火星往復H3ロケット ― 2026年10月20日
火星の衛星フォボスを目指す探査機MMXを載せ、H3ロケット10号機がいよいよ打ち上げられる。形態はLE-9エンジン2基にブースター4本を従えた大型の「H3-24L」、全長約63メートルという威容だ。目的地のフォボスで砂や岩石を採取し、地球へ持ち帰る。宇宙へ行くだけでも大ごとなのに、現地で買い出しをして無事に帰宅する。宇宙規模のお使いとしては、かなりの遠出であり大事業だ。
ロケットの話になると、世間はすぐスペースXを引き合いに出す。あちらは第1段を回収して再使用し、劇的なコスト削減を実現した。片や日本は使い捨てである。「これでは勝負にならない」という声も聞こえるが、ロケットの価値は使い回せる回数だけで決まるものではない。どれだけの荷物を遠くへ運べるか。宇宙の物流において、この輸送能力の高さも立派な看板商品なのだ。
その看板を支えるのが、H3の心臓部「LE-9」エンジンである。燃料は扱いの難しい極低温の液体水素だ。特徴は「エキスパンダーブリードサイクル」という日本独自の方式にある。燃焼室やノズルを冷やした水素を気化させ、そのガスでターボポンプを回す。これにより、構造の複雑なプリバーナーが不要になる。部品数を減らしてコストと信頼性の両立を目指す仕組みだ。これを第1段の大推力エンジンに採用した例は、日本以外にはない。極冷と酷熱が隣り合う過酷な世界で、構造を簡素にしながら大推力を狙う、なかなかの欲張り設計である。
もちろん万能ではない。LE-9は従来のLE-7Aより推力が約1.4倍大きい一方、燃料の効率(専門用語でいう比推力)の点では一歩譲る。つまり、最高の燃費だけを追い求めたエンジンではないのだ。大推力を確保しながら、構造を簡素化し、低コストと信頼性を目指す。そのための設計である。一方のスペースXは、ケロシン系燃料を使い、機体回収と組み合わせた運用体系を磨いてきた。同じロケットでも設計思想は違う。再使用性だけを物差しに日本の技術を採点していては、真価を見落としてしまう。
何より重要なのは、打ち上げ手段の「選択肢」を世界に残すことだ。大型衛星や深宇宙探査機を送り出す手段がスペースX一社に独占されたら、運賃やスケジュールの主導権が一社に集中し、衛星事業者の交渉力が弱まるおそれがある。別の手段を選べること自体が、顧客にとっての保険であり交渉のカードだ。もしも街の運送会社が一社だけになったら、配送料金を決めるのは誰か。考えるまでもない。
今回のMMX計画は、H3が探査機を火星圏へ送り出し、MMXが現地でサンプルを採取して地球へ持ち帰るという、日本の宇宙技術の総合力が問われるミッションだ。再使用ロケットだけが宇宙開発の正解ではない。独自の技術を磨き、必要な荷物を確実に届けるルートを守り続けること。スペースXが幹線道路を切り開いたからといって、そこを走るトラックまで一社に絞る必要はない。宇宙への道は、一本では困るのである。
ロケットの話になると、世間はすぐスペースXを引き合いに出す。あちらは第1段を回収して再使用し、劇的なコスト削減を実現した。片や日本は使い捨てである。「これでは勝負にならない」という声も聞こえるが、ロケットの価値は使い回せる回数だけで決まるものではない。どれだけの荷物を遠くへ運べるか。宇宙の物流において、この輸送能力の高さも立派な看板商品なのだ。
その看板を支えるのが、H3の心臓部「LE-9」エンジンである。燃料は扱いの難しい極低温の液体水素だ。特徴は「エキスパンダーブリードサイクル」という日本独自の方式にある。燃焼室やノズルを冷やした水素を気化させ、そのガスでターボポンプを回す。これにより、構造の複雑なプリバーナーが不要になる。部品数を減らしてコストと信頼性の両立を目指す仕組みだ。これを第1段の大推力エンジンに採用した例は、日本以外にはない。極冷と酷熱が隣り合う過酷な世界で、構造を簡素にしながら大推力を狙う、なかなかの欲張り設計である。
もちろん万能ではない。LE-9は従来のLE-7Aより推力が約1.4倍大きい一方、燃料の効率(専門用語でいう比推力)の点では一歩譲る。つまり、最高の燃費だけを追い求めたエンジンではないのだ。大推力を確保しながら、構造を簡素化し、低コストと信頼性を目指す。そのための設計である。一方のスペースXは、ケロシン系燃料を使い、機体回収と組み合わせた運用体系を磨いてきた。同じロケットでも設計思想は違う。再使用性だけを物差しに日本の技術を採点していては、真価を見落としてしまう。
何より重要なのは、打ち上げ手段の「選択肢」を世界に残すことだ。大型衛星や深宇宙探査機を送り出す手段がスペースX一社に独占されたら、運賃やスケジュールの主導権が一社に集中し、衛星事業者の交渉力が弱まるおそれがある。別の手段を選べること自体が、顧客にとっての保険であり交渉のカードだ。もしも街の運送会社が一社だけになったら、配送料金を決めるのは誰か。考えるまでもない。
今回のMMX計画は、H3が探査機を火星圏へ送り出し、MMXが現地でサンプルを採取して地球へ持ち帰るという、日本の宇宙技術の総合力が問われるミッションだ。再使用ロケットだけが宇宙開発の正解ではない。独自の技術を磨き、必要な荷物を確実に届けるルートを守り続けること。スペースXが幹線道路を切り開いたからといって、そこを走るトラックまで一社に絞る必要はない。宇宙への道は、一本では困るのである。
クラウドダウンはかなりヤバイ ― 2026年10月19日
クラウドというものは実に便利である。自分でサーバーを買わなくても、データを預け、システムを動かし、仕事を進めることができる。土地を買わずにオペレータ付きの貸しビルへ入居するようなものだ。掃除も設備管理も大家任せ。こちらは家賃を払って仕事に専念すればよい。ところが、その貸しビルの電源室が襲われたらどうなるか。国内クラウドサービスが攻撃を受け、495の企業や自治体に影響が及んだ。便利な雲に、どうやら雨漏りどころではない穴が開いたらしい。
発表によれば、特定のゾーンで仮想サーバーが停止し、再起動できない状態となった。顧客データの取り出しや復元は困難で、利用者側のバックアップが復旧の頼みとなる。もちろん、495の顧客すべてで深刻な被害が生じたわけではない。それでも、これだけの企業や自治体が影響を受けたのだから、軽い話ではない。貸しビルの一室で火事が起きたというより、町内の商店も役場も、みんな同じ設備に頼っていたと分かったようなものである。
こういうニュースを読むと、世間はまず個人情報の漏洩ばかりを気にする。メールアドレスは流出したのか、顧客情報は大丈夫なのか。もちろん、それも大切である。郵便受けに他人が手を突っ込んだのなら、誰の手紙が持ち去られたのか調べなければならない。しかし、郵便受けの心配ばかりしていて、電源室が止まっていることに気づかなかったらどうするのか。クラウドは、どこかの会社が便利な道具を貸してくれるだけの話ではない。企業の業務システムも自治体の情報管理も、いまやネットワークという土台の上で動いている。画面の向こうに何があるか、普段は考えなくても仕事ができる。だからこそ、止まったときに何が起きるのかが見えにくい。
考えるべきは、バックアップがあるか、障害時に別の環境で仕事を続けられるか、復旧までにどれほど時間がかかるかという問題である。特定の事業者や設備に依存しすぎていないかも問われる。利用者に「パスワードを複雑にしましょう」と呼びかけるだけでは足りない。非常口の場所を教えたからといって、火災への備えが終わったことにはならないのだ。便利な貸しビルに入居するなら、大家の評判だけでなく、停電したときの避難経路や非常用電源も確かめておく必要がある。
国会も、こういう問題にこそ時間を使ってほしい。政治家の不正を追及するのは当然だが、週刊誌が取り上げた疑惑や失言をめぐる議論ばかりが続くのでは困る。週刊誌の記事を読めば分かる話と、国会が制度や予算を動かさなければ解決しない話は別物だ。マンション全体が停電しているのに、管理組合が集まって住人のゴシップを読み上げている。誰が余計なことを言ったか、誰の態度が気に入らないか。議論は白熱するが、電気はいつ戻るのか、非常用電源は動くのか、誰も聞かない。ずいぶん呑気な管理組合である。
クラウドの障害は、情報技術に詳しい人だけの問題ではない。社会を支える土台が止まるという問題だ。便利さを享受するなら、その土台が止まったときの備えも考えなければならない。郵便受けに何が入っていたかを調べるのは大切である。だが、マンションが真っ暗になっているのなら、まず電源室を見に行くべきだろう。国会も報道も、郵便受けの中身を数えるだけで仕事をした気になってはいけない。
