強制労働防止法と日本貿易 ― 2026年08月06日
最近のニュースを見ていると、どうにも「安さの魔力」というものが世界の仕組みをゆがめているように感じる。米国は新疆ウイグル自治区における強制労働への懸念から、ウイグル強制労働防止法(UFLPA)によって輸入管理を強化した。米国税関・国境警備局(CBP)によれば、2025年には強制労働の疑いがある貨物4,850件、総額約2,600億円相当が輸入審査の対象となった。これは単なる人権問題ではなく、国際的な供給網そのものを揺るがす規模である。遠い地域の問題が、気づけば日本企業の調達ラインのすぐそばまで迫っているのだから、世界はずいぶんと複雑だ。
問題は、この影響が米国市場だけの話ではないことである。日本企業も「最終製品は中国製ではない」と考えていても、部材や原材料の一部にリスクのある地域由来のものが含まれていれば、国際市場で問題になる可能性がある。現代の製造業は世界中の供給網で結ばれており、どこか一つの工程にリスクがあれば、完成品全体が疑われる時代だ。日本には米国のように強制労働を理由として輸入を制限する明確な制度がないため、企業は海外市場の規制を意識しながら自主的な対応を迫られている。まるで「校則はないが、先生の顔色を見て生徒が勝手に行動を制限する学校」のような状態である。人権リスクが指摘される関連品目群については、日本への輸入規模が年間1兆円を超えるとの試算もあり、無視できない規模になっている。
もちろん、商品の安さがすべて搾取によって生まれているわけではない。大量生産による効率化や技術革新によって低価格が実現している商品も多い。しかし、不適切な労働環境によって価格が押し下げられている商品が市場に流入すれば、適正なコストを負担する企業ほど不利になる。安さの裏側に見えない犠牲が隠れる構造は、歴史的にも繰り返されてきた問題である。大航海時代の砂糖や綿と同じで、消費者が「安いから」という理由だけで選び続ければ、搾取を利用した低価格競争は温存される可能性がある。だからこそ、日本が「適正な労働で作られた商品なら買います」と明確に立場を示すことは、国際市場の健全化に向けた一歩になる。
日本が目指すべきなのは、単純な中国排除ではない。日中の貿易総額は年間40兆円を超える規模に達しており、中国との経済関係を短期間で切り離すことは現実的ではない。しかし、過去にはレアアース輸出、食品検査、通関手続きなどをめぐり、政治的判断が経済活動に影響した例もあった。だからこそ、中国との関係を維持しながらも、東南アジア、インド、オーストラリアなどとの取引を広げ、供給網を多様化する必要がある。これは対立ではなく、経済安全保障のための分散であり、日本企業が「一国依存のリスク」から静かに距離を置くための現実的な選択肢である。
政府の役割は、企業に注意を求めるだけでは終わらない。サプライチェーン調査への支援、中小企業が対応できる制度整備、政府調達での透明性基準の導入など、責任ある取引を可能にする環境を整えることが求められる。目先の安さだけを追い求める時代は終わりを迎えつつある。これからの商品価値を決めるのは「いくら安いか」だけではなく、「どのような責任を持って作られたか」である。
安さの魔力に引きずられ、見えない犠牲の上に成り立つ価格を受け入れるのか。それとも、信頼と責任を新しい価値として育てるのか。日本が選ぶべき道は、安さだけを価値とする市場から、信頼そのものが価値となる市場へ移行し、正しいコストを負担した商品が正当に評価され、真面目なものづくりが報われる環境を作ることである。
問題は、この影響が米国市場だけの話ではないことである。日本企業も「最終製品は中国製ではない」と考えていても、部材や原材料の一部にリスクのある地域由来のものが含まれていれば、国際市場で問題になる可能性がある。現代の製造業は世界中の供給網で結ばれており、どこか一つの工程にリスクがあれば、完成品全体が疑われる時代だ。日本には米国のように強制労働を理由として輸入を制限する明確な制度がないため、企業は海外市場の規制を意識しながら自主的な対応を迫られている。まるで「校則はないが、先生の顔色を見て生徒が勝手に行動を制限する学校」のような状態である。人権リスクが指摘される関連品目群については、日本への輸入規模が年間1兆円を超えるとの試算もあり、無視できない規模になっている。
もちろん、商品の安さがすべて搾取によって生まれているわけではない。大量生産による効率化や技術革新によって低価格が実現している商品も多い。しかし、不適切な労働環境によって価格が押し下げられている商品が市場に流入すれば、適正なコストを負担する企業ほど不利になる。安さの裏側に見えない犠牲が隠れる構造は、歴史的にも繰り返されてきた問題である。大航海時代の砂糖や綿と同じで、消費者が「安いから」という理由だけで選び続ければ、搾取を利用した低価格競争は温存される可能性がある。だからこそ、日本が「適正な労働で作られた商品なら買います」と明確に立場を示すことは、国際市場の健全化に向けた一歩になる。
日本が目指すべきなのは、単純な中国排除ではない。日中の貿易総額は年間40兆円を超える規模に達しており、中国との経済関係を短期間で切り離すことは現実的ではない。しかし、過去にはレアアース輸出、食品検査、通関手続きなどをめぐり、政治的判断が経済活動に影響した例もあった。だからこそ、中国との関係を維持しながらも、東南アジア、インド、オーストラリアなどとの取引を広げ、供給網を多様化する必要がある。これは対立ではなく、経済安全保障のための分散であり、日本企業が「一国依存のリスク」から静かに距離を置くための現実的な選択肢である。
政府の役割は、企業に注意を求めるだけでは終わらない。サプライチェーン調査への支援、中小企業が対応できる制度整備、政府調達での透明性基準の導入など、責任ある取引を可能にする環境を整えることが求められる。目先の安さだけを追い求める時代は終わりを迎えつつある。これからの商品価値を決めるのは「いくら安いか」だけではなく、「どのような責任を持って作られたか」である。
安さの魔力に引きずられ、見えない犠牲の上に成り立つ価格を受け入れるのか。それとも、信頼と責任を新しい価値として育てるのか。日本が選ぶべき道は、安さだけを価値とする市場から、信頼そのものが価値となる市場へ移行し、正しいコストを負担した商品が正当に評価され、真面目なものづくりが報われる環境を作ることである。
コメ暴落と需要の蒸発 ― 2026年08月05日
コメが足りない足りないと大騒ぎしていたはずなのに、いざ蓋を開けてみれば市場にコメがダブついて価格が暴落すると言い出す。確かに今日の堂島コメ先物9月限は60kgで2万円を割り込んだ。まるで団子屋の店先で今日は売り切れ必至やと声を張り上げていた主人が、夕方になって棚に団子を山積みにしたまま固まっている、あの自作自演の悲劇そのものだ。需給というのは数字で語れば整然としているが、人間の欲と不安が混ざった瞬間、計算式はたちまちドロドロに溶けていく。年間の生産量が需要に追いつかず、実質二十万トン不足していたという事実までは誰もが納得した。しかしそこから人々は先に食っとけ、今のうちに買い占めろと一斉に走り出し、卸も小売も倉庫にコメを抱え込んで店頭価格を跳ね上げた。数字の不足を人間のパニックが増幅し、需給は自ら炎上したのである。
ところがここからが市場の皮肉であり、滑稽であり、哀れなところだ。値段があまりにも高くなりすぎたものだから、庶民は冗談じゃない今夜はパスタでええわ、朝はパンで済ませとこ、とお米から距離を置いた。外食チェーンも弁当屋も背に腹は代えられぬとライスの量を減らし、麺類メニューへ逃げ込む。国民一人が毎日お茶碗スプーン一杯分のご飯を減らし、企業が一斉に仕入れを絞る。これだけで一年で二十万トンもの需要が綺麗に蒸発してしまった。不足していた二十万トンは生産が増えて解消されたのではない。高値に腹を立てた消費者が買うのをやめたことで需給の帳尻が強引に合わされてしまったのだ。市場は自分で火をつけ、自分で煙に巻かれ、自分で窒息したのである。
