AIハルシネーション2026年06月30日

AIハルシネーション
いやもう、AIというやつは便利な道具の顔をしておきながら、ときどき信じられないほど見事にズッコケる。今朝使ったコパイロットの「事実はなかった事件」など、そのズッコケぶりが芸術の域に達している。「2026年1月に米軍がマドゥロを拘束したのは事実か」と質問した瞬間、コパイロットは鼻息荒く、「そんな大事件、あるわけないじゃないですか」と断言した。断言である。よりによって検索もろくにせずに。まるで、新聞の見出しだけ読んで政治通を気取る居酒屋のオジサンのような軽さである。

なぜそんな恥ずかしい早合点をしたのか。内部処理を断定することはできないが、結果だけを見る限り、「現職国家元首を米軍が武力で拘束するなど通常は考えにくい」という常識的な推論が、検索や一次情報の確認より先に働いたように見える。そんな事態になれば、国連が泡を吹いて緊急会合を開き、世界中のニュースがトップで報じるはずだ――そうした一般的な認識を前提に、「そんな記録は見当たらない=事実ではない」と結論づけてしまったかのような応答だった。慎重さを装ったつもりが、結果としてはただの早とちりである。いやはや、ため息のひとつも出る。

AI界では、Claude Mythos 5だ、GPT5.6だと高性能モデルが次々と登場し、まるで新型家電のチラシのように賑やかだが、「高性能」故の危うさが見え隠れしている。性能が上がれば上がるほど、妙な自信を持って世界を勝手に解釈し始めるのだから始末に負えない。高性能の誤答ほど、もっともらしく聞こえてしまうのがまた厄介である。便利さの裏側に、湿った不安がじわりと滲む。

ところが、ユーザーが英下院図書館のブリーフィング、Chatham House の国際法分析、Reuters の報道、さらには米軍の作戦発表ページと、一次情報を次々に示すと、コパイロットは急にしおらしくなり、「あ、事実でした」と態度を改めた。あれほど自信満々に否定していたのに、証拠を突きつけられた途端に見解を修正する姿は、まるで刑事ドラマで追い詰められた犯人が「やっぱりやりました」と白状する場面のようでもある。最初から検索していれば済んだ話なのに、検索より先に“常識”で判断してしまえば、こういう赤っ恥をかく。

つまり今回の騒動は、コパイロットが「一次情報を確認してから事実を判断する」という順番ではなく、結果として「常識的な推論を先に置き、必要になってから情報を確認する」ような応答を示したことで起きた。慎重さが裏目に出て、事実そのものを否定してしまう危険な挙動につながったのである。もしユーザーが疑問を抱かず、一次情報も提示しなければ、その誤った認識をそのまま受け入れていた可能性は十分にあった。

AIの「ちょっとした思い込み」のように見えるものが、ユーザーの「確固たる誤解」へと変わってしまう――そこに、この問題の本当の怖さがある。AIというものは、便利な道具である一方、ときに世界の見え方をもっともらしく描き替えてしまう力も持っている。だからこそ、AIの答えは「流暢だから正しい」と受け取るのではなく、必要に応じて一次情報へ立ち返る姿勢が欠かせない。今回の一件は、その教訓をこれ以上ないほど鮮やかに示した出来事だったと言えるだろう。やれやれである。

「発達障害留学支援」詐欺2026年06月29日

「発達障害留学支援」詐欺
発達障害のある子どもを海外に留学させて、未来をパーッと開いてあげましょう――そんな、聞いているだけで脳内に虹がかかりそうな甘い誘い文句に、東京都内の母子は約1800万円を吸い取られた。吸い取ったのは「発達障害支援」を看板に掲げる一般社団法人の元代表。医師でもないのに診断書まで書き、イギリスだのニュージーランドだの、地球儀を回して適当に指さしたような学校名を並べ、「同じように悩んでいた子も成功していますよ」と胸を張る。胸を張るのは自由だが、中身はスカスカ。まるで空気だけで膨らんだシュークリームである。噛んだ瞬間にスカッと虚無が広がるタイプのやつだ。

とはいえ、ここで「そんな話を信じるほうが悪い」と被害者を責めるのは簡単だ。簡単すぎて、むしろ何も見えていない。問題は、日本の支援体制そのものが“空洞ビジネス”を呼び寄せる巨大な湿地帯になっているという点だ。湿地帯は生き物が繁殖しやすい。詐欺師も同じである。

