高齢者医療費「原則3割」へ2026年04月30日

高齢者医療費「原則3割」へ
財務省がまた「高齢者の医療費負担を増やすべきだ」と言い出した。ニュースでは、まるで「はい、もう決まりました」とでも言うような調子で読み上げる。こちらは朝の茶碗を手にしながら、「いや、それは厚労省のシマじゃないのか」とつぶやく。医療は厚労省、財政は財務省。普通なら味噌汁と漬物くらい役割が分かれているはずなのに、財務省は台所にまで入ってきて、鍋の味付けに口を出す。家計簿を握った夫が、台所に立つ妻へ「その米は一合でいい」と指図するようなものである。しかも財務省の言い分は、いつも驚くほど単純だ。「足りないから負担を増やします」

これだけなら官僚も議員もいらない。家計簿の赤字を見て「では食費を削ろう」と言うのと同じで、そこに知恵も工夫もない。必要なのは電卓と赤ペンだけである。本来、政策とは「どうすれば収入が増えるか」「どうすれば制度が回るか」を考えるためにある。それを「足りないから出せ」で済ませるのは、借金取りの論理そのままだ。

しかも、その“出せ”と言われている相手が高齢者である。高齢者の米びつは年金だ。その中身は、もともと多くない。ふたを開ければ、底のほうに心細く残った米粒が、ちょっとした風でも飛んでいきそうな量しかない。そこへさらに「負担増です」と手を突っ込まれたら、翌朝のご飯が炊けない。ご飯が炊けなければ体力は落ちる。体力が落ちれば外出も減る。外出が減れば地域の消費も細る。家計を削る話は、たいてい町全体を痩せさせる。

財務省は「医療費が増えているから」と言う。だが、高齢者の医療費が多いのは当たり前だ。年を取れば膝も腰も痛むし、血圧も上がる。これは自然現象であって、桜が春に咲くのと同じくらい当然のことである。それを理由に米びつを差し出させるのは、どうにも筋が悪い。

しかも健康保険の収支が苦しい本当の理由は、支出だけではなく収入の弱さにある。賃金が伸びない。若い加入者が減る。非正規雇用が増える。現役世代の懐が細れば、保険料収入も細る。ここを太らせない限り、どれだけ米びつを差し出させても、制度は立ち直らない。

いつも財務省は「若い人の負担は増やせない」とも言う。だがその言い分は、冷蔵庫に残ったわずかな卵焼きを前にして、「兄弟で分けろ。ただし兄は食べるな」 と指示する親のようなものだ。本来、弁当のおかずを増やすのが親の役目なのに、なぜか子ども同士を争わせる。若者と高齢者を向かい合わせにして、「どっちが我慢するか」を決めさせる。その構図が、どうにもえげつない。

結局のところ、財務省の負担増路線は、家計を立て直すために米びつそのものを売り払うような話だ。売ったその日は少し静かになる。だが翌朝の台所には、何も残らない。可処分所得を削れば消費は落ち、景気は弱り、保険料収入もまた細る。これでは財政再建どころか、土台から痩せていく。

守るべきは米びつであって、差し出すことではない。本当に必要なのは、高齢者からさらに取ることではなく、現役世代の稼ぐ力を取り戻すことだ。賃金が上がり、働く人が増え、保険料を払える人が増える。制度を支えるとは、本来そういうことである。

主婦年金と熱海の旅館2026年04月29日

主婦年金と熱海の旅館
年金制度というものは、気がつけば、まるで熱海の老舗旅館である。昭和の本館に平成の別館を継ぎ足し、さらに令和の新館まで無理やりドッキングした結果、廊下は曲がりくねり、階段は急で、どこが大浴場でどこが非常口なのか、案内板を三度見ても分からない。しかも、その案内板が少し黄ばんでいて、矢印が右を向いているのか左を向いているのかも判然としない。これが日本の年金制度である。

たとえば「第3号被保険者」。旅館でいえば、「お連れ様は無料でお風呂に入れます」という、たいへん気前のいいサービスに近い。しかも、そのお連れ様がどれだけ長湯しようが、タオルを何枚使おうが、宿のほうは終始にこやかである。ところが、これを公平にしようとして「では全員から入浴料をいただきます」とやると、今度は「うちは風呂に入らぬ主義でして」という人まで巻き込むことになる。制度というものは、一度ゆがんだ廊下を造ると、後から真っすぐに直すのが実に難しい。