さらに追い打ちをかけたのが民間在庫の雪崩である。高値で売り抜けようと倉庫に溜め込まれていた在庫が新米の時期を前にしてやばい売れ残ると一気に市場へ流れ出した。六月末の民間在庫は過去最大の二百四十三万トン。需給は一転してジャブジャブの過剰状態となった。団子屋の主人が足りんと焦って仕込みすぎ、客が値段に渋い顔をして帰ってしまい、夕方に売れ残りの山を前に立ち尽くすあの悲しい光景そのものである。人間の「儲けたい」という浅ましい算段が、見事に自分の足を引っ張った。
ならば政府が備蓄米として買い上げればいいと思うだろう。実際国の備蓄は適正量百万トンに対して三十二万トンまで減っていてスカスカだ。本来なら市場の様子を見ながら少しずつ買い進めて価格をソフトランディングさせるのが筋である。しかし農水省は動けない。今買い上げれば価格を吊り上げるのかと世論から叩かれ、放置すれば農家を見殺しにするのかと叩かれる。さらに会計法は年度内の一括処理を好み、食糧法は戦後統制の名残として市場介入の政治的リスクを極端に嫌う。制度そのものが細かい調整を許していない。団子屋なら今日は様子見て追加で仕込むかとできるのに、役所はドカンと一括入札しかできない不器用な仕組みなのだ。結果農水省は秋まで様子見と決め込んだ。市場が自爆している横で、司令塔はただ突っ立っているだけである。
誰もが自分の立場を守るための正当な行動をとった結果、誰もブレーキを踏めず自ら需要を壊して自滅していったコメ流通業界。そしてマクロの司令塔たる農水省は立ちすくむばかりである。足りない足りないと大騒ぎし、高値に跳ね上がって客に逃げられ、最後は余らせて投げ売りする。需給の数字は正確でも、人間の心理と制度の硬直がその数字をいとも簡単にひっくり返す。今回の騒動は、団子屋の裏口で繰り広げられるドタバタを巨大化したような、笑うしかない市場の自滅劇であり、私たちに市場というものの難しさを改めて教えてくれた。
ところがここからが市場の皮肉であり、滑稽であり、哀れなところだ。値段があまりにも高くなりすぎたものだから、庶民は冗談じゃない今夜はパスタでええわ、朝はパンで済ませとこ、とお米から距離を置いた。外食チェーンも弁当屋も背に腹は代えられぬとライスの量を減らし、麺類メニューへ逃げ込む。国民一人が毎日お茶碗スプーン一杯分のご飯を減らし、企業が一斉に仕入れを絞る。これだけで一年で二十万トンもの需要が綺麗に蒸発してしまった。不足していた二十万トンは生産が増えて解消されたのではない。高値に腹を立てた消費者が買うのをやめたことで需給の帳尻が強引に合わされてしまったのだ。市場は自分で火をつけ、自分で煙に巻かれ、自分で窒息したのである。
さらに追い打ちをかけたのが民間在庫の雪崩である。高値で売り抜けようと倉庫に溜め込まれていた在庫が新米の時期を前にしてやばい売れ残ると一気に市場へ流れ出した。六月末の民間在庫は過去最大の二百四十三万トン。需給は一転してジャブジャブの過剰状態となった。団子屋の主人が足りんと焦って仕込みすぎ、客が値段に渋い顔をして帰ってしまい、夕方に売れ残りの山を前に立ち尽くすあの悲しい光景そのものである。人間の「儲けたい」という浅ましい算段が、見事に自分の足を引っ張った。
ならば政府が備蓄米として買い上げればいいと思うだろう。実際国の備蓄は適正量百万トンに対して三十二万トンまで減っていてスカスカだ。本来なら市場の様子を見ながら少しずつ買い進めて価格をソフトランディングさせるのが筋である。しかし農水省は動けない。今買い上げれば価格を吊り上げるのかと世論から叩かれ、放置すれば農家を見殺しにするのかと叩かれる。さらに会計法は年度内の一括処理を好み、食糧法は戦後統制の名残として市場介入の政治的リスクを極端に嫌う。制度そのものが細かい調整を許していない。団子屋なら今日は様子見て追加で仕込むかとできるのに、役所はドカンと一括入札しかできない不器用な仕組みなのだ。結果農水省は秋まで様子見と決め込んだ。市場が自爆している横で、司令塔はただ突っ立っているだけである。
誰もが自分の立場を守るための正当な行動をとった結果、誰もブレーキを踏めず自ら需要を壊して自滅していったコメ流通業界。そしてマクロの司令塔たる農水省は立ちすくむばかりである。足りない足りないと大騒ぎし、高値に跳ね上がって客に逃げられ、最後は余らせて投げ売りする。需給の数字は正確でも、人間の心理と制度の硬直がその数字をいとも簡単にひっくり返す。今回の騒動は、団子屋の裏口で繰り広げられるドタバタを巨大化したような、笑うしかない市場の自滅劇であり、私たちに市場というものの難しさを改めて教えてくれた。
メイド・イン・チャイナ砂漠の戦い ― 2026年08月04日
セウタの事案からモロッコの現状をたどると、思いのほか複雑な地政学が浮かび上がる。アフリカの西の果て、西サハラ。地図の端っこにちょこんとある砂漠の領土争い──と聞くと、世界の片隅で続く地味なローカル紛争のように思える。ところがどっこい、砂の下には世界最大級のリン鉱石、沖には豊かな漁場。つまり、砂漠のくせに“おいしいところ”だけはしっかり持っている。そこへ米・欧・中・中東の欲望が、まるで夏祭りの屋台のようにずらりと並び、テクノロジーと利権がごちゃっと混ざり合った、現代のウラ地政学が展開しているのである。
まず、モロッコ。絶対王政の威信をかけて「西サハラは自国の領土だ」と譲らない。背後にはアメリカがどっしり構え、イスラエルとの国交正常化の“ご祝儀”として西サハラに対するモロッコの主権を承認した。外交面では強固な親米国家となった一方で、軍備の近代化は中国製の大型攻撃ドローン「翼竜」などを導入することで進み、砂漠には最新の無人機が飛び交うという奇妙な光景が広がっている。外交の後ろ盾はアメリカ、ハイテク兵器の仕入れ先は中国──という、米中対立の時代には本来ありえない“ねじれ構造”が砂の上にできあがっているのだ。砂漠にテクノロジーが乗ると、どうしてこうもシュールになるのか。
一方、旧宗主国スペインはというと、国内には独立支持の声も根強いものの、政府は移民問題と安全保障を前にモロッコとの協調へ大きく舵を切った。モロッコに逆らえば、国境にはたちまち“人間の波”が押し寄せる。西サハラ問題は領土紛争であると同時に、移民を外交カードとする現実政治でもある。理想論だけでは国境は守れない──冷蔵庫の容量も測らずに「ごちそうを作ります」と宣言するようなものだ。
そして、この隙間にぬるっと入り込んでくるのがイランだ。中東での影響力拡大を狙い、北アフリカにもネットワークを伸ばし、独立派勢力への無人機技術供与が指摘・報道されている。もちろん、その関与の実態には議論も残るが、イランの“遠隔でちょっかいを出す”癖が、この砂漠でも顔をのぞかせている。
しかし、この紛争をいちばん漫画みたいにしているのは中国である。モロッコ軍は中国製の大型攻撃ドローン「翼竜」を正規購入し、砂漠のゲリラを24時間監視し、空から制空権を握ってピンポイント攻撃を行う。一方で、イラン製無人機「シャヘド」を各国当局が分解・解析した結果、中国製の半導体や電源モジュール、通信部品などの民生用電子部品が多数確認されている。つまり、砂漠の上空では「中国製の軍事ドローン」が「中国製部品で動くドローン」を追いかけ回し、中国製のミサイルで撃墜するという、なんとも奇妙な“メイド・イン・チャイナの身内潰し”が繰り広げられているのだ。世界の工場は、とうとう戦場でまで一人二役を演じるようになった。
正義も思想も、巨大なサプライチェーンの利益の前では砂粒ほどの重さしかない。無人機が飛び交う西サハラは、資源、移民、安全保障、そして経済が複雑に絡み合う、二十一世紀の地政学を凝縮した縮図である。砂漠の風は今日も、世界の欲望の匂いを運んでくる。
まず、モロッコ。絶対王政の威信をかけて「西サハラは自国の領土だ」と譲らない。背後にはアメリカがどっしり構え、イスラエルとの国交正常化の“ご祝儀”として西サハラに対するモロッコの主権を承認した。外交面では強固な親米国家となった一方で、軍備の近代化は中国製の大型攻撃ドローン「翼竜」などを導入することで進み、砂漠には最新の無人機が飛び交うという奇妙な光景が広がっている。外交の後ろ盾はアメリカ、ハイテク兵器の仕入れ先は中国──という、米中対立の時代には本来ありえない“ねじれ構造”が砂の上にできあがっているのだ。砂漠にテクノロジーが乗ると、どうしてこうもシュールになるのか。