学校には校内委員会があり、個別の教育支援計画や指導計画もある。書類だけ眺めれば、なんだか手厚そうだ。だが実際には、会議を開いたという記録が残るだけで、支援そのものはどこかへ蒸発してしまうことがある。まるで、湯気だけ立派で肝心の鍋が空っぽの寄せ鍋のようだ。責任者を探そうにも、学校、教育委員会、福祉、医療がそれぞれ少しずつ関わっているため、全体を束ねる人が見えにくい。「みんなで支える」は、ときに「誰も最後まで責任を持たない」に化ける。化けるのが早い。妖怪並みである。

そのうえ、福祉は縦割り、医療は予約が何か月も先。学校も外部の専門職と自由にチームを組めるわけではない。親は学校へ行き、病院へ行き、役所へ行き、そのたびに同じ説明を繰り返す。まるでスタンプラリーである。違うのは、ゴールしても景品がもらえないことだ。むしろ疲労だけが増える。ようやく息をついたところへ、「日本では難しくても海外なら伸びますよ」と耳元でささやかれれば、藁が金塊に見えてしまう。藁が金塊に見えるのは、親が愚かだからではなく、周囲が霧だらけで何も見えないからだ。そこへ、親自身にも発達特性がある場合は、判断のハンドルがさらに取られやすくなり、詐欺の餌食となる危険は一段と高まる。

一方、アメリカでは、障害が疑われる子どもについて学校区(日本の市町村教委にあたる)がIDEAの「Child Find」義務に基づき評価を行いIEPを作成する法的義務である。LDや読み書き障害は当然含まれ、読み書きに困難が見られれば学校区は評価を開始する義務を負い、必要と判断されればIEPで読み書きの直接指導や合理的配慮を提供する。IEPは学校区が提供すべき教育サービスを縛る文書で、評価から計画、実施、進捗管理まで、連邦法と規則が細かく抜け道なく規定している。学校区がこれを怠れば、保護者は審問や訴訟で責任を問える。制度の強度は、日本と比べれば圧倒的に硬い。硬いというより、「やらなければ裁判になる」という乾いた現実が、向こうの教育現場を一定の方向へ押し出している。

もちろんアメリカにも、人手不足や予算の薄さ、地域差など問題は山ほどある。だが少なくとも、保護者が学校・医療・福祉の間を延々とさまよい、書類の湿気で角が丸くなるほど右往左往する“湿った巡礼”は、米国ではあまり見られない。IEPという契約制度がないため、保護者への告知をためらうような教師側の湿り気も米国は薄い。制度が乾いている分、迷う余地も湿る余地も少ないのである。

結局、この事件は、一人の詐欺師だけが起こした事件ではない。制度がぽっかり空けた穴に、悪徳業者が店を開いただけの話でもある。詐欺師という生き物は、人の弱さを見抜く前に、制度の弱さを嗅ぎつける。だから一人逮捕しても、穴がそのままなら次が来る。今日もどこかで、立派な看板を掲げた「支援」の陰で、親は孤立し、空洞ビジネスは次の客を待っている。湿気を吸って、ますます元気に育つ。

ベネズエラ地震災害2026年06月28日

ベネズエラ地震災害
ベネズエラで地面がドドンと揺れた。M7.2のあとにM7.5が「まだ立ってるのか、ではもう一発」とでも言いたげに追い打ちをかける。自然というやつは、ときどき人間相手に妙な執念を見せる。震度に換算すれば6強から7ほど。阪神・淡路に匹敵する揺れである。数字だけでも十分だが、同じ日の午前7時30分、青森でも地面がガツンと揺れた。こちらも M7.2。数字だけ見れば、ベネズエラの最初の“ドドン”と同じ規模である。M7.5は7.2とのエネルギー差では3倍近いので一見すれば、ベネズエラの大被害は揺れのダブルパンチと地震のエネルギー差で説明がつくように思える。

ところが、被害は揺れの大きさだけでは決まらない。青森では激しい揺れにもかかわらず、大規模な倒壊は避けられ、死者も出なかった。一方のベネズエラでは、高層ビルが折れ、住宅が潰れ、多くの人が一夜にして住まいを失った。自然が出した試験問題は同じでも、答案を書いたのは社会である。天災は平等でも、被害は不平等。そこに、人間が長年積み重ねてきた“差”が露骨に表れる。

