら返しで騒ぎ出す世間も世間だが、特許と科学の再現性は別腹。国が実験で確かめないペーパー特許など知財戦略の空手形にすぎない。科学界の公式見解は今も「ES細胞の混入」。ただし、その混入がいつ誰の手でどんな都合で起きたのかという核心部分は、なぜか誰も触れたがらない。宴会で誰かが落とした財布を全員が見て見ぬふりしているような気味の悪さが漂っている。
この混入疑惑の流れがまた妙だ。若山教授は当初、「STAP細胞に使われたのは、うちのラボのES細胞ではない」と主張し、自らDNA解析を求めた。ところがフタを開けてみれば、解析結果は「STAP細胞とされたサンプルは、若山ラボで保管されていたES細胞株と一致します」というオチである。つまり、最初は「その包丁、うちのじゃない」と突っぱねておきながら、鑑識に回したら「やっぱりあなたの包丁でした」と返ってきた格好だ。それでも「自分が混入させたわけではない」とは言い張るから、では誰がいつその包丁を握ったのかと尋ねれば、そこだけ急に照明が落ちて真っ真っ暗になる。出所は分かっているのに、混入者だけが煙のように消える。この否定の否定の構図こそ、事件最大のブラックボックスである。
そもそもこの研究は2011〜12年頃に、小保方氏の「要領の良さ」と、若山氏の神業キメラ技術という世界最高峰の職人芸が噛み合って転がり始めた。ここで最大の元凶となったのが早稲田大学である。実験ノートすらまともに書けず、博士論文を20ページも丸コピペするような「研究者としての基礎的素養」が皆無の学生に、まともな審査もせず博士号という免責証を与えて世に放流した。大学の杜撰な全肯定のせいで、彼女は「研究なんて、見栄えの良いプレゼンとコピペで体裁を整えればパスできるちょろいゲームだ」と致命的な誤学習をしてしまった。周囲の学者たちは、彼女のその圧倒的な脇の甘さと、客観性を欠いた情緒的なパーソナリティに早くから気づいていたはずだ。気づいていたからこそ、いつでも切り捨てられる従順な「神輿」として、また予算獲得の「広告塔」として都合よく利用したのである。
若山氏が2012年末、これから自分たちの実験の論文に取り掛かるというタイミングで理研を去り山梨大へ移籍したのも不可解だ。小保方氏のデータ管理の危うさを察知し、論文が破綻したときに「理研という別組織の、彼女個人の暴走」と言い逃れできるよう、あらかじめ籍を抜いて完璧な両天秤のアリバイを作ったようにも見える。そして2014年、案の定論文が破綻した瞬間、大人たちの冷酷な組織防衛システムが作動した。若山氏は誰よりも早く論文撤回を叫んで「最初の告発者(被害者)」のポジションに収まり、理研はロックダウンとかん口令で現場の若手研究者たちの口を完全に塞いだ。科学的な検証など最初から二の次で、すべての責任を「研究の詳細な経緯も示せず、情緒的な恨み言しか書けない未熟なひよっこ」一人に集中させ、大人たちだけが安全圏へ逃げ切るトカゲの尻尾切りが行われたように見える。
事件から十二年。2026年の今、小保方氏は静かに暮らし、若山氏は宇宙でのクローン研究など生命科学の重鎮としてトップに立ち続ける。そして、彼女に実験ノートが科学者の命であることも教えず未熟なまま放流した早稲田大学もまた、何事もなかったかのように最高学府の顔をしている。あまりにも綺麗に分かれた明暗を見ると、歴史はいつも強者の手で書き換えられるのだと嫌でも思い知らされる。科学界のドンだった笹井氏がその歪んだ政治劇の罪悪感とプライドの崩壊から自ら命を絶ったのに対し、最も現場の生データに近かった若山氏が栄達を極めている不条理。教科書がどう言おうが、あの時あったのは奇跡の細胞などではなく、無知なピエロを極限までしゃぶり尽くし、泥船が沈む寸前に神輿を放り投げて勝ち逃げした大人たちの損得勘定の残骸なのだ。