発表によれば、特定のゾーンで仮想サーバーが停止し、再起動できない状態となった。顧客データの取り出しや復元は困難で、利用者側のバックアップが復旧の頼みとなる。もちろん、495の顧客すべてで深刻な被害が生じたわけではない。それでも、これだけの企業や自治体が影響を受けたのだから、軽い話ではない。貸しビルの一室で火事が起きたというより、町内の商店も役場も、みんな同じ設備に頼っていたと分かったようなものである。
こういうニュースを読むと、世間はまず個人情報の漏洩ばかりを気にする。メールアドレスは流出したのか、顧客情報は大丈夫なのか。もちろん、それも大切である。郵便受けに他人が手を突っ込んだのなら、誰の手紙が持ち去られたのか調べなければならない。しかし、郵便受けの心配ばかりしていて、電源室が止まっていることに気づかなかったらどうするのか。クラウドは、どこかの会社が便利な道具を貸してくれるだけの話ではない。企業の業務システムも自治体の情報管理も、いまやネットワークという土台の上で動いている。画面の向こうに何があるか、普段は考えなくても仕事ができる。だからこそ、止まったときに何が起きるのかが見えにくい。
考えるべきは、バックアップがあるか、障害時に別の環境で仕事を続けられるか、復旧までにどれほど時間がかかるかという問題である。特定の事業者や設備に依存しすぎていないかも問われる。利用者に「パスワードを複雑にしましょう」と呼びかけるだけでは足りない。非常口の場所を教えたからといって、火災への備えが終わったことにはならないのだ。便利な貸しビルに入居するなら、大家の評判だけでなく、停電したときの避難経路や非常用電源も確かめておく必要がある。
国会も、こういう問題にこそ時間を使ってほしい。政治家の不正を追及するのは当然だが、週刊誌が取り上げた疑惑や失言をめぐる議論ばかりが続くのでは困る。週刊誌の記事を読めば分かる話と、国会が制度や予算を動かさなければ解決しない話は別物だ。マンション全体が停電しているのに、管理組合が集まって住人のゴシップを読み上げている。誰が余計なことを言ったか、誰の態度が気に入らないか。議論は白熱するが、電気はいつ戻るのか、非常用電源は動くのか、誰も聞かない。ずいぶん呑気な管理組合である。
クラウドの障害は、情報技術に詳しい人だけの問題ではない。社会を支える土台が止まるという問題だ。便利さを享受するなら、その土台が止まったときの備えも考えなければならない。郵便受けに何が入っていたかを調べるのは大切である。だが、マンションが真っ暗になっているのなら、まず電源室を見に行くべきだろう。国会も報道も、郵便受けの中身を数えるだけで仕事をした気になってはいけない。
福岡県議会と深夜の逆転劇 ― 2026年10月18日
福岡県議会で起きた騒動は、金銭授受疑惑そのものより、長年県政を支配してきた勢力の神通力が失われた瞬間を映し出した出来事だったのかもしれない。発端は正副議長ポストを巡る疑惑である。元議長が「議長就任に際して党幹部へ二千万円を支払わされた」と告発し、県政を揺るがす事態となった。ところが県民の関心を引いたのは、疑惑の中身だけではなかった。百条委員会を設置するかどうかを巡る異様な攻防である。16日深夜の議会運営委員会では設置が先送りされたが、日付をまたいだ17日未明の本会議で一転して可決された。気が付けば主役は金銭疑惑ではなく、百条委員会を何としても避けたい人々の右往左往になっていた。
百条委員会は地方議会が持つ強力な調査権限の一つである。関係者に出頭や証言、資料提出を求めることができ、宣誓後の虚偽証言などには法的責任も伴う。疑惑を持たれた側に歓迎されないのは当然だろう。しかし今回興味深かったのは、反対理由の変遷である。「告発者本人による提案は公平性に欠ける」と言い、「第三者委員会と二重調査になる」と言い、最後は「予算がない」と言い出した。理由は次々に変わるのに、結論だけは頑として変わらない。不公平論も二重調査論も予算論も、本来は別々の議論である。それなのに、すべての道が百条委員会反対という同じ終着駅へ向かっていた。結論が先にあり、理由が後から集められているように見えた。
そして今回、見過ごせないのが議会に先立つ議会事務局の振る舞いである。議員が百条委員会の設置議案を提出しようとすると、事務局長は「予算がないと提案できない」と言った。議員の議案提出権について、事務局が許認可権を持つかのような発言である。議員には地方自治法で議案提出権が認められている。百条委員会を設置することと、調査経費をどう確保するかは別問題だ。予算が必要なら議会が議論し決定すればよい。それを議員でもない役人が、予算を理由に議案提出を制限しようとする権限は役人にはない。議会を補佐する立場を越えた越権的な振る舞いは、議員の法定権限への介入と受け取られても無理はない。議員は県民が選ぶが、事務局職員は選挙で選ばれない。事務局の理屈が議会の意思決定を左右するなら、議会の自律そのものが危うくなる。提案者らは埒が明かないと議長に議案を直接提出して先の本会議となった。
長年の県政では、主流派が方向を示せば大勢が従うという力学が存在したのだろう。だが今回は様子が違った。二千万円支払い疑惑が表面化し、県民の視線が集まる中でも、従来と同じ手法で乗り切れると考えたのであれば情勢判断を誤ったと言わざるを得ない。深夜の議会運営委員会で賛否同数に持ち込み、委員長裁決で先送りに成功した時、まだ藏内体制の神通力は健在だと思った議員もいただろう。だが数時間後の本会議で、その見立ては崩れた。本会議はその決定を覆し、午前4時すぎ、設置議案そのものを圧倒的多数で可決した。先送りで時間を稼ごうとした動きは、最後の最後で神通力は通用しなかったのである。とっくに種が割れている手品を、観客が見破っていることに手品師だけが気付いていないような光景である。
警察の動向も気になる。告発者が県警で証言したことは報じられている。しかし捜査着手を示す公式発表はない。これでは「捜査中なので回答は差し控える」という政治家や行政機関おなじみの逃げ口上も使いにくい。だからこそ百条委員会の意義が際立つ。警察が刑事責任を追及する機関なら、議会は県民への説明責任を追及する機関である。元議長は既に辞職したが、それで真相まで消えたわけではない。県民が知りたいのは誰が辞めたかではなく、何が行われていたのか、なぜそんな構造が長年放置されてきたのかである。その解明こそが百条委員会の役割だろう。
今回県民の目に焼き付いたのは、金銭疑惑だけではない。それを巡る往生際の悪さである。慎重論、二重調査論、予算論、そして深夜の先送り。百条委員会を止める理屈は次々に現れたが、疑惑を晴らす説明だけは最後まで現れなかった。そして露わになったのは、すでに失効した神通力への依存である。問題は神通力がなくなったことではない。とうの昔に効力が切れていたにもかかわらず、本人たちだけがまだ万能薬だと信じ続けていたことだ。未明の本会議での逆転可決は、百条委員会設置の号砲であると同時に、古い政治手法への終業ベルでもあったのかもしれない。
百条委員会は地方議会が持つ強力な調査権限の一つである。関係者に出頭や証言、資料提出を求めることができ、宣誓後の虚偽証言などには法的責任も伴う。疑惑を持たれた側に歓迎されないのは当然だろう。しかし今回興味深かったのは、反対理由の変遷である。「告発者本人による提案は公平性に欠ける」と言い、「第三者委員会と二重調査になる」と言い、最後は「予算がない」と言い出した。理由は次々に変わるのに、結論だけは頑として変わらない。不公平論も二重調査論も予算論も、本来は別々の議論である。それなのに、すべての道が百条委員会反対という同じ終着駅へ向かっていた。結論が先にあり、理由が後から集められているように見えた。
そして今回、見過ごせないのが議会に先立つ議会事務局の振る舞いである。議員が百条委員会の設置議案を提出しようとすると、事務局長は「予算がないと提案できない」と言った。議員の議案提出権について、事務局が許認可権を持つかのような発言である。議員には地方自治法で議案提出権が認められている。百条委員会を設置することと、調査経費をどう確保するかは別問題だ。予算が必要なら議会が議論し決定すればよい。それを議員でもない役人が、予算を理由に議案提出を制限しようとする権限は役人にはない。議会を補佐する立場を越えた越権的な振る舞いは、議員の法定権限への介入と受け取られても無理はない。議員は県民が選ぶが、事務局職員は選挙で選ばれない。事務局の理屈が議会の意思決定を左右するなら、議会の自律そのものが危うくなる。提案者らは埒が明かないと議長に議案を直接提出して先の本会議となった。
