親権制度の大転換と野党 ― 2025年11月01日
来年4月、日本の親権制度は戦後以来の大転換期を迎える。改正民法により、離婚後も父母が共同で親権を持つ「共同親権」が選択可能となるこの制度は、「離婚は夫婦関係の解消であって、親子関係の断絶ではない」という、国際的にも標準的な理念に基づくものだ。子どもに対する責任は、父母が離婚後も共有すべきだというこの理念自体は、極めて明快で合理的である。しかし、国会審議では、この歴史的転換点となる制度に対し、一部野党が強い抵抗を見せた。日本共産党やれいわ新選組は、DVや虐待の加害者が親権を持ち続けることで被害者や子どもへの支配が続くという「運用のリスク」を前面に掲げ、制度そのものの導入に反対し、立憲民主党も賛成しつつ附帯決議で制限を求めるなど、慎重姿勢に終始したのだ。
ここで浮き彫りになるのは、日本の政策論議が抱える構造的な欠陥、すなわち「制度理念」と「運用リスク」の混同という病理である。共同親権が目指すのは、両親が離婚後も子どもに責任を持つという普遍的な原則の確立であり、DV事案などは、その原則を実現するにあたって、制度設計の中で制御すべき「例外的な課題」に過ぎない。にもかかわらず、野党の一部は、この例外的なリスクを理由に制度全体を否定するという、論理的に倒錯した構造に陥ってしまっている。これはあたかも、包丁が人を傷つけるリスクがあるからといって、その生産や販売を全て禁止せよと主張するに等しい、制度設計能力の欠如と映る。
そして、この病は共同親権に限定されるものではない。スパイ防止法やセキュリティークリアランス法における「国家安全保障」という理念と「恣意的運用」という懸念の分離拒否、さらには教育無償化や生活保護制度の見直し、憲法の見直しで9条や緊急事態条項といったあらゆる政策分野で繰り返されてきたのだ。制度の理念には賛同を示しながらも、具体的な運用リスクを声高に叫ぶことで制度創設自体を否定するこの姿勢は、結果として、国民が求める政策実現を遅らせ、立法府の議論を空転させている最大の原因である。
国際標準がすべて日本文化に適合するとは限らないが、制度と運用を峻別せず、懸念点を克服するための「制御の工夫」を放棄し、制度の否定に終始することは、立法府の責任放棄に等しいと言わざるを得ない。共同親権制度をめぐる議論は、私たち日本の政治が、普遍的な理念をいかに現実の法制度に落とし込み、運用上の課題を民主的統制によって乗り越えていけるのかを問う、重要な「政治の試金石」となるだろう。それにしてもこうした野党の幼稚な議論の繰り返しに国民はうんざりしていることに当事者が気づかないというのが一番問題なのだが。
ここで浮き彫りになるのは、日本の政策論議が抱える構造的な欠陥、すなわち「制度理念」と「運用リスク」の混同という病理である。共同親権が目指すのは、両親が離婚後も子どもに責任を持つという普遍的な原則の確立であり、DV事案などは、その原則を実現するにあたって、制度設計の中で制御すべき「例外的な課題」に過ぎない。にもかかわらず、野党の一部は、この例外的なリスクを理由に制度全体を否定するという、論理的に倒錯した構造に陥ってしまっている。これはあたかも、包丁が人を傷つけるリスクがあるからといって、その生産や販売を全て禁止せよと主張するに等しい、制度設計能力の欠如と映る。
そして、この病は共同親権に限定されるものではない。スパイ防止法やセキュリティークリアランス法における「国家安全保障」という理念と「恣意的運用」という懸念の分離拒否、さらには教育無償化や生活保護制度の見直し、憲法の見直しで9条や緊急事態条項といったあらゆる政策分野で繰り返されてきたのだ。制度の理念には賛同を示しながらも、具体的な運用リスクを声高に叫ぶことで制度創設自体を否定するこの姿勢は、結果として、国民が求める政策実現を遅らせ、立法府の議論を空転させている最大の原因である。
国際標準がすべて日本文化に適合するとは限らないが、制度と運用を峻別せず、懸念点を克服するための「制御の工夫」を放棄し、制度の否定に終始することは、立法府の責任放棄に等しいと言わざるを得ない。共同親権制度をめぐる議論は、私たち日本の政治が、普遍的な理念をいかに現実の法制度に落とし込み、運用上の課題を民主的統制によって乗り越えていけるのかを問う、重要な「政治の試金石」となるだろう。それにしてもこうした野党の幼稚な議論の繰り返しに国民はうんざりしていることに当事者が気づかないというのが一番問題なのだが。
現金オンリーのうどん屋 ― 2025年11月02日
今日は自家用車の点検ついでに、昼飯でも食べようと車屋の目の前にある『釜揚げ讃岐うどん 香の川製麺』へ。ここに来るのは実に3年ぶり。懐かしさもあって、カレーうどんを注文。ところが、レジ前で衝撃の事実。なんと、キャッシュレス決済が使えない。現金オンリー。今どきそんな店ある?と思いつつ、財布を確認。小銭が残ってたかも…と値段を聞くと750円。かき集めても730円しかない。レジのお姉さんに「後払いでいいから、電話番号と名前を書いてください」と言われる。いや、親切だけど、チェーン店でこの対応って珍しい。しかも、カレーうどんが750円って高くない?相場は600円くらいのはず。キャッシュレス非対応なら、むしろ安くしてほしいくらいだ。
味は悪くなかった。カレー出汁はしっかりしてて美味しかった。でも、肉の姿は見当たらず。具なしカレーうどんで750円かぁ…。支払いのため、近くのATMを探すことに。店員さんに聞くと、すぐ近くにコンビニがあるとのこと。外はあいにくの雨、しかも風が強い。国道沿いなので車が通るたびに水しぶきが飛んでくる。車で行きたいけど、点検中だから歩くしかない。5分ほど歩いてセブンイレブンに到着。ATMで現金を引き出すのも半年ぶり。すっかり忘れていたけど、1万円出金では千円札が引き出せない仕様。結局2回出金する羽目に。