しかも厄介なのは、経済成長を目指そうという時期に、家計の可処分所得を減らすような制度改正を、「公平です」と胸を張って差し出してくるところである。これは旅館の夕食で、刺身そのものは据え置きのまま、“ツマだけ増量しました”と言われるようなものだ。いや、そこではない。客が欲しいのは大根の千切りではなく、マグロである。

本当に公平を言うなら、やるべきことはもっと単純だ。完全個人単位の年金制度である。誰と結婚していようが、扶養だろうが別居だろうが、そんな事情は制度に持ち込まない。稼いだ人がその分だけ負担し、将来その分だけ受け取る。これ以上分かりやすい仕組みはない。所得比例にすれば、働けば働くほど手取りは増える。いまのように「130万円で止めると得です」という、まるで“食べ放題なのに途中で帰った方が元が取れる”ような妙な逆転現象も消える。

では、働かない配偶者はどうなるのか。そこは個人の選択である。働かない自由はある。ただし、制度上の“タダ乗り席”までは用意しない、というだけの話だ。もっとも、世帯収入が300万円を下回るような家庭まで突き放してはならない。そこは給付付き税額控除で下支えする。旅館でいえば、「お風呂は有料ですが、収入の少ないお客様には割引券を差し上げます」という話で、じつに筋が通っている。

つまり、完全個人年金と給付付き税額控除を組み合わせれば、公平性を確保しながら、家計にも財政にも無理な打撃を与えずに済む。しかも、多くの働く人の可処分所得は増える。経済成長にも追い風になる。旅館でいえば、迷路のような廊下をすべて取り払い、一本のまっすぐな通路にして、浴場も食堂も迷わず行けるように配置し直すようなものである。

公平を言うなら、刺身のツマを増やして満足していてはいけない。皿そのものを作り直すべきなのである。制度もまた料理と同じだ。盛り付けをいじるより、レシピから変えたほうが、話はずっと早い。

浮気の結果(イラン戦争)2026年04月26日

浮気の結果(イラン戦争)
旦那(イラン)が浮気(核濃縮)を始めたのは、もうずいぶん昔のことらしい。らしい、というのは、この手の話はだいたい最初がぼやけているからである。気がつくともうやっている。「ただの知り合い(平和利用)だよ」と言い張る顔つきが、もうすでに“ただの知り合い”ではない。台所で包丁を握っている妻(米国)が、じっと見ている。「本当に?」と一言だけ聞く。この一言が、だいたい効かない。旦那は「誤解だよ」と笑う。誤解で済む顔ではないのだが、本人はそのつもりらしい。

しかもこの旦那、癖が悪い。妻の友達(イスラエル)が大嫌いなのである。嫌いなら近づかなければいいのに、わざわざ近所をうろついては自分の子分(ハマス・ヒズボラ)にけしかけて石を投げさせる。投げる方もどうかしているが、受ける方も慣れているから始末が悪い。「また来たわよ」と友達から電話が入る。妻はため息をつく。旦那は「俺は悪くない」と言う。この手の「俺は悪くない」は、だいたい悪い。

町内会(国際社会)も事情はよく知っている。「あの家はなあ……」と回覧板のついでに噂になる。問題は、ただの夫婦げんかでは済まない点だ。旦那の浮気相手(核開発)はどうにも物騒で、どこの家の屋根に火の粉が飛ぶかわからない。だから誰も笑えない。犬も食わぬどころか、犬が真っ先に逃げ出す。

さて、昨年である。ついに妻の堪忍袋の緒が切れた。切れるとどうなるか。家中のタンスが開く。押し入れがひっくり返る。床下収納まで開く。そこへ友達を連れてくるのだから、これはもう大掃除ではなく家宅捜索である。旦那は「やめろ」と言うが、止まらない。茶碗は割れ、箪笥は軋み、床板は破壊され、近所は戸を閉める。