長年の県政では、主流派が方向を示せば大勢が従うという力学が存在したのだろう。だが今回は様子が違った。二千万円支払い疑惑が表面化し、県民の視線が集まる中でも、従来と同じ手法で乗り切れると考えたのであれば情勢判断を誤ったと言わざるを得ない。深夜の議会運営委員会で賛否同数に持ち込み、委員長裁決で先送りに成功した時、まだ藏内体制の神通力は健在だと思った議員もいただろう。だが数時間後の本会議で、その見立ては崩れた。本会議はその決定を覆し、午前4時すぎ、設置議案そのものを圧倒的多数で可決した。先送りで時間を稼ごうとした動きは、最後の最後で神通力は通用しなかったのである。とっくに種が割れている手品を、観客が見破っていることに手品師だけが気付いていないような光景である。
警察の動向も気になる。告発者が県警で証言したことは報じられている。しかし捜査着手を示す公式発表はない。これでは「捜査中なので回答は差し控える」という政治家や行政機関おなじみの逃げ口上も使いにくい。だからこそ百条委員会の意義が際立つ。警察が刑事責任を追及する機関なら、議会は県民への説明責任を追及する機関である。元議長は既に辞職したが、それで真相まで消えたわけではない。県民が知りたいのは誰が辞めたかではなく、何が行われていたのか、なぜそんな構造が長年放置されてきたのかである。その解明こそが百条委員会の役割だろう。
今回県民の目に焼き付いたのは、金銭疑惑だけではない。それを巡る往生際の悪さである。慎重論、二重調査論、予算論、そして深夜の先送り。百条委員会を止める理屈は次々に現れたが、疑惑を晴らす説明だけは最後まで現れなかった。そして露わになったのは、すでに失効した神通力への依存である。問題は神通力がなくなったことではない。とうの昔に効力が切れていたにもかかわらず、本人たちだけがまだ万能薬だと信じ続けていたことだ。未明の本会議での逆転可決は、百条委員会設置の号砲であると同時に、古い政治手法への終業ベルでもあったのかもしれない。
人質外交の罠とサハリン拘束劇 ― 2026年10月16日
ロシア極東サハリンで、北海道新聞の日本人記者が連邦保安庁(FSB)にスパイ容疑で拘束された。ウクライナ戦争への動員状況を取材していたというが、容疑の真偽はロシア側の発表だけでは判断できない。ただ、外国人の拘束を外交上の圧力に利用する可能性がある国であることは、警戒しておく必要がある。今回も人質外交の一環である可能性は否定できない。ウクライナ支援を続ける日本にとって、拘束された記者は単なる一民間人ではない。日本人の身柄が外交カードにされれば、本人の安全だけでなく、日本の対露政策まで揺さぶられかねない。
問題は、日本に対抗する手札があるのかということだ。米国などは、拘束したロシア側の工作員らを囚人交換の交渉材料にできる。日本には、それに相当する仕組みも実績も乏しい。相手が日本人を拘束して外交カードにしたとき、日本にできるのは抗議し、解放を求め、国際世論に訴えることくらいだ。それらは当然必要だが、相手に解放する気がなければ、抗議を重ねるだけでは事態は動かない。相手はこちらの駒を取って交換材料にできるのに、日本には相手の駒を取って交換を迫る手段がない。これでは勝負にならない。飛車角を取られてから名人戦を始めても遅いのである。
だからこそ、スパイ防止法を含む国内の情報保全体制と、囚人交換という外交上の選択肢は、別々の問題として切り離すべきではない。外国の情報活動を取り締まる法制度を整え、国内で摘発した工作員を適正な法手続きに従って拘束・訴追できるようにしておけば、将来、囚人交換の交渉材料となる可能性も生まれる。もちろん、法律を作れば自動的に交換要員が確保できるわけではない。交換のためだけに無実の人間を拘束するという話でもない。必要なのは、外国の情報活動に法に基づいて対処できる体制を整え、その結果として生じ得る交渉上の選択肢を外交に生かすことだ。相手だけが一方的にカードを持つ状態を改めなければならない。
危険な国で取材を続ける報道機関にとって、リスク管理は欠かせない。現地にとどまって報道する意義は理解できる。しかし、有効なビザを持ち、これまで問題なく取材できていたとしても、明日も安全とは限らない。政治情勢が変われば、昨日まで許されていた活動が突然スパイ行為とみなされることもある。危険情報を発出したからといって、政府が記者を強制的に帰国させられるわけではなく、最終的には本人と報道機関の判断に委ねられる部分が大きい。それでも、中国で現在も17名の日本人がスパイ容疑などで拘束されている事例や、相手国の政治体制を踏まえれば、退避判断の基準や緊急時の支援体制をあらかじめ整備しておくことはできる。自由な取材を守ることと、有効な対抗手段を持たないまま危険にさらされることは同じではない。
日本は国際刑事裁判所(ICC)を支持し、法の支配の重要性を訴えてきた。しかし、ICCがプーチン大統領に逮捕状を発付しても、独自の警察力を持たない以上、自ら身柄を拘束することはできない。今回の拘束が日本のICC支持に対する報復かどうかは、現時点では断定できない。だが、法の支配を唱えれば相手も従うというものではなく、むしろ「ICC非加盟国にいるなら非加盟国の法に従え」と逆襲する口実を与えかねない。理念を掲げることと、その理念を無視する相手から自国民を守ることは別問題である。外交、情報保全、退避支援、国際連携を組み合わせ、相手がルールを破る事態も想定した備えを講じなければならない。
報道の自由も法の支配も、唱えれば相手が行儀よくなる魔法の呪文ではない。必要なのは、危険を見極める危機管理、退避支援、不当な拘束に代償を認識させる外交手段、そして国際連携である。相手が政治的拘束を手段とする以上、それを前提に備えるしかない。丸腰で敵地に立ってから平和の尊さを説いても遅いのだ。報道も、相手がロシアとなると声が急に小さくなる。同業の仲間が拉致されているのだから、ICCを敵視したトランプを激しく罵ったように、プーチンを完膚なきまでに糾弾をしてはどうか。看板だけ立派で中身が空っぽでは、相手にとって「どうぞご自由に」と書かれた看板と大差ないのである。
問題は、日本に対抗する手札があるのかということだ。米国などは、拘束したロシア側の工作員らを囚人交換の交渉材料にできる。日本には、それに相当する仕組みも実績も乏しい。相手が日本人を拘束して外交カードにしたとき、日本にできるのは抗議し、解放を求め、国際世論に訴えることくらいだ。それらは当然必要だが、相手に解放する気がなければ、抗議を重ねるだけでは事態は動かない。相手はこちらの駒を取って交換材料にできるのに、日本には相手の駒を取って交換を迫る手段がない。これでは勝負にならない。飛車角を取られてから名人戦を始めても遅いのである。
だからこそ、スパイ防止法を含む国内の情報保全体制と、囚人交換という外交上の選択肢は、別々の問題として切り離すべきではない。外国の情報活動を取り締まる法制度を整え、国内で摘発した工作員を適正な法手続きに従って拘束・訴追できるようにしておけば、将来、囚人交換の交渉材料となる可能性も生まれる。もちろん、法律を作れば自動的に交換要員が確保できるわけではない。交換のためだけに無実の人間を拘束するという話でもない。必要なのは、外国の情報活動に法に基づいて対処できる体制を整え、その結果として生じ得る交渉上の選択肢を外交に生かすことだ。相手だけが一方的にカードを持つ状態を改めなければならない。
危険な国で取材を続ける報道機関にとって、リスク管理は欠かせない。現地にとどまって報道する意義は理解できる。しかし、有効なビザを持ち、これまで問題なく取材できていたとしても、明日も安全とは限らない。政治情勢が変われば、昨日まで許されていた活動が突然スパイ行為とみなされることもある。危険情報を発出したからといって、政府が記者を強制的に帰国させられるわけではなく、最終的には本人と報道機関の判断に委ねられる部分が大きい。それでも、中国で現在も17名の日本人がスパイ容疑などで拘束されている事例や、相手国の政治体制を踏まえれば、退避判断の基準や緊急時の支援体制をあらかじめ整備しておくことはできる。自由な取材を守ることと、有効な対抗手段を持たないまま危険にさらされることは同じではない。
日本は国際刑事裁判所(ICC)を支持し、法の支配の重要性を訴えてきた。しかし、ICCがプーチン大統領に逮捕状を発付しても、独自の警察力を持たない以上、自ら身柄を拘束することはできない。今回の拘束が日本のICC支持に対する報復かどうかは、現時点では断定できない。だが、法の支配を唱えれば相手も従うというものではなく、むしろ「ICC非加盟国にいるなら非加盟国の法に従え」と逆襲する口実を与えかねない。理念を掲げることと、その理念を無視する相手から自国民を守ることは別問題である。外交、情報保全、退避支援、国際連携を組み合わせ、相手がルールを破る事態も想定した備えを講じなければならない。