それにしても、国道沿いの大型店でキャッシュレス非対応ってどうなの?文句を言っても仕方ないので、黙って支払い。改めて思う。うどんってこんなに高くなったんだな。3年前は500円くらいだったのに、5割も値上がりしてる。最近は飲み屋以外で外食しないから相場が分からなかったけど、「香の川製麺」だけが突出して高い気がする。ちなみに業界トップの丸亀製麺は640円。もちろんキャッシュレス対応済み。
レジに人手を割いてる時点で、利益率も下がるだろうし、経営陣の感覚がちょっと緩いのかも。「香の川製麺」が業界10位にも入らない理由、なんとなく分かった気がする。そんなことをぶつぶつ考えていたら、点検が終わった愛車が冬タイヤに履き替えて戻ってきた。さて、冬の車旅はどこへ行こうかと気を取り直す。
味は悪くなかった。カレー出汁はしっかりしてて美味しかった。でも、肉の姿は見当たらず。具なしカレーうどんで750円かぁ…。支払いのため、近くのATMを探すことに。店員さんに聞くと、すぐ近くにコンビニがあるとのこと。外はあいにくの雨、しかも風が強い。国道沿いなので車が通るたびに水しぶきが飛んでくる。車で行きたいけど、点検中だから歩くしかない。5分ほど歩いてセブンイレブンに到着。ATMで現金を引き出すのも半年ぶり。すっかり忘れていたけど、1万円出金では千円札が引き出せない仕様。結局2回出金する羽目に。
それにしても、国道沿いの大型店でキャッシュレス非対応ってどうなの?文句を言っても仕方ないので、黙って支払い。改めて思う。うどんってこんなに高くなったんだな。3年前は500円くらいだったのに、5割も値上がりしてる。最近は飲み屋以外で外食しないから相場が分からなかったけど、「香の川製麺」だけが突出して高い気がする。ちなみに業界トップの丸亀製麺は640円。もちろんキャッシュレス対応済み。
レジに人手を割いてる時点で、利益率も下がるだろうし、経営陣の感覚がちょっと緩いのかも。「香の川製麺」が業界10位にも入らない理由、なんとなく分かった気がする。そんなことをぶつぶつ考えていたら、点検が終わった愛車が冬タイヤに履き替えて戻ってきた。さて、冬の車旅はどこへ行こうかと気を取り直す。
自動運転制度の壁 ― 2025年11月03日
先月、日産自動車が横浜市で披露した実証走行は、まぎれもなく日本のモビリティ史に刻まれる出来事だった。運転席には人が座っているが、ハンドルは握らない。車はAIの判断で走り、信号を認識し、歩行者を避け、交差点を滑らかに抜けていく。そう、これは“運転席が無人”ではなく、“運転していない人間が座っている”実証──つまり、制度上の「完全自動運転の限界」を体現した瞬間だった。
日産の車両は、高精度地図とセンサー群、そしてAIによる行動予測を備えたハイレベルな自動運転車だ。遠隔監視体制も整い、実際の制御は全てAIが担っている。技術的にはレベル4に限りなく近い完成度で、走行中の安全性は人間ドライバーを上回る。米国のWaymoやTeslaでは、すでに有人運転より事故率が80〜90%低いという統計もある。ただ、アメリカの死亡事故率は日本の6倍なのでそのまま減少比率が反映するわけでは無いが、技術的な“できる”は、とっくに証明済みだということだ。
それでも、運転席には「保安要員」が座らされる。その姿は、日本の制度がまだ“人の存在”を手放せないことの象徴である。現行法では、万が一の際の責任主体を明確にするため、運転席に人を配置する必要がある。ゼロリスクを前提に設計された法制度が、「技術を信じる社会」へ移行することを拒んでいるのだ。結果として、省人化・効率化・高齢者の移動支援といった自動運転の社会的価値が、制度によって封じ込められている。
この構造を打破できるのは、技術者や官僚ではなく政治家である。道路交通法や自賠法の改正、運行責任の再定義、特定自動運行区域の全国展開──どれも行政裁量では限界がある。首長や大臣が「制度の正統性を更新する意思」を示さない限り、どれほど高性能な車を作っても、“人が座る無人運転”という矛盾が続く。鉄道でも同じだ。自動運転が可能な路線で運転士が座り続けるのは、国民の「安心感」を優先する制度の惰性ゆえである。だが、自家用車やタクシーなど個別輸送の領域までこの構造を持ち込むのは非合理だ。交通手段ごとに制度を分け、技術に応じたルール設計を行うべき時期に来ている。
日産の挑戦は、制度と技術の摩擦面を可視化した。次に必要なのは、走行データを公開し、政治がそれを“制度の根拠”として受け止める覚悟だ。無人運転の未来を止めているのは、技術の壁ではない。それは、ハンドルを握らない人間を“座らせておきたい”という、この国の制度的恐怖心そのものである。
日産の車両は、高精度地図とセンサー群、そしてAIによる行動予測を備えたハイレベルな自動運転車だ。遠隔監視体制も整い、実際の制御は全てAIが担っている。技術的にはレベル4に限りなく近い完成度で、走行中の安全性は人間ドライバーを上回る。米国のWaymoやTeslaでは、すでに有人運転より事故率が80〜90%低いという統計もある。ただ、アメリカの死亡事故率は日本の6倍なのでそのまま減少比率が反映するわけでは無いが、技術的な“できる”は、とっくに証明済みだということだ。
それでも、運転席には「保安要員」が座らされる。その姿は、日本の制度がまだ“人の存在”を手放せないことの象徴である。現行法では、万が一の際の責任主体を明確にするため、運転席に人を配置する必要がある。ゼロリスクを前提に設計された法制度が、「技術を信じる社会」へ移行することを拒んでいるのだ。結果として、省人化・効率化・高齢者の移動支援といった自動運転の社会的価値が、制度によって封じ込められている。