一方、旧宗主国スペインはというと、国内には独立支持の声も根強いものの、政府は移民問題と安全保障を前にモロッコとの協調へ大きく舵を切った。モロッコに逆らえば、国境にはたちまち“人間の波”が押し寄せる。西サハラ問題は領土紛争であると同時に、移民を外交カードとする現実政治でもある。理想論だけでは国境は守れない──冷蔵庫の容量も測らずに「ごちそうを作ります」と宣言するようなものだ。
そして、この隙間にぬるっと入り込んでくるのがイランだ。中東での影響力拡大を狙い、北アフリカにもネットワークを伸ばし、独立派勢力への無人機技術供与が指摘・報道されている。もちろん、その関与の実態には議論も残るが、イランの“遠隔でちょっかいを出す”癖が、この砂漠でも顔をのぞかせている。
しかし、この紛争をいちばん漫画みたいにしているのは中国である。モロッコ軍は中国製の大型攻撃ドローン「翼竜」を正規購入し、砂漠のゲリラを24時間監視し、空から制空権を握ってピンポイント攻撃を行う。一方で、イラン製無人機「シャヘド」を各国当局が分解・解析した結果、中国製の半導体や電源モジュール、通信部品などの民生用電子部品が多数確認されている。つまり、砂漠の上空では「中国製の軍事ドローン」が「中国製部品で動くドローン」を追いかけ回し、中国製のミサイルで撃墜するという、なんとも奇妙な“メイド・イン・チャイナの身内潰し”が繰り広げられているのだ。世界の工場は、とうとう戦場でまで一人二役を演じるようになった。
正義も思想も、巨大なサプライチェーンの利益の前では砂粒ほどの重さしかない。無人機が飛び交う西サハラは、資源、移民、安全保障、そして経済が複雑に絡み合う、二十一世紀の地政学を凝縮した縮図である。砂漠の風は今日も、世界の欲望の匂いを運んでくる。
セウタに治安部隊投入 ― 2026年08月03日
スペインの飛び地セウタで、モロッコなどからの不法移民が大量に流入した。背景には、左派政権が掲げた「人道」や「寛容」といった耳ざわりの良い理念と、制度的現実とのずれがあった。スペイン政府は近年、大規模な在留正規化や送還手続の見直しを進めてきたが、EU共通の移民・庇護制度との整合性や受け皿の容量が十分に整理されないまま、「スペインへ行けば受け入れられる」という期待が広がった。密航業者はそこに商機を見いだし、セウタやカナリア諸島には強い移民圧力がかかり、海を渡る途中で命を落とす人まで出る深刻な事態となった。
さらに今回の流入には、モロッコ政府の政治的思惑が重なった。スペインが、西サハラ独立派(事実上の反政府ゲリラ)の指導者を治療目的とはいえ保護する形で受け入れたことに対し、モロッコは強く反発した。自国の分離独立運動を支援されたと受け止めたモロッコは、抗議として国境警備を意図的に緩めたとされる。通常なら水際で止められるはずの人々が一気にセウタへ流れ込んだ背景には、スペインの制度的な隙だけでなく、隣国が移民を外交カードとして用いたという地政学的要因もあった。
圧力が限界を超えると、政権の対応は一変した。政府は領土保全と国境管理の重要性を強調し、治安部隊を大規模に投入して国境警備を強化し、不法入国者の送還も加速させた。それまで前面に掲げられていた「人道」の理念は、厳格な国境管理へと急速に軸足を移したのである。理念を掲げること自体は否定されるべきではない。しかし、制度的な受け皿を整えないまま理想だけを先行させれば、最後は強い公権力で現場を収拾するしかなくなる。冷蔵庫の容量も測らずに「ごちそうを作ります」と宣言し、台所をパンクさせるような無計画さである。
同じ構図は、約十年前のドイツでも見られた。メルケル政権はEU内で十分な調整が整わないまま多くの難民を受け入れ、自治体の能力を超える負担に直面した。EUはその後、トルコとの合意を通じて域外で流入を抑制する政策へ舵を切った。理念だけでは制度は回らず、現実との折り合いをつけざるを得なかったのである。今回も周辺国は自国への負担を警戒し、国境管理を強化した。EUは理念を共有する共同体である一方、危機になれば各国はまず自国の秩序を守ろうとする。その現実は美辞麗句だけでは語れない。
日本も、これを他人事として眺めてはいられない。世間受けの手柄だけを求め、管理の手間や社会の摩擦という泥臭い後始末を現場へ押し付ける政治は、結局、社会全体を疲弊させ、最も弱い立場の人々にしわ寄せを及ぼす。制度の容量を見極め、国境という境界を適切に管理し、法とルールを公平に運用すること。それは冷酷さではなく、持続可能な社会を支えるための最低限の責任である。セウタの教訓は、その当たり前の原則を否応なく突きつけている。
さらに今回の流入には、モロッコ政府の政治的思惑が重なった。スペインが、西サハラ独立派(事実上の反政府ゲリラ)の指導者を治療目的とはいえ保護する形で受け入れたことに対し、モロッコは強く反発した。自国の分離独立運動を支援されたと受け止めたモロッコは、抗議として国境警備を意図的に緩めたとされる。通常なら水際で止められるはずの人々が一気にセウタへ流れ込んだ背景には、スペインの制度的な隙だけでなく、隣国が移民を外交カードとして用いたという地政学的要因もあった。
圧力が限界を超えると、政権の対応は一変した。政府は領土保全と国境管理の重要性を強調し、治安部隊を大規模に投入して国境警備を強化し、不法入国者の送還も加速させた。それまで前面に掲げられていた「人道」の理念は、厳格な国境管理へと急速に軸足を移したのである。理念を掲げること自体は否定されるべきではない。しかし、制度的な受け皿を整えないまま理想だけを先行させれば、最後は強い公権力で現場を収拾するしかなくなる。冷蔵庫の容量も測らずに「ごちそうを作ります」と宣言し、台所をパンクさせるような無計画さである。
同じ構図は、約十年前のドイツでも見られた。メルケル政権はEU内で十分な調整が整わないまま多くの難民を受け入れ、自治体の能力を超える負担に直面した。EUはその後、トルコとの合意を通じて域外で流入を抑制する政策へ舵を切った。理念だけでは制度は回らず、現実との折り合いをつけざるを得なかったのである。今回も周辺国は自国への負担を警戒し、国境管理を強化した。EUは理念を共有する共同体である一方、危機になれば各国はまず自国の秩序を守ろうとする。その現実は美辞麗句だけでは語れない。
日本も、これを他人事として眺めてはいられない。世間受けの手柄だけを求め、管理の手間や社会の摩擦という泥臭い後始末を現場へ押し付ける政治は、結局、社会全体を疲弊させ、最も弱い立場の人々にしわ寄せを及ぼす。制度の容量を見極め、国境という境界を適切に管理し、法とルールを公平に運用すること。それは冷酷さではなく、持続可能な社会を支えるための最低限の責任である。セウタの教訓は、その当たり前の原則を否応なく突きつけている。
消費税減税と困った顔 ― 2026年08月02日
最近のニュースを眺めていると、胸のあたりがザラついてくる。東京都の小池都知事が「飲食料品の消費税率を下げると、都は年間1120億円の減収になる」と言い、しかもその数字を口にしながら“困った顔”をしてみせる。全国の首長も同じ顔つきでうなずいている。だが、財源とはそもそも誰の財布から出てきた金なのか。行政が自分のポケットマネーのように語り、困った顔まで添えてくるから、こちらは余計に気分が悪くなる。インフレで名目賃金が上がり、企業の売上や利益も増えた結果、住民税は728億円、地方消費税は363億円、法人二税は2065億円、固定資産税は682億円増えた。合計すれば約4000億円。税収は6%以上増えているのに、インフレ率は2%前後である。つまり、税収の伸びは物価上昇率を大きく上回る。名目所得や名目消費が増えれば、その分だけ課税ベースが名目値で押し上げられるからだ。この構造は自治体でも政府でも同じで、税収は物価より速いペースで増える。税収はインフレ率の2~3倍で伸びることが普通であり、3倍を超える局面も珍しくない。