報道の自由も法の支配も、唱えれば相手が行儀よくなる魔法の呪文ではない。必要なのは、危険を見極める危機管理、退避支援、不当な拘束に代償を認識させる外交手段、そして国際連携である。相手が政治的拘束を手段とする以上、それを前提に備えるしかない。丸腰で敵地に立ってから平和の尊さを説いても遅いのだ。報道も、相手がロシアとなると声が急に小さくなる。同業の仲間が拉致されているのだから、ICCを敵視したトランプを激しく罵ったように、プーチンを完膚なきまでに糾弾をしてはどうか。看板だけ立派で中身が空っぽでは、相手にとって「どうぞご自由に」と書かれた看板と大差ないのである。
Nスぺ「靖国神社 秘録」 ― 2026年10月15日
NHKスペシャルが二年もの歳月を費やして一神社の門を叩き続けた。先日放送された『靖国神社 秘録 空白の戦後史』である。番組は、これまで公開されてこなかった靖国神社の内部資料を掘り起こし、戦後、宗教法人となった靖国神社が旧厚生省引揚援護局から提供された名簿に基づいて合祀を進めていた実態を明らかにした。さらに、戦争犠牲者を広く追悼する場として千鳥ヶ淵戦没者墓苑が構想されながら、A級戦犯合祀を契機に国家としての追悼のあり方が行き詰まっていく過程も浮かび上がらせた。そこに映し出されていたのは、一宗教法人の歴史ではなく、戦後日本そのものが抱え続けてきた矛盾である。
かつて戦場へ赴く兵士たちは「九段の坂で、靖国神社で会おう」と語り合った。生還の保証がない時代、その言葉は死後の再会を信じる約束であり、残される家族への思いをつなぐ契りでもあった。靖国神社は国家が戦没者を顕彰する施設である以前に、そうした人々の記憶と感情が積み重なった場所であった。日本人の弔いの底流には、生前の立場や敵味方を超えて死者を鎮め、共同体の記憶の中に迎え入れようとする御霊信仰や怨親平等の感覚がある。それが、この国で長く受け継がれてきた弔いの作法であった。
ところが敗戦によって、この領域に国際政治と法の論理が入り込んだ。日本はサンフランシスコ平和条約によって東京裁判の判決を受諾した一方、国内では戦犯や遺族をどう位置付けるかという課題に向き合わなければならなかった。国際社会に対する責任と、国内における弔いの感情。その双方を抱え込んだ結果、戦後日本には二重構造が生まれたのである。靖国問題の難しさは、まさにここにある。
国家神道の解体によって、靖国神社は法的には国家から切り離された。しかし実務の上では、旧厚生省から提供された名簿に基づき合祀が進められていた。制度上は距離を置きながら、追悼の問題では関係を保ち続ける。この曖昧な構図は、国家が靖国から手を引いたように見せながら、戦没者追悼そのものから離れられなかったことを示している。結果として追悼の問題は国内で整理されないまま、外交上の懸案として語られるようになった。人間の情義であるはずの弔いが、政治の論理の中へ取り込まれていったのである。
後年、国としての追悼の場を求めて整備されたのが千鳥ヶ淵戦没者墓苑であった。しかし、千鳥ヶ淵と靖国神社は本来同じ役割を担う施設ではない。千鳥ヶ淵は主として身元不明の戦没者を追悼する場所であり、靖国神社は戦地へ赴いた人々の記憶と、「そこで会おう」と交わした約束を背負った場所である。無名の遺骨を弔う意義は大きい。しかし、それによって靖国神社に託された思いまで置き換えられるわけではない。Nスぺは説明しないが、「靖国で会おう」と誓って散った人々の願いを、後世の政治的都合によって書き換えることはできない。
歴史における過去の事実と誓いは、後世の便宜によって変更できるものではない。これは戦争責任を曖昧にせよという話ではない。東京裁判の判決受諾と死者への追悼は、本来分けて考えるべき問題なのである。戦争の総括と弔いを混同し、外国からの批判を避けるために後者まで曖昧にしてしまえば、自国の歴史を自らの言葉で語ることはできなくなる。靖国神社をめぐる問題の本質は、死者との約束を後世の政治的都合でなかったことにしてよいのかという問いにある。戦後八十年を過ぎてもなお、その問いに答えを出せないところに、戦後日本の矛盾が未だに横たわっているのである。
かつて戦場へ赴く兵士たちは「九段の坂で、靖国神社で会おう」と語り合った。生還の保証がない時代、その言葉は死後の再会を信じる約束であり、残される家族への思いをつなぐ契りでもあった。靖国神社は国家が戦没者を顕彰する施設である以前に、そうした人々の記憶と感情が積み重なった場所であった。日本人の弔いの底流には、生前の立場や敵味方を超えて死者を鎮め、共同体の記憶の中に迎え入れようとする御霊信仰や怨親平等の感覚がある。それが、この国で長く受け継がれてきた弔いの作法であった。
ところが敗戦によって、この領域に国際政治と法の論理が入り込んだ。日本はサンフランシスコ平和条約によって東京裁判の判決を受諾した一方、国内では戦犯や遺族をどう位置付けるかという課題に向き合わなければならなかった。国際社会に対する責任と、国内における弔いの感情。その双方を抱え込んだ結果、戦後日本には二重構造が生まれたのである。靖国問題の難しさは、まさにここにある。
国家神道の解体によって、靖国神社は法的には国家から切り離された。しかし実務の上では、旧厚生省から提供された名簿に基づき合祀が進められていた。制度上は距離を置きながら、追悼の問題では関係を保ち続ける。この曖昧な構図は、国家が靖国から手を引いたように見せながら、戦没者追悼そのものから離れられなかったことを示している。結果として追悼の問題は国内で整理されないまま、外交上の懸案として語られるようになった。人間の情義であるはずの弔いが、政治の論理の中へ取り込まれていったのである。
後年、国としての追悼の場を求めて整備されたのが千鳥ヶ淵戦没者墓苑であった。しかし、千鳥ヶ淵と靖国神社は本来同じ役割を担う施設ではない。千鳥ヶ淵は主として身元不明の戦没者を追悼する場所であり、靖国神社は戦地へ赴いた人々の記憶と、「そこで会おう」と交わした約束を背負った場所である。無名の遺骨を弔う意義は大きい。しかし、それによって靖国神社に託された思いまで置き換えられるわけではない。Nスぺは説明しないが、「靖国で会おう」と誓って散った人々の願いを、後世の政治的都合によって書き換えることはできない。
歴史における過去の事実と誓いは、後世の便宜によって変更できるものではない。これは戦争責任を曖昧にせよという話ではない。東京裁判の判決受諾と死者への追悼は、本来分けて考えるべき問題なのである。戦争の総括と弔いを混同し、外国からの批判を避けるために後者まで曖昧にしてしまえば、自国の歴史を自らの言葉で語ることはできなくなる。靖国神社をめぐる問題の本質は、死者との約束を後世の政治的都合でなかったことにしてよいのかという問いにある。戦後八十年を過ぎてもなお、その問いに答えを出せないところに、戦後日本の矛盾が未だに横たわっているのである。
ノーベル化学賞「硤合反応」 ― 2026年10月14日
日本人がまたノーベル化学賞を獲った。硤合(そあい)憲三氏による「硤合反応」の研究である。ニュースを聞いて「そあい? 何やら難しそうな化学反応だな」と思った人も少なくない。ところが、その中身をたどると、生命の起源から宇宙の成り立ちまでつながる壮大な話に行き着く。化学というと試験管の中だけの出来事のように思われがちだが、ときどきそうした認識を軽々と飛び越えてくる研究がある。今回の話もまさにそれだ。試験管の底で起きている出来事が、いつの間にか宇宙の話になってしまうのである。
化学の世界には、右手と左手のような関係にある分子が存在する。鏡に映せば同じ形に見えるのに、実際には重ね合わせることができない。右手の手袋を左手にはめられないのと同じである。専門的には「キラル分子」と呼ばれる。こうした分子を作る反応では、特別な条件がなければ右型と左型が同程度に生じることが多い。まことに平等であり、民主的であり、誰からも文句は出なさそうだ。少なくとも化学反応の世界では。しかし、硤合反応はその平和な状態を容赦なく壊してしまう。ほんのわずかに右型が多ければ右型が右型を増やし続け、逆なら左型が左型を増やし続ける。雪玉が坂を転がるように偏りが増幅され、最後には片方が圧倒的に優勢になるのである。
