ホンダEV軽Super-ONE ― 2026年04月12日
ホンダが発表したEV軽「Super-ONE」。未来の軽を標榜するその一台は、しかし皮肉にも、同社が積み上げてきた価値を自ら打ち消す存在に映る。航続距離は実質200km前後、価格はN-BOXの倍近い水準。そして極めつけが、“擬似エンジン音”や“フェイクシフト”といった演出である。本来、効率を突き詰めるべきEVで、あえてガソリン車の感覚を模倣し、電力を消費する。この発想の転倒は看過できない。静粛性や市街地での扱いやすさといったEVの利点を否定するものではない。だがそれは、価格や航続距離といった基礎性能が成立して初めて意味を持つ価値である。土台が曖昧なまま“体験”だけを上乗せしても、それは本質の代替にはならない。
対照的なのが、N-BOXという超人気軽の要因だ。広さ、使い勝手、取り回し、そして価格。軽自動車に求められる要素を徹底的に研ぎ澄まし、「何を足すか」ではなく「何を削るか」で完成度を高めてきた。その結果としてのヒットであり、そこに余計な演出はない。しかし、このクルマの価値は実用性だけにとどまらない。軽でありながら、ホンダのターボエンジンがもたらす余裕ある加速と、高速合流でも不足を感じさせないトルク感——この“走りの質”こそが、若年層を含めた支持のもう一つの理由である。単なる移動手段ではなく、「走れる軽」であることに意味がある。
Super-ONEは、その根幹を切り捨てた。エンジンという物理的裏付けを失い、その代わりに持ち込まれたのが擬似音と疑似変速という“演出”である。だがそれは走りの代替にはならない。むしろ、ホンダが本来持っていた技術的魅力を、自ら薄める結果になっている。すなわち、N-BOXが体現してきた「削って磨く思想」と、「技術で走りを支える価値」を、Super-ONEは同時に裏切っているのである。
この違和感は一車種にとどまらない。かつてNissanは、日産リーフでEVの先陣を切りながら、開発の重心を偏らせ、「技術の日産」という看板を自ら曇らせていった。EV偏重が全体の競争力を削ぐという構図は、決して他人事ではない。足元の数字も象徴的だ。ホンダは約6900億円、日産は約6500億円の赤字を計上した。内訳の違いを論じることに意味はない。重要なのは、戦略の焦点を誤ったとき、本来の強みが静かに失われていくという事実である。
さらに見逃せないのは、経営と技術の距離だ。本田宗一郎が体現した「技術で勝つ」という思想から見れば、擬似音やフェイクシフトに電力を割く発想はあまりに遠い。技術とは、本来“削る”ことで本質を際立たせるもののはずだ。ホンダが世界で戦える領域は明確である。ハイブリッドだ。エンジン、モーター、制御を一体で磨き上げるこの分野こそ、同社の真骨頂であるはずだ。にもかかわらず、その延長線ではなく、演出に依存したEVに軸足を移すのであれば、それは進化ではなく逸脱に近い。
Super-ONEは未来の軽なのか。それとも、ホンダが積み上げてきた価値を自ら打ち消す転換点なのか。少なくとも言えるのは、軽であっても「走り」は失ってはならないということだ。その本質を外した瞬間、どれだけ演出を重ねても、クルマの魅力は戻らない。
対照的なのが、N-BOXという超人気軽の要因だ。広さ、使い勝手、取り回し、そして価格。軽自動車に求められる要素を徹底的に研ぎ澄まし、「何を足すか」ではなく「何を削るか」で完成度を高めてきた。その結果としてのヒットであり、そこに余計な演出はない。しかし、このクルマの価値は実用性だけにとどまらない。軽でありながら、ホンダのターボエンジンがもたらす余裕ある加速と、高速合流でも不足を感じさせないトルク感——この“走りの質”こそが、若年層を含めた支持のもう一つの理由である。単なる移動手段ではなく、「走れる軽」であることに意味がある。
Super-ONEは、その根幹を切り捨てた。エンジンという物理的裏付けを失い、その代わりに持ち込まれたのが擬似音と疑似変速という“演出”である。だがそれは走りの代替にはならない。むしろ、ホンダが本来持っていた技術的魅力を、自ら薄める結果になっている。すなわち、N-BOXが体現してきた「削って磨く思想」と、「技術で走りを支える価値」を、Super-ONEは同時に裏切っているのである。
この違和感は一車種にとどまらない。かつてNissanは、日産リーフでEVの先陣を切りながら、開発の重心を偏らせ、「技術の日産」という看板を自ら曇らせていった。EV偏重が全体の競争力を削ぐという構図は、決して他人事ではない。足元の数字も象徴的だ。ホンダは約6900億円、日産は約6500億円の赤字を計上した。内訳の違いを論じることに意味はない。重要なのは、戦略の焦点を誤ったとき、本来の強みが静かに失われていくという事実である。
さらに見逃せないのは、経営と技術の距離だ。本田宗一郎が体現した「技術で勝つ」という思想から見れば、擬似音やフェイクシフトに電力を割く発想はあまりに遠い。技術とは、本来“削る”ことで本質を際立たせるもののはずだ。ホンダが世界で戦える領域は明確である。ハイブリッドだ。エンジン、モーター、制御を一体で磨き上げるこの分野こそ、同社の真骨頂であるはずだ。にもかかわらず、その延長線ではなく、演出に依存したEVに軸足を移すのであれば、それは進化ではなく逸脱に近い。
Super-ONEは未来の軽なのか。それとも、ホンダが積み上げてきた価値を自ら打ち消す転換点なのか。少なくとも言えるのは、軽であっても「走り」は失ってはならないということだ。その本質を外した瞬間、どれだけ演出を重ねても、クルマの魅力は戻らない。
安物買いの銭失い万博EVバス ― 2026年03月22日
大阪公立大学の広大なキャンパス。その一角に、学生の日常とはあまりに不釣り合いな光景が横たわっている。講義棟のすぐ脇、大阪メトロの車庫に、150台ものEVバスが整然と並んだまま、いまは動く気配を見せない。総額75億円超。大阪・関西万博で来場者を実際に運んだ車両群は、その役目を終えた途端、日常へ戻ることなく沈黙した。不具合の内容は、もはや“初期トラブル”の域を超えている。ブレーキの異常、ステアリングの不調、警告灯の頻発。自動ブレーキ用センサーが両面テープで固定されていたという話に至っては、苦笑すら引きつる。国土交通省の検査を経ても安全性は担保されず、一般道での運行は見送られた。万博後に路線バスへ転用するという構想も頓挫し、150台は“使い道を失った資産”として留め置かれている。
だが、この一件を「EVという技術の問題」と見るのは、焦点を誤っている。電動バス自体はすでに実用段階にあり、日本国内にも十分な技術と運用実績がある。にもかかわらず、その蓄積は脇に置かれ、補助金と調達条件に導かれる形で、実績の乏しい中華製車両へと一気に舵が切られた。問題の核心は「中国製」であることそのものではない。本国で広く運用され、検証を積んだモデルではなく、認証や市場での実績が十分でない輸出前提の車両が含まれていた点にある。いわば、日本の公道が“実験場”と化した格好だ。本来は国内で走り込み、問題を潰してから外に出るべき技術が、順序を飛ばして投入された。