この構造を打破できるのは、技術者や官僚ではなく政治家である。道路交通法や自賠法の改正、運行責任の再定義、特定自動運行区域の全国展開──どれも行政裁量では限界がある。首長や大臣が「制度の正統性を更新する意思」を示さない限り、どれほど高性能な車を作っても、“人が座る無人運転”という矛盾が続く。鉄道でも同じだ。自動運転が可能な路線で運転士が座り続けるのは、国民の「安心感」を優先する制度の惰性ゆえである。だが、自家用車やタクシーなど個別輸送の領域までこの構造を持ち込むのは非合理だ。交通手段ごとに制度を分け、技術に応じたルール設計を行うべき時期に来ている。
日産の挑戦は、制度と技術の摩擦面を可視化した。次に必要なのは、走行データを公開し、政治がそれを“制度の根拠”として受け止める覚悟だ。無人運転の未来を止めているのは、技術の壁ではない。それは、ハンドルを握らない人間を“座らせておきたい”という、この国の制度的恐怖心そのものである。
ザ・ロイヤルファミリー ― 2025年11月04日
勝負もののドラマには、理屈抜きの胸の高鳴りがある。勝つか負けるか、その一点に人生のすべてが凝縮されるからだ。野球、将棋、ボクシング……舞台はいろいろあれど、競馬ほど人と動物の絆を描くにふさわしい勝負はないだろう。そんな競馬を真正面から扱ったドラマが、この秋のTBS日曜劇場『ザ・ロイヤルファミリー』だ。主人公・栗須栄治(妻夫木聡)は、税理士として安定した人生を歩んでいたが、人生の歯車が狂った瞬間に、名馬主・山王耕造(佐藤浩市)と出会う。そこから彼の運命は一変。競走馬「ロイヤルホープ」との出会いを通じて、20年にわたる家族の再生と夢への再挑戦が始まる──有馬記念という“日本一の舞台”を目指して。
物語は原作・早見和真の同名小説。『イノセント・デイズ』で知られる早見が描くのは、血と汗、そして「血統」に宿る宿命の物語だ。企画を立ち上げたのはプロデューサー・加藤章一。競馬に縁のなかったという彼が、「血統の継承」という言葉に人間社会の縮図を見たという。JRAの全面協力で実際の競馬場・トレセン撮影を敢行したが、コロナ禍で一時頓挫。それでも企画は息をつなぎ、数年の熟成を経てようやくこの秋、放送が実現した。
キャストには、妻夫木と佐藤を筆頭に、目黒蓮、松本若菜、沢村一樹、黒木瞳、小泉孝太郎といった実力派が並ぶ。いずれも「勝負」と「誇り」を背負う人間たちを、それぞれの流儀で演じている。脚本は『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平。青春群像の機微を知り尽くした筆致が、競馬界という閉ざされた世界に新たな風を吹き込む。主題歌は玉置浩二の「ファンファーレ」。その一節がレース前の高鳴りを象徴するように響く。演出を担うのは塚原あゆ子。『Nのために』『アンナチュラル』『最愛』と、近年のTBSドラマ黄金期を支えた名手だ。俳優の即興性を生かしながら、感情の微細な揺れを緻密に捉える──そんな彼女の演出が、本作でも遺憾なく発揮されている。芸術選奨新人賞や日本アカデミー賞優秀監督賞に輝いた手腕は伊達ではない。
競馬という専門的な題材を、血の通った人間ドラマへと昇華させた『ザ・ロイヤルファミリー』は、決して“馬の話”にとどまらない。これは、夢に敗れた者がもう一度、人生のターフに立つ物語である。勝敗ではなく、「挑むこと」にこそ人は心を打たれる──そんな原点を思い出させてくれる、今季屈指の注目作だ。ドラマの優秀さゆえか、あるいは歳のせいか、自分でも驚くほど目頭が熱くなる。
物語は原作・早見和真の同名小説。『イノセント・デイズ』で知られる早見が描くのは、血と汗、そして「血統」に宿る宿命の物語だ。企画を立ち上げたのはプロデューサー・加藤章一。競馬に縁のなかったという彼が、「血統の継承」という言葉に人間社会の縮図を見たという。JRAの全面協力で実際の競馬場・トレセン撮影を敢行したが、コロナ禍で一時頓挫。それでも企画は息をつなぎ、数年の熟成を経てようやくこの秋、放送が実現した。
キャストには、妻夫木と佐藤を筆頭に、目黒蓮、松本若菜、沢村一樹、黒木瞳、小泉孝太郎といった実力派が並ぶ。いずれも「勝負」と「誇り」を背負う人間たちを、それぞれの流儀で演じている。脚本は『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平。青春群像の機微を知り尽くした筆致が、競馬界という閉ざされた世界に新たな風を吹き込む。主題歌は玉置浩二の「ファンファーレ」。その一節がレース前の高鳴りを象徴するように響く。演出を担うのは塚原あゆ子。『Nのために』『アンナチュラル』『最愛』と、近年のTBSドラマ黄金期を支えた名手だ。俳優の即興性を生かしながら、感情の微細な揺れを緻密に捉える──そんな彼女の演出が、本作でも遺憾なく発揮されている。芸術選奨新人賞や日本アカデミー賞優秀監督賞に輝いた手腕は伊達ではない。
競馬という専門的な題材を、血の通った人間ドラマへと昇華させた『ザ・ロイヤルファミリー』は、決して“馬の話”にとどまらない。これは、夢に敗れた者がもう一度、人生のターフに立つ物語である。勝敗ではなく、「挑むこと」にこそ人は心を打たれる──そんな原点を思い出させてくれる、今季屈指の注目作だ。ドラマの優秀さゆえか、あるいは歳のせいか、自分でも驚くほど目頭が熱くなる。
思想に食われた全学連 ― 2025年11月05日
秋の光の下、東京・芝公園に「高市早苗政権打倒」「改憲・戦争阻止」を掲げる集会が開かれた。主催者発表で二千百五十人。参加者は「中国への侵略戦争を阻止するぞ」と声を上げ、都内をデモ行進した。壇上では全学連(全日本学生自治会総連合)の幹部が「革命に勝利するまで戦う」と訴える。久々に耳にしたその名前に、一瞬、かつての学生運動の熱を重ねそうになったが、目の前の光景は、もはや別の時代の断片でしかなかった。
1950〜60年代、全学連は全国の大学自治会の過半を束ね、安保闘争では数万人を動員した。若者たちは理想に燃え、社会を変えられると信じていた。しかし70年代に入ると、組織は分裂を重ね、革マル派と中核派の抗争に象徴されるように、自治は暴力と恐怖に蝕まれた。大学当局は次々と自治会を非公認化し、90年代には学生の関心そのものが遠ざかっていった。かつての「代表」は、制度の上でも、心の上でも消えていった。