ここで話は急に生命へ飛ぶ。人間を含む生物のアミノ酸は、ほぼすべて左手型であり、DNAを構成する糖は右手型である。なぜそうなったのか。生命誕生以前の地球には右型も左型も入り混じった化学物質が存在したと考えられるのに、生命はなぜ片方を選んだのか。この謎は「ホモキラリティ」と呼ばれ、長年研究者を悩ませてきた。硤合反応はその謎を完全に解いたわけではない。しかし、「ごく小さな偏りが自己増幅して片方を優勢にする」という仕組みを実験で示した。生命が右か左かに偏っていった過程を考えるうえで、極めて重要な手掛かりになったのである。生命の歴史を振り返ると、壮大な物語の出発点が、驚くほど些細な差だった可能性が見えてくる。
そして、その背景にある考え方が「対称性の破れ」だ。難しそうな言葉だが、ここでは「どちらでもよかったように見えるのに、結果として片方に決まってしまう現象」と考えればよい。実は自然界には、この問題がさまざまな姿で現れる。宇宙誕生の際には、物質と反物質がほぼ対等に存在していたと考えられている。しかし、現在の宇宙には物質が圧倒的に多く残っている。また、南部陽一郎博士が提唱した自発的対称性の破れという考え方は、素粒子が質量を持つ仕組みの理解にもつながった。分子の左右の偏りと宇宙の物質・反物質の非対称性は同じ現象ではない。それでも、「なぜ対称な状態から非対称な世界が生まれるのか」という問いは共通している。自然界というのは案外、完全な平等状態を長く維持するのが苦手らしい。
この点で、野依(のより)良治博士の研究との対比も興味深い。野依博士は、触媒を使って分子の右型と左型を選択的に作り分ける技術を切り開いた。一方、硤合博士は、ごく小さな偏りが自己増幅する仕組みを明らかにした。片や人間が望む分子を作り分ける技術であり、片や自然の中で偏りが生まれ、増幅される仕組みの解読である。どちらも右と左の話なのに、向き合っている問いはかなり違う。世の中には右と左の話になると急に険悪になる分野もあるが、こちらは純粋に化学の話である。それでも根底には、「ごく小さな差が大きな結果を生む」という共通のテーマが流れている。
考えてみれば、人間社会にも似た現象は少なくない。流行も市場も選挙も、最初は大差がなかったはずなのに、いつの間にか一方が圧倒的優勢になることがある。もちろん、その仕組みは化学反応とは違う。しかし、最初の小さな差が後になって大きな違いになるという点では、妙に通じるものがある。研究者の人生もまたそうだろう。右へ行っても左へ行ってもよかったはずの分かれ道が、後から振り返ると決定的な意味を持っていることがある。自然界では、対称性が破れることで新しい構造が生まれる場合がある。宇宙も生命も人間社会も、その仕組みはそれぞれ違う。それでも、ほんのわずかな偏りが思いもよらぬ結果へつながるという不思議は共通している。世界はそんな小さな偏りの積み重ねによって、いっそう多様で、複雑で、そして面白いものになっているのである。
化学の世界には、右手と左手のような関係にある分子が存在する。鏡に映せば同じ形に見えるのに、実際には重ね合わせることができない。右手の手袋を左手にはめられないのと同じである。専門的には「キラル分子」と呼ばれる。こうした分子を作る反応では、特別な条件がなければ右型と左型が同程度に生じることが多い。まことに平等であり、民主的であり、誰からも文句は出なさそうだ。少なくとも化学反応の世界では。しかし、硤合反応はその平和な状態を容赦なく壊してしまう。ほんのわずかに右型が多ければ右型が右型を増やし続け、逆なら左型が左型を増やし続ける。雪玉が坂を転がるように偏りが増幅され、最後には片方が圧倒的に優勢になるのである。
ここで話は急に生命へ飛ぶ。人間を含む生物のアミノ酸は、ほぼすべて左手型であり、DNAを構成する糖は右手型である。なぜそうなったのか。生命誕生以前の地球には右型も左型も入り混じった化学物質が存在したと考えられるのに、生命はなぜ片方を選んだのか。この謎は「ホモキラリティ」と呼ばれ、長年研究者を悩ませてきた。硤合反応はその謎を完全に解いたわけではない。しかし、「ごく小さな偏りが自己増幅して片方を優勢にする」という仕組みを実験で示した。生命が右か左かに偏っていった過程を考えるうえで、極めて重要な手掛かりになったのである。生命の歴史を振り返ると、壮大な物語の出発点が、驚くほど些細な差だった可能性が見えてくる。
そして、その背景にある考え方が「対称性の破れ」だ。難しそうな言葉だが、ここでは「どちらでもよかったように見えるのに、結果として片方に決まってしまう現象」と考えればよい。実は自然界には、この問題がさまざまな姿で現れる。宇宙誕生の際には、物質と反物質がほぼ対等に存在していたと考えられている。しかし、現在の宇宙には物質が圧倒的に多く残っている。また、南部陽一郎博士が提唱した自発的対称性の破れという考え方は、素粒子が質量を持つ仕組みの理解にもつながった。分子の左右の偏りと宇宙の物質・反物質の非対称性は同じ現象ではない。それでも、「なぜ対称な状態から非対称な世界が生まれるのか」という問いは共通している。自然界というのは案外、完全な平等状態を長く維持するのが苦手らしい。
この点で、野依(のより)良治博士の研究との対比も興味深い。野依博士は、触媒を使って分子の右型と左型を選択的に作り分ける技術を切り開いた。一方、硤合博士は、ごく小さな偏りが自己増幅する仕組みを明らかにした。片や人間が望む分子を作り分ける技術であり、片や自然の中で偏りが生まれ、増幅される仕組みの解読である。どちらも右と左の話なのに、向き合っている問いはかなり違う。世の中には右と左の話になると急に険悪になる分野もあるが、こちらは純粋に化学の話である。それでも根底には、「ごく小さな差が大きな結果を生む」という共通のテーマが流れている。
考えてみれば、人間社会にも似た現象は少なくない。流行も市場も選挙も、最初は大差がなかったはずなのに、いつの間にか一方が圧倒的優勢になることがある。もちろん、その仕組みは化学反応とは違う。しかし、最初の小さな差が後になって大きな違いになるという点では、妙に通じるものがある。研究者の人生もまたそうだろう。右へ行っても左へ行ってもよかったはずの分かれ道が、後から振り返ると決定的な意味を持っていることがある。自然界では、対称性が破れることで新しい構造が生まれる場合がある。宇宙も生命も人間社会も、その仕組みはそれぞれ違う。それでも、ほんのわずかな偏りが思いもよらぬ結果へつながるという不思議は共通している。世界はそんな小さな偏りの積み重ねによって、いっそう多様で、複雑で、そして面白いものになっているのである。
トランプとグリーンランド ― 2026年10月13日
グリーンランドを買収すると言い出したとき、トランプは世界中からボロカスに言われた。領土を不動産のように扱うとは何事か。デンマークの主権を何だと思っているのか。グリーンランドの人々の意思はどうなるのか。批判にはそれぞれもっともな理由がある。実際、同盟国の神経を逆なでするような発言だった。しかし外交を評価するとき、発言の品位と政策の成果は分けて考えなければならない。政治家の好感度と国家の利益は同じ表では採点できないからだ。外交の世界では、感じの悪い営業マンが大型契約を取ることもある。好き嫌いと成果は別勘定なのである。
先月、米国、デンマーク、グリーンランドの3者はグリーンランド防衛に関する合意に署名した。米国はピトゥフィク宇宙軍基地の近代化・拡張を進め、ナールスアークとメステルスヴィークにも新たな防衛区域を設ける道を開いた。さらにNATO非加盟国による軍事拠点の設置や継続的な軍事的存在にも制約が加わる。中国やロシアがグリーンランドで足場を築く余地は小さくなった。もちろん米国旗がヌークの街に翻るわけではない。グリーンランドが五十一番目の州になるわけでもない。しかし、それだけで今回を失敗と呼ぶのは妙な話である。世界中が土地の売買話で盛り上がっている間に、当事者たちは滑走路の延長距離とレーダーの射程を計算していた。世間は登記簿を見ていたが、軍人たちは地図を見ていたのである。
そもそも米国のグリーンランドへの関心は、トランプが突然思いついた話ではない。十九世紀から取得への関心があり、一九四六年にはトルーマン政権がデンマークに買収を打診し、一九五一年には防衛協定を結んでいる。北極圏は北米防衛の玄関口であり、ミサイル警戒と北大西洋監視の要だからだ。今回の合意は、その長い流れの延長線上にある。本当に問うべきなのは、トランプがグリーンランドを買えたかではない。米国は何を手に入れたのかである。この問いを見失うと議論は奇妙な方向へ進む。野球を見ながらスコアボードではなく監督の表情ばかり眺めているようなものだ。ベンチの空気は分かる。しかし試合に勝ったのがどちらかは分からない。外交論議でよく起きるのはこれである。人物の好き嫌いばかりが語られ、国家が実際に何を獲得したのかが脇役になってしまう。