しかも社会保険料も名目賃金に連動して増える。企業も従業員も、給与が上がればその分だけ保険料を追加で払う。つまり、インフレによる名目所得の増加は、家計の手取りをそのまま増やすわけではない。家計と企業は「税+保険料」の両方で負担が重くなっている。それなのに行政は「増収は社会保障費の自然増に使うので返せません」と言い、また困った顔をする。いや、社会保障費は税だけで賄っているわけではない。企業も従業員も保険料をしっかり払っている。インフレで負担が増えているのは行政ではなく、まず家計と企業である。だからこそ、名目増収6%のうち、減税で1〜2%分が減ったとしても、増収分の相当部分はなお残る計算になる。増えた分を返すという発想が、なぜ出てこないのか。
ところが行政は返さない。なぜか。補助金は行政の裁量で配れるが、減税は制度そのものを動かすため、行政の“裁量の余地”が減る。行政にとっては、補助金のほうが減税より扱いやすい。EVには気前よく1台130万円の補助を出し、HVにはびた一文払わない。脱炭素を掲げるのであれば、技術方式ではなく、実際のCO₂削減効果を基準に政策を評価すべきではないか。東京都はこれまでEV補助に累計数百億円規模を使っている。それなのに飲食料品の減税だけには「1120億円の減収になる」と困った顔で眉をひそめる。しかも下げようとしているのは、すでに5%を超えて値上がりしている食料品の消費税を7%下げるだけである。家計が感じる負担軽減は、数字が示すほど大きくない。それなのに行政の財布の心配だけは過剰にする。
メディアは今日も行政の財布ばかり心配している。「減税は財源が減る」と報じるが、そのとき家計の財布がどうなっているかはほとんど語られない。行政発表をそのまま記事にできる手軽さゆえに、行政の財布の論理がニュースのデフォルトになっている。この国は長く、「まず取る → 家計が苦しくなる → 消費が弱る → 補助金でばらまく → 財政が硬直化する」という“収奪バラマキ式”の政策構造を続けてきた。補助金に頼る企業や個人は自立できず、やがて体力を失う。取ってばらまく政治は、政治自身の改善力と成長力まで奪う。失われた30年はその帰結である。ばらまきは救済ではなく依存を育てる。本当に重要なのは、ばらまきの巧拙ではなく、「できるだけ取らない」「取り過ぎたらすぐ返す」という決断だ。税収が予算より大幅に上振れしているのに平然としている政治家は、家計の苦しさを見ていない。
本来の税の原則は単純だ。「ばらまくくらいなら、まず取るな」である。名目増収が出たら、その一部を家計に返す。返せば家計の可処分所得が回復し、消費を下支えする。税収を増やすために家計から取るのではなく、家計が豊かになった結果として税収が増える――その順序に戻すべきである。制度は名目成長による所得や消費の増加を一定程度自動的に税収へ取り込む仕組みになっているのだから、せめてその増えた分の一部くらいは家計に返し、経済の循環を正常化させるべきである。困った顔をする前に、まず取らない勇気こそ、長く続いた停滞を抜け出すための第一歩ではないだろうか。
しかも社会保険料も名目賃金に連動して増える。企業も従業員も、給与が上がればその分だけ保険料を追加で払う。つまり、インフレによる名目所得の増加は、家計の手取りをそのまま増やすわけではない。家計と企業は「税+保険料」の両方で負担が重くなっている。それなのに行政は「増収は社会保障費の自然増に使うので返せません」と言い、また困った顔をする。いや、社会保障費は税だけで賄っているわけではない。企業も従業員も保険料をしっかり払っている。インフレで負担が増えているのは行政ではなく、まず家計と企業である。だからこそ、名目増収6%のうち、減税で1〜2%分が減ったとしても、増収分の相当部分はなお残る計算になる。増えた分を返すという発想が、なぜ出てこないのか。
ところが行政は返さない。なぜか。補助金は行政の裁量で配れるが、減税は制度そのものを動かすため、行政の“裁量の余地”が減る。行政にとっては、補助金のほうが減税より扱いやすい。EVには気前よく1台130万円の補助を出し、HVにはびた一文払わない。脱炭素を掲げるのであれば、技術方式ではなく、実際のCO₂削減効果を基準に政策を評価すべきではないか。東京都はこれまでEV補助に累計数百億円規模を使っている。それなのに飲食料品の減税だけには「1120億円の減収になる」と困った顔で眉をひそめる。しかも下げようとしているのは、すでに5%を超えて値上がりしている食料品の消費税を7%下げるだけである。家計が感じる負担軽減は、数字が示すほど大きくない。それなのに行政の財布の心配だけは過剰にする。
メディアは今日も行政の財布ばかり心配している。「減税は財源が減る」と報じるが、そのとき家計の財布がどうなっているかはほとんど語られない。行政発表をそのまま記事にできる手軽さゆえに、行政の財布の論理がニュースのデフォルトになっている。この国は長く、「まず取る → 家計が苦しくなる → 消費が弱る → 補助金でばらまく → 財政が硬直化する」という“収奪バラマキ式”の政策構造を続けてきた。補助金に頼る企業や個人は自立できず、やがて体力を失う。取ってばらまく政治は、政治自身の改善力と成長力まで奪う。失われた30年はその帰結である。ばらまきは救済ではなく依存を育てる。本当に重要なのは、ばらまきの巧拙ではなく、「できるだけ取らない」「取り過ぎたらすぐ返す」という決断だ。税収が予算より大幅に上振れしているのに平然としている政治家は、家計の苦しさを見ていない。
本来の税の原則は単純だ。「ばらまくくらいなら、まず取るな」である。名目増収が出たら、その一部を家計に返す。返せば家計の可処分所得が回復し、消費を下支えする。税収を増やすために家計から取るのではなく、家計が豊かになった結果として税収が増える――その順序に戻すべきである。制度は名目成長による所得や消費の増加を一定程度自動的に税収へ取り込む仕組みになっているのだから、せめてその増えた分の一部くらいは家計に返し、経済の循環を正常化させるべきである。困った顔をする前に、まず取らない勇気こそ、長く続いた停滞を抜け出すための第一歩ではないだろうか。
皇位継承と女性皇族 ― 2026年07月31日
皇位継承の話になると、世間は「女性天皇? いいじゃないの、時代だし」と、まるで新作スイーツの話でもするように軽やかに言う。だが、この軽やかさには少し危ういところがある。現代社会の価値観と、皇統の継承という二千年スパンの制度を、同じ棚に並べて「交換できます」と札を立てているように見えるからだ。男女平等も個人の尊厳も大切である。しかし、それは現代社会を支える制度原理であって、皇統という長期制度とは別のレイヤーにある。ここをトレードオフにするから議論が団子の餡みたいにぐちゃっと混ざる。制度論で言えば、階層を取り違えているのである。
ここで、創業二百年の老舗団子屋を想像してみる。秘伝のタレは代々受け継いだ木桶で仕込み、「うちは昔からこのやり方なんだよ」と店主は胸を張る。もちろん現代ならレシピをデータ化し、ステンレスのタンクで衛生的に管理することもできる。しかし、長く続く店ほど「壊れていないものは、むやみに替えない」という知恵を大切にする。団子屋の話は、長く続く制度を考えるうえで意外な示唆を与えてくれる。昔の人は遺伝学など知る由もない。それでも「父から息子へ」という一本の線だけは守り続けた。すると現代になって、その流れが結果としてY染色体という生物学の父系継承と重なっていた。「なるほど、こういう仕組みだったのか」と、歴史が学問より先に答えへたどり着いていたようで、少し感心してしまう。知識が増えたことと、知恵が増えたことは、どうやら同じ意味ではないらしい。