そして、この構図に既視感を覚える人は少なくないはずだ。補助金に支えられて急拡大した太陽光発電もまた、同じ道をたどった。固定価格買取制度のもとで山林は切り開かれ、安価な海外製パネルが大量に流入した。導入は一気に進んだが、その裏で品質や耐久性、さらには廃棄の問題が後回しにされた。制度が牽引し、市場がそれに追随し、検証は後追いになる——今回のEVバスと、構造は驚くほど似通っている。その背景にあるのが、補助金という装置である。公的資金が前提となることで、導入は“投資”ではなく“消化”へと傾く。コスト意識は鈍り、期限が優先され、比較検証は圧縮される。「補助金があるうちに整備する」という発想が、現場の慎重な判断を押し流す。結果として、本来なら選ばれなかったはずの選択肢が、制度の後押しで正当化されていく。
本来なら、この種の歪みを是正するのが行政の役割だ。型式認証、安全基準、運行管理——いずれも国土交通省の所管である。しかし現実には、EV推進という政策的要請と万博という期限の圧力の前で、チェック機能が十分に働いたとは言い難い。「実証」の名のもとに不確実な車両が導入され、そのリスクは現場へと転嫁された。
構図は明快である。
「補助金が先、技術は後」
「価格が先、実績は後」
「政治の演出が先、現場の現実は後」
そして当時の所管官庁である国土交通省が、長年にわたり公明党の影響下に置かれてきたことは周知の事実であり、その同党が親中の姿勢を取ってきたとする指摘は、各種メディアでも繰り返し報じられてきた。そうした政治的文脈と無関係であったと断言できるのか——疑念が生じるのも無理はあるまい。こうして“未来の象徴”として掲げられたはずの技術は、最後に現場へと重い負担を残す。EVバスは動かず、太陽光パネルは廃棄問題を抱え、制度だけが走り続ける。残るのは、説明のつかない支出と、引き受け手のない後始末だ。
大阪公立大学に並ぶ150台のEVバス。それは単なる不良在庫ではない。補助金に支えられた拙速な意思決定と、実績なき車両への前のめりな依存——その帰結として生まれた、“政策の副産物”である。未来を標榜したはずの装置は、いまや制度疲労を可視化する、沈黙の証言となっている。結局のところ、「安物買いの銭失い」。このありふれた言葉ほど、今回の一件を正確に言い当てるものはない。ただ違うのは、その“銭”が私費ではなく、公費だったという一点である。
だが、この一件を「EVという技術の問題」と見るのは、焦点を誤っている。電動バス自体はすでに実用段階にあり、日本国内にも十分な技術と運用実績がある。にもかかわらず、その蓄積は脇に置かれ、補助金と調達条件に導かれる形で、実績の乏しい中華製車両へと一気に舵が切られた。問題の核心は「中国製」であることそのものではない。本国で広く運用され、検証を積んだモデルではなく、認証や市場での実績が十分でない輸出前提の車両が含まれていた点にある。いわば、日本の公道が“実験場”と化した格好だ。本来は国内で走り込み、問題を潰してから外に出るべき技術が、順序を飛ばして投入された。
そして、この構図に既視感を覚える人は少なくないはずだ。補助金に支えられて急拡大した太陽光発電もまた、同じ道をたどった。固定価格買取制度のもとで山林は切り開かれ、安価な海外製パネルが大量に流入した。導入は一気に進んだが、その裏で品質や耐久性、さらには廃棄の問題が後回しにされた。制度が牽引し、市場がそれに追随し、検証は後追いになる——今回のEVバスと、構造は驚くほど似通っている。その背景にあるのが、補助金という装置である。公的資金が前提となることで、導入は“投資”ではなく“消化”へと傾く。コスト意識は鈍り、期限が優先され、比較検証は圧縮される。「補助金があるうちに整備する」という発想が、現場の慎重な判断を押し流す。結果として、本来なら選ばれなかったはずの選択肢が、制度の後押しで正当化されていく。
本来なら、この種の歪みを是正するのが行政の役割だ。型式認証、安全基準、運行管理——いずれも国土交通省の所管である。しかし現実には、EV推進という政策的要請と万博という期限の圧力の前で、チェック機能が十分に働いたとは言い難い。「実証」の名のもとに不確実な車両が導入され、そのリスクは現場へと転嫁された。
構図は明快である。
「補助金が先、技術は後」
「価格が先、実績は後」
「政治の演出が先、現場の現実は後」
そして当時の所管官庁である国土交通省が、長年にわたり公明党の影響下に置かれてきたことは周知の事実であり、その同党が親中の姿勢を取ってきたとする指摘は、各種メディアでも繰り返し報じられてきた。そうした政治的文脈と無関係であったと断言できるのか——疑念が生じるのも無理はあるまい。こうして“未来の象徴”として掲げられたはずの技術は、最後に現場へと重い負担を残す。EVバスは動かず、太陽光パネルは廃棄問題を抱え、制度だけが走り続ける。残るのは、説明のつかない支出と、引き受け手のない後始末だ。
大阪公立大学に並ぶ150台のEVバス。それは単なる不良在庫ではない。補助金に支えられた拙速な意思決定と、実績なき車両への前のめりな依存——その帰結として生まれた、“政策の副産物”である。未来を標榜したはずの装置は、いまや制度疲労を可視化する、沈黙の証言となっている。結局のところ、「安物買いの銭失い」。このありふれた言葉ほど、今回の一件を正確に言い当てるものはない。ただ違うのは、その“銭”が私費ではなく、公費だったという一点である。
スクールバスで交通空白解消 ― 2026年01月07日
山間の集落で一人暮らしをする高齢者は、月に一度の通院のため、前夜から段取りを考える。かつて走っていた路線バスは廃止され、タクシーは予約がなかなか取れない。家の前を毎朝決まった時間に通り過ぎるのは、孫世代を乗せたスクールバスだけだ。「あれに乗れたら、どれだけ楽か」。地方の「交通空白」は、すでに生活の細部を侵食している。政府がこの問題にようやく本腰を入れた。過疎化や人口減少で移動手段の確保が難しくなった地域を救うとして、スクールバスや福祉施設の送迎車など、地域に存在するあらゆる車両を一般住民の移動にも活用できるよう、地域公共交通活性化再生法(地域交通法)の改正案を次期通常国会に提出する方針だ。
自治体が交通、教育、医療、福祉といった関係者を横断的に調整し、地域の実情に応じた旅客運送サービスを構築する役割を担うことを明確化する。国は新サービス導入に財政支援を行う。学校や病院の統廃合が進む一方、バスやタクシーの運転手不足が深刻化し、既存の交通網だけでは住民の移動需要を支えきれなくなっている現実が、ようやく政策を動かした格好だ。
だが、切り札とされるスクールバスの活用には、以前から指摘されてきた構造的な歪みがある。多くの自治体で運行は民間委託され、朝夕の登下校と学校行事以外はほとんど稼働しない。土日や長期休暇中は完全停止。年間を通せば、車両と運転手の多くが長時間「止まったまま」だ。
特別支援学校では、この非効率がさらに際立つ。下校時には放課後等デイサービス事業所の車が児童を迎えに来るため、スクールバスはほとんど乗客を乗せないまま走る。「空気を運ぶバス」が日常化しているのである。教育委員会と福祉部局の縦割り、委託契約の硬直性、送迎加算をめぐる制度設計――現場では長年、改善不能な前提条件として扱われてきた。