この混入疑惑の流れがまた妙だ。若山教授は当初、「STAP細胞に使われたのは、うちのラボのES細胞ではない」と主張し、自らDNA解析を求めた。ところがフタを開けてみれば、解析結果は「STAP細胞とされたサンプルは、若山ラボで保管されていたES細胞株と一致します」というオチである。つまり、最初は「その包丁、うちのじゃない」と突っぱねておきながら、鑑識に回したら「やっぱりあなたの包丁でした」と返ってきた格好だ。それでも「自分が混入させたわけではない」とは言い張るから、では誰がいつその包丁を握ったのかと尋ねれば、そこだけ急に照明が落ちて真っ真っ暗になる。出所は分かっているのに、混入者だけが煙のように消える。この否定の否定の構図こそ、事件最大のブラックボックスである。
そもそもこの研究は2011〜12年頃に、小保方氏の「要領の良さ」と、若山氏の神業キメラ技術という世界最高峰の職人芸が噛み合って転がり始めた。ここで最大の元凶となったのが早稲田大学である。実験ノートすらまともに書けず、博士論文を20ページも丸コピペするような「研究者としての基礎的素養」が皆無の学生に、まともな審査もせず博士号という免責証を与えて世に放流した。大学の杜撰な全肯定のせいで、彼女は「研究なんて、見栄えの良いプレゼンとコピペで体裁を整えればパスできるちょろいゲームだ」と致命的な誤学習をしてしまった。周囲の学者たちは、彼女のその圧倒的な脇の甘さと、客観性を欠いた情緒的なパーソナリティに早くから気づいていたはずだ。気づいていたからこそ、いつでも切り捨てられる従順な「神輿」として、また予算獲得の「広告塔」として都合よく利用したのである。
若山氏が2012年末、これから自分たちの実験の論文に取り掛かるというタイミングで理研を去り山梨大へ移籍したのも不可解だ。小保方氏のデータ管理の危うさを察知し、論文が破綻したときに「理研という別組織の、彼女個人の暴走」と言い逃れできるよう、あらかじめ籍を抜いて完璧な両天秤のアリバイを作ったようにも見える。そして2014年、案の定論文が破綻した瞬間、大人たちの冷酷な組織防衛システムが作動した。若山氏は誰よりも早く論文撤回を叫んで「最初の告発者(被害者)」のポジションに収まり、理研はロックダウンとかん口令で現場の若手研究者たちの口を完全に塞いだ。科学的な検証など最初から二の次で、すべての責任を「研究の詳細な経緯も示せず、情緒的な恨み言しか書けない未熟なひよっこ」一人に集中させ、大人たちだけが安全圏へ逃げ切るトカゲの尻尾切りが行われたように見える。
事件から十二年。2026年の今、小保方氏は静かに暮らし、若山氏は宇宙でのクローン研究など生命科学の重鎮としてトップに立ち続ける。そして、彼女に実験ノートが科学者の命であることも教えず未熟なまま放流した早稲田大学もまた、何事もなかったかのように最高学府の顔をしている。あまりにも綺麗に分かれた明暗を見ると、歴史はいつも強者の手で書き換えられるのだと嫌でも思い知らされる。科学界のドンだった笹井氏がその歪んだ政治劇の罪悪感とプライドの崩壊から自ら命を絶ったのに対し、最も現場の生データに近かった若山氏が栄達を極めている不条理。教科書がどう言おうが、あの時あったのは奇跡の細胞などではなく、無知なピエロを極限までしゃぶり尽くし、泥船が沈む寸前に神輿を放り投げて勝ち逃げした大人たちの損得勘定の残骸なのだ。
合成の誤謬ナフサ問題 ― 2026年05月22日
ナフサ由来の商品が足りない――とニュースが言う。ナフサ? なんだか聞き覚えはあるのに、いざとなると正体がつかめない。灯油のはとこか、ガソリンの遠い親戚か。そんな曖昧な存在が、突然「不足するらしい」と言われると、こちらの心まで曖昧にざわつく。で、ざわついた心が棚に走る。ああ、また始まった。トイレットペーパー、マスク、そして今回はナフサ。日本人は“○○不足”と聞くと、反射的に棚へダッシュする民族なのか。