私の学生時代、全学連を主導していたのは民青(日共)系だった。暴力的な派閥は排除され、活動は授業料の値上げ反対や学内の福利厚生改善といった穏やかなものだった。政治的主張はあっても、それは学生生活を守るための理性的な延長線上にあった。大学自治とは、思想の旗ではなく、“共に考える場”のことだった。中央集会に参加したとき、政治闘争的な空気にどこか違和感を覚えたのを今も覚えている。それでも、大学を学生自身の手で運営しようとする意志は、確かに生きていた。
だが、全学連が共産主義というイデオロギーを大学自治の枠に持ち込んだとき、運命は決まっていたのだと思う。自治は思想に食われ、異論は敵とされ、同調だけが「正義」となった。自治とは異なる意見をも包み込む“民主的な土壌”のはずだったのに、その根を自ら踏みにじった。結果、大学の自治は滅び、自治の意味を学ぶ機会を失った学生たちは、社会に出ても組織を「同調圧力の装置」としか見られなくなった。SNSで声を上げても、現実の場では孤立し、対話の回路は失われたままだ。
いまなお「全学連」を名乗る団体が存在することに、私は薄ら寒さを覚える。半世紀前の亡霊が、時代の空白を縫うように生き延びている。かつての理念を口にしながら、自治の精神をもっとも遠くに置き去りにしている――その姿に、皮肉な哀しみを感じる。
とはいえ、学生が大学運営に声を上げる仕組みそのものまで消えてしまった現状にも、別の危うさが潜む。多くの大学では、自治会は制度上だけの存在となり、学生の意見はアンケートや意見箱といった匿名の形式でしか吸い上げられない。一部を除けば、学生が大学の意思決定に関わる機会はほとんどない。大学は学生がいなくても回る――だが、それは大学が「考える共同体」から、単なるサービス提供機関に変わったことの証でもある。
自治の理想とは、政治運動そのものではない。異なる意見の存在を前提に、対話を重ね、一致点を見出していく互助の精神にこそ、その本質がある。かつて全学連がこの原点を見失ったとき、衰退は必然だった。しかし、自治の再生がまったく不可能だとは思わない。革命ではなく、互助を目的とした対話の自治を取り戻すこと――それこそが、戦後民主主義が本来目指した“自由のかたち”ではないだろうか。
1950〜60年代、全学連は全国の大学自治会の過半を束ね、安保闘争では数万人を動員した。若者たちは理想に燃え、社会を変えられると信じていた。しかし70年代に入ると、組織は分裂を重ね、革マル派と中核派の抗争に象徴されるように、自治は暴力と恐怖に蝕まれた。大学当局は次々と自治会を非公認化し、90年代には学生の関心そのものが遠ざかっていった。かつての「代表」は、制度の上でも、心の上でも消えていった。
私の学生時代、全学連を主導していたのは民青(日共)系だった。暴力的な派閥は排除され、活動は授業料の値上げ反対や学内の福利厚生改善といった穏やかなものだった。政治的主張はあっても、それは学生生活を守るための理性的な延長線上にあった。大学自治とは、思想の旗ではなく、“共に考える場”のことだった。中央集会に参加したとき、政治闘争的な空気にどこか違和感を覚えたのを今も覚えている。それでも、大学を学生自身の手で運営しようとする意志は、確かに生きていた。
だが、全学連が共産主義というイデオロギーを大学自治の枠に持ち込んだとき、運命は決まっていたのだと思う。自治は思想に食われ、異論は敵とされ、同調だけが「正義」となった。自治とは異なる意見をも包み込む“民主的な土壌”のはずだったのに、その根を自ら踏みにじった。結果、大学の自治は滅び、自治の意味を学ぶ機会を失った学生たちは、社会に出ても組織を「同調圧力の装置」としか見られなくなった。SNSで声を上げても、現実の場では孤立し、対話の回路は失われたままだ。
いまなお「全学連」を名乗る団体が存在することに、私は薄ら寒さを覚える。半世紀前の亡霊が、時代の空白を縫うように生き延びている。かつての理念を口にしながら、自治の精神をもっとも遠くに置き去りにしている――その姿に、皮肉な哀しみを感じる。
とはいえ、学生が大学運営に声を上げる仕組みそのものまで消えてしまった現状にも、別の危うさが潜む。多くの大学では、自治会は制度上だけの存在となり、学生の意見はアンケートや意見箱といった匿名の形式でしか吸い上げられない。一部を除けば、学生が大学の意思決定に関わる機会はほとんどない。大学は学生がいなくても回る――だが、それは大学が「考える共同体」から、単なるサービス提供機関に変わったことの証でもある。
自治の理想とは、政治運動そのものではない。異なる意見の存在を前提に、対話を重ね、一致点を見出していく互助の精神にこそ、その本質がある。かつて全学連がこの原点を見失ったとき、衰退は必然だった。しかし、自治の再生がまったく不可能だとは思わない。革命ではなく、互助を目的とした対話の自治を取り戻すこと――それこそが、戦後民主主義が本来目指した“自由のかたち”ではないだろうか。
「おこめ券」の迷走農政 ― 2025年11月06日
山下一仁氏は、PRESIDENT誌の記事で鈴木憲和農水相が提唱する「おこめ券」政策を厳しく批判している。氏によれば、これは米価維持のためのアリバイ政策に過ぎず、農水省・JA・農林族議員による「農政トライアングル」が復活しつつある兆候だという。表向きは低所得層への支援だが、実態は供給制限による価格高止まりを正当化する仕組みであり、国民には税負担と高価格の二重苦を強いる。この批判は、近年の米需給データと照らしても説得力がある。2023年と2024年の主食用米はそれぞれ約40万トン不足し、政府は備蓄米を計約60万トン放出して対応したが、なお20万トンの不足が残っている。つまり、構造的な供給不足は解消されていない。にもかかわらず、農水省は2025年産米について「供給過剰」として減産誘導を進めている。