もちろん、皇位継承は法律で定められる制度であり、Y染色体そのものが要件ではない。しかし、制度と父系継承が長い年月一致してきた事実には、それなりの重みがある。団子屋で言えば、秘伝の木桶を「古いから」という理由だけで捨てないのと同じである。ところが現代で女性天皇が即位し、その子が皇位を継げば、父系が皇統ではない以上、女系継承へ移行する。これは老舗が木桶を捨て、製法そのものを変えるようなもので、「時代だから変えよう」という一言で済む話ではない。長く続いてきた制度の基本構造を不可逆的に変更することになる。
さらに見落とされがちなのが、女性皇族や皇后の精神的負担である。団子屋でもよくある話だが、親戚は「跡取りはまだか」、常連は「いい人はいないのか」と悪気なく口を出す。本人は団子より静かな暮らしが欲しいだけなのに、老舗というだけで人生設計まで店の経営の一部のように扱われてしまう。皇族の場合、その重圧は比べものにならない。結婚するか、子どもを持つか、いつ持つか、それとも持たないか。本来なら誰にも干渉されるべきではない個人の自由が、制度の存続と結び付いてしまう。一方で、世論調査では「女性天皇に賛成」が半数を超えることも珍しくない。しかし、「女性天皇」と「女系天皇」の違いや、皇族の「結婚・出産の自由」まで理解した上での回答なのかは分からない。政治学では、こうした「深く考えていないけれど、なんとなく賛成」という状態をノンアテチュード(無態度)と呼ぶ。名前だけは立派だが、要するに「ええ、なんとなく」である。
今国会で成立した旧宮家男子を養子として皇族に迎える制度には大きな意味がある。それは男系継承を維持するためだけの仕組みではない。むしろ、女性皇族の人生に制度ができるだけ立ち入らないための仕組みでもある。団子屋で言えば、木桶は守る。しかし、娘の結婚や出産まで店の都合で決める必要はない、ということである。制度が個人に合わせるのであって、個人が制度に人生を合わせるのではない。もちろん、養子として迎えられた男子に負担が生じるのは確かだろう。しかし、その負担は皇后や女性天皇が背負わされる「意図しない重圧」とは性質が異なる。旧宮家という限定はあるが本人の意思と決意が前提になる点で、制度が個人の人生の深層にまで入り込む構造とは違う。
二千年以上動き続けてきた時計を修理するなら、歯車を一枚交換することはあっても、ムーブメントごと入れ替える人はいない。制度もまた同じである。現代社会の価値観と皇統継承という長期制度を安易にトレードオフにしない。その慎重さこそが、静かで安定した象徴天皇制を未来へ受け渡すために、いま最も大切な視点ではないだろうか。
ここで、創業二百年の老舗団子屋を想像してみる。秘伝のタレは代々受け継いだ木桶で仕込み、「うちは昔からこのやり方なんだよ」と店主は胸を張る。もちろん現代ならレシピをデータ化し、ステンレスのタンクで衛生的に管理することもできる。しかし、長く続く店ほど「壊れていないものは、むやみに替えない」という知恵を大切にする。団子屋の話は、長く続く制度を考えるうえで意外な示唆を与えてくれる。昔の人は遺伝学など知る由もない。それでも「父から息子へ」という一本の線だけは守り続けた。すると現代になって、その流れが結果としてY染色体という生物学の父系継承と重なっていた。「なるほど、こういう仕組みだったのか」と、歴史が学問より先に答えへたどり着いていたようで、少し感心してしまう。知識が増えたことと、知恵が増えたことは、どうやら同じ意味ではないらしい。
もちろん、皇位継承は法律で定められる制度であり、Y染色体そのものが要件ではない。しかし、制度と父系継承が長い年月一致してきた事実には、それなりの重みがある。団子屋で言えば、秘伝の木桶を「古いから」という理由だけで捨てないのと同じである。ところが現代で女性天皇が即位し、その子が皇位を継げば、父系が皇統ではない以上、女系継承へ移行する。これは老舗が木桶を捨て、製法そのものを変えるようなもので、「時代だから変えよう」という一言で済む話ではない。長く続いてきた制度の基本構造を不可逆的に変更することになる。
さらに見落とされがちなのが、女性皇族や皇后の精神的負担である。団子屋でもよくある話だが、親戚は「跡取りはまだか」、常連は「いい人はいないのか」と悪気なく口を出す。本人は団子より静かな暮らしが欲しいだけなのに、老舗というだけで人生設計まで店の経営の一部のように扱われてしまう。皇族の場合、その重圧は比べものにならない。結婚するか、子どもを持つか、いつ持つか、それとも持たないか。本来なら誰にも干渉されるべきではない個人の自由が、制度の存続と結び付いてしまう。一方で、世論調査では「女性天皇に賛成」が半数を超えることも珍しくない。しかし、「女性天皇」と「女系天皇」の違いや、皇族の「結婚・出産の自由」まで理解した上での回答なのかは分からない。政治学では、こうした「深く考えていないけれど、なんとなく賛成」という状態をノンアテチュード(無態度)と呼ぶ。名前だけは立派だが、要するに「ええ、なんとなく」である。
今国会で成立した旧宮家男子を養子として皇族に迎える制度には大きな意味がある。それは男系継承を維持するためだけの仕組みではない。むしろ、女性皇族の人生に制度ができるだけ立ち入らないための仕組みでもある。団子屋で言えば、木桶は守る。しかし、娘の結婚や出産まで店の都合で決める必要はない、ということである。制度が個人に合わせるのであって、個人が制度に人生を合わせるのではない。もちろん、養子として迎えられた男子に負担が生じるのは確かだろう。しかし、その負担は皇后や女性天皇が背負わされる「意図しない重圧」とは性質が異なる。旧宮家という限定はあるが本人の意思と決意が前提になる点で、制度が個人の人生の深層にまで入り込む構造とは違う。
二千年以上動き続けてきた時計を修理するなら、歯車を一枚交換することはあっても、ムーブメントごと入れ替える人はいない。制度もまた同じである。現代社会の価値観と皇統継承という長期制度を安易にトレードオフにしない。その慎重さこそが、静かで安定した象徴天皇制を未来へ受け渡すために、いま最も大切な視点ではないだろうか。
骨の折れない骨太方針を ― 2026年07月29日
先ごろメディアが報じたところによれば、文化輸出を看板に掲げた「クールジャパン機構」の累積損失が、ついに540億円へと膨れ上がったという。いやもう、数字だけは立派に育つものである。計画未達は三度目を数え、経済産業省もようやく有識者会合という“お茶濁し”を持ち出し、年内にも処遇を決めかねている有様だ。役所というのは、どうしてこう、熱いものを持たされるとすぐ指先だけでつまんで逃げようとするのか。こちらの肩まで力が抜けてしまう。
思えば官民ファンドの不振は今に始まった話ではない。23ある官民ファンドのうち過半が赤字を抱え、農林漁業向けファンドはすでに看板を下ろした。クールジャパン機構、ジャパンディスプレイ、Spiberへの投資を巡る議論を見ても、背景にある問題は驚くほど共通している。原因は決して一つではない。しかし、根底に横たわるのは目利きの甘さと、失敗を極度に忌避する役人体質である。これがまた、湿った雑巾のようにどこを触れても同じ匂いがする。制度の欠陥も政治の介入も、この二つを助長する構造にほかならない。国費が絡むがゆえに責任逃れが横行し、投資判断は腰が引けるかと思えば、政治の威光に押されて吟味もそこそこに巨額資金を投じる。まるで、濡れた新聞の折り目だけ読んで投資判断を下すような軽さである。その帰結が今日の官民ファンドの苦境であり、これでは民間を誘うどころか、税金による壮大な実験と笑われても返す言葉があるまい。
こうした反省を踏まえ、現政権が打ち出した骨太方針と成長戦略は、単年度予算主義や個別案件へのバラマキという旧来型の財政・産業政策からの決別を明確に示した点で、一定の革新性を帯びている。AI、半導体、コンテンツ産業など「戦略17分野」を対象に、官民合わせた投資誘発額として370兆円規模を見込む国家ポートフォリオ戦略を掲げ、個々の失敗を恐れず全体でリスクを分散・回収する発想への転換を図った。数字だけ見れば、巨大な福引の当選番号でも読み上げているかのような景気の良さである。さらに複数年度にわたる持続的な投資メカニズムを整え、中長期の視野で成長分野へ資金を投じようとする姿勢は、確かにパラダイムシフトと呼ぶに値する。