ところがである。ひっくり返したはずなのに、浮気相手は案外しぶとい。「ほぼ無傷だ」と友達が妻に言う。これを聞いた妻が黙っているわけがない。「まだ足りないのね」となる。追撃である。旦那は逆ギレする。ミサイルだのドローンだの、家庭内の道具ではないものを持ち出して、関係ないお隣に飛んでくる。玄関(ホルムズ海峡)にも物を積み上げ、「通るな」とやる。近所の商店は「商売あがったりだ」とぼやく。

三月半ばともなると、家の中はほとんど戦場である。怒号が飛び、家具が倒れ、話し合いという言葉がどこかへ行く。「証拠はある」「誤解だ」「いやある」「ない」。堂々巡りとはこのことである。近所は壁越しに聞きながら、「もう少し静かにできんのか」と思うが、巻き込まれるのが嫌なので黙っている。

そこで登場するのが、親戚のおじさん(パキスタン)だ。「まあまあ」と言いながら座敷を整える。座布団を並べ、湯気の立つ茶を用意する。この段取りの良さが、いかにもおじさんである。イスラマバードのホテルというのは、要するにそういう座敷だ。

四月。ようやく二人が座る。ここまではいい。実にいい。ところが箸を持ったところで、旦那が妙なことを言い出す。「お前、あの友達と付き合うな」「暴れたことも謝れ」。妻が箸を落とす音がする。これはいい音ではない。「なぜ私が?」と聞く。旦那は続ける。「他の友達とも距離を置け」。つまり、自分の浮気の話をしている最中に、妻の交友関係を制限しようとするのである。筋が通らない。通らないものは通らない。

妻は怒る。怒るとどうなるか。財布が閉まる。「あなたの仲間との付き合いも全部止めるわ」。資金は止まり、物資は止まり、道は細くなる。いわゆる兵糧攻めである。旦那は「なんで俺の財布が」と言うが、理由はさっき自分で作った。因果応報とはこういう形で来る。

せっかくの座敷はそのまま残る。茶は冷める。おじさんは肩をすくめる。「いつでも来なさい」と言うが、来ないものは来ない。四月二十四日、旦那側がようやく靴を揃えるが、妻が玄関に出てくるかどうかはわからない。夫婦げんかは続く。近所は回覧板を回しながら、「いっそ家ごと建て替えた方が早いんじゃないかね」と小声で言う。もっとも、その建て替えが一番難しいのも、この家の特徴なのである。

足りない騒ぎと共産主義モード2026年04月25日

足りない騒ぎと共産主義モード
新城市の日帰り温泉や砺波の焼却施設で「重油が入ってこない」というニュースを見た瞬間、なぜか台所の戸棚を開けてしまった。重油が入っているわけもないのに開けたくなるのは、コロナの時のマスクと同じだ。「足りない」という言葉が理屈を追い越し、自分の在庫を確認しないと気が済まない。今回の重油も、どうも同じ匂いがする。実際は鍋が空になったわけではなく、具が少し偏っているだけだ。原油は備蓄を含めて確保され、暖房需要も落ちる時期。医療などの優先順位が高いところには、きちんと回る。ところがニュースは「偏り」を語らない。「砺波で入らない」と聞けば、脳内で勝手に「入らない=全部ない=そのうち医療も危ない」と変換が始まる。冷蔵庫の隅で豆腐が一丁傷んでいるのを見て「全部ダメだ」と思い込むようなものだが、タンクの残量という「数字」を並べられると、鍋の底の小さな焦げが全体を焼き尽くす大火事に見えてくる。

不安は人を動かす。地元の議員には「センセー、油はどうなってるんです」と声が集まる。盆踊りの人数は把握していても、石油の流れまで追っていないセンセーは役所に駆け込み、役所は公平を期して一斉調査をかける。すると業者が「調査が入るなら、何か起きるぞ」と身構える。ここからは早い。仕入れは前倒し、在庫は積み増し、消費者も「今のうちに」と動き出す。自由に流れていたはずのものが急にぎくしゃくし始め、「誰かが配らないと危ない」という空気が生まれる。統制を求める声とお上への疑いが同時に膨らむ、いわば“共産主義モード”の完成である。