今回の法改正案は、こうした“空白時間”を地域交通に転用しようという試みだ。デイサービス車両を非営業日に有料送迎として活用する、スクールバスを空き時間に予約制のデマンド交通として走らせる。事業認可の簡略化、車両や運転手の共同活用、運行データの標準化も盛り込まれる。制度設計としては、確かに前進である。
しかし冷静に見れば、これは地方交通の延命措置に過ぎない。車両のやり繰りで危機をしのげる段階は、すでに通り過ぎている。世界に目を向ければ、一般ドライバーが有償で乗客を運ぶUberやLyftが、都市部だけでなく郊外や地方の移動を支えている。保険、GPS監視、評価システムといったプラットフォーム管理によって安全性を担保するのが、いまや国際標準だ。
一方、日本では一般ドライバーによる有償運送は依然として原則禁止のままだ。導入された「日本版ライドシェア」も、タクシー会社が主体となり、二種免許を必須とするなど強い制約が課されている。「安全性」を理由に規制は維持されているが、その裏側で、移動手段を失った高齢者や通院が困難な人々が生まれている現実は、制度の外側に置き去りにされている。
わが町でもライドシェア制度を活用した町内バスが運行されるようになった。しかし、バス停までは自力で移動する必要があるし、使用されている大型ワゴン車はステップの段差が高く、足の弱い高齢者や障害のある人は利用しづらい。運転者が介助を行わないという取り決めもあり、実質的に対象外となっている。こうした状況は、指定した場所に来てくれるUberやLyftのように柔軟で利用者層の広い海外のライドシェアと比べると、到底同じ仕組みとは言えないほど不便だ。
地方の交通空白を本質的に解消するには、スクールバスの遊休活用だけでは不十分だ。二種免許要件の見直しや地域限定での規制緩和、さらにはプラットフォーム側に安全管理責任を負わせる制度設計など、誰がハンドルを握れるのかという「資格の壁」を、時代に合わせて引き直す覚悟が問われている。また、既存の路線に自動運転を導入する構想もあるが、道路交通法をはじめとする厳しい規制が立ちはだかり、実現の時期は依然として見通せない。
今回の法改正は、確かに重要な一歩だ。だが本当の焦点は、走らないバスをどう動かすかではない。動かせない制度を、いつまで守り続けるのか。地方交通の再生は、日本社会が規制と現実のどちらを選ぶのかを映す、静かな踏み絵になりつつある。
自治体が交通、教育、医療、福祉といった関係者を横断的に調整し、地域の実情に応じた旅客運送サービスを構築する役割を担うことを明確化する。国は新サービス導入に財政支援を行う。学校や病院の統廃合が進む一方、バスやタクシーの運転手不足が深刻化し、既存の交通網だけでは住民の移動需要を支えきれなくなっている現実が、ようやく政策を動かした格好だ。
だが、切り札とされるスクールバスの活用には、以前から指摘されてきた構造的な歪みがある。多くの自治体で運行は民間委託され、朝夕の登下校と学校行事以外はほとんど稼働しない。土日や長期休暇中は完全停止。年間を通せば、車両と運転手の多くが長時間「止まったまま」だ。
特別支援学校では、この非効率がさらに際立つ。下校時には放課後等デイサービス事業所の車が児童を迎えに来るため、スクールバスはほとんど乗客を乗せないまま走る。「空気を運ぶバス」が日常化しているのである。教育委員会と福祉部局の縦割り、委託契約の硬直性、送迎加算をめぐる制度設計――現場では長年、改善不能な前提条件として扱われてきた。
今回の法改正案は、こうした“空白時間”を地域交通に転用しようという試みだ。デイサービス車両を非営業日に有料送迎として活用する、スクールバスを空き時間に予約制のデマンド交通として走らせる。事業認可の簡略化、車両や運転手の共同活用、運行データの標準化も盛り込まれる。制度設計としては、確かに前進である。
しかし冷静に見れば、これは地方交通の延命措置に過ぎない。車両のやり繰りで危機をしのげる段階は、すでに通り過ぎている。世界に目を向ければ、一般ドライバーが有償で乗客を運ぶUberやLyftが、都市部だけでなく郊外や地方の移動を支えている。保険、GPS監視、評価システムといったプラットフォーム管理によって安全性を担保するのが、いまや国際標準だ。
一方、日本では一般ドライバーによる有償運送は依然として原則禁止のままだ。導入された「日本版ライドシェア」も、タクシー会社が主体となり、二種免許を必須とするなど強い制約が課されている。「安全性」を理由に規制は維持されているが、その裏側で、移動手段を失った高齢者や通院が困難な人々が生まれている現実は、制度の外側に置き去りにされている。
わが町でもライドシェア制度を活用した町内バスが運行されるようになった。しかし、バス停までは自力で移動する必要があるし、使用されている大型ワゴン車はステップの段差が高く、足の弱い高齢者や障害のある人は利用しづらい。運転者が介助を行わないという取り決めもあり、実質的に対象外となっている。こうした状況は、指定した場所に来てくれるUberやLyftのように柔軟で利用者層の広い海外のライドシェアと比べると、到底同じ仕組みとは言えないほど不便だ。
地方の交通空白を本質的に解消するには、スクールバスの遊休活用だけでは不十分だ。二種免許要件の見直しや地域限定での規制緩和、さらにはプラットフォーム側に安全管理責任を負わせる制度設計など、誰がハンドルを握れるのかという「資格の壁」を、時代に合わせて引き直す覚悟が問われている。また、既存の路線に自動運転を導入する構想もあるが、道路交通法をはじめとする厳しい規制が立ちはだかり、実現の時期は依然として見通せない。
今回の法改正は、確かに重要な一歩だ。だが本当の焦点は、走らないバスをどう動かすかではない。動かせない制度を、いつまで守り続けるのか。地方交通の再生は、日本社会が規制と現実のどちらを選ぶのかを映す、静かな踏み絵になりつつある。
ロードキルと保険適用 ― 2025年11月26日
全国で野生動物と車両が衝突する“ロードキル”が止まらない。警察庁の統計では、30年前に約2万件だった事故件数は令和4年に約5万件へと跳ね上がった。タヌキや鳥類といった中型動物が主流だった時代はすでに過去。近年は東北地方でクマとの衝突が急増し、秋田県では前年の5倍超という異常事態だ。観光地・奈良公園でも「奈良のシカ」との事故が令和6年7月からの1年間で72件、36頭が命を落とした。事故後に動物が姿を消すケースも多く、実数は統計の倍以上あるとの見方もある。
なぜ事故がここまで増えているのか。森林で鳥獣が増加する一方で餌資源が枯渇し、高速道路や幹線道路が動物の移動ルートを分断したことに加え、環境変化によって行動圏が広がった結果、車と動物が遭遇する確率は必然的に高まっている。しかしより深刻なのは、こうした事故が保険制度の“死角”に置かれている点だ。野生動物との衝突は「物損事故」と扱われ、自賠責保険からは一円も支払われない。任意保険も契約内容によっては補償対象外となる。ドライバーに過失がない事故であるにもかかわらず、修理費を泣き寝入りせざるを得ないケースが後を絶たない。日本損害保険協会も「制度が現実に追いついていない」と認めている。