その観点から見れば、米国は大きな利益を得る道を開いた。領有権は獲得できなかったが、軍事活動の自由度は広がる。グリーンランドへのアクセスは強化され、中国やロシアが足場を築く余地は狭くなった。将来グリーンランドが独立した場合にも、安全保障上の枠組みを維持する方向性が示された。誰もが所有権の話をしていたが、ワシントンが欲しかったのは所有権そのものではなく影響力だった。誰もが登記簿を見ていたが、ワシントンが見ていたのは地図だった。買収という看板は手に入らなかった。しかし鍵は手に入った。そして中国やロシアにとって問題なのは、看板よりもその鍵の方である。結局のところ、領土の価値は地面そのものではなく、その場所が持つ軍事的価値によって決まる。手に入らなかったものではなく、手に入れたものを見なければ外交は評価できない。
欧州にとっても、これは決して他人事ではない。欧州は長年「戦略的自立」を唱えてきた。しかし現実には、北極圏の安全保障ですら米国抜きで組み立てることは難しい。その一方で、トランプ登場以降の欧州は防衛費の増額と自前の防衛力強化を迫られている。自立を語れば語るほど米国の軍事力が必要になるという皮肉な状況である。今回の合意は欧州の課題も浮き彫りにした。トランプの言動を好ましく思う必要はない。交渉の手法に眉をひそめるのも自由である。しかし、嫌いな政治家だから失敗していてほしいという願望と、実際に何が起きたのかを分析することは別問題だ。
世の中には、嫌いな政治家が結果を出すことがある。その事実ほど人は認めたがらない。だから議論はしばしば人格論へ逃げ込み、成果の検証から目をそらす。グリーンランド騒動でも、多くの人は「そんな話が実現するはずがない」と笑った。確かに買収は実現しなかった。しかし百点満点の要求が通らなくても、八十点の結果を得ることはできる。そして交渉では、その八十点こそが本命であることも少なくない。安全保障は好感度調査ではない。テレビは言葉を追い、人々は登記簿を眺めていた。しかし当事者は地図を見ていた。そして最後に残ったのは、「トランプは感じが悪かった」という感想と、「米国は北極圏での戦略的利益を広げた」という結果である。歴史に残るのは、たいてい感想ではなく結果の方なのである。
先月、米国、デンマーク、グリーンランドの3者はグリーンランド防衛に関する合意に署名した。米国はピトゥフィク宇宙軍基地の近代化・拡張を進め、ナールスアークとメステルスヴィークにも新たな防衛区域を設ける道を開いた。さらにNATO非加盟国による軍事拠点の設置や継続的な軍事的存在にも制約が加わる。中国やロシアがグリーンランドで足場を築く余地は小さくなった。もちろん米国旗がヌークの街に翻るわけではない。グリーンランドが五十一番目の州になるわけでもない。しかし、それだけで今回を失敗と呼ぶのは妙な話である。世界中が土地の売買話で盛り上がっている間に、当事者たちは滑走路の延長距離とレーダーの射程を計算していた。世間は登記簿を見ていたが、軍人たちは地図を見ていたのである。
そもそも米国のグリーンランドへの関心は、トランプが突然思いついた話ではない。十九世紀から取得への関心があり、一九四六年にはトルーマン政権がデンマークに買収を打診し、一九五一年には防衛協定を結んでいる。北極圏は北米防衛の玄関口であり、ミサイル警戒と北大西洋監視の要だからだ。今回の合意は、その長い流れの延長線上にある。本当に問うべきなのは、トランプがグリーンランドを買えたかではない。米国は何を手に入れたのかである。この問いを見失うと議論は奇妙な方向へ進む。野球を見ながらスコアボードではなく監督の表情ばかり眺めているようなものだ。ベンチの空気は分かる。しかし試合に勝ったのがどちらかは分からない。外交論議でよく起きるのはこれである。人物の好き嫌いばかりが語られ、国家が実際に何を獲得したのかが脇役になってしまう。
その観点から見れば、米国は大きな利益を得る道を開いた。領有権は獲得できなかったが、軍事活動の自由度は広がる。グリーンランドへのアクセスは強化され、中国やロシアが足場を築く余地は狭くなった。将来グリーンランドが独立した場合にも、安全保障上の枠組みを維持する方向性が示された。誰もが所有権の話をしていたが、ワシントンが欲しかったのは所有権そのものではなく影響力だった。誰もが登記簿を見ていたが、ワシントンが見ていたのは地図だった。買収という看板は手に入らなかった。しかし鍵は手に入った。そして中国やロシアにとって問題なのは、看板よりもその鍵の方である。結局のところ、領土の価値は地面そのものではなく、その場所が持つ軍事的価値によって決まる。手に入らなかったものではなく、手に入れたものを見なければ外交は評価できない。
欧州にとっても、これは決して他人事ではない。欧州は長年「戦略的自立」を唱えてきた。しかし現実には、北極圏の安全保障ですら米国抜きで組み立てることは難しい。その一方で、トランプ登場以降の欧州は防衛費の増額と自前の防衛力強化を迫られている。自立を語れば語るほど米国の軍事力が必要になるという皮肉な状況である。今回の合意は欧州の課題も浮き彫りにした。トランプの言動を好ましく思う必要はない。交渉の手法に眉をひそめるのも自由である。しかし、嫌いな政治家だから失敗していてほしいという願望と、実際に何が起きたのかを分析することは別問題だ。
世の中には、嫌いな政治家が結果を出すことがある。その事実ほど人は認めたがらない。だから議論はしばしば人格論へ逃げ込み、成果の検証から目をそらす。グリーンランド騒動でも、多くの人は「そんな話が実現するはずがない」と笑った。確かに買収は実現しなかった。しかし百点満点の要求が通らなくても、八十点の結果を得ることはできる。そして交渉では、その八十点こそが本命であることも少なくない。安全保障は好感度調査ではない。テレビは言葉を追い、人々は登記簿を眺めていた。しかし当事者は地図を見ていた。そして最後に残ったのは、「トランプは感じが悪かった」という感想と、「米国は北極圏での戦略的利益を広げた」という結果である。歴史に残るのは、たいてい感想ではなく結果の方なのである。
天下分け目のトイレ合戦 ― 2026年10月12日
関西テレビが興味深いニュースを報じていた。京都府大山崎町では、町のシンボルである天王山の山頂にバイオトイレを設置しようと、住民や登山客ら約1100人が200万円を寄付した。しかし4年が過ぎてもトイレは完成していない。町長は設置を進めたい。一方、議会は事業費や維持費の試算が不十分だとして認めない。寄付金は宙に浮いたまま。そして、その対立の中心にいた議会議長は町長選挙への立候補を表明し、「対立より対話」を掲げているという。ニュースとしてはトイレ問題である。しかし、読み終えて残るのは別の疑問だ。なぜ天下分け目の天王山を抱える町で、政治家たちは天下ではなくトイレの話ばかりしているのだろう。
天王山は単なる標高270メートルの里山ではない。羽柴秀吉と明智光秀が激突した山崎の戦いの舞台であり、「天下分け目の天王山」という言葉そのものが全国ブランドである。全国の自治体は観光客を呼び込もうと必死だ。歴史を掘り起こし、ゆるキャラを作り、イベントを開き、それでも知名度が上がらず苦労している。ところが大山崎町は違う。最初から全国区の看板を持っている。しかも豊臣兄弟が注目されれば、天王山への関心も高まる可能性がある。本来なら政治家たちは色めき立つはずだ。どう集客するか。どう滞在時間を延ばすか。どう商店街に人を流すか。どう税収につなげるか。そんな議論が飛び交っていても不思議ではない。ところが聞こえてくるのは観光戦略ではなく、電源ケーブルの話なのである。
もちろん議会の言い分には理がある。総事業費も分からないまま予算を認めるわけにはいかない。一方で町長の言い分も理解できる。寄付者がトイレ設置を願って集めた金を、別の用途に使うのは難しい。双方に理屈はある。だが問題は、その理屈が4年間で何か一つでも結果を生んだのかということだ。町長は「作りたい」と言う。議会は「試算が足りない」と言う。そして4年が過ぎた。秀吉と光秀は山崎の戦いで日本の行方を争った。令和の天王山では町長と12人の町議が見積書を争っている。あちらが天下を懸けた戦いなら、こちらは電源工事費を懸けた戦いである。天下分け目の地で、天下ではなくコンセント代が焦点になっているのだから、歴史も苦笑いしているかもしれない。