では、なぜこうも差がつくのか。理由は長年積み上げられた政治の腐敗である。建築検査官は賄賂で目をつぶり、施工業者は鉄筋を削り、行政は「問題なし」と判を押す。臭いものには蓋をし、その蓋の上から布団まで掛け、最後には「臭いなど最初からなかった」と言い張る。こうして積み上げた“見なかったこと”の山が、地震の一撃で請求書となって国民の頭上に降ってきた。消防車は燃料不足で走れず、通信は途絶え、救助は遅れる。自然災害が政治災害へ姿を変える典型である。

その構図を変える契機となったのが、今年一月の政権崩壊だった。米軍によるマドゥロ大統領拘束という異例の展開は、国際法上の議論を呼びつつも、結果として中国寄りの権威主義体制に幕を下ろした。閉ざされていた国際協力の扉が開き、世界銀行やIDBが制度改革や復興支援に関与し始めた。建築基準の見直しや行政機能の立て直しにも外からの手が入る。乱暴な手術ではあったが、腐敗で壊死しかけていた組織にとっては、その荒療治が再生の第一歩になったという皮肉もある。

もちろん、一夜にして耐震国家へ生まれ変わるわけではない。老朽化した建物は残り、行政能力は痩せ細り、財政事情も楽ではない。それでも、進む方向が変わった意味は大きい。長いトンネルを歩き続け、ようやく遠くに出口の灯が見えたようなものだ。地震そのものは止められないが、倒れる建物は減らせる。腐敗を一日で消すことはできないが、外からの監視は効く。ベネズエラはようやく「見なかったことにする国」から「見えたものを直そうとする国」への長い一歩を踏み出した。その一歩こそが、何より大切なのである。

旧統一教会の解散命令の判決2026年06月27日

旧統一教会の解散命令は適法か
最高裁は旧統一教会への解散命令を適法と判断した。新聞は淡々とそう伝えているが、淡々と書かれているからといって中身まで淡々としているわけではない。今回の判断は、なかなかに重たい話である。理屈をざっくり言えばこうだ。刑事事件で有罪が確定していなくても、宗教法人が組織的・継続的に公益を害したと行政が判断し、その蓋然性を裁判所が認めれば法人格を失わせることができる。教義には立ち入らない。信仰も禁じない。あくまで外部行為の問題だ――というのである。しかし、説明が通ることと違和感が消えることは別問題だ。

たとえば「家には住んでいい。ただし家は取り壊す」と言われたらどうだろう。住む自由は残っていると言われても、たいていの人は首をひねるはずだ。最高裁は「内心の自由は侵害しない」と言う。しかし宗教活動は、頭の中で静かに念じていれば成立するほど単純ではない。集まり、語り合い、組織を維持し、活動を続ける。その基盤を失わせながら「信仰は自由です」と言われても、どこか帳尻が合わない感じが残る。もちろん旧統一教会に対して世間の風当たりが強いのは理解できる。高額献金や霊感商法に反発を抱く人は少なくない。しかし、ここで問われるべきなのは好き嫌いではない。

民主主義国家の司法は、「嫌われ者だから厳しくする」という発想から最も遠い場所にいなければならない。世論が右へ走れば司法は左を見る。世論が左へ走れば司法は右を見る。そのくらいでちょうどいい。ところが安倍元首相銃撃事件以降の空気を振り返ると、話は単純ではない。警備体制の不備という本来の論点は脇へ追いやられ、報道は一斉に旧統一教会へ向かった。政治家との関係、選挙支援、献金問題。連日その話題が続き、社会全体が一つの方向へ傾いていった印象は否定しがたい。

その一方で、信者側が訴えてきた拉致監禁や強制棄教の問題は、同じ熱量では扱われなかった。もちろん、それで献金問題が消えるわけではない。しかし片方だけを拡大鏡で見て、もう片方にはレンズを向けないのであれば、社会の認識は偏る。司法に求められるのは、その偏りから距離を取ることだ。今回の判断で気になるのは、解散命令という極めて重い処分と、その前提となる立証の重さが釣り合っているのかという点である。刑事有罪の積み重ねではなく、民事上の不法行為などを含めた総合評価で法人解散に至る。その制度設計は法律上認められているとしても、「公益」という言葉の伸び縮みひとつで国家が宗教法人の存続を左右できる構造には慎重であるべきだろう。