本来、流通は猫のようなもので、放っておけば勝手に歩き回り、勝手に収まる。ところが、みんなで囲んで「大丈夫か」と背中を叩き続ければ、猫は一目散に逃げ出すだろう。かつて「足りている」と言われた瞬間に棚が空になったのも、あの光景の焼き直しだ。石油の量は変わっていない。ただ、「入らない」の一言と「足りていますか」という問いかけが、全員に一斉に箸を持たせる。まだ具はあるのに、みんなで鍋をかき回し、そうしているうちに本当に中身が減っていく。

世の中の混乱は、大抵たいしたことのない焦げから始まる。そして厄介なのは、その焦げを広げるきっかけが、決まって「ここが焦げています」と教えてくれる親切な声のほうだということである。

東海林風再審制度見直し2026年04月24日

東海林風再審制度見直し
再審制度の見直しというから、もっと本格的な料理が出てくるのだと思っていた。ところが登場したのは巨大なフライパンを振り回し、「検察の抗告禁止コロッケでございます!」と張り切る料理パフォーマー議員である。照明はギラギラ、音はジャカジャカ、カメラは派手なパフォーマンスだけを映し出す。しかし、料理番組で最も大事な“具材”のジャガイモがどこにも見当たらない。

再審という料理は、証拠というジャガイモがなければ始まらない。ところが、そのジャガイモは厨房奥の“検察専用冷蔵庫”にしまい込まれ、冷蔵庫番が鍵を抱え込んで離さない。この冷蔵庫、扉を開ければ過去の調理で焦がした鍋の匂いが立ち上り、棚の奥には落としたまま拾わなかった食材や、見なかったことにした切れ端が転がっている。だから冷蔵庫番は必死だ。開けた瞬間、何が飛び出すか分からないらしい。

本来、再審の主役は「証拠開示」というジャガイモであり、これが出てこなければコロッケも肉じゃがも作れない。ところが法務省特製レシピは特売チラシの隅のような但し書きだらけで、「証拠は開示します(原則)。ただし再審理由に関係があると冷蔵庫番が判断したものに限ります(但し書き)。裁判所も十分には踏み込めません(さらに但し書き)。」という具合だ。これでは都合の悪いジャガイモは永遠に冷蔵庫の奥で眠ったまま。

それでもパフォーマンスは続く。「どうです、この抗告禁止の衣!」と空のフライパンを振られても、油の音だけが虚しく響く。衣(手続き)ばかり立派で、具(証拠)は冷蔵庫の奥でホコリをかぶったまま。具が腐っている可能性さえあるような気もする。

再審制度の改革とは、衣の揚げ方を議論することではない。料理を作るなら、まず冷蔵庫を開け、ジャガイモを全部出すことだ。つまり証拠を全部出せ、というだけの話である。中身のない衣だけのコロッケを差し出され「改革の味です」と言われても、こちらは頷く気になれない。私はただ、土のついた本物のジャガイモ――但し書きのない、まっとうな証拠――のコロッケを料理してほしいだけだ。

東海林風「軽油補助金」と談合2026年04月22日

東海林風「軽油補助金」とカルテル
軽油補助金と談合話を聞いていると、どうにも頭の中で江戸の町が立ち上がってくる。日本橋界隈の真ん中にどっしり構える油問屋、巨大な油樽がずらりと並び、油の匂いが鼻にまとわりつく。あれは匂いというより“油の気配”で、樽の前を通るだけで袖口がテカテカしてくる気がする。樽の木目がやけに艶っぽいのも気になる。あれは油が染みているのか、店主が毎朝磨いているのか。雑巾もきっとテカテカだ。現代でいえば元売りで、町の灯りの行灯や灯明、天ぷらの揚げ油とみんなこの樽頼みである。で、この油問屋の奥には、なぜか悪代官が“ふらりと”現れる。ふらりと来るくせに足音だけは妙に重い。「油問屋よ、例の“下々へのご自愛の金子”の沙汰じゃがな……」と袖の下の匂いを漂わせながら現れる。この“ふらり感”が実に胡乱で、しかも帳簿は奥の間のさらに奥、なぜか屏風の裏に立てかけてある。屏風の裏に帳簿を置く家なんて見たことがないが、江戸の“見せぬ文化”は現代の不透明さと妙に重なる。