しかし、ここで根本的な問いを発せねばならない。果たして我が国政府に、その巨大なリスクマネーを差配する資格と知恵が本当に備わっているのか。海外の先進例──シンガポールのテマセクやイスラエルのヨズマ──を見れば、その違いは一目瞭然である。あちらは政治と投資判断を冷徹に切り離し、百戦錬磨のプロに大きな裁量を委ねる。十のうち九が潰れても、残る一つで全体を回収するという、割り切りの良さがまた見事である。翻って日本はどうか。硬直した個別法、単年度予算主義、そして民間リスクマネーを十分に育て切れていない金融制度──この制度的な三重苦が、成長資金の流れを細らせている。いくら17分野という華々しい数字を並べても、土台となる制度を改めない限り、その構想は絵に描いた餅どころか、描いたそばから湿気で紙がよれる危険性すらある。
必要なのは、バラマキ計画を積み増すことではない。官民ファンドの根拠法を大胆に見直し、政治から一定の距離を保ったガバナンスへ改めることであり、多様な民間資金が果敢に挑戦できるよう、金融制度を含めた法制度改革へ踏み込むことである。失敗を許容し、その代わり成功を最大限に生かす仕組みを築かなければ、第二、第三のクールジャパン機構は必ず生まれる。もし政権がこの難局を真に乗り越えようと欲するなら、組織の統廃合や耳ざわりの良い数字の羅列で茶を濁すのではなく、権限委譲と法制度改革という荒療治に踏み込むほか道はあるまい。さもなければ、この370兆円構想もまた、「令和版クールジャパン」として歴史に湿った笑いを残すのが関の山であろう。
思えば官民ファンドの不振は今に始まった話ではない。23ある官民ファンドのうち過半が赤字を抱え、農林漁業向けファンドはすでに看板を下ろした。クールジャパン機構、ジャパンディスプレイ、Spiberへの投資を巡る議論を見ても、背景にある問題は驚くほど共通している。原因は決して一つではない。しかし、根底に横たわるのは目利きの甘さと、失敗を極度に忌避する役人体質である。これがまた、湿った雑巾のようにどこを触れても同じ匂いがする。制度の欠陥も政治の介入も、この二つを助長する構造にほかならない。国費が絡むがゆえに責任逃れが横行し、投資判断は腰が引けるかと思えば、政治の威光に押されて吟味もそこそこに巨額資金を投じる。まるで、濡れた新聞の折り目だけ読んで投資判断を下すような軽さである。その帰結が今日の官民ファンドの苦境であり、これでは民間を誘うどころか、税金による壮大な実験と笑われても返す言葉があるまい。
こうした反省を踏まえ、現政権が打ち出した骨太方針と成長戦略は、単年度予算主義や個別案件へのバラマキという旧来型の財政・産業政策からの決別を明確に示した点で、一定の革新性を帯びている。AI、半導体、コンテンツ産業など「戦略17分野」を対象に、官民合わせた投資誘発額として370兆円規模を見込む国家ポートフォリオ戦略を掲げ、個々の失敗を恐れず全体でリスクを分散・回収する発想への転換を図った。数字だけ見れば、巨大な福引の当選番号でも読み上げているかのような景気の良さである。さらに複数年度にわたる持続的な投資メカニズムを整え、中長期の視野で成長分野へ資金を投じようとする姿勢は、確かにパラダイムシフトと呼ぶに値する。
しかし、ここで根本的な問いを発せねばならない。果たして我が国政府に、その巨大なリスクマネーを差配する資格と知恵が本当に備わっているのか。海外の先進例──シンガポールのテマセクやイスラエルのヨズマ──を見れば、その違いは一目瞭然である。あちらは政治と投資判断を冷徹に切り離し、百戦錬磨のプロに大きな裁量を委ねる。十のうち九が潰れても、残る一つで全体を回収するという、割り切りの良さがまた見事である。翻って日本はどうか。硬直した個別法、単年度予算主義、そして民間リスクマネーを十分に育て切れていない金融制度──この制度的な三重苦が、成長資金の流れを細らせている。いくら17分野という華々しい数字を並べても、土台となる制度を改めない限り、その構想は絵に描いた餅どころか、描いたそばから湿気で紙がよれる危険性すらある。
必要なのは、バラマキ計画を積み増すことではない。官民ファンドの根拠法を大胆に見直し、政治から一定の距離を保ったガバナンスへ改めることであり、多様な民間資金が果敢に挑戦できるよう、金融制度を含めた法制度改革へ踏み込むことである。失敗を許容し、その代わり成功を最大限に生かす仕組みを築かなければ、第二、第三のクールジャパン機構は必ず生まれる。もし政権がこの難局を真に乗り越えようと欲するなら、組織の統廃合や耳ざわりの良い数字の羅列で茶を濁すのではなく、権限委譲と法制度改革という荒療治に踏み込むほか道はあるまい。さもなければ、この370兆円構想もまた、「令和版クールジャパン」として歴史に湿った笑いを残すのが関の山であろう。
東京都EVに130万円補助 ― 2026年07月28日
政府に続いて東京都がEVやPHEVへの補助金を大幅に拡大した。EVには最大130万円、国のCEV補助金と合わせれば最大260万円にもなる。一方、HVは国も東京都も補助金はゼロである。脱炭素という旗は政治の世界で強い正当性を持つが、政策は旗を振れば自動的に前へ進む便利な機械ではない。問われるべきは「EVをどれだけ増やすか」ではなく、「いまの日本の電力事情の下で、どの技術をどの順番で導入するのが社会の利益になるか」という、やや地味だが本質的な問いである。
結論を言えば、2030年代から2040年頃までの移行期に日本が最も普及を促すべき技術はHVである。これはEVの未来を否定する話ではない。未来の技術はいつだって眩しく見えるが、眩しさと適時性は別物だ。政策とは、技術の成熟度と社会条件が交差する一点を見極める作業であり、そこを外せば「正しい技術を、誤った時期に導入する」という事態が起こる。自動車の環境性能は、車両単体の美点だけでは決まらない。EVは走行時に排出ガスを出さないが、その電気がどの発電によって生み出されているかを無視すれば、議論は机上の模型のように軽くなる。
日本では再生可能エネルギーは増えつつあるものの、火力発電がなお主役である。太陽光や風力には出力変動という癖があり、送電網の整備も追いつかない。東京都は充電設備補助を太陽光とPEVのセットで考えているが、多くのEVが夜間に充電する現実を踏まえれば、その効果は限定的である。昼間に太陽光が発電し、夜間にEVが充電するという時間のずれは、制度設計の意図と実際の利用行動がかみ合っていないことを示している。原子力は震災前の姿に戻らず、電力の低炭素化は道半ばだ。こうした電源事情を踏まえれば、EVの環境性能を最大限発揮できる舞台装置は、まだ組み上がっていないと言わざるを得ない。
さらにこれから日本ではAI、データセンター、半導体工場などが電力をどんどん食べる。電気は蛇口をひねれば無限に出てくる水ではない。限られた低炭素電力をどこに優先配分するかという議論なしに、自動車だけを急速に電動化するのは、政策の順序を取り違える危険がある。その点、HVは既存の燃料供給網を使いながら燃料消費を削減し、充電インフラを待つ必要もない。都市部にも地方にも対応し、確実なCO₂削減効果を生み出す「腰の強い技術」である。
もちろん、EVの技術革新を止める理由はない。電池性能の向上、価格低下、資源問題の改善、そして電源の低炭素化が進めば、EVが最も効率的な選択になる時代は訪れる。その段階に達したなら、補助政策をEV側へ転換すればよい。重要なのは技術の勝敗ではなく、社会条件に応じて適切な順番で導入することである。HVの普及期間はEVへの抵抗ではなく、次の時代へ向かうための助走期間なのだ。
本来、補助金とは単なる購入支援ではなく、社会の状態を国民に示す「情報」であるべきだ。毎年、電源構成や技術進歩を評価し、HV、PHEV、EVへの補助比率を調整すれば、その変化自体が日本のエネルギー政策の現在地を示す指標になる。また、車両重量による道路維持負担は重量税で反映すべきである。補助金は環境価値を、重量税は社会的コストを表す。制度を透明化すれば、国民は単なる得失ではなく、自らの選択が社会に与える影響を理解できる。