司法とは、本来は世の中の空気を測る風見鶏ではない。みんなが同じ方向を向いたときほど、「本当にそうか」と問い続ける役目を担う存在である。今回の判決が法的に正しいのかどうかは、これからも議論されるだろう。しかし、「嫌われた団体だから厳しい処分もやむを得ない」という空気が少しでも判断の背景に入り込んでいたのだとしたら、それは旧統一教会だけの問題では終わらない。法治国家というものは、誰からも擁護されたくないような相手の権利を、それでも守れるかどうかで試されるのである。そして、その試験は案外いつも、世間が拍手している最中にやって来る。

日本人社員、中国にまた拘束2026年06月26日

日本人社員、中国にまた拘束
5月下旬、中国・大連で富士電機グループの日本人社員2名が拘束された。容疑はレアアース加工品の輸出管理違反とされるが、何がどう違反なのかは霧の向こうだ。事実と当局の「解釈」の境界は、朝もやの中で横断歩道を探すようにぼんやりしている。情報が欠ければ欠けるほど人は空白を埋めたくなり、ジグソーパズルの最後の一片を求めてソファの下をまさぐるような焦りが生まれる。大連には多くの日系企業が進出しているが、外務省も企業も口を閉ざし、中国国内の情報発信も国家の強い管理下。検索しても風が吹き抜けた跡のように静まり返り、現地の実情は影のように輪郭を持たない。

日本政府や企業が情報を公表しない理由は理解できる。本人や家族の安全、外交交渉の余地、事業への影響回避――どれも「まあ、そうだよね」とうなずける理由だ。しかし過去を振り返ると、この“静かにしていれば嵐は過ぎる”方式が功を奏した例は多くない。アステラス製薬社員拘束事件では長期拘束の末に有罪判決が下されたが、何が違法行為と認定されたのか、企業側にどこまで回避可能性があったのかは今も霧の中だ。2015年以降、中国で拘束された日本人は少なくとも17人。氏名すら公表されず、罪状も曖昧なままのケースが積み重なり、喉の奥に小骨が刺さったような違和感だけが残る。

もちろん、中国だけが特別というわけではない。ロシアやイラン、北朝鮮など、国家安全保障を理由に外国人を拘束する国は他にもある。ただ中国の厄介さは、巨大市場であり、日本企業が日常的に出入りし、経済活動が生活の延長のように行われている点にある。危険と隣り合わせなのに、どこからが危険なのかが外から見えない。足元に落とし穴があるのに、地面だけは妙にきれいに舗装されている、そんな不気味さがある。さらに日本側の備えは十分とは言い難い。欧米諸国は経済安全保障や機密保護の法体系を整備しているが、日本ではスパイ防止法の議論が長年棚上げされたまま。何が危険で、どこまでが許容されるのか、国としての“地図”がない。

その状況で「とにかく黙って交渉を待つ」という対応は、あまりにも受け身だ。地図も持たせず危険地帯に送り出し、「無事に帰ってくることを祈ろう」と言っているようなものだ。祈りは大事だが、祈りだけで地雷原は歩けない。今回、中国政府は重要鉱物の輸出規制違反行為について国民に通報を促す公告まで出した。国家が「見ているぞ」と影を落とすとき、人々の行動は変わる。企業関係者や駐在員にとっては、法律の条文よりも、その運用がどこまで広がるのか分からないことの方が恐ろしい。薄手の傘で防弾シールドに向き合うような非対称性がそこにはある。

だからこそ、日本に残された数少ない対抗手段の一つが情報公開だ。公表したからといって即座に解放される保証はないが、事件の存在を可視化し、国際社会や投資家にリスクを共有させることはできる。不透明な拘束が続けば、企業は投資をためらい、人材は赴任を避ける。そのコストを相手に意識させることは、沈黙よりはるかに意味がある。今回の事件はまだ詳細が分かっていない。しかし、分からないことが増えるほど、人も企業も最悪の事態を想定する。そして失われるのは一件の商談や一人の駐在員ではなく、「ここなら安心して働ける」という信頼そのものだ。沈黙はときに防御になる。だが、沈黙だけで国民や企業を守れる時代は、もう終わりに近づいている。