一方、町場には商いが軒を連ねる。油屋の看板がずらりと並び、どの店もなぜか同じような字体で「油」と書いてある。あれは町内の書道の先生が指導しているのかもしれない。表向きは「うちは安いよ」と競い合っているように見えるが、日が暮れると店主たちがこそこそ集まり、「なあ、来月から一升あたり二文、揃えて上げようじゃありませんか」「師走は二文半でどうです」「値下げの折も足並み揃えませんか」と相談を始める。これが談合である。表では「いやあ、仕入れ値が高うございまして」と頭をかくが、その頭のかき方がまた妙に同じ角度で、見ていると“談合のクセ”が身体に染みついているように思えてくる。裏では“値寄せの寄り合い”。この裏の結束だけは江戸も現代も変わらない。町人は「油の値が揃いすぎてやしねえか」と首をひねるが、商いはどこ吹く風で、むしろ「揃ってるから安心でございましょ」みたいな顔をしている。いや、安心じゃない。

そこへ現れるのが奉行所。現代でいえば公取委だ。この奉行所、なかなか目が利く。町場の油売りどもが夜な夜な値を寄せ合っていたことまではきっちり嗅ぎつけ、「油売り一同、密々に値を取り決めておった証拠、奉行所にてしかと改めた。これよりお白州にて沙汰を申し付ける」と淡々と申し渡す。奉行所の役人は、なぜか皆、眉の角度が同じで、怒っていないのに怒っているように見える絶妙な角度だ。怒鳴らないが、言葉が妙に冷たい。こういう冷たさがいちばん効く。しかし、である。奉行所がいくら目を凝らしても、その奥にいる油問屋と悪代官の“屏風の裏の密談”まではどうにも手が届かない。屏風の裏というのは、どうしてこうも都合よく“見えない場所”として使われるのだろう。あそこにはたいてい猫が寝ているものだが、今回は帳簿が寝ている。猫より静かで、猫より質が悪い。

町人たちは困り果て、「金子はどこへ消えたんでい」「油の値は下がらず、むしろ上がってんじゃねえか」と嘆くが、油問屋の帳簿は屏風の裏、悪代官はふらりと現れては消え、商いは横並びで値を上げ、奉行所は町場までしか斬り込めない。こうしてみると今回の話は「油問屋と悪代官の屏風の裏」「町場の商い」「そこまでしか行けぬ奉行所」の三幕芝居になっている。そしてここまで来ると、江戸芝居を見慣れた町人としてはどうしても期待してしまうのだ。――そろそろ、ふすまがバァンと開き、片肌脱ぎの遠山の金さんが現れるんじゃないか、と。もろ肌脱いで「油問屋、悪代官、屏風の裏はこの桜吹雪がお見通しだぜい!」と啖呵を切る、あの場面を。だが現実は芝居ほど気が利いていない。ふすまは、いつまで経っても開かない。それでも人は、あの桜吹雪を一度くらい見たくなる。そう思わせるほど、この構図は江戸の町と、いやに似ているのである。

東海林風イス・レバ停戦2026年04月19日

レバノン・イスラエル停戦
今回のレバノン=イスラエル停戦というのは、長年ぐつぐつ煮えていた大鍋のシチューを、とりあえず火から少し離したようなものらしい。吹きこぼれは止まったが、鍋底には黒焦げの層が地層のように積み重なり、スプーンでこそげ落とそうとすると鍋が「やめてくれよ」と悲鳴を上げそうだ。まあ、まずは火が弱まっただけでもありがたい。そんな停戦であるらしい。そもそも南レバノンという場所は、昔から国家の手が届きにくい“冷蔵庫の奥のタッパー”みたいなところで、気づけば賞味期限の切れた煮物、謎の漬物、誰が入れたか分からない茶色い液体が眠っている、あの開けた瞬間に鼻が曲がる感じだ。オスマン帝国の頃からシーア派住民は冷遇され、フランス委任統治期には国境線がまるでサンドイッチの具のように適当に挟まれ、独立後の宗派配分制では完全に端っこ扱い。つまり、冷蔵庫の奥のタッパーとなり、蓋も外れて悪臭を放っていたわけだ。