ここに制度設計の大矛盾が潜んでいる。本来、ドライバーは不可抗力的な被害者のはずだが、現行制度では“自損事故扱い”で自己負担が原則。一方、道路管理者は「道路を安全に管理する義務」を負っているはずなのに、動物事故では責任を回避しやすい。国家賠償法2条は“営造物の設置・管理に瑕疵があれば賠償責任を負う”と明記しており、落石や路面破損では判例上、責任が認められてきた。防護柵が不十分だったり、警告標識が欠けていたりすれば、動物飛び出し事故でも「瑕疵あり」と判断されうるはずなのだ。にもかかわらず、実際には“責任の空白”が放置され、ドライバーが一方的に割を食っている。
ではどうするか。解決策は二つに絞られる。
ひとつは保険制度の見直しだ。ロードキルを「不可抗力事故」として自賠責や任意保険の補償対象に明確に位置づけること。事故件数は少しずつ減少しており、保険財政にとっても十分に吸収可能な規模だ。契約者の納得感も高まるだろう。
もうひとつは道路管理者責任の拡張である。事故車両の修理費まで管理者が負担する仕組みにすれば、管理者側に強烈なインセンティブが生まれ、欧州で普及するエコブリッジや防護柵、警告標識の整備が一気に進むはずだ。欧米では「保険+管理者責任」で事故抑制を図るのがすでにスタンダードで、日本の制度は明らかに周回遅れのままで取り残されている。
結論は明快だ。ロードキルを自損扱いしたままにするなら、保険適用を広げるか、道路管理者責任を強化するか、そのいずれかを選ぶべきである。現行の“どっちつかず”では、ドライバーだけが不公平な負担を背負い続ける。事故が減少傾向に転じたいまこそ、制度改革には絶好のタイミングである。環境政策とも連動させつつ、「不可抗力事故」の救済と制度公平性を両立する――。その第一歩を踏み出す決断が、国にも保険業界にも求められている。
なぜ事故がここまで増えているのか。森林で鳥獣が増加する一方で餌資源が枯渇し、高速道路や幹線道路が動物の移動ルートを分断したことに加え、環境変化によって行動圏が広がった結果、車と動物が遭遇する確率は必然的に高まっている。しかしより深刻なのは、こうした事故が保険制度の“死角”に置かれている点だ。野生動物との衝突は「物損事故」と扱われ、自賠責保険からは一円も支払われない。任意保険も契約内容によっては補償対象外となる。ドライバーに過失がない事故であるにもかかわらず、修理費を泣き寝入りせざるを得ないケースが後を絶たない。日本損害保険協会も「制度が現実に追いついていない」と認めている。
ここに制度設計の大矛盾が潜んでいる。本来、ドライバーは不可抗力的な被害者のはずだが、現行制度では“自損事故扱い”で自己負担が原則。一方、道路管理者は「道路を安全に管理する義務」を負っているはずなのに、動物事故では責任を回避しやすい。国家賠償法2条は“営造物の設置・管理に瑕疵があれば賠償責任を負う”と明記しており、落石や路面破損では判例上、責任が認められてきた。防護柵が不十分だったり、警告標識が欠けていたりすれば、動物飛び出し事故でも「瑕疵あり」と判断されうるはずなのだ。にもかかわらず、実際には“責任の空白”が放置され、ドライバーが一方的に割を食っている。
ではどうするか。解決策は二つに絞られる。
ひとつは保険制度の見直しだ。ロードキルを「不可抗力事故」として自賠責や任意保険の補償対象に明確に位置づけること。事故件数は少しずつ減少しており、保険財政にとっても十分に吸収可能な規模だ。契約者の納得感も高まるだろう。
もうひとつは道路管理者責任の拡張である。事故車両の修理費まで管理者が負担する仕組みにすれば、管理者側に強烈なインセンティブが生まれ、欧州で普及するエコブリッジや防護柵、警告標識の整備が一気に進むはずだ。欧米では「保険+管理者責任」で事故抑制を図るのがすでにスタンダードで、日本の制度は明らかに周回遅れのままで取り残されている。
結論は明快だ。ロードキルを自損扱いしたままにするなら、保険適用を広げるか、道路管理者責任を強化するか、そのいずれかを選ぶべきである。現行の“どっちつかず”では、ドライバーだけが不公平な負担を背負い続ける。事故が減少傾向に転じたいまこそ、制度改革には絶好のタイミングである。環境政策とも連動させつつ、「不可抗力事故」の救済と制度公平性を両立する――。その第一歩を踏み出す決断が、国にも保険業界にも求められている。
自動運転制度の壁 ― 2025年11月03日
先月、日産自動車が横浜市で披露した実証走行は、まぎれもなく日本のモビリティ史に刻まれる出来事だった。運転席には人が座っているが、ハンドルは握らない。車はAIの判断で走り、信号を認識し、歩行者を避け、交差点を滑らかに抜けていく。そう、これは“運転席が無人”ではなく、“運転していない人間が座っている”実証──つまり、制度上の「完全自動運転の限界」を体現した瞬間だった。
日産の車両は、高精度地図とセンサー群、そしてAIによる行動予測を備えたハイレベルな自動運転車だ。遠隔監視体制も整い、実際の制御は全てAIが担っている。技術的にはレベル4に限りなく近い完成度で、走行中の安全性は人間ドライバーを上回る。米国のWaymoやTeslaでは、すでに有人運転より事故率が80〜90%低いという統計もある。ただ、アメリカの死亡事故率は日本の6倍なのでそのまま減少比率が反映するわけでは無いが、技術的な“できる”は、とっくに証明済みだということだ。
それでも、運転席には「保安要員」が座らされる。その姿は、日本の制度がまだ“人の存在”を手放せないことの象徴である。現行法では、万が一の際の責任主体を明確にするため、運転席に人を配置する必要がある。ゼロリスクを前提に設計された法制度が、「技術を信じる社会」へ移行することを拒んでいるのだ。結果として、省人化・効率化・高齢者の移動支援といった自動運転の社会的価値が、制度によって封じ込められている。
この構造を打破できるのは、技術者や官僚ではなく政治家である。道路交通法や自賠法の改正、運行責任の再定義、特定自動運行区域の全国展開──どれも行政裁量では限界がある。首長や大臣が「制度の正統性を更新する意思」を示さない限り、どれほど高性能な車を作っても、“人が座る無人運転”という矛盾が続く。鉄道でも同じだ。自動運転が可能な路線で運転士が座り続けるのは、国民の「安心感」を優先する制度の惰性ゆえである。だが、自家用車やタクシーなど個別輸送の領域までこの構造を持ち込むのは非合理だ。交通手段ごとに制度を分け、技術に応じたルール設計を行うべき時期に来ている。
日産の挑戦は、制度と技術の摩擦面を可視化した。次に必要なのは、走行データを公開し、政治がそれを“制度の根拠”として受け止める覚悟だ。無人運転の未来を止めているのは、技術の壁ではない。それは、ハンドルを握らない人間を“座らせておきたい”という、この国の制度的恐怖心そのものである。