ところがよく聞けば、ナフサそのものは足りているという。蒸留も順調、タンカーも元気に来ている。足りないのは、その先の溶剤だの樹脂だの、用途別の“細かいところ”だけらしい。つまり、全体は満タンなのに、蛇口のネジがちょっと固い、みたいな話だ。それなのに人間は、部分の不足を見ると全体が危ないと思い込む。いわゆる「合成の誤謬」である。近所のスーパーの棚が空だと、日本全体が終わった気がする。SNSがそれを全国に拡声して、火に油を注ぐ。いや、ナフサに油を注ぐのはどうかと思うが。
で、みんなが「念のため」に買う。念のための念のため。すると本当に不足する。いわゆるブルウィップ効果というやつだ。店で5%売れ残りが減ると、卸は20%増発注、メーカーは40%増産、上流は100%。まるで伝言ゲームで「りんご」が「ドラゴンフルーツ」になるように、需要が勝手に膨れ上がる。で、過剰発注の山ができ、買い占めが終わると今度は暴落。市場は忙しい。ジェットコースターに乗せられているみたいだが、乗っているのは私たちである。
ここで政府が慌てて「買い占めはやめて」と言うと、逆に不安が増す。「やめて」と言われると「やっぱり危ないのか」と思うのが人情だ。数量制限をかければ「ほら見ろ」となる。価格を固定すれば供給が死に、統制経済の入口が開く。統制すれば裏をかく者が出る。配給すれば闇市場が生まれる。歴史は何度も見た光景である。善意で始めた統制が、気づけば同じ失敗をなぞる。ではどうするか。万能薬はない。あるのは「市場を殺さず、パニックだけ殺す」という、少々気難しい処方箋だ。価格は自由に、数量制限は最小限に、情報は用途別に細かく出す。どこが詰まり、どこは流れているのかを、全体ではなく“蛇口”の話として伝える。それでも揺れは消えないが、揺れ方は穏やかになる。
結局、必要なのは教育である。といっても、黒板いっぱいにグラフを描くような話ではない。もっと実用的で、もう少し切実なやつだ。たとえば道徳の時間に「トイレットペーパーがなくなりそうなときの心の持ち方」をやる。先生が教壇に立つ。「はい、ここにクラス1日分の3ロールがあります。さて、どうしますか」生徒A「全部買います!」生徒B「半分にします!」生徒C「家にあるけど念のため1個買います!」ここで先生、チョークを持って黒板に一行。「それ、30人全員がやるとどうなる?」教室が一瞬だけ静かになる。たぶんこの沈黙が、いちばん大事なところだ。これでいい。立派な経済教育である。下手なグラフを何枚も見せるより、よほど効く。大人になってからニュースを見て棚に走るより、ずっと安上がりで、しかも副作用がない。社会は完璧に安定しないが、少なくとも自分の足でダッシュする回数くらいは減らせる。
ところがよく聞けば、ナフサそのものは足りているという。蒸留も順調、タンカーも元気に来ている。足りないのは、その先の溶剤だの樹脂だの、用途別の“細かいところ”だけらしい。つまり、全体は満タンなのに、蛇口のネジがちょっと固い、みたいな話だ。それなのに人間は、部分の不足を見ると全体が危ないと思い込む。いわゆる「合成の誤謬」である。近所のスーパーの棚が空だと、日本全体が終わった気がする。SNSがそれを全国に拡声して、火に油を注ぐ。いや、ナフサに油を注ぐのはどうかと思うが。
で、みんなが「念のため」に買う。念のための念のため。すると本当に不足する。いわゆるブルウィップ効果というやつだ。店で5%売れ残りが減ると、卸は20%増発注、メーカーは40%増産、上流は100%。まるで伝言ゲームで「りんご」が「ドラゴンフルーツ」になるように、需要が勝手に膨れ上がる。で、過剰発注の山ができ、買い占めが終わると今度は暴落。市場は忙しい。ジェットコースターに乗せられているみたいだが、乗っているのは私たちである。