さらに、2025年は猛暑による品質劣化が深刻で、ブランド米を中心に歩留まりが悪化。一等米比率の低下や精米ロスの増加が報告されており、最大745万トンという収穫見込みは現実的ではない。実際の供給量は700万トン台前半にとどまる可能性が高く、2023〜2024年の累積不足を完全に補うには不十分だ。にもかかわらず鈴木農相は、「政府備蓄米を100万トン規模に拡充する」と公言している。
現在の備蓄量はおよそ30万トン前後にまで減少しており、目標達成には今後70万トンを新たに買い入れる必要がある。仮に3年で積み増すとすれば、毎年25万トンを政府が市場から買い上げることになる。しかし現状でも需給はまだ20万トン不足しており、ここに政府の買い入れが加われば、民間流通分はますます逼迫する。需要不足ではなく、むしろ供給不足の中で“備蓄拡大”を唱える政策は、論理的に矛盾しているのだ。
かつて石破茂氏や小泉進次郎氏らが主導した「減反廃止・市場原理化」の流れを、政府はいまきれいに逆走している。あの改革路線は、減反政策に終止符を打とうとした点で方向としては正しかった。そして備蓄米購入で余剰を吸収すれば価格が下がらないことを知っていたからこそ、その方法には躊躇して踏み込まなかったのである。
いま政府が進めようとしているのは、まさにその逆の道だ。再び霞が関・永田町・JAが手を組み、国民負担の上に業界保護の塔を築こうとしている。山下氏の批判は単なる政策論ではなく、数値的にも裏付けられた制度批判だ。農政トライアングルの復権は、かつての改革路線とは正反対の方向へと国を導いている。
結局のところ、「おこめ券」政策は国民や安全保障のためではなく、業界のための制度的装置である。米価維持のための供給調整と補助金政策は、国民にとっては不透明で不合理な負担を強いるものであり、食料政策の持続可能性や経済再生に逆行する。コメ不足を誘導しながらコメ購入のカネを国民に配るというマッチポンプ政策だ。山下氏の警鐘は、農政の透明性と国民的議論の必要性を改めて突きつけている。
さらに、2025年は猛暑による品質劣化が深刻で、ブランド米を中心に歩留まりが悪化。一等米比率の低下や精米ロスの増加が報告されており、最大745万トンという収穫見込みは現実的ではない。実際の供給量は700万トン台前半にとどまる可能性が高く、2023〜2024年の累積不足を完全に補うには不十分だ。にもかかわらず鈴木農相は、「政府備蓄米を100万トン規模に拡充する」と公言している。
現在の備蓄量はおよそ30万トン前後にまで減少しており、目標達成には今後70万トンを新たに買い入れる必要がある。仮に3年で積み増すとすれば、毎年25万トンを政府が市場から買い上げることになる。しかし現状でも需給はまだ20万トン不足しており、ここに政府の買い入れが加われば、民間流通分はますます逼迫する。需要不足ではなく、むしろ供給不足の中で“備蓄拡大”を唱える政策は、論理的に矛盾しているのだ。
かつて石破茂氏や小泉進次郎氏らが主導した「減反廃止・市場原理化」の流れを、政府はいまきれいに逆走している。あの改革路線は、減反政策に終止符を打とうとした点で方向としては正しかった。そして備蓄米購入で余剰を吸収すれば価格が下がらないことを知っていたからこそ、その方法には躊躇して踏み込まなかったのである。
いま政府が進めようとしているのは、まさにその逆の道だ。再び霞が関・永田町・JAが手を組み、国民負担の上に業界保護の塔を築こうとしている。山下氏の批判は単なる政策論ではなく、数値的にも裏付けられた制度批判だ。農政トライアングルの復権は、かつての改革路線とは正反対の方向へと国を導いている。
結局のところ、「おこめ券」政策は国民や安全保障のためではなく、業界のための制度的装置である。米価維持のための供給調整と補助金政策は、国民にとっては不透明で不合理な負担を強いるものであり、食料政策の持続可能性や経済再生に逆行する。コメ不足を誘導しながらコメ購入のカネを国民に配るというマッチポンプ政策だ。山下氏の警鐘は、農政の透明性と国民的議論の必要性を改めて突きつけている。
マムダニ現象 NY市長選結果 ― 2025年11月07日
ニューヨーク市長選で民主党左派のゾーラン・マムダニ氏がまさかの大勝を果たした。「生活の手の届く都市」を旗印に掲げた彼の公約は、保育の無償化、公共交通の無料化、そして有権者の心臓を鷲掴みにした「家賃凍結」という劇薬政策のオンパレードだった。既存政治に絶望していた若年層、移民、労働者層は熱狂し、この選挙結果は「民主党内の急進派によるクーデター」のように報じられた。しかし、これは本質を見誤った表面的な理解に過ぎない。この「マムダニ現象」は、ニューヨークの病巣が、いかに深く、20年以上にわたる長老支配の民主党本丸に根を張っているかを白日の下に晒したに過ぎないのだ。
マムダニ氏が掲げる政策の多くは、実は市や州の裁量権で「とっくの昔に実現可能」なものばかりである。これが今回の選挙の最大の皮肉だ。もし本当に彼らが市民生活を第一に考えていたなら、なぜ過去20年間、民主党政権が牛耳ってきたこの街で、住宅難、貧困、教育格差といった都市の構造的問題が、ここまで深刻化したのか?答えは、ただ一つ。この構造的問題は、すべて「民主党一強」というぬるま湯の中で生まれた「制度設計の失敗」と、内輪で全てを収めてきた「利害調整の惰性」によって意図的に放置されてきた人災に他ならない。
特に顕著なのが「住宅問題」で、家賃凍結や厳格な家賃規制といった措置は、民主党が多数派を占める州議会で何度も議論されてきたにもかかわらず、実現に至らなかった。その背後には、州議会内部に存在する、不動産業界や開発業者と密接な関係を持つ「長老議員」たちの存在がある。彼らは政治献金や支持団体の圧力を背景に、市民生活に直結する改革案を水面下で葬ってきた。これが、20年間放置されてきた「民主党内部の不都合な真実」であり、彼らの“お公家体質”の核心である。