日産の車両は、高精度地図とセンサー群、そしてAIによる行動予測を備えたハイレベルな自動運転車だ。遠隔監視体制も整い、実際の制御は全てAIが担っている。技術的にはレベル4に限りなく近い完成度で、走行中の安全性は人間ドライバーを上回る。米国のWaymoやTeslaでは、すでに有人運転より事故率が80〜90%低いという統計もある。ただ、アメリカの死亡事故率は日本の6倍なのでそのまま減少比率が反映するわけでは無いが、技術的な“できる”は、とっくに証明済みだということだ。
それでも、運転席には「保安要員」が座らされる。その姿は、日本の制度がまだ“人の存在”を手放せないことの象徴である。現行法では、万が一の際の責任主体を明確にするため、運転席に人を配置する必要がある。ゼロリスクを前提に設計された法制度が、「技術を信じる社会」へ移行することを拒んでいるのだ。結果として、省人化・効率化・高齢者の移動支援といった自動運転の社会的価値が、制度によって封じ込められている。
この構造を打破できるのは、技術者や官僚ではなく政治家である。道路交通法や自賠法の改正、運行責任の再定義、特定自動運行区域の全国展開──どれも行政裁量では限界がある。首長や大臣が「制度の正統性を更新する意思」を示さない限り、どれほど高性能な車を作っても、“人が座る無人運転”という矛盾が続く。鉄道でも同じだ。自動運転が可能な路線で運転士が座り続けるのは、国民の「安心感」を優先する制度の惰性ゆえである。だが、自家用車やタクシーなど個別輸送の領域までこの構造を持ち込むのは非合理だ。交通手段ごとに制度を分け、技術に応じたルール設計を行うべき時期に来ている。
日産の挑戦は、制度と技術の摩擦面を可視化した。次に必要なのは、走行データを公開し、政治がそれを“制度の根拠”として受け止める覚悟だ。無人運転の未来を止めているのは、技術の壁ではない。それは、ハンドルを握らない人間を“座らせておきたい”という、この国の制度的恐怖心そのものである。
みちのく慕情 ― 2025年07月13日
今日は朝8時にキャンプ場を出発し、約7時間かけて400キロのほとんどを地道で走った。左手には岩城山を望み、リンゴ園の中の農道を進む。信号はほとんどなく、行き交う車もまれで、ナビだけを頼りに走る。山間部や農村地帯では電波が届かないことが多く、ナビはGPSと地図情報のキャッシュで行き先を予測してくれるので、なんとか事なきを得ている。だが困るのは楽天モバイルだ。自社電波が届かない場所ではauのローミングを利用しているらしいが、ローミングの帯域は狭く、地図など大容量のデータの送受信がうまくいかないことがある。今や5Gの時代で情報量は膨大なのに、ローミングは通話音声と文字情報にかろうじて対応する旧式電波だ。ローミング圏に入るとカーナビが頼りなくなり、これには困る。もちろん車載のカーナビにもドコモの専用回線はあるが、山間部の林道では電波が途切れてしまうのは同じだ。しかも車の専用カーナビは運転中に気の利いた操作ができないため、ほとんど使わない。Appleのカープレイは音声入力でGoogleマップの操作ができるので重宝している。
これからは電波が届かないことが珍しくなるだろう。携帯電話各社は低軌道衛星から電波を拾えるようにし、悪天候以外は地球上どこでも今まで通りのネットサービスが使えるようになる。運転中に最も行き先を知りたいときに限って電波が途切れて狼狽える必要がなくなるのはありがたい。ちなみに、この技術はウクライナ戦争のドローン攻撃にも大きな役割を果たしているらしい。
竜飛岬は自衛隊のレーダー施設があり、ドローンは禁止されている。そのため、手前の観望台から空中撮影を行った。国防上の規制は仕方ないが、近年ドローン規制がやたらと強化されている。人家や人通りの多い場所は誤って落下した時の危険があるため理解できるが、人のいない国立公園まで禁止されているのは納得がいかない。仕方なく、もっぱら海上や湖上で飛ばしている。ドローンには障害物回避センサーやGPSによる自動帰還機能があり、突然頭上に落ちてくるような危険はないはずだ。新しいものを何でも危険視して規制しがちな国の体質とも言える。そういえば、高齢者の自家用車にこそセンサーを付けるべきなのに、票田に手をつけたくないのか全く進まないのが歯がゆい。
🎵「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと、見知らぬ人が指をさす」🎵竜飛岬では石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」が盆暮れ問わず流れている。同じ青森のもう一つ北の大間崎では🎵「下北半島北の果て ゆきぐに女の泣く処 ああ風が風が吼えてる大間崎」🎵と歌う天童よしみの「みちのく慕情」があるが、こちらは歌が流れていなかった。やはりレコード売り上げの違いなのか、ビジュアルの問題なのか定かではない。「みちのく慕情」にも歌われる恐山に立ち寄った。硫黄ガスの匂いが漂い、火山岩をあちこちに積み上げて風車を立て、冥土のバーチャル空間を作り出している。これをプロデュースした人は誰なのだろう。恐山は平安時代の高僧・慈覚大師円仁が開山した霊場で、死者の霊を慰める場だ。風車は霊を慰め厄除けの象徴だが、恐山に風車を初めて設置した人物や時期は史料に残らず不明という。恐山は活火山の火山岩が豊富で、その岩を積み上げて風車の土台にする発想は、自然資源を活かし信仰と自然が調和した独特の景観を生んだ。風車は風を受けて回り祈りを届ける象徴で、荒々しい自然と死者への祈りが融合し、訪れる人々に深い感動を与える。ぐるっと回ると1時間はかかった。台風が明日夕刻から東北を直撃するらしい。盛岡を目指す予定だが台風に向かって走ることになる。夕方までに着けばなんとかなると呑気に考えていいものか。
これからは電波が届かないことが珍しくなるだろう。携帯電話各社は低軌道衛星から電波を拾えるようにし、悪天候以外は地球上どこでも今まで通りのネットサービスが使えるようになる。運転中に最も行き先を知りたいときに限って電波が途切れて狼狽える必要がなくなるのはありがたい。ちなみに、この技術はウクライナ戦争のドローン攻撃にも大きな役割を果たしているらしい。
竜飛岬は自衛隊のレーダー施設があり、ドローンは禁止されている。そのため、手前の観望台から空中撮影を行った。国防上の規制は仕方ないが、近年ドローン規制がやたらと強化されている。人家や人通りの多い場所は誤って落下した時の危険があるため理解できるが、人のいない国立公園まで禁止されているのは納得がいかない。仕方なく、もっぱら海上や湖上で飛ばしている。ドローンには障害物回避センサーやGPSによる自動帰還機能があり、突然頭上に落ちてくるような危険はないはずだ。新しいものを何でも危険視して規制しがちな国の体質とも言える。そういえば、高齢者の自家用車にこそセンサーを付けるべきなのに、票田に手をつけたくないのか全く進まないのが歯がゆい。