ここで政府が慌てて「買い占めはやめて」と言うと、逆に不安が増す。「やめて」と言われると「やっぱり危ないのか」と思うのが人情だ。数量制限をかければ「ほら見ろ」となる。価格を固定すれば供給が死に、統制経済の入口が開く。統制すれば裏をかく者が出る。配給すれば闇市場が生まれる。歴史は何度も見た光景である。善意で始めた統制が、気づけば同じ失敗をなぞる。ではどうするか。万能薬はない。あるのは「市場を殺さず、パニックだけ殺す」という、少々気難しい処方箋だ。価格は自由に、数量制限は最小限に、情報は用途別に細かく出す。どこが詰まり、どこは流れているのかを、全体ではなく“蛇口”の話として伝える。それでも揺れは消えないが、揺れ方は穏やかになる。
結局、必要なのは教育である。といっても、黒板いっぱいにグラフを描くような話ではない。もっと実用的で、もう少し切実なやつだ。たとえば道徳の時間に「トイレットペーパーがなくなりそうなときの心の持ち方」をやる。先生が教壇に立つ。「はい、ここにクラス1日分の3ロールがあります。さて、どうしますか」生徒A「全部買います!」生徒B「半分にします!」生徒C「家にあるけど念のため1個買います!」ここで先生、チョークを持って黒板に一行。「それ、30人全員がやるとどうなる?」教室が一瞬だけ静かになる。たぶんこの沈黙が、いちばん大事なところだ。これでいい。立派な経済教育である。下手なグラフを何枚も見せるより、よほど効く。大人になってからニュースを見て棚に走るより、ずっと安上がりで、しかも副作用がない。社会は完璧に安定しないが、少なくとも自分の足でダッシュする回数くらいは減らせる。
戸籍と性自認 ― 2026年05月20日
戸籍の「長女」を「子」に変えてほしいと申し立てたノンバイナリーの当事者の抗告審で、大阪高裁が、男女区分しかない戸籍制度について「憲法14条との関係で是正すべき状態にある」と言及した、というニュースである。これを読んだ瞬間、私は、これは夢かと思ってほほをつねった。だが、つねったほほだけが妙に現実的に痛く、逆にニュースのほうがふわりと浮き上がる。まるで、三塁側スタンドにめり込むようなファールボールが飛んでいったのに、打者が胸を張って「いまのはホームランです」と宣言し、審判が「まあ本人がそう言うなら」と帽子をくるっと回してうなずいてしまった瞬間のように、世界のほうがぐにゃりと揺れる。
もちろん、制度が多様なあり方に十分対応しているかという指摘があることは承知している。しかし、理解増増法が「性自認」という主観概念を制度側に持ち込んだことで、そもそへの前提が揺らぎ始めている。ベンチで選手が「今日はストライクゾーンが広めに感じる」とつぶやいたら、審判が「では広めで」と応じてしまうような噛み合わなさだ。気分とゾーンは別物である。
そもそも、いわゆる理解増進法は「互いの理解を深めましょう」というフェアプレー精神の確認に近く、いわばルールブック巻末の心得にあたる。その心得を手がかりに「制度は是正されるべき状態」とまで踏み込めば、話の階層は一段飛ぶ。心得は心得、ルールはルールであり、そこを混ぜ始めると、グラウンドの土は砂場のようにふわつき、ベースの位置まで曖昧になる。