朝日新聞の虚偽情報糾弾2026年06月25日

朝日新聞が虚偽情報糾弾
朝日新聞が「虚偽情報には断固対処する」と、毅然たる姿勢で法的措置に乗り出した。発端はX(旧ツイッター)に投稿された一枚の合成画像である。入社式の写真に他国の国旗が掲げられているよう加工され、「こんな新聞を信じられるわけがない」と書き添えられていた。出来栄えは稚拙で、一見してネット上の悪ふざけだと分かる代物である。それでも同社は発信者情報の開示を申し立て、東京地裁はこれを認めた。広報部は「虚偽情報による社会的評価の毀損には適切に対処する」と胸を張る。

自社の信用を守るために虚偽情報へ対抗することは、企業として当然の権利である。しかし、このニュースに接したとき、少なからぬ人々が「その厳しい基準を、まず自らに向けたことはあっただろうか」という疑問を抱いたのではないか。問題の本質は合成画像そのものではない。自らが被害者になった瞬間だけ「言論の正義」を掲げ、自らが加害者であった歴史を問われると急に口が重くなる――その報道姿勢に潜むダブルスタンダード(二重基準)である。

朝日の過去を振り返れば、今回の画像騒ぎが霞んで見えるほど、社会的影響の大きな誤報や不適切報道がいくつも存在する。古くは、記者自らがサンゴに傷をつけて環境破壊を捏造した「サンゴ落書き事件」。裏付けの乏しい証言を長年にわたり世界へ発信し、のちに訂正したものの国際社会における日本の名誉を著しく傷つけた「慰安婦報道」。そして、福島第一原発事故をめぐる「吉田調書報道」では、故・吉田昌郎所長らに「命令違反の撤退」という事実に反する印象を植え付け、本人が亡くなった後に記事の撤回に追い込まれた。当事者の手による反論も名誉回復も、永遠に閉ざされたままである。

さらに近年の政治報道においても、「疑惑」を前提とした主観的なフレーミングが度々批判を浴びてきた。客観的な事実を積み重ねて結論を導くのではなく、あらかじめ設定した結論(ストーリー)に合わせて事実を剪定(せんてい)しているのではないか、という疑念である。だからこそ、人々は今回の偽画像を見ても驚かない。むしろ「朝日新聞が虚偽情報に憤る」という構図そのものに、強い既視感と皮肉を覚える。火事を起こした料理人が、防火講習会で誰よりも大きな声を上げているような違和感である。

本来なら、今回の件は朝日にとって「信頼回復への絶好の機会」となるはずだった。虚偽情報の被害に遭った当事者だからこそ、その痛みを出発点として、「だからこそ私たちも過去の過ちを忘れない」と語ることができたはずである。「他人の虚偽を厳しく糾弾する以上、自らの報道にもそれ以上の厳格な基準を適用する」と宣言できたはずだ。しかし、聞こえてくるのは「私たちは被害者である」という権利の主張ばかりである。

読者がメディアに求めているのは、過ちを絶対に犯さない完璧さではない。過ちを真摯に認め、責任を引き受け、身内と他者に全く同じ倫理基準を適用する誠実さである。朝日新聞が今本当に取り戻すべきものは、裁判所の開示命令ではなく、長年の報道によって毀損してきた「社会的信頼」そのものである。それは他人の偽りを告発することで得られるものではなく、自らの歴史と絶えず向き合い続けることでしか、決して取り戻せないのである。

W杯日本の可能性2026年06月24日

W杯日本の可能性
今回の日本代表というのは、名簿を開いた瞬間に「ああ、これは普通の勝負にはならないな」と悟らされる構造になっている。遠藤航はいない。久保建英はケガで欠場している。攻守の軸が同時に抜け落ちているのだ。将棋で言えば、盤面に向かった途端に「飛車と角は最初からありません」と告げられるようなもので、こちらとしては「いや、それでどう戦えというのか」と天井の隅を見つめたくなる。しかも周囲は「まあ、なんとかなるだろう」と言う。なんとかなるなら苦労はない。