住民から見れば、そろそろどちらの理屈にも飽きてくる頃だろう。知りたいのは200万円を使うかどうかではない。その200万円をどう町の力に変えるのかである。観光客を何人呼べるのか。地元商店にどれだけお金を落としてもらえるのか。歴史資源をどう地域経済につなげるのか。本来、トイレは目的ではなく手段である。ところが議論を聞いていると、いつの間にか手段が目的になっている。双方ともコストは語る。しかし投資を語らない。支出は語る。しかし収入を語らない。町民が見ているのは家計簿ではない。町の将来である。全国ブランドという金脈の上に立ちながら、掘っているのは金ではなく経費だ。その姿は滑稽というより、むしろ惜しい。
そして町長選挙を前に、「対立より対話」という言葉が響く。しかし有権者が求めているのは対立でも対話でもない。知恵であり、結果であり、解決である。1100人もの住民が財布を開いて寄付した事実は重い。それは単なる200万円ではない。町への期待そのものである。その期待に対して、政治が4年間かけて返した答えがトイレ論争だったとしたら、町民は拍子抜けするだろう。天王山は日本史の転換点となった場所である。だが、有権者が見たいのは勝者ではない。討論会でもない。まして電源ケーブルの見積書でもない。「天下分け目の天王山」という資産をどう町の未来へ変えるのか。その完成図である。秀吉は天王山で天下への道を開いた。令和の政治にも、そろそろ見積書の先にある未来を語ってほしい。
天王山は単なる標高270メートルの里山ではない。羽柴秀吉と明智光秀が激突した山崎の戦いの舞台であり、「天下分け目の天王山」という言葉そのものが全国ブランドである。全国の自治体は観光客を呼び込もうと必死だ。歴史を掘り起こし、ゆるキャラを作り、イベントを開き、それでも知名度が上がらず苦労している。ところが大山崎町は違う。最初から全国区の看板を持っている。しかも豊臣兄弟が注目されれば、天王山への関心も高まる可能性がある。本来なら政治家たちは色めき立つはずだ。どう集客するか。どう滞在時間を延ばすか。どう商店街に人を流すか。どう税収につなげるか。そんな議論が飛び交っていても不思議ではない。ところが聞こえてくるのは観光戦略ではなく、電源ケーブルの話なのである。
もちろん議会の言い分には理がある。総事業費も分からないまま予算を認めるわけにはいかない。一方で町長の言い分も理解できる。寄付者がトイレ設置を願って集めた金を、別の用途に使うのは難しい。双方に理屈はある。だが問題は、その理屈が4年間で何か一つでも結果を生んだのかということだ。町長は「作りたい」と言う。議会は「試算が足りない」と言う。そして4年が過ぎた。秀吉と光秀は山崎の戦いで日本の行方を争った。令和の天王山では町長と12人の町議が見積書を争っている。あちらが天下を懸けた戦いなら、こちらは電源工事費を懸けた戦いである。天下分け目の地で、天下ではなくコンセント代が焦点になっているのだから、歴史も苦笑いしているかもしれない。
住民から見れば、そろそろどちらの理屈にも飽きてくる頃だろう。知りたいのは200万円を使うかどうかではない。その200万円をどう町の力に変えるのかである。観光客を何人呼べるのか。地元商店にどれだけお金を落としてもらえるのか。歴史資源をどう地域経済につなげるのか。本来、トイレは目的ではなく手段である。ところが議論を聞いていると、いつの間にか手段が目的になっている。双方ともコストは語る。しかし投資を語らない。支出は語る。しかし収入を語らない。町民が見ているのは家計簿ではない。町の将来である。全国ブランドという金脈の上に立ちながら、掘っているのは金ではなく経費だ。その姿は滑稽というより、むしろ惜しい。
そして町長選挙を前に、「対立より対話」という言葉が響く。しかし有権者が求めているのは対立でも対話でもない。知恵であり、結果であり、解決である。1100人もの住民が財布を開いて寄付した事実は重い。それは単なる200万円ではない。町への期待そのものである。その期待に対して、政治が4年間かけて返した答えがトイレ論争だったとしたら、町民は拍子抜けするだろう。天王山は日本史の転換点となった場所である。だが、有権者が見たいのは勝者ではない。討論会でもない。まして電源ケーブルの見積書でもない。「天下分け目の天王山」という資産をどう町の未来へ変えるのか。その完成図である。秀吉は天王山で天下への道を開いた。令和の政治にも、そろそろ見積書の先にある未来を語ってほしい。
フランス高校生デモ ― 2026年10月11日
フランスで続く高校生デモを報じる記事を読むと、話は実に単純だ。「教員を増やせ」「校舎を直せ」「授業環境を改善しろ」。なるほど教育問題らしい。しかし少し調べると、この分かりやすさが妙に怪しくなる。フランスは教育予算をケチっている国ではない。公的教育支出の対GDP比は日本を大きく上回り、貧困地域向けの優先教育制度まで整備している。それでも教員不足は解消せず、生徒たちは街頭に訴え出る。これだけ支出しても問題は改善しない。まるで胃薬を飲み続けながら胃潰瘍が進行している患者のようだ。医者なら薬を増やす前に病名を疑う。ところが政治は、病名より処方箋の枚数を語りたがる。
教員不足も同じだ。教師が足りないというより、教師になろうとする人材そのものが細っているのである。教職の魅力は低下し、採用試験でも必要な人数を確保できない。給与だけでなく、仕事の負担や職場環境も志望者を遠ざける。高学歴層がより条件の良い職業へ流れる一方、教育環境に恵まれなかった地域では、大学進学を経て教員を志す人材を育てること自体が難しい。つまり教壇を支える人材が、上からも下からも細っているのだ。そのうえ問題校では保護者対応や生徒指導などの負担も重い。政府は給与や手当を積み増すが、それだけで人材が集まり定着するわけではない。経験の浅い教員に負担が集中し、教育環境はさらに悪化する。穴の空いたバケツに水を注ぎながら、水量が足りないと議論しているようなものである。
ここで登場するのが「分離」という厄介な言葉だ。フランスの研究者たちは、教育格差の背景として居住地分離、学校分離、社会階層分離を指摘している。低所得層や社会的に不利な家庭が特定地域に集中し、その子どもたちが特定の学校へ集まる。一方で中間層はそこから離れ、教師も定着しにくくなる。結果として学校は学びの場であると同時に、社会問題が集積する場所になってしまう。足りない教師も、荒れる教室も、固定化する格差も、別々の問題に見えて実は同じ根から伸びた枝かもしれない。移民集住はその要素の一つだが、本質は社会的困難が特定地域へ累積することにある。教育現場だけを見ていては病巣にたどり着けない。
ただし問題を貧困地域や移民集住だけに押し込めるわけにもいかない。在仏日本人の保護者からは、パリの公教育でトイレすら修理されない環境に不安を感じるという声も聞かれる。個々の体験談だけで全国の実態を断定することはできないが、問題が広範囲に及んでいるのなら、社会的分離だけでは説明しきれない。教員配置の仕組み、代替教員の確保、施設管理のあり方など、公教育の運営制度そのものに目を向ける必要がある。教育費の多寡だけでなく、教育費がどこへ流れ、どう使われているのかという視点も欠かせない。
高校生は授業環境の改善を求め、教師は待遇改善を訴え、政府は予算を投じたと説明する。研究者は社会的分離を指摘する。それぞれに理由がある。だからこそ厄介なのだ。誰も間違っていないのに、問題だけが深刻化している。教育費の対GDP比が日本を大きく上回っているのに、学校現場の不満が解消しない。この落差を単純な予算不足で説明することはできない。本当の原因は、予算の総額と現場の実態をつなぐ制度や運営のどこかに潜んでいるのだろう。
では、何をするべきか。住宅や雇用の分散化だけで解決するほど話は単純ではない。欧州各国も試行錯誤を続けている。学校選択の自由化は格差を広げる恐れがあり、強制的な居住分散は反発を招く。職業教育の強化によって進学競争を和らげようとする国もある。つまり処方箋は一つではないのである。それでも問われるべきは、制度を維持するために予算を増やすのか、それとも制度そのものを改めるのかという選択だ。日本もまた対岸の火事ではない。人口減少を語りながら外国人労働力を必要とし、受け入れを進めながら地域設計の議論は後回しにしている。政治の仕事は、目先の補助金というバケツを毎年買い足すことではない。なぜ屋根が腐ったのかを突き止め、必要なら梁そのものを取り替えることである。問題は雨ではない。屋根が腐っているのに、バケツの数だけ増やして安心していることなのである。