さらにややこしいのは、「自分がどう思うか」という主観と、「制度がどう扱うか」という客観が混ざり合って語られがちな点である。個人がどんな生き方を選ぶかは完全に自由であり、どんなルーティンで打席に入ろうが誰も文句は言わない。しかし、戸籍や婚姻や親子関係といった制度は、ファールラインやフェンスのように誰が見ても同じ結果になる基準で運用されている。ここに「本人の認識」をそのまま持ち込めば、試合は成立しなくなる。打者は全員ホームランを主張し、守備は全員アウトを主張し、審判は判定に迷い、観客は「いま何点入ったのか」とざわつく。スコアボード係が電光掲示板の前で固まる光景が目に浮かぶ。だからこそ日本の制度は、性別変更に一定の医学的・身体的要件という外形的に確認可能な基準を置いてきた。それは内面を否定するためではなく、制度を制度として機能させるための“フェンス”である。
今回のように、「自認」を軸に戸籍表記の変更を求める議論が司法の場で扱われ、制度そのものが「是正すべき状態」と評されるに至ると、まるで審判が試合中に「ファールかどうかは本人の気持ち次第かもしれない」とつぶやき始めたかのような不安定さが漂う。理解を促すはずの枠組みが、かえって境界線を曖昧にしてしまったかのような皮肉である。個人の内面の自由と制度の客観的基準という本来別々に扱われるべき二つの領域が、同じホイッスルで同時に鳴らされている。吹くたびに「これはどちらの判定だったか」と首をかしげるような状況だ。今回の決定は、その混線が制度の根元にまで染み込み始めたことを示す、どこか落ち着かない“試合続行不能”のアナウンスを聞かされているような気分にさせるのである。
もちろん、制度が多様なあり方に十分対応しているかという指摘があることは承知している。しかし、理解増増法が「性自認」という主観概念を制度側に持ち込んだことで、そもそへの前提が揺らぎ始めている。ベンチで選手が「今日はストライクゾーンが広めに感じる」とつぶやいたら、審判が「では広めで」と応じてしまうような噛み合わなさだ。気分とゾーンは別物である。
そもそも、いわゆる理解増進法は「互いの理解を深めましょう」というフェアプレー精神の確認に近く、いわばルールブック巻末の心得にあたる。その心得を手がかりに「制度は是正されるべき状態」とまで踏み込めば、話の階層は一段飛ぶ。心得は心得、ルールはルールであり、そこを混ぜ始めると、グラウンドの土は砂場のようにふわつき、ベースの位置まで曖昧になる。
さらにややこしいのは、「自分がどう思うか」という主観と、「制度がどう扱うか」という客観が混ざり合って語られがちな点である。個人がどんな生き方を選ぶかは完全に自由であり、どんなルーティンで打席に入ろうが誰も文句は言わない。しかし、戸籍や婚姻や親子関係といった制度は、ファールラインやフェンスのように誰が見ても同じ結果になる基準で運用されている。ここに「本人の認識」をそのまま持ち込めば、試合は成立しなくなる。打者は全員ホームランを主張し、守備は全員アウトを主張し、審判は判定に迷い、観客は「いま何点入ったのか」とざわつく。スコアボード係が電光掲示板の前で固まる光景が目に浮かぶ。だからこそ日本の制度は、性別変更に一定の医学的・身体的要件という外形的に確認可能な基準を置いてきた。それは内面を否定するためではなく、制度を制度として機能させるための“フェンス”である。
今回のように、「自認」を軸に戸籍表記の変更を求める議論が司法の場で扱われ、制度そのものが「是正すべき状態」と評されるに至ると、まるで審判が試合中に「ファールかどうかは本人の気持ち次第かもしれない」とつぶやき始めたかのような不安定さが漂う。理解を促すはずの枠組みが、かえって境界線を曖昧にしてしまったかのような皮肉である。個人の内面の自由と制度の客観的基準という本来別々に扱われるべき二つの領域が、同じホイッスルで同時に鳴らされている。吹くたびに「これはどちらの判定だったか」と首をかしげるような状況だ。今回の決定は、その混線が制度の根元にまで染み込み始めたことを示す、どこか落ち着かない“試合続行不能”のアナウンスを聞かされているような気分にさせるのである。