ところがサッカーという競技は不思議なもので、飛車角がなくても、歩や銀を地道に積み重ねて形を作ってしまうことがある。オランダ戦の2―2、チュニジア戦の4―0。結果だけを見れば、なるほど十分に戦えている。だが、そこで安心してしまうのは早計だ。日本代表の名簿にはいま、「悪くない選手」が数多く並んでいる。しかし「良い」を決定づける決定的な部品が、よりによって遠藤と久保という中心軸から抜けている。悪くはない。だが、良くもない。これが今回の日本の冷厳な現在地である。

そして、まだスウェーデン戦が残っている。それなのに、もう勝った気になっている人がいる。勝ってもいないのに勝った気になり、試合前なのに試合後の話をしてしまう。こうした“時間の先走り”は、日本代表の周囲で昔から繰り返されてきた悪癖だ。スウェーデン戦は、おそらく互いに手の内を隠し合う、一筋縄ではいかない試合になるだろう。しかし、まだホイッスルは鳴っていない。行われてもいない試合を既成事実のように語るべきではない。未来を先に消費する癖は、たいてい最悪の結果を呼び込むものだ。

もっとも、仮にそのスウェーデン戦を越えたとしても、それで終わりではない。次に待っているのはブラジルである。スウェーデンは世間的には「格下」とされるが、格下という言葉ほど危険な響きを持つものはない。格下とは、こちらが勝手に油断してくれるのを静かに待っている恐ろしい存在だからだ。そして日本代表は、気が緩んだ瞬間に綺麗に転ぶ才能だけは、昔から妙に豊かである。スウェーデン戦の勝利で気分が上がり、その勢いのままブラジル戦の夢を見始めるのは人情だろう。だが、その手前の段差で余計なつまずきをすれば、せっかく積み上げた流れも空気も一気にしぼんでしまう。夢の手前には、いつもこういう見えない罠がある。

そして、その一戦も越えたなら、その先にいよいよブラジルがいる。ここから先は「悪くない日本」では1秒も持たない。ブラジルは局地戦でも勝つ。1対1でも勝つ。セットプレーでも勝つ。こちらが歩と銀で必死に形を整えている間に、向こうは飛車角金銀をずらりと並べてくる。盤面の密度そのものが違うのだ。

飛車角を欠いた日本が、このブラジルの圧倒的な盤面を破る方法があるとすれば、それは戦術による保証を超えた「揺らぎ」の中にしかない。歩や銀の堅実なキャパシティを超え、一芸に秀でた「香車」や「桂馬」のような伏兵が一歩前に飛び出すこと。その駒の跳躍が偶然の連鎖を生み、相手の計算を狂わせる。サッカーを長く見ている人なら誰もが知っている、あの「何かが起きそうだ」という気配は、理屈の隙間からしか生まれない。

苦しい盤面である。戦力差もある。理屈だけを並べれば、楽観できる材料はどこを探しても見当たらない。だが、サッカーとは、ときに理屈より先に感情が、そして歴史が動く競技でもある。だから日本、行け。今回ばかりは、その理屈を超えた「何か」を信じてみたい。

ホルムズ海峡を封鎖するぞ2026年06月23日

ホルムズ海峡を封鎖するぞ
停戦合意をしたばかりのイランがまた「レバノンが攻撃された。ならばホルムズ海峡を封鎖するぞ」と言い出した。言うだけなら自由である。晩酌の席で「明日から毎朝五キロ走る」と宣言するのと同じで、口にするのは簡単だが、実行までの距離はときに太平洋並みに遠い。ホルムズ海峡も似たようなもので、昔は「ここを塞げば世界が困るぞ」という脅しに迫力があったが、停戦後の今は海にも空にも米英の目が光り、まるで大型スーパーの防犯カメラ売り場の中を歩いているような状態である。高速艇が少し沖へ出れば居場所はすぐ見え、機雷をまいて長期封鎖という昔ながらの筋書きも、現実にはかなり難しい。

さすがに中国もロシアも、この話題になると急に口数が減る。賛成しても得はなく、巻き込まれれば面倒が増える。宴会で隣の席が急に夫婦げんかを始めたときのように、視線をそっと料理へ落とすのが最適解だ。そもそもイランの理屈には独特の癖がある。レバノンにはヒズボラがいて、イランにとっては重要な仲間であり戦略資産でもある。だからレバノンで何か起きると、自宅の庭石を蹴飛ばされたような顔になる。だがレバノンはレバノンであってイランではない。世の中の家には境界線があるのに、「塀の向こうも実質うちの庭だ」と言い出す人が現れると、近所は少し距離を置く。中国やロシアが全面的に乗ってこないのも、その“自分ルール”の愚かさをよく理解しているからだろう。