そこへ、ヨルダンで大喧嘩を起こして追い出されたPLOという“巨大鍋の残り物”が、熱々のままレバノンに押し込まれた。冷蔵庫は狭いのに、いきなり巨大鍋がドンと入ってきたのだから、そりゃあ中は大混乱だ。PLOは隅っこで治外法権状態の南レバノンで勝手に唐辛子を刻み始め、イスラエルに向かって辛味をぶん投げる。イスラエルは怒って鍋をひっくり返しに来る。レバノン政府は「まあ、そのうち味が落ち着くでしょ」と冷蔵庫を閉めるだけ。台所全体が無法地帯になった。そして、この混乱の匂いを真っ先に嗅ぎつけたのが、遠く離れた“料理大国イラン”である。地理的には従妹、又従弟の先ぐらい遠いのに、なぜか台所の匂いだけは敏感に嗅ぎつける。しかもこの料理大国、ただの料理人ではない。「イスラエルの鍋は焦がして捨てるべきだ」という、やたら物騒な料理哲学を抱えたスパイス至上主義国家だ。

イランは巨大な鍋つかみとスパイス袋を抱えて登場し、「あらまあ、この台所はひどいわね」と勝手に鍋をかき回し始める。ヒズボラという“出張料理人チーム”まで送り込み、冷蔵庫の奥のタッパーを洗い、鍋の焦げを落とし、台所を仕切り、壊れた家を直し、病院や学校という味噌汁まで作り始める。だが、このチームの料理の最終目的が「イスラエルの鍋をひっくり返すこと」なので、やたらとスパイスが辛い。辛いどころか、火薬みたいな香りがする。ヒズボラのミサイル庫など、まるで“唐辛子の樽”を積み上げたようなものだ。大家のレバノンとしては迷惑この上ないが、大家というのは一度住み込まれてしまうと立場が弱い。何せ向こうは唐辛子を大量に抱えたならず者料理人だ。せいぜい「ご近所に迷惑なんで、もう少し静かにしてくれませんか」程度しか言えないらしい。

イスラエルから見れば、これは完全に「隣の家の台所に、遠くの親戚が勝手に入り込み、しかも鍋を爆発させようとしている」状態である。イスラエルはイスラエルで、鍋のフタを押さえ、火加減を調整し、時にはイランの料理人が持ち込んだ“怪しいスパイス瓶”を叩き落とす。どちらも「自分の台所を守っている」つもりなのだ。こうして南レバノンは、「国家の不在」「外部勢力の介入」「イランの暴走スパイス哲学」という三つの具材が、鍋の中でぐちゃぐちゃに混ざり合ったシチューのような、ややこしい地域になってしまった。今回の停戦は、その鍋の火をとりあえず弱め、吹きこぼれを止めたようなものだ。静かになったのは確かだし、台所の人々もホッとした。しかし、鍋底の焦げはそのまま。冷蔵庫の奥のタッパーもまだ怪しい。レバノン政府が本気で片づけをしない限り、またいつ騒ぎが起きてもおかしくない。

それでも今回の停戦は、「まずは火を弱めた」「まずは台所を静かにした」という意味で、大きな一歩だ。焦げもタッパーも一度に全部は片づかない。まずは息をつく時間ができた――その価値は、決して小さくない。

消費税0%議論の欺瞞2026年04月16日

消費税0%議論の欺瞞
食料品消費税0%――国民生活を救うはずの政策が、いまや官庁・業界・政治の“三者同調”によって、意図的に出口の見えない迷路へ押し込められている。物価高で家計が限界に達しているにもかかわらず、政府は「国民のため」と繰り返しながら、実務の場ではレジメーカーの「0%対応には1年を要する」という説明を、まるで“免罪符”のように掲げ、実施先送りの口実にしている。だが、この「1年必要論」の中身を見てみると、話は驚くほど単純だ。いまのレジや会計システムは、「商品の価格に何%の税金をかけるか」を前提に作られている。そのため、税率が0%になると、「そもそも税金をかけない」という扱いになり、普段とは違う特別な処理が必要になる。それだけの違いである。