未来の車を選ぶ前に、未来の電気の作り方を考える。その順序を忘れた「脱炭素」政策は、目的地を見失った高速道路のようなものである。
結論を言えば、2030年代から2040年頃までの移行期に日本が最も普及を促すべき技術はHVである。これはEVの未来を否定する話ではない。未来の技術はいつだって眩しく見えるが、眩しさと適時性は別物だ。政策とは、技術の成熟度と社会条件が交差する一点を見極める作業であり、そこを外せば「正しい技術を、誤った時期に導入する」という事態が起こる。自動車の環境性能は、車両単体の美点だけでは決まらない。EVは走行時に排出ガスを出さないが、その電気がどの発電によって生み出されているかを無視すれば、議論は机上の模型のように軽くなる。
日本では再生可能エネルギーは増えつつあるものの、火力発電がなお主役である。太陽光や風力には出力変動という癖があり、送電網の整備も追いつかない。東京都は充電設備補助を太陽光とPEVのセットで考えているが、多くのEVが夜間に充電する現実を踏まえれば、その効果は限定的である。昼間に太陽光が発電し、夜間にEVが充電するという時間のずれは、制度設計の意図と実際の利用行動がかみ合っていないことを示している。原子力は震災前の姿に戻らず、電力の低炭素化は道半ばだ。こうした電源事情を踏まえれば、EVの環境性能を最大限発揮できる舞台装置は、まだ組み上がっていないと言わざるを得ない。
さらにこれから日本ではAI、データセンター、半導体工場などが電力をどんどん食べる。電気は蛇口をひねれば無限に出てくる水ではない。限られた低炭素電力をどこに優先配分するかという議論なしに、自動車だけを急速に電動化するのは、政策の順序を取り違える危険がある。その点、HVは既存の燃料供給網を使いながら燃料消費を削減し、充電インフラを待つ必要もない。都市部にも地方にも対応し、確実なCO₂削減効果を生み出す「腰の強い技術」である。
もちろん、EVの技術革新を止める理由はない。電池性能の向上、価格低下、資源問題の改善、そして電源の低炭素化が進めば、EVが最も効率的な選択になる時代は訪れる。その段階に達したなら、補助政策をEV側へ転換すればよい。重要なのは技術の勝敗ではなく、社会条件に応じて適切な順番で導入することである。HVの普及期間はEVへの抵抗ではなく、次の時代へ向かうための助走期間なのだ。
本来、補助金とは単なる購入支援ではなく、社会の状態を国民に示す「情報」であるべきだ。毎年、電源構成や技術進歩を評価し、HV、PHEV、EVへの補助比率を調整すれば、その変化自体が日本のエネルギー政策の現在地を示す指標になる。また、車両重量による道路維持負担は重量税で反映すべきである。補助金は環境価値を、重量税は社会的コストを表す。制度を透明化すれば、国民は単なる得失ではなく、自らの選択が社会に与える影響を理解できる。
未来の車を選ぶ前に、未来の電気の作り方を考える。その順序を忘れた「脱炭素」政策は、目的地を見失った高速道路のようなものである。
大阪気質と松川はん ― 2026年07月27日
副首都法案が成立し、大阪が制度的に「副首都」へ向けて動き出した直後、吉村知事が「住民投票と選挙は同日に実施する。行政コストを抑えるためにも合理的だ」と明言した。その直後に松川るい氏が「付帯決議を尊重すべきだ」と発言したのである。この流れが大阪の政治空間に投げ込まれた瞬間、多くの有権者には「いや、そこ今言うん?」という感覚が広がったのではないか。大阪の政治では、理念や形式だけでなく、「それで何が変わるんや」「結局いくらかかって、どんな得があるんや」という実利を見る目が強い。ここを読み違えると、政治家の評価は一気に厳しくなる。
選挙と住民投票を同日に行えば、投票所の設営費、人件費、印刷物などの行政コストを抑えることができる。だから大阪では、合理的であるなら同日実施を肯定的に受け止める傾向が強い。もちろん付帯決議には政治的な意味があり、国会の意思を示す文書として軽視すべきではない。しかし、それを尊重すべきだと主張するのであれば、「なぜ同日実施では問題なのか」「住民にどのようなメリットがあるのか」、さらに国会は同日実施を法的に禁止する法案を否決しているにもかかわらず、なぜ法的拘束力のない付帯決議を優先するのかまで説明する必要がある。そこが示されなければ、結局「それ、やったら何の得になるん?」という受け止め方になる。大阪では、主張の正しさだけでなく、実際の効果まで含めて判断されるのである。
この感覚は、かつての「エッフェル姉さん事件」とも重なる。自民党女性局のフランス研修をめぐり、視察のはずなのに楽しげな写真をSNSに投稿したことが批判の火種になった。松川氏は視察団の中心的な立場にあり、地元有権者からも「税金を使った活動として、それでええんか」という厳しい目を向けられた。問題だったのは海外視察そのものではない。税金を使う以上、目的や成果を示し、公費に対する自覚を伝えられるかどうかである。今回、行政コストを抑える目的で提案された同日実施に否定的な姿勢を示したことで、「あの時も税金の使い方が問われたのに、また効率より形式を優先するんか」という印象につながったのである。
松川氏は大阪育ちでありながら、安倍政権の落下傘候補として古い大阪自民のしがらみに縛られず、新しい立ち位置を示すこともできたはずである。しかし今回の発言は、大阪の気質や実利感覚への配慮を欠き、結果として過去の大阪自民が示してきた「反維新のための反維新」という姿勢と重なって見えた。大阪の政治では、単に反対するだけでは支持は広がらない。「ほんなら、どう良くするんや」という問いに答える必要がある。自民が存在感を高めるためには、維新を否定するのではなく、改革の不足部分を補う政策型の立ち位置を示すことが求められる。
副首都構想についても、自民が賛成しているのであれば、「大阪を良くするために一緒に進めましょう。そのうえで、ここは波風が立たんように“オチ”をつけて着地を考えましょ」という姿勢の方が有権者には伝わりやすい。大阪政治で評価されるのは、対立の大きさではなく成果である。行政を効率化する、税金を有効に使う、住民に分かりやすい結果を出す。そうした政治家が支持される。今回の騒動が示したのは、政治家の言葉は立派に聞こえるだけでは足りず、「それで大阪のためになるんか」という問いに答えられるかが重要だということである。大阪の政治は、最後には損得と成果で判断される。知らんけど。
選挙と住民投票を同日に行えば、投票所の設営費、人件費、印刷物などの行政コストを抑えることができる。だから大阪では、合理的であるなら同日実施を肯定的に受け止める傾向が強い。もちろん付帯決議には政治的な意味があり、国会の意思を示す文書として軽視すべきではない。しかし、それを尊重すべきだと主張するのであれば、「なぜ同日実施では問題なのか」「住民にどのようなメリットがあるのか」、さらに国会は同日実施を法的に禁止する法案を否決しているにもかかわらず、なぜ法的拘束力のない付帯決議を優先するのかまで説明する必要がある。そこが示されなければ、結局「それ、やったら何の得になるん?」という受け止め方になる。大阪では、主張の正しさだけでなく、実際の効果まで含めて判断されるのである。
この感覚は、かつての「エッフェル姉さん事件」とも重なる。自民党女性局のフランス研修をめぐり、視察のはずなのに楽しげな写真をSNSに投稿したことが批判の火種になった。松川氏は視察団の中心的な立場にあり、地元有権者からも「税金を使った活動として、それでええんか」という厳しい目を向けられた。問題だったのは海外視察そのものではない。税金を使う以上、目的や成果を示し、公費に対する自覚を伝えられるかどうかである。今回、行政コストを抑える目的で提案された同日実施に否定的な姿勢を示したことで、「あの時も税金の使い方が問われたのに、また効率より形式を優先するんか」という印象につながったのである。