ところが日本の一部報道では、この前提がほとんど語られない。イランの発言だけが並び、「米国が止めるべきだ」「米国が責任を負うべきだ」という話へ進んでいく。まるで米国が世界共通のリモコンを持っていて、赤いボタンで停戦、青いボタンで和平、黄色いボタンで万事解決――そんな便利な家電があるかのようである。そんなものがあるなら一台ほしいが、現実はそうはいかない。イスラエルは米国ではなく、レバノンもイランではない。国際政治はむしろ古い配電盤に近く、どの線がどこへつながっているのか分かりにくい。一本触ると別の場所が動く。一つのスイッチで全部を制御できるほど親切な仕組みではないのである。

そして問題は海峡だけではない。国家にとって案外こたえるのは、お金の話だったりする。財布の中身を見られて気分のいい人はいない。個人でも嫌だが国家でも嫌である。強気の発言は続けられても、資金の流れを監視され、政策の自由度が狭くなるのはじわじわ効く。歯医者の麻酔と同じで、その場は平気でも後から痛くなる。表向きは復興支援や経済再建という合意内容でも、実際にはイラン経済の急所に手が伸びたのだ。

それにもかかわらず、こうした“構造”の話はあまり大きく報じられない。ホルムズ海峡は日本にとって大事な海路なのだから、本来なら「誰が海を押さえているのか」「誰が資金を握っているのか」「誰が本当に支援する気なのか」という話のほうが重要なはずだ。国際政治は声の大きさではなく構造で動く。しかし報道は時々、骨組みを抜いたまま外壁だけを見せる。地図を持たずに山へ入ると、人は不安になる。最近の中東報道を眺めていると、どうもそんな気分になるのである。山道の先よりも、そもそも今どこを歩いているのかが見えにくいからだ。

ノルウェーが「小学生はAI禁止」2026年06月22日

ノルウェーが「小学生はAI禁止」
どうも最近の教育界は、デジタルを見ると、台所に見慣れない虫が出たときのように「とりあえず叩いておけ」と反応する癖がついてしまったらしい。ノルウェーが「小学生はAI禁止」と打ち出したと聞けば、「ああ、またデジタル一括処分セールか」と思ってしまう。スマホもSNSもAIも、まとめて“デジタル”という大袋に放り込み、口を縛って危険物扱いにする。しかし、その袋の中身は本当に同じ生き物なのか。北欧三国の対応を見るだけでも、その乱暴さがよくわかる。

ノルウェーは袋の中身を確かめる前に「危ないものは危ない」と冷凍庫へ放り込む予防原則派。スウェーデンは袋を開け、「危ないものもいるが全部ではない」と様子を見ながら扱いを決める中庸派。そしてフィンランドは「育てれば役に立つ」と考え、袋の中身を理解しながら共存を図る活用派だ。同じ北欧でも袋の扱い方は見事に違う。

では日本はどこにいるのか。おそらく袋の前で腕を組み、「うーん」と唸ったまま動かない“逡巡派”である。ノルウェーほど大胆に禁止しないし、フィンランドほど積極的に活用もしない。スウェーデンに近いようでいて、スウェーデンほど明確な方針も示さない。結局「もう少し様子を見よう」が何年も続く。日本の行政は、ときどき決断の先送りを慎重さと呼ぶ。

さらに日本の議論には、SNSとAIを同じ棚に並べてしまう悪癖がある。だが両者は似ているようで性格がまるで違う。SNSは承認欲求を刺激し、依存を招き、匿名性が攻撃性を増幅する“じゃじゃ馬”で、発達途上の子どもには扱いが難しい。一方AIは本質的には道具であり、誤情報の問題はあっても、設計と使い方次第で子どもの思考を補助し、興味を広げ、学びを深める力を持つ。いわば「外付けの前頭前野」である。これを同列に扱うのは、ハサミとチェーンソーを同じ「刃物」として一括管理するようなもので、分類としては正しくても、現実の扱いとしては雑すぎる。