🎵「ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと、見知らぬ人が指をさす」🎵竜飛岬では石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」が盆暮れ問わず流れている。同じ青森のもう一つ北の大間崎では🎵「下北半島北の果て ゆきぐに女の泣く処 ああ風が風が吼えてる大間崎」🎵と歌う天童よしみの「みちのく慕情」があるが、こちらは歌が流れていなかった。やはりレコード売り上げの違いなのか、ビジュアルの問題なのか定かではない。「みちのく慕情」にも歌われる恐山に立ち寄った。硫黄ガスの匂いが漂い、火山岩をあちこちに積み上げて風車を立て、冥土のバーチャル空間を作り出している。これをプロデュースした人は誰なのだろう。恐山は平安時代の高僧・慈覚大師円仁が開山した霊場で、死者の霊を慰める場だ。風車は霊を慰め厄除けの象徴だが、恐山に風車を初めて設置した人物や時期は史料に残らず不明という。恐山は活火山の火山岩が豊富で、その岩を積み上げて風車の土台にする発想は、自然資源を活かし信仰と自然が調和した独特の景観を生んだ。風車は風を受けて回り祈りを届ける象徴で、荒々しい自然と死者への祈りが融合し、訪れる人々に深い感動を与える。ぐるっと回ると1時間はかかった。台風が明日夕刻から東北を直撃するらしい。盛岡を目指す予定だが台風に向かって走ることになる。夕方までに着けばなんとかなると呑気に考えていいものか。
ゆうパック「飲んだら乗るな」 ― 2025年06月06日
まさか令和に、「飲んだら乗るな」がリアルに必要になるとは思わなかった。しかもその舞台が、あの堅実そうな日本郵便。荷物を配る前に、まずは常識を配ってほしい。今回、日本郵便が一般貨物自動車運送事業の許可を取り消されるという衝撃ニュースが飛び込んできた。これにより、ゆうパックなどの配送に遅れが出る見込みだとか。特に長距離輸送や繁忙期には影響が避けられず、「年賀状よりお詫び状が先に届くのでは?」と皮肉を言いたくなる。とはいえ、軽トラや子会社、協力会社への委託便はそのまま動くため、全国一斉ストップというわけではない。でも「大丈夫、全部止まるわけじゃないから!」と言われて安心できるあたりに、逆に危機感が漂う。
そもそもの発端は、日本郵便の運転手による飲酒運転の多発。中でもひどいのが、横浜市戸塚郵便局で白ワインをキメてハンドルを握ったドライバーの件。業務中に白ワイン。しかも配送車。これを受けて全国調査が実施された結果、なんと75%の郵便局でアルコールチェックの点呼が不備だったことが発覚。さらに「ちゃんと点呼した」とウソの記録まで残していたケースもあったとか。ここまでくると、飲酒より虚偽報告の方が酔ってる。飲酒運転がアウトなのは今さら説明不要。ましてやそれが組織ぐるみで見過ごされていたのなら、もはや企業ガバナンスは冬眠中。
もちろん日本郵便は民間企業…のはずなんだけど、その実態は「お役所魂」が色濃く残る。意思決定は遅く、内部監査も緩い。まるで郵便物と一緒に、昭和の空気まで運んでいるようなものだ。その背景には、かつての民営化の頓挫がある。2007年に始まった郵政民営化は、民間の知見を取り入れ、しがらみを断ち切る試みだった。ところが、2009年に民主党政権が誕生すると状況が一変。民営化を推進していた初代社長・西川善文氏が辞任させられ、後任に財務省出身の斎藤次郎氏が就任。以降も官僚出身の社長が続々登場し、郵政は“改革の逆流”に呑まれていった。結果として、郵便局は「民営風お役所」という不思議な生き物に変身。もはや改革は骨抜き、組織は再び「天下りのオアシス」となった。郵便の信頼と一緒に、改革も配達ミスされていたのだ。
これは郵政だけの話ではない。民主党政権といえば、消費税倍増の路線変更、再エネ賦課金の導入、無軌道な移民誘導政策…。そのどれもが、国益より理想論を優先した感が否めない。結果的に、家計も企業もじわじわと疲弊していった。もちろん、それらを黙認していた自公政権の責任も「着払い」であるべきだが。それにしても、令和の物流インフラを支える組織で「飲んだら乗るな」を言い直さなきゃいけないとは…もはや笑えない笑い話である。いや、笑うしかないのか。宅配は今や電気・水道・インターネットと同じレベルの生活インフラ。それを担う企業が、今さら交通安全の標語を張り出さなきゃならないというこの現実。荷物は遅れてもいい。でも、常識と責任感だけは置き去りにしないでほしい。
そもそもの発端は、日本郵便の運転手による飲酒運転の多発。中でもひどいのが、横浜市戸塚郵便局で白ワインをキメてハンドルを握ったドライバーの件。業務中に白ワイン。しかも配送車。これを受けて全国調査が実施された結果、なんと75%の郵便局でアルコールチェックの点呼が不備だったことが発覚。さらに「ちゃんと点呼した」とウソの記録まで残していたケースもあったとか。ここまでくると、飲酒より虚偽報告の方が酔ってる。飲酒運転がアウトなのは今さら説明不要。ましてやそれが組織ぐるみで見過ごされていたのなら、もはや企業ガバナンスは冬眠中。
もちろん日本郵便は民間企業…のはずなんだけど、その実態は「お役所魂」が色濃く残る。意思決定は遅く、内部監査も緩い。まるで郵便物と一緒に、昭和の空気まで運んでいるようなものだ。その背景には、かつての民営化の頓挫がある。2007年に始まった郵政民営化は、民間の知見を取り入れ、しがらみを断ち切る試みだった。ところが、2009年に民主党政権が誕生すると状況が一変。民営化を推進していた初代社長・西川善文氏が辞任させられ、後任に財務省出身の斎藤次郎氏が就任。以降も官僚出身の社長が続々登場し、郵政は“改革の逆流”に呑まれていった。結果として、郵便局は「民営風お役所」という不思議な生き物に変身。もはや改革は骨抜き、組織は再び「天下りのオアシス」となった。郵便の信頼と一緒に、改革も配達ミスされていたのだ。
これは郵政だけの話ではない。民主党政権といえば、消費税倍増の路線変更、再エネ賦課金の導入、無軌道な移民誘導政策…。そのどれもが、国益より理想論を優先した感が否めない。結果的に、家計も企業もじわじわと疲弊していった。もちろん、それらを黙認していた自公政権の責任も「着払い」であるべきだが。それにしても、令和の物流インフラを支える組織で「飲んだら乗るな」を言い直さなきゃいけないとは…もはや笑えない笑い話である。いや、笑うしかないのか。宅配は今や電気・水道・インターネットと同じレベルの生活インフラ。それを担う企業が、今さら交通安全の標語を張り出さなきゃならないというこの現実。荷物は遅れてもいい。でも、常識と責任感だけは置き去りにしないでほしい。
欺瞞のガソリン税制 ― 2025年05月14日
経済産業省が発表した12日時点の全国平均レギュラーガソリン価格は、前回より1円50銭安い183円となった。調査が実施されなかった大型連休を除けば、これで3週連続の値下がりとなる。政府はガソリン価格を185円程度に抑えるため、石油元売り各社に補助金を支給しており、5月前半には1リットルあたり1円10銭の補助を実施していた。しかし原油価格の下落を受け、5月15日〜21日は補助金なしでも185円を下回る見通しで、制度開始以来2度目の「補助金ゼロ」となるという。だが、たった数円の変動で「値下がり」と強調する政府の姿勢には疑問を禁じ得ない。そもそも、2020年のコロナ禍では原油価格が前年の140円台から130円台に急落し、2021年には経済回復の兆しとともに150円台に。2022年にはウクライナ危機を受けて一気に170円台へと高騰した。これに対し政府は、「燃料油価格激変緩和補助金」により、1リットルあたり14〜20円程度の補助を行い、かろうじて160円台を維持してきた。しかし2024年4月、政府は突然この補助制度を打ち切り、ガソリン価格は180円台を突破、200円に迫る勢いを見せた。