にもかかわらず、彼ら既存の民主党指導者層は、自分たちの制度設計責任を棚に上げ、まるでトランプ氏や共和党の“悪政”が全ての元凶であるかのような、白々しい「象徴的な物語」を描き続ける。彼らの描く物語はシンプルだ。「都市のリベラルな価値観」VS「地方の保守的な悪」。この構図は、都市部で圧倒的な支持基盤を持つ民主党にとって、非常に都合の良い動員装置として機能しており、トランプ批判は、リベラル層が心地よく酔いしれるための“自己満足装置”であり、自己批判から目を逸らすための「ガス抜き」に過ぎない。
このレトリックが最も卑劣なのは、それが制度的因果関係を意図的に誤認させる点にある。彼らは、問題の根源が「外部の敵」にあると主張することで、マムダニ氏が叩くべき真の敵――すなわち、「既存政権の醜態」や「党内長老の利権構造」から、市民の目を逸らす「目眩まし」の効果を生んでいるのだ。マムダニ氏の登場は、この20年の「民主党一強による利権と惰性の構造」に対する、市民の「決別宣言」にほかならない。都市の病理を根治させるには、もはや象徴的な「外敵叩き」では無意味だ。真に必要なのは、制度の可動域を熟知しながらも、利権構造によって改革を阻んできた政党の内部構造そのものへのメスである。
マムダニ氏が真の改革者であるなら、彼の真価は、当選後に「外敵」批判から「腐敗した党内」批判へと、その矛先を変える覚悟と実行力があるか否かにかかっている。彼は、自らの当選を支えた民主党の長老たちや、彼らと癒着した不動産業界のフィクサーたちに対して、どこまで毅然とした態度で「内部粛清」を断行できるのか?もし彼が、改革の実行を阻む党内の抵抗勢力に対し、これまでの市長たちと同じように「利害調整」という名の妥協を選べば、彼の掲げた劇薬政策はすべて「絵に描いた餅」に終わり、ニューヨークの闇は永遠に晴れないだろう。市民は今、この新市長が「党の忠犬」となるのか、それとも「真の革命家」となるのか、その背水の陣を見極めている。
マムダニ氏が掲げる政策の多くは、実は市や州の裁量権で「とっくの昔に実現可能」なものばかりである。これが今回の選挙の最大の皮肉だ。もし本当に彼らが市民生活を第一に考えていたなら、なぜ過去20年間、民主党政権が牛耳ってきたこの街で、住宅難、貧困、教育格差といった都市の構造的問題が、ここまで深刻化したのか?答えは、ただ一つ。この構造的問題は、すべて「民主党一強」というぬるま湯の中で生まれた「制度設計の失敗」と、内輪で全てを収めてきた「利害調整の惰性」によって意図的に放置されてきた人災に他ならない。
特に顕著なのが「住宅問題」で、家賃凍結や厳格な家賃規制といった措置は、民主党が多数派を占める州議会で何度も議論されてきたにもかかわらず、実現に至らなかった。その背後には、州議会内部に存在する、不動産業界や開発業者と密接な関係を持つ「長老議員」たちの存在がある。彼らは政治献金や支持団体の圧力を背景に、市民生活に直結する改革案を水面下で葬ってきた。これが、20年間放置されてきた「民主党内部の不都合な真実」であり、彼らの“お公家体質”の核心である。
にもかかわらず、彼ら既存の民主党指導者層は、自分たちの制度設計責任を棚に上げ、まるでトランプ氏や共和党の“悪政”が全ての元凶であるかのような、白々しい「象徴的な物語」を描き続ける。彼らの描く物語はシンプルだ。「都市のリベラルな価値観」VS「地方の保守的な悪」。この構図は、都市部で圧倒的な支持基盤を持つ民主党にとって、非常に都合の良い動員装置として機能しており、トランプ批判は、リベラル層が心地よく酔いしれるための“自己満足装置”であり、自己批判から目を逸らすための「ガス抜き」に過ぎない。
このレトリックが最も卑劣なのは、それが制度的因果関係を意図的に誤認させる点にある。彼らは、問題の根源が「外部の敵」にあると主張することで、マムダニ氏が叩くべき真の敵――すなわち、「既存政権の醜態」や「党内長老の利権構造」から、市民の目を逸らす「目眩まし」の効果を生んでいるのだ。マムダニ氏の登場は、この20年の「民主党一強による利権と惰性の構造」に対する、市民の「決別宣言」にほかならない。都市の病理を根治させるには、もはや象徴的な「外敵叩き」では無意味だ。真に必要なのは、制度の可動域を熟知しながらも、利権構造によって改革を阻んできた政党の内部構造そのものへのメスである。
マムダニ氏が真の改革者であるなら、彼の真価は、当選後に「外敵」批判から「腐敗した党内」批判へと、その矛先を変える覚悟と実行力があるか否かにかかっている。彼は、自らの当選を支えた民主党の長老たちや、彼らと癒着した不動産業界のフィクサーたちに対して、どこまで毅然とした態度で「内部粛清」を断行できるのか?もし彼が、改革の実行を阻む党内の抵抗勢力に対し、これまでの市長たちと同じように「利害調整」という名の妥協を選べば、彼の掲げた劇薬政策はすべて「絵に描いた餅」に終わり、ニューヨークの闇は永遠に晴れないだろう。市民は今、この新市長が「党の忠犬」となるのか、それとも「真の革命家」となるのか、その背水の陣を見極めている。
健診のあとで考えた ― 2025年11月08日
特定健診に行ってきた。年に一度の健康診断が無料というのは、やはりありがたい。「健診なんて無意味。税金の無駄使いで、病院を潤わせるだけだ」と言う人もいる。だが、心電図と血液検査くらいで目くじらを立てることもあるまい。数値を見れば、少しは自分の体を見つめ直すきっかけにもなる。診察した医師は、どう見てもアルバイトらしく、「はいはい」と聴診器を当てて終わり。それでも、まったく診ないよりはずっとましだ。大腸がんの便検査と前立腺がん検診には800円かかるが、これも安心料と思えば悪くない。結果は後日郵送される。主治医がいる病院なので、気になる項目があれば改めて相談できる。毎年20万円も国保に払っているのだから、この程度のサービスは当然だろう。