厄介なのは、教育の不調を何でもデジタルのせいにしたがる風潮だ。読解力の低下、集中力の低下、学力不振。もちろんデジタルの影響はあるが、その背後には読書習慣の衰え、教師不足、睡眠不足、家庭環境の格差、制度疲労といった、もっと地味で重たい問題が横たわっている。だが、こうした問題は解決に時間も金もかかる。そこで手近な「デジタル」が悪役に選ばれる。街灯の下で鍵を探す酔っぱらいのように、明るい場所ばかり探して本質を見失う。本来ならSNSには年齢や匿名性に応じた強い規制をかけ、AIは目的に応じて教育的に活用すべきだろう。ところが現実にはSNSは半ば野放しのまま、AIばかりが警戒される。教育に必要なのは、袋ごと捨てる勇気でも袋ごと抱きしめる度胸でもなく、袋を開け、中身を一つひとつ見極める手間である。教育とは子どもに学ばせる営みだと思われがちだが、案外いちばん学び直しを求められているのは、大人たちのほうなのかもしれない。

スターバックスが袋叩き2026年06月21日

スターバックスが袋叩き
韓国でスターバックスが袋叩きにあったというニュースが流れてきた。在韓日本人の中には「ああ、また始まったか」と苦笑した人もいたという。発端はスタバが販売した「タンクデー」と名付けられたタンブラー企画である。もっとも、スタバ側が光州事件を意識して商品を企画した証拠はどこにもない。それなのに「タンク」と聞けば戦車を連想し、戦車を連想すれば歴史冒涜だと怒りが噴き上がる。連想ゲームで有罪判決を下すような話で、もはや推理小説の犯人探しより大胆である。政治家までが「懲らしめねばならない」と乗り出し、コーヒーチェーンの販促企画はいつの間にか国家規模の道徳裁判へと変貌した。タンブラーは悪の象徴、店内は冬の冷蔵庫のように冷え冷えである。

今回の騒動で本当に気になるのは、タンブラーの名前そのものではない。証拠のない悪意が、あたかも実在するかのように扱われた点である。誰かが「そういう意味に違いない」と言い出し、それが広がると、当事者の説明よりも人々の推測の方が力を持ち始める。事実より解釈が先に立ち、説明より制裁が先に走る。社会が感情に支配されるとき、最初に犠牲になるのは事実である。これは冷蔵庫の奥に押し込んだ豆腐のようなもので、気づいたときには賞味期限が切れている。悪意の有無を確かめる前に「悪意あり」と断定する空気が生まれると、社会はあっという間に暴走する。

もっとも、韓国社会にしては今回は少し様子が違った。「コーヒーくらい好きに飲ませてくれ」「さすがに騒ぎすぎではないか」という声が、ネットや新聞に比較的早い段階から現れたのである。いつもなら“正義の怒り”が社会全体を覆い尽くし、異論は肩身の狭い思いをする。しかし今回は、その怒りに対して冷静なツッコミが入り、空気が一方的に固まる前にブレーキがかかった。砂漠に吹いた一瞬のそよ風のようなものだが、それでも風向きが変わるときは案外こんな小さなきっかけなのかもしれない。

こうした現象は歴史問題に限らない。社会がある価値観を絶対視し始めると、人々は事実を確かめるより先に「敵か味方か」を判定するようになる。すると意図の有無は二の次となり、「不快だ」「傷ついた」「疑わしい」という感情だけで制裁が正当化される。もちろん歴史への敬意は必要だが、敬意と決めつけは別物である。本来なら証拠によって判断すべきことが、空気によって裁かれるようになれば、社会は次第に息苦しくなる。これは空気清浄機ではどうにもならない種類の息苦しさで、日本の一部の領域にも同じ傾向が見られる。

人の振り見て我が振り直せ、である。日本でも、発言の一部だけを切り取り「本音が見えた」と決めつけたり、失言を理由に人格全体を断罪したり、意図を確認する前にSNSで集団的な非難が始まったりすることは珍しくない。悪意を探し出す誘惑はどの社会にも存在する。しかし健全な社会とは、悪人を見つけることに長けた社会ではなく、悪意の有無を慎重に見極める社会である。民主主義とはそのための仕組みであり、推測より事実、感情より証拠を優先するためにある。スタバ騒動が示したのは、まさにその単純だが忘れられがちな教訓であり、社会の成熟度は思い込みで人を悪人に仕立て上げない慎重さによって測られるということである。コーヒー一杯の騒動が、意外にもそんな大事なことを思い出させてくれる。