松川氏は大阪育ちでありながら、安倍政権の落下傘候補として古い大阪自民のしがらみに縛られず、新しい立ち位置を示すこともできたはずである。しかし今回の発言は、大阪の気質や実利感覚への配慮を欠き、結果として過去の大阪自民が示してきた「反維新のための反維新」という姿勢と重なって見えた。大阪の政治では、単に反対するだけでは支持は広がらない。「ほんなら、どう良くするんや」という問いに答える必要がある。自民が存在感を高めるためには、維新を否定するのではなく、改革の不足部分を補う政策型の立ち位置を示すことが求められる。
副首都構想についても、自民が賛成しているのであれば、「大阪を良くするために一緒に進めましょう。そのうえで、ここは波風が立たんように“オチ”をつけて着地を考えましょ」という姿勢の方が有権者には伝わりやすい。大阪政治で評価されるのは、対立の大きさではなく成果である。行政を効率化する、税金を有効に使う、住民に分かりやすい結果を出す。そうした政治家が支持される。今回の騒動が示したのは、政治家の言葉は立派に聞こえるだけでは足りず、「それで大阪のためになるんか」という問いに答えられるかが重要だということである。大阪の政治は、最後には損得と成果で判断される。知らんけど。
国会「夏場所」の行方 ― 2026年07月25日
国会延長というのは、下手なお相撲さん同士が土俵に上がったときの、あの“どちらも決め手がないのに妙に長引く取り組み”にそっくりである。立ち合いからして曖昧で、押しているのか押されているのか、本人たちもよく分かっていない。しかも土俵の砂が妙に湿っている気がして、余計に足が流れる。だが与党国対だけは違う。まわしを深く取ったまま、じっと相手の呼吸を読んでいる。衆院で成立した法案は、参院が何もしなければ60日後の8月5日に自然成立する。さらに参院が否決しても、その日のうちに衆院で再可決できる。制度の物理法則が「粘れば勝ち」と教えてくれる。つまり与党は土俵際に見えても体勢は崩れていない。むしろ相手が疲れるのを待っているのである。
しかし、ここでひとつだけ“わずかな不確実性”が残る。委員会で思わぬ展開になる可能性がゼロではないという点だ。今回の委員会多数は賛成派がわずか3名差で上回っているだけで、体勢としては土俵際の綱を指先でつまんでいるようなものなのである。3名差といえば十分に多数のように聞こえるが、委員会という狭い土俵では、造反1名・欠席1名・突発的な体調不良1名で一気に形勢がひっくり返る。下手な力士が偶然相手の足を踏んでしまい、思わぬ転倒が起きるような場面に似ている。国会は人間の集合体だから、制度の上に“偶然”が乗る。与党国対はこの薄氷の優位が崩れ得ることをよく知っている。だからこそ延長カードをちらつかせながらも、委員会採決の段取りには異様なほど慎重だ。まわしを離さない。絶対に離さない。勝ち筋を理解している力士ほど、最後の最後まで油断しないのである。
一方、野党は土俵中央で押されながら「そろそろ土俵を割りたい」と思っている。夏の地元行事は待ってくれないし、支援者の顔も見たい。だが延長されれば帰れない。制度論では勝ち筋が乏しい。会期が延び、与党が多数を維持する限り、法案成立への流れは変わりにくい。しかも自然成立日は8月5日と決まっている。延長されれば、その日付に向けてただ押し出されるだけである。ここでチキンレースが成立する。与党は「委員会でのわずかなリスク」を恐れ、野党は「延長されれば制度上さらに不利になる」という現実を恐れる。両者が互いの恐怖を見つめ合い、下手な取り組みのように押し合いを続ける。だが勝敗を決める綱は、最初から野党の手には渡っていない。
ところが、この取り組みを見ている第三の登場人物――メディアは、なぜかこう書く。「野党、押している!」押していない。押していないどころか、制度論的には最初から体勢が悪い。まわしも浅いし、足も流れているし、延長されればさらに苦しい。それでも新聞は「野党、攻勢!」と書く。行司が「いや、これは耐えているだけで……」と言いたくなるような場面でも、メディアは“押している”と表現する。委員会否決の可能性が大きく残っているように描くこともあるが、現実にはその可能性は極めて小さい。ただ残っているように“見える”だけである。これが国会報道という見世物の、毎度おなじみのズレなのである。
そこで野党は「審議→委員会採決→参院本会議否決」という“形だけの三点セット”に向かう。制度論では成立阻止にはならないが、「反対した」という姿勢は示せる。技は決まっていないが、行司に「ただいまの決まり手は反対姿勢」と言ってもらえるような取り組みである。こうして国会延長の攻防は、制度論の物理法則と政党心理とメディア構造が絡み合い、下手な取り組みのように長引く。だが舞台裏では、勝ち筋を知り尽くした与党国対が、わずかなリスクを管理しつつ、時間を味方につけている。制度は歓声に耳を貸さない。最後に勝つのは、まわしを最後まで離さなかった力士なのである。
※24日19時ころ、同法案は参院沖縄・北方・地方特別委員会で与党側が最終的に野党の要求を大筋で受け入れ自民党と日本維新の会の賛成多数で可決され、22時ころ参院本会議で2票差で可決された。
しかし、ここでひとつだけ“わずかな不確実性”が残る。委員会で思わぬ展開になる可能性がゼロではないという点だ。今回の委員会多数は賛成派がわずか3名差で上回っているだけで、体勢としては土俵際の綱を指先でつまんでいるようなものなのである。3名差といえば十分に多数のように聞こえるが、委員会という狭い土俵では、造反1名・欠席1名・突発的な体調不良1名で一気に形勢がひっくり返る。下手な力士が偶然相手の足を踏んでしまい、思わぬ転倒が起きるような場面に似ている。国会は人間の集合体だから、制度の上に“偶然”が乗る。与党国対はこの薄氷の優位が崩れ得ることをよく知っている。だからこそ延長カードをちらつかせながらも、委員会採決の段取りには異様なほど慎重だ。まわしを離さない。絶対に離さない。勝ち筋を理解している力士ほど、最後の最後まで油断しないのである。
一方、野党は土俵中央で押されながら「そろそろ土俵を割りたい」と思っている。夏の地元行事は待ってくれないし、支援者の顔も見たい。だが延長されれば帰れない。制度論では勝ち筋が乏しい。会期が延び、与党が多数を維持する限り、法案成立への流れは変わりにくい。しかも自然成立日は8月5日と決まっている。延長されれば、その日付に向けてただ押し出されるだけである。ここでチキンレースが成立する。与党は「委員会でのわずかなリスク」を恐れ、野党は「延長されれば制度上さらに不利になる」という現実を恐れる。両者が互いの恐怖を見つめ合い、下手な取り組みのように押し合いを続ける。だが勝敗を決める綱は、最初から野党の手には渡っていない。
ところが、この取り組みを見ている第三の登場人物――メディアは、なぜかこう書く。「野党、押している!」押していない。押していないどころか、制度論的には最初から体勢が悪い。まわしも浅いし、足も流れているし、延長されればさらに苦しい。それでも新聞は「野党、攻勢!」と書く。行司が「いや、これは耐えているだけで……」と言いたくなるような場面でも、メディアは“押している”と表現する。委員会否決の可能性が大きく残っているように描くこともあるが、現実にはその可能性は極めて小さい。ただ残っているように“見える”だけである。これが国会報道という見世物の、毎度おなじみのズレなのである。
そこで野党は「審議→委員会採決→参院本会議否決」という“形だけの三点セット”に向かう。制度論では成立阻止にはならないが、「反対した」という姿勢は示せる。技は決まっていないが、行司に「ただいまの決まり手は反対姿勢」と言ってもらえるような取り組みである。こうして国会延長の攻防は、制度論の物理法則と政党心理とメディア構造が絡み合い、下手な取り組みのように長引く。だが舞台裏では、勝ち筋を知り尽くした与党国対が、わずかなリスクを管理しつつ、時間を味方につけている。制度は歓声に耳を貸さない。最後に勝つのは、まわしを最後まで離さなかった力士なのである。
※24日19時ころ、同法案は参院沖縄・北方・地方特別委員会で与党側が最終的に野党の要求を大筋で受け入れ自民党と日本維新の会の賛成多数で可決され、22時ころ参院本会議で2票差で可決された。