一方で、医療の側はどうなっているのか。日本医師会の松本吉郎会長が「診療所の4~5割は赤字で、大変な状態にある」と記者会見で述べた。財務省が「初診・再診料の減算」や「機能強化加算の廃止」を提案しており、医師会は「地域医療が崩壊する」と警鐘を鳴らす。だが、その“赤字”という言葉には少し違和感がある。医療法人では、院長の報酬が経費として計上される。報酬を高く設定すれば、帳簿上は簡単に赤字になる構造だ。開業医の平均年収は約2,800万円。勤務医の1,400万円前後と比べても倍近い。これで「赤字」と言われても、納得しづらいのが正直なところだ。
さらに、診療報酬は全国一律。東京でも離島でも同じ点数がつく。医療需要や人員配置の差を無視した設計で、過疎地ほど経営が苦しくなる。実際、公立病院の約9割が赤字で、地方の診療所では閉院も相次ぐ。とはいえ、報酬を一律に引き上げれば解決するという単純な話でもない。保険医療制度は国民の税金と保険料で成り立っている。財政規模やGDPとの整合性を欠けば、制度そのものがもたなくなる。必要なのは、報酬の中身を透明にし、地域差や経営実態を反映させる仕組みだ。たとえば
①報酬構造の公開、②地域別の報酬係数導入、③院長報酬の上限設定、④医業損益と経営者報酬の分離、⑤人口比に応じた傾斜配分。こうした制度改革を前提にしてこそ、報酬の引き上げは正当化される。
結局のところ、診療所の“赤字問題”は単なる収入不足ではなく、制度の不透明さと硬直性に起因する。健診の結果票を眺めながら、ふと思った。人間の健康も制度の健全性も、どちらも“見える化”から始まるのだろう。
一方で、医療の側はどうなっているのか。日本医師会の松本吉郎会長が「診療所の4~5割は赤字で、大変な状態にある」と記者会見で述べた。財務省が「初診・再診料の減算」や「機能強化加算の廃止」を提案しており、医師会は「地域医療が崩壊する」と警鐘を鳴らす。だが、その“赤字”という言葉には少し違和感がある。医療法人では、院長の報酬が経費として計上される。報酬を高く設定すれば、帳簿上は簡単に赤字になる構造だ。開業医の平均年収は約2,800万円。勤務医の1,400万円前後と比べても倍近い。これで「赤字」と言われても、納得しづらいのが正直なところだ。
さらに、診療報酬は全国一律。東京でも離島でも同じ点数がつく。医療需要や人員配置の差を無視した設計で、過疎地ほど経営が苦しくなる。実際、公立病院の約9割が赤字で、地方の診療所では閉院も相次ぐ。とはいえ、報酬を一律に引き上げれば解決するという単純な話でもない。保険医療制度は国民の税金と保険料で成り立っている。財政規模やGDPとの整合性を欠けば、制度そのものがもたなくなる。必要なのは、報酬の中身を透明にし、地域差や経営実態を反映させる仕組みだ。たとえば
①報酬構造の公開、②地域別の報酬係数導入、③院長報酬の上限設定、④医業損益と経営者報酬の分離、⑤人口比に応じた傾斜配分。こうした制度改革を前提にしてこそ、報酬の引き上げは正当化される。
結局のところ、診療所の“赤字問題”は単なる収入不足ではなく、制度の不透明さと硬直性に起因する。健診の結果票を眺めながら、ふと思った。人間の健康も制度の健全性も、どちらも“見える化”から始まるのだろう。
午前3時の総理登庁 ― 2025年11月09日
「午前三時まで官僚を働かせた」──SNSでは、そんな批判が高市早苗経済安保担当相に殺到した。だが、この批判には大きな誤解がある。深夜作業の“元凶”は彼女ではなく、野党議員の締め切り違反にあるのだ。本来、国会審議の質問通告には与野党間で「委員会開催の前々日正午までに出す」との申し合わせがある。1999年に確認されたルールで、建前上は今も生きている。だが、現実は完全に形骸化。いまや“前日夜”に通告されるのが当たり前になった。国民の多くは「締切は前日の正午ではないのか」と多くが思っているは、午後6時を過ぎても通告が出ないことが珍しくないからだ。議員側の都合で調整が長引き、通告がずれ込むたびに、官僚たちはその瞬間から徹夜態勢に入る。彼らは資料を積み上げ、想定問答を作り、閣僚へ報告する。高市氏が午前三時に登庁するのは、そうした“壊れた慣行”に押しつぶされぬための、苦肉の対応にすぎない。
「事前通告が遅れれば、準備不足のまま国会答弁に立つしかない。結果として“失言”が増える。それをまた野党が追及する……」と、ある元内閣官房スタッフは語る。制度疲弊が、政治家にも官僚にも負担を押しつけ、国会の生産性を奪っているのだ。質問通告の遅れは、単なる段取りの問題ではない。行政の信頼にも直結する。官僚の深夜残業が常態化し、若手職員が疲弊して離職する例も後を絶たない。「質問通告は夜に来るもの」──そうした常識が定着してしまった結果、真面目に準備する人ほど潰れていく。
国会改革は何度も議題に上ってきた。だが、与野党双方に“痛み”が伴うため、誰も本気で手をつけようとしない。ルールを守れば自分が「働いて…働くこと」になる。そんな暗黙の了解が、永田町を覆っている。午前三時に光る官邸の灯は、働き方改革の対象外だ。本来、国会は政策論争の舞台であるべきなのに、いまや「通告の遅れ」をめぐる心理戦が支配している。疲れ果てた官僚の顔を見ながら、それでも夜明け前に答弁準備を続ける。この異常な風景こそが、令和の国会の「正常運転」なのかもしれない。
「事前通告が遅れれば、準備不足のまま国会答弁に立つしかない。結果として“失言”が増える。それをまた野党が追及する……」と、ある元内閣官房スタッフは語る。制度疲弊が、政治家にも官僚にも負担を押しつけ、国会の生産性を奪っているのだ。質問通告の遅れは、単なる段取りの問題ではない。行政の信頼にも直結する。官僚の深夜残業が常態化し、若手職員が疲弊して離職する例も後を絶たない。「質問通告は夜に来るもの」──そうした常識が定着してしまった結果、真面目に準備する人ほど潰れていく。