5月からは、補助金の上限を10円に制限し、1円単位で段階的に調整するという、実質的な“改悪”とも言える新制度が始まった。4月の打ち切り時、政府は「財政負担の軽減」「脱炭素政策との整合性」「市場の正常化」「原油価格の下落による安定見通し」などを掲げていたが、そうした理屈を並べたわずか1カ月後に、あっさりと補助金を復活させた。市場原理や正常化を口実にした政策の一貫性のなさには呆れるしかない。結局、目前に迫る参議院選挙を意識した「人気取り政策」にすぎないという見方が強まるのも当然である。だが、185円のガソリン価格で有権者の支持を得られるとは到底思えないし、円安がさらに進めば185円すら維持できなくなる可能性もある。
より深刻なのは、ガソリン価格の約4割が税金で構成されているという、異常とも言える現実だ。具体的には、国税の揮発油税(24.3円/L)、地方揮発油税(5.2円/L)、そして「暫定措置」の名のもとで50年以上継続されている上乗せ分(25.1円/L)、石油石炭税(2.8円/L)が課され、さらにそれらに消費税(10%)が上乗せされる。つまり、1リットル185円のガソリンのうち、実に約70円が税金であり、実質的な本体価格は115円程度にすぎない。なかでも特に問題なのが、「暫定税率」の存在である。本来は1974年、道路整備の財源確保を目的とした一時的措置として導入されたが、半世紀にわたり延命され続けている。2008年に一度廃止されたものの、2009年に民主党政権下で「特例税率」として復活し、以降は一般財源化されてしまった。また、ガソリン価格が3か月連続で160円を超えた場合に暫定税率を停止するという「トリガー条項」も制度として存在するが、導入以来一度も発動されたことがない。震災復興財源として民主党政権が「トリガー条項」を凍結したのは14年も前の話で、野党が過半数を占める今も政権攻撃の材料にするばかりで、野党第1党の立憲は凍結解除法案を出す気配すらない。
政府は2026年に暫定税率の廃止を議論するとしているが、これまで繰り返されてきた説明の食い違いや約束の反故を考えれば、ずるずると引き延ばすのは目に見えており実現性は極めて低いと言わざるを得ない。そもそも、同一商品に対して5種類もの税を課し、さらにその税金に消費税をかけるという「二重課税」的構造そのものが、徴税の基本原則を著しく逸脱している。税制には本来、「公平」「中立」「簡素」という3原則がある。だが、現在のガソリン税制はそのいずれも満たしていない。複雑で不透明、所得の少ない者に過剰に重い負担となっているこの仕組みは、早急に抜本的な見直しが求められる。
5月からは、補助金の上限を10円に制限し、1円単位で段階的に調整するという、実質的な“改悪”とも言える新制度が始まった。4月の打ち切り時、政府は「財政負担の軽減」「脱炭素政策との整合性」「市場の正常化」「原油価格の下落による安定見通し」などを掲げていたが、そうした理屈を並べたわずか1カ月後に、あっさりと補助金を復活させた。市場原理や正常化を口実にした政策の一貫性のなさには呆れるしかない。結局、目前に迫る参議院選挙を意識した「人気取り政策」にすぎないという見方が強まるのも当然である。だが、185円のガソリン価格で有権者の支持を得られるとは到底思えないし、円安がさらに進めば185円すら維持できなくなる可能性もある。
より深刻なのは、ガソリン価格の約4割が税金で構成されているという、異常とも言える現実だ。具体的には、国税の揮発油税(24.3円/L)、地方揮発油税(5.2円/L)、そして「暫定措置」の名のもとで50年以上継続されている上乗せ分(25.1円/L)、石油石炭税(2.8円/L)が課され、さらにそれらに消費税(10%)が上乗せされる。つまり、1リットル185円のガソリンのうち、実に約70円が税金であり、実質的な本体価格は115円程度にすぎない。なかでも特に問題なのが、「暫定税率」の存在である。本来は1974年、道路整備の財源確保を目的とした一時的措置として導入されたが、半世紀にわたり延命され続けている。2008年に一度廃止されたものの、2009年に民主党政権下で「特例税率」として復活し、以降は一般財源化されてしまった。また、ガソリン価格が3か月連続で160円を超えた場合に暫定税率を停止するという「トリガー条項」も制度として存在するが、導入以来一度も発動されたことがない。震災復興財源として民主党政権が「トリガー条項」を凍結したのは14年も前の話で、野党が過半数を占める今も政権攻撃の材料にするばかりで、野党第1党の立憲は凍結解除法案を出す気配すらない。
政府は2026年に暫定税率の廃止を議論するとしているが、これまで繰り返されてきた説明の食い違いや約束の反故を考えれば、ずるずると引き延ばすのは目に見えており実現性は極めて低いと言わざるを得ない。そもそも、同一商品に対して5種類もの税を課し、さらにその税金に消費税をかけるという「二重課税」的構造そのものが、徴税の基本原則を著しく逸脱している。税制には本来、「公平」「中立」「簡素」という3原則がある。だが、現在のガソリン税制はそのいずれも満たしていない。複雑で不透明、所得の少ない者に過剰に重い負担となっているこの仕組みは、早急に抜本的な見直しが求められる。
日産大規模リストラ発表 ― 2025年05月13日
日産自動車が2025年3月期に発表した業績は、業界に大きな衝撃を与えた。純損益は6708億円の赤字で、前期の4266億円の黒字から一転。この事態を受け、日産は全従業員の約15%にあたる2万人の人員削減と、世界17カ所の車両工場を10カ所に縮小する計画を示した。今回の赤字は同社史上3番目の規模であり、さらに通期赤字は最大7500億円に拡大する見込みである。販売台数の減少により人員・生産能力が過剰となり、収益確保が極めて困難な状況だ。国内では、数百人規模で主に事務系職種を対象とした早期退職制度の導入が見込まれている。
しかし、日本全体が人手不足に直面するなか、有能な人材の流出は日産の技術やノウハウを競合他社に渡すリスクを高める。短期的なコスト削減を目的とした人員整理は、中長期的には企業価値の毀損につながりかねない。必要なのは人員削減ではなく、成長分野への人材移行である。たとえばEVバッテリーの生産拠点や次世代モビリティ関連事業への配置転換は、地域経済の活性化にもつながる。しかし、日産は経営不振や初期投資の高さから国内での新規展開に慎重な姿勢を崩していない。過去の大規模リストラも一時しのぎに終わった事実を忘れてはならない。リストラは士気を低下させ、開発意欲を奪う。