教員不足も同じだ。教師が足りないというより、教師になろうとする人材そのものが細っているのである。教職の魅力は低下し、採用試験でも必要な人数を確保できない。給与だけでなく、仕事の負担や職場環境も志望者を遠ざける。高学歴層がより条件の良い職業へ流れる一方、教育環境に恵まれなかった地域では、大学進学を経て教員を志す人材を育てること自体が難しい。つまり教壇を支える人材が、上からも下からも細っているのだ。そのうえ問題校では保護者対応や生徒指導などの負担も重い。政府は給与や手当を積み増すが、それだけで人材が集まり定着するわけではない。経験の浅い教員に負担が集中し、教育環境はさらに悪化する。穴の空いたバケツに水を注ぎながら、水量が足りないと議論しているようなものである。
ここで登場するのが「分離」という厄介な言葉だ。フランスの研究者たちは、教育格差の背景として居住地分離、学校分離、社会階層分離を指摘している。低所得層や社会的に不利な家庭が特定地域に集中し、その子どもたちが特定の学校へ集まる。一方で中間層はそこから離れ、教師も定着しにくくなる。結果として学校は学びの場であると同時に、社会問題が集積する場所になってしまう。足りない教師も、荒れる教室も、固定化する格差も、別々の問題に見えて実は同じ根から伸びた枝かもしれない。移民集住はその要素の一つだが、本質は社会的困難が特定地域へ累積することにある。教育現場だけを見ていては病巣にたどり着けない。
ただし問題を貧困地域や移民集住だけに押し込めるわけにもいかない。在仏日本人の保護者からは、パリの公教育でトイレすら修理されない環境に不安を感じるという声も聞かれる。個々の体験談だけで全国の実態を断定することはできないが、問題が広範囲に及んでいるのなら、社会的分離だけでは説明しきれない。教員配置の仕組み、代替教員の確保、施設管理のあり方など、公教育の運営制度そのものに目を向ける必要がある。教育費の多寡だけでなく、教育費がどこへ流れ、どう使われているのかという視点も欠かせない。
高校生は授業環境の改善を求め、教師は待遇改善を訴え、政府は予算を投じたと説明する。研究者は社会的分離を指摘する。それぞれに理由がある。だからこそ厄介なのだ。誰も間違っていないのに、問題だけが深刻化している。教育費の対GDP比が日本を大きく上回っているのに、学校現場の不満が解消しない。この落差を単純な予算不足で説明することはできない。本当の原因は、予算の総額と現場の実態をつなぐ制度や運営のどこかに潜んでいるのだろう。
では、何をするべきか。住宅や雇用の分散化だけで解決するほど話は単純ではない。欧州各国も試行錯誤を続けている。学校選択の自由化は格差を広げる恐れがあり、強制的な居住分散は反発を招く。職業教育の強化によって進学競争を和らげようとする国もある。つまり処方箋は一つではないのである。それでも問われるべきは、制度を維持するために予算を増やすのか、それとも制度そのものを改めるのかという選択だ。日本もまた対岸の火事ではない。人口減少を語りながら外国人労働力を必要とし、受け入れを進めながら地域設計の議論は後回しにしている。政治の仕事は、目先の補助金というバケツを毎年買い足すことではない。なぜ屋根が腐ったのかを突き止め、必要なら梁そのものを取り替えることである。問題は雨ではない。屋根が腐っているのに、バケツの数だけ増やして安心していることなのである。
斎藤知事と記者クラブ ― 2026年10月10日
兵庫県の斎藤元彦知事が、不規則発言を繰り返したフリー記者の定例会見への参加を認めなかったことで、また議論が起きている。報道では「表現の自由」や「記者排除」が盛んに語られる。しかし、話をそこだけに絞ると、肝心なところを見落とす。今回問われているのは知事の判断だけではない。法的制度でもない「記者クラブ」が、事実上の優先的な取材機会を持ってきたことの功罪も問われているのである。
発端となった記者は会見中に「人殺しやないか、お前は」などと発言し、記者クラブから参加を停止された。その後、謝罪と再発防止の誓約を提出したことで記者クラブは復帰を認めたが、県は参加を認めなかった。ここで県民が知りたいのは、知事が正しいか間違っているかだけではない。なぜそんな発言が出たのか。そして記者クラブはなぜ処分し、なぜ復帰を認めたのか。処分や復帰の明確な運用基準が示されないままブラックボックスで処理されるなら、外部から妥当性を検証しようがない。知事には厳しい説明責任を求めるのに、自分たちの判断プロセスは闇の中。この非対称性は、どうにも妙である。
厳しい質問と人格攻撃は別物だ。行政を追及するのは記者の仕事だが、相手を罵倒することまで「報道の自由」に含める必要はない。しかも今は会見がライブ配信され、発言が切り抜かれて拡散される時代だ。新聞の発行部数も2025年には約2487万部となり、2011年の約4835万部からほぼ半減した。大手メディアもネットでニュースを見てもらう競争から逃れられない。そうした環境では、冷静な質問より刺激的な一言の方が注目を集めやすい。関西のメディアによる斎藤知事報道の強い温度差を見ていると、読者の側から「そんなにメディアは偉いのか」と首をかしげたくなるのも無理はない。会見が事実を引き出す場ではなく、「映える」切り抜きを作る場になっているとすれば、深刻な話である。
さらに言えば、そもそも記者クラブとは、電波や紙面という配信方法が限られていた時代に形成された仕組みである。法的制度でもない任意の組織が、公的な取材機会に事実上の影響力を持ってきたことを考えれば、現在の情報環境にそのまま適合する制度なのかは、改めて考える必要がある。欧米にも、行政側が参加資格を定め、特定の記者クラブへの所属を絶対条件としない会見方式は広く存在する。少なくとも、記者クラブへの所属を前提としない取材機会をどう確保するかは、日本でも考えてよいだろう。
ましてや、権力を監視する側が自らのルールの公開すら拒み、既存の仕組みに固執し続けるのであれば結論は簡単だ。これだけSNSや個人配信が普及した時代に、特定のメディアに優先的な取材機会を与える記者クラブという仕組みを、わざわざ維持する必要はない。さっさと全廃した方が早い。権力を監視する者は、いったい誰に監視されるのか。今回の騒動が突きつけているのは、記者クラブという既存の仕組みが、いまも本当に必要なのかという問題である。
発端となった記者は会見中に「人殺しやないか、お前は」などと発言し、記者クラブから参加を停止された。その後、謝罪と再発防止の誓約を提出したことで記者クラブは復帰を認めたが、県は参加を認めなかった。ここで県民が知りたいのは、知事が正しいか間違っているかだけではない。なぜそんな発言が出たのか。そして記者クラブはなぜ処分し、なぜ復帰を認めたのか。処分や復帰の明確な運用基準が示されないままブラックボックスで処理されるなら、外部から妥当性を検証しようがない。知事には厳しい説明責任を求めるのに、自分たちの判断プロセスは闇の中。この非対称性は、どうにも妙である。
厳しい質問と人格攻撃は別物だ。行政を追及するのは記者の仕事だが、相手を罵倒することまで「報道の自由」に含める必要はない。しかも今は会見がライブ配信され、発言が切り抜かれて拡散される時代だ。新聞の発行部数も2025年には約2487万部となり、2011年の約4835万部からほぼ半減した。大手メディアもネットでニュースを見てもらう競争から逃れられない。そうした環境では、冷静な質問より刺激的な一言の方が注目を集めやすい。関西のメディアによる斎藤知事報道の強い温度差を見ていると、読者の側から「そんなにメディアは偉いのか」と首をかしげたくなるのも無理はない。会見が事実を引き出す場ではなく、「映える」切り抜きを作る場になっているとすれば、深刻な話である。
さらに言えば、そもそも記者クラブとは、電波や紙面という配信方法が限られていた時代に形成された仕組みである。法的制度でもない任意の組織が、公的な取材機会に事実上の影響力を持ってきたことを考えれば、現在の情報環境にそのまま適合する制度なのかは、改めて考える必要がある。欧米にも、行政側が参加資格を定め、特定の記者クラブへの所属を絶対条件としない会見方式は広く存在する。少なくとも、記者クラブへの所属を前提としない取材機会をどう確保するかは、日本でも考えてよいだろう。
ましてや、権力を監視する側が自らのルールの公開すら拒み、既存の仕組みに固執し続けるのであれば結論は簡単だ。これだけSNSや個人配信が普及した時代に、特定のメディアに優先的な取材機会を与える記者クラブという仕組みを、わざわざ維持する必要はない。さっさと全廃した方が早い。権力を監視する者は、いったい誰に監視されるのか。今回の騒動が突きつけているのは、記者クラブという既存の仕組みが、いまも本当に必要なのかという問題である。