国会改革は何度も議題に上ってきた。だが、与野党双方に“痛み”が伴うため、誰も本気で手をつけようとしない。ルールを守れば自分が「働いて…働くこと」になる。そんな暗黙の了解が、永田町を覆っている。午前三時に光る官邸の灯は、働き方改革の対象外だ。本来、国会は政策論争の舞台であるべきなのに、いまや「通告の遅れ」をめぐる心理戦が支配している。疲れ果てた官僚の顔を見ながら、それでも夜明け前に答弁準備を続ける。この異常な風景こそが、令和の国会の「正常運転」なのかもしれない。
「立花逮捕」で終わらせるな ― 2025年11月10日
「逮捕寸前だった」「警察に呼ばれていた」──。兵庫県知事選の余波で自死した竹内英明元県議をめぐり、SNS上に飛び交った戦慄の言葉。その怪情報を拡散した張本人、立花孝志氏が名誉毀損容疑で逮捕された。だが、この逮捕劇をもって「一件落着」とするのはあまりに浅い。この騒動は、一人の暴走で片付けられるほど単純ではない。背後には、日本の情報空間と政治制度の深い歪みが横たわっている。発端は、現職・斎藤元彦知事が議会から不信任を突きつけられ、出直し選挙に臨むという異例の展開。火種となったのは、パワハラや公金不正支出をめぐる疑惑だったが、実際には一部週刊誌やネットメディアが裏付けの乏しい情報をセンセーショナルに報じ、それをテレビ各局が無批判に追随したことが事態を加速させた。
議会はこれに呼応し、百条委員会を設置。調査にあたった竹内氏は選挙翌日に辞職し、翌年1月に自宅で変死。自殺とみられるが、詳細は不明のままだ。そこに登場した立花氏が「逮捕予定だった」と街頭演説やSNSで発信し、名誉毀損で逮捕された──という構図だ。だが、ここで疑問が浮かぶ。立花氏の発言が違法なら、そもそも発端となったメディアの報道はどう裁かれるのか。議会を動かし、知事を辞職に追い込み、県政を混乱させた報道が「公益目的」だからといって免責されるのは妥当なのか。
報道機関は「真実と信じるに足る相当な理由」があれば名誉毀損の違法性が阻却されるという法的保護を受ける。だが、その「相当な理由」が曖昧なまま、訂正も謝罪もない報道が許される現状は、情報空間における構造的な非対称性を露呈している。このアンフェアな構造を是正するには、制度的な改革が不可欠だ。提案したいのは、テレビ報道番組に対する視聴者評価を可視化する「赤ボタン制度」の導入。リモコンの赤ボタンを押せば「偏向あり」と記録され、集計結果は公開。スポンサーはその評価を参考に広告出稿を判断し、放送局の人事にも反映される。公平な報道が高く評価されれば、メディア全体がバランス志向に傾く可能性もある。
こうした制度設計を総務省任せで待つ余裕はない。議員立法による迅速な導入こそが現実的な解だ。もちろん、「表現の自由」を侵害するとの反発は避けられない。既存の放送法第4条も「政治的に公平であること」を定めているが、その運用は萎縮効果や政治的介入の懸念から曖昧なまま放置されてきた。しかし、「赤ボタン制度」の本質は政府による規制ではない。市民という第三者の評価を市場原理(スポンサー)と組織内部のインセンティブ(人事)に反映させる、新しいガバナンスの形だ。これは表現の自由を損なう介入とは一線を画す。
放送法の空白を補完し、報道の質を市民が監視・評価する仕組みを法的に担保する。そのための議員立法は、表現の自由を守りつつ、責任ある報道を促進する最強の抑止力となる。この立法化の是非こそ、国会で真剣に議論されるべき重要課題だ。兵庫県知事選を巡る混乱は、単なる立花氏の暴走ではない。制度設計と情報空間の欠陥が生んだ構造的な事故である。立花氏の逮捕をもって幕引きとする愚を犯してはならない。今こそ、報道の責任と制度の公平性を徹底的に問い直すべき時だ。
議会はこれに呼応し、百条委員会を設置。調査にあたった竹内氏は選挙翌日に辞職し、翌年1月に自宅で変死。自殺とみられるが、詳細は不明のままだ。そこに登場した立花氏が「逮捕予定だった」と街頭演説やSNSで発信し、名誉毀損で逮捕された──という構図だ。だが、ここで疑問が浮かぶ。立花氏の発言が違法なら、そもそも発端となったメディアの報道はどう裁かれるのか。議会を動かし、知事を辞職に追い込み、県政を混乱させた報道が「公益目的」だからといって免責されるのは妥当なのか。
報道機関は「真実と信じるに足る相当な理由」があれば名誉毀損の違法性が阻却されるという法的保護を受ける。だが、その「相当な理由」が曖昧なまま、訂正も謝罪もない報道が許される現状は、情報空間における構造的な非対称性を露呈している。このアンフェアな構造を是正するには、制度的な改革が不可欠だ。提案したいのは、テレビ報道番組に対する視聴者評価を可視化する「赤ボタン制度」の導入。リモコンの赤ボタンを押せば「偏向あり」と記録され、集計結果は公開。スポンサーはその評価を参考に広告出稿を判断し、放送局の人事にも反映される。公平な報道が高く評価されれば、メディア全体がバランス志向に傾く可能性もある。
こうした制度設計を総務省任せで待つ余裕はない。議員立法による迅速な導入こそが現実的な解だ。もちろん、「表現の自由」を侵害するとの反発は避けられない。既存の放送法第4条も「政治的に公平であること」を定めているが、その運用は萎縮効果や政治的介入の懸念から曖昧なまま放置されてきた。しかし、「赤ボタン制度」の本質は政府による規制ではない。市民という第三者の評価を市場原理(スポンサー)と組織内部のインセンティブ(人事)に反映させる、新しいガバナンスの形だ。これは表現の自由を損なう介入とは一線を画す。
放送法の空白を補完し、報道の質を市民が監視・評価する仕組みを法的に担保する。そのための議員立法は、表現の自由を守りつつ、責任ある報道を促進する最強の抑止力となる。この立法化の是非こそ、国会で真剣に議論されるべき重要課題だ。兵庫県知事選を巡る混乱は、単なる立花氏の暴走ではない。制度設計と情報空間の欠陥が生んだ構造的な事故である。立花氏の逮捕をもって幕引きとする愚を犯してはならない。今こそ、報道の責任と制度の公平性を徹底的に問い直すべき時だ。