こうした状況では、経済産業省の積極的な支援が欠かせない。同省はバッテリー産業を国家戦略と位置づけ、助成金や人材育成を進めてきたが、政策は限定的だった。今後は撤退・縮小された投資の再活用や、成長分野への人材再配置を促す政策が必要である。工場や設備は再建できても、熟練人材を取り戻すには膨大なコストと時間がかかる。人材育成は長年の積み重ねであり、競争力の源泉でもある。日産の国内における内部留保は約4.3兆円に上る。その1割を活用すれば、従業員1000人の給与を3年間維持するための約3000億円は十分に賄える。もちろん内部留保は将来の投資や財務安定のために必要だが、人材維持を「未来への投資」と捉えれば、長期的な競争力の確保にもつながる。
短期的なリストラは一時的な財務指標を改善するかもしれないが、企業の成長エンジンを弱めるリスクがある。今求められるのは、人材の流出を防ぎ、再教育と再配置を支援する戦略的な投資である。企業も国家も「人」を切り捨てるのではなく、「人」を活かす方向へと転換すべき時が来ている。今ある人材をどう守り、どう未来に活かすか――その答えが日産の今後、さらには日本の産業の命運を左右するだろう。
しかし、日本全体が人手不足に直面するなか、有能な人材の流出は日産の技術やノウハウを競合他社に渡すリスクを高める。短期的なコスト削減を目的とした人員整理は、中長期的には企業価値の毀損につながりかねない。必要なのは人員削減ではなく、成長分野への人材移行である。たとえばEVバッテリーの生産拠点や次世代モビリティ関連事業への配置転換は、地域経済の活性化にもつながる。しかし、日産は経営不振や初期投資の高さから国内での新規展開に慎重な姿勢を崩していない。過去の大規模リストラも一時しのぎに終わった事実を忘れてはならない。リストラは士気を低下させ、開発意欲を奪う。
こうした状況では、経済産業省の積極的な支援が欠かせない。同省はバッテリー産業を国家戦略と位置づけ、助成金や人材育成を進めてきたが、政策は限定的だった。今後は撤退・縮小された投資の再活用や、成長分野への人材再配置を促す政策が必要である。工場や設備は再建できても、熟練人材を取り戻すには膨大なコストと時間がかかる。人材育成は長年の積み重ねであり、競争力の源泉でもある。日産の国内における内部留保は約4.3兆円に上る。その1割を活用すれば、従業員1000人の給与を3年間維持するための約3000億円は十分に賄える。もちろん内部留保は将来の投資や財務安定のために必要だが、人材維持を「未来への投資」と捉えれば、長期的な競争力の確保にもつながる。
短期的なリストラは一時的な財務指標を改善するかもしれないが、企業の成長エンジンを弱めるリスクがある。今求められるのは、人材の流出を防ぎ、再教育と再配置を支援する戦略的な投資である。企業も国家も「人」を切り捨てるのではなく、「人」を活かす方向へと転換すべき時が来ている。今ある人材をどう守り、どう未来に活かすか――その答えが日産の今後、さらには日本の産業の命運を左右するだろう。
ETC障害 ― 2025年04月07日
4月6日未明、中日本高速道路は東京、神奈川、愛知など8都県にまたがる料金所でETCシステムの障害が発生したと発表した。影響は106か所に及び、約38時間にわたってETCが利用できない状態が続いた。7日には応急的な復旧が完了し、すべての料金所が再開されたという。混雑を緩和するため、一時的に精算を後回しにして通行を許可する対応がとられたが、通行料金は後日精算となり、利用者には公式サイト上での支払い案内がなされた。だが、これを「スムーズな対応」と受け取れる人は多くないだろう。障害の原因とされるのは、5日に実施されたETC深夜割引の見直しに伴うシステム改修作業だという。単なる“割引時間帯の変更”という、20年以上も運用されてきた制度におけるルールの一部修正で、システム全体が約2日間も機能不全に陥ったことには驚かされる。そもそもこの夜間割引は、2001年に導入された制度で、深夜帯の交通分散を目的としたものだった。対象時間は当初0時~4時、そこを走れば通行料が30%割引になる仕組みだ。今回の見直しでは、その時間帯を22時~5時へと拡大。しかし、これで果たして実効性はあるのか。というのも、割引時間を狙ってインターチェンジ付近の路肩などで不法駐車をして待機する長距離トラックの姿は以前から問題となっており、時間の前倒しでこの習慣がなくなるとは思えない。また、夜間の割引を最大限に活かすため、休憩も取らずに高速道路を走り続ける運送業者も少なくない。今回の改定により、割引時間が都合3時間延びたことで、安全面の懸念はむしろ増したのではないか。
そもそもETCは、時間と距離のデータを正確に記録できるシステムである。であれば、割引の条件に「適度な休憩」や「安全運転」を組み込むことも技術的には可能なはずだ。例えば、平均的な到達時間を超えた車両に対してのみ、深夜割引を適用するといった工夫も考えられる。今回のETC障害は、単なる技術的な不具合では済まされない。障害の最中にもかかわらず、「後日支払いを」という通知がなされる。遅延やトラブルの原因を作った運営側が、利用者に“迷惑料”どころか“請求”をするという構図には違和感がある。同日、ゆうちょ銀行の通信システムでも午前中に障害が発生し、送金に支障が出た。ETCにせよ金融ネットワークにせよ、今や社会インフラそのものであり、ひとたび止まれば全国規模で影響が出る。こうした状況下で、なぜ確実なバックアップ体制が整えられていないのか。高速道路会社もゆうちょ銀行も、もともとは道路公団や郵政公社といったお役所組織の流れをくむ会社だ。前例主義が根強く、危機管理や改革のスピードが鈍いのではと疑いたくもなる。システムは「人間が作ったものである以上、絶対はない」。そうはいっても、繰り返される不具合に、国民はいつまで“慣れ”を強いられなければならないのだろうか。今こそ、制度とシステムの両面で「安心して使える仕組み」への見直しが求められている。
そもそもETCは、時間と距離のデータを正確に記録できるシステムである。であれば、割引の条件に「適度な休憩」や「安全運転」を組み込むことも技術的には可能なはずだ。例えば、平均的な到達時間を超えた車両に対してのみ、深夜割引を適用するといった工夫も考えられる。今回のETC障害は、単なる技術的な不具合では済まされない。障害の最中にもかかわらず、「後日支払いを」という通知がなされる。遅延やトラブルの原因を作った運営側が、利用者に“迷惑料”どころか“請求”をするという構図には違和感がある。同日、ゆうちょ銀行の通信システムでも午前中に障害が発生し、送金に支障が出た。ETCにせよ金融ネットワークにせよ、今や社会インフラそのものであり、ひとたび止まれば全国規模で影響が出る。こうした状況下で、なぜ確実なバックアップ体制が整えられていないのか。高速道路会社もゆうちょ銀行も、もともとは道路公団や郵政公社といったお役所組織の流れをくむ会社だ。前例主義が根強く、危機管理や改革のスピードが鈍いのではと疑いたくもなる。システムは「人間が作ったものである以上、絶対はない」。そうはいっても、繰り返される不具合に、国民はいつまで“慣れ”を強いられなければならないのだろうか。今こそ、制度とシステムの両面で「安心して使える仕組み」への見直しが求められている。