一方、税率が1%であれば仕組みは変わらない。これまでの軽減税率と同じやり方で処理できるため、大がかりな改修は不要だ。レシートの表示や返品時の計算も、いまの仕組みの延長で対応できる。つまり問題の本質は、技術の難しさではなく、「例外的な処理を増やしたくない」という都合に過ぎない。ここから導かれる答えは明快だ。0%にこだわって1年待つのではなく、半年で実現できる1%に切り替え、その代わり減税期間を24カ月から26カ月へ延ばせばよい。これだけで導入は前倒しされ、家計への支援は早く届き、総減税の効果もほぼ変わらない。理想にこだわって時間を失うより、現実に動く仕組みで早く効かせる方が合理的である。

では、なぜこれほど単純な解決策が議論に上らないのか。理由は難しくない。関係者それぞれに「遅らせるほど得をする事情」があるからだ。財務当局は税収の減少を一度に受けることを避けたい。業界は改修の負担を理由に補助金の拡大を引き出せる。政治は「調整」を名目に時間を確保できる。こうして、「急がない方が都合がいい」という空気が、自然と共有されていく。さらに見逃せないのが、政策の“すり替え”である。減税が難しいとなれば、代わりに給付や税額控除へと議論が移る。しかし、税額控除は年に1回の精算が基本で、日々の買い物で負担が軽くなったと実感しにくい。給付も一時的には助けになるが、継続的に支出を下支えする効果は弱い。レジで支払うたびに負担が軽くなる消費減税とは、効き方そのものが違う。

にもかかわらず、議論は「財源か、技術か」といった分かりやすい対立に押し込められ、本来問うべき「どの方法が最も早く生活を楽にするのか」という視点は置き去りにされている。ゼロか100かという極端な議論にすり替えられ、現実的な中間案は表に出てこない。必要なのは、理念の正しさを競うことではない。どれだけ早く、確実に生活を支えられるかという視点だ。半年で動く1%、そして26カ月の減税期間――それで十分である。それを示さない、あるいは示せないことこそ、この国の政策決定に横たわる“見えない合意”を物語っている。

ナフサ不足と医療パニック2026年04月15日

ナフサ不足と医療パニック
ナフサ不足が医療現場を直撃する――そんな不穏な見出しを、TBSが躍らせたのは、ホルムズ海峡封鎖の懸念で世間がざわつき始めた矢先のことだった。点滴パックに手袋、注射器、果ては医薬品の包装材まで、「ナフサ由来のプラスチックは総崩れ」と一括り。歯科クリニックでは手袋が足りない、透析が滞れば命に関わる――識者コメントを積み上げ、「6月には詰む」とまで言い切る。ここまで来れば、もはや“医療崩壊カウントダウン”の演出である。だが、話はそう単純ではない。透析回路や点滴バッグといった基幹医療資材の多くは国内メーカーが国内工場で生産している。医療グレードの樹脂は供給が優先される傾向にあり、建材のように数週間で在庫が尽きる類のものではない。一方で、ジェネリック医薬品の包装材や安価なディスポ手袋、さらには樹脂サッシや防水シート、給水パイプといった建築資材は事情が違う。中国やベトナムの中小企業に依存したサプライチェーンは脆く、ナフサ価格の高騰や現地の生産停滞の影響をまともに受ける。現に国内では、部材不足を理由に住宅メーカーが生産停止や工期遅延に追い込まれている。

要するに、「国産医療品」と「輸入下流品」は、同じ“ナフサ由来”でもまるで別物なのだ。にもかかわらず、TBSはそれらを一緒くたにした。その結果、「医療品が6月に底をつく」という印象だけが独り歩きした。危機を伝えるつもりが、危機を“作ってしまった”と言われても仕方あるまい。

では、政府はどうか。高市早苗首相は4月5日、Xで即座に反論した。輸入ナフサと国内精製で約2カ月分、さらに川中製品の在庫を含めれば計4カ月分。「6月に供給が途絶する」との見方を一蹴し、中東以外からの調達拡大で半年以上の余裕も見込めると説明した。数字を並べ、不安を打ち消す――いかにも“数字で安心させた気になる”政府らしい応じ方である。だが、この説明もまた、どこかピントがずれている。語られているのは、あくまでナフサや中間製品といった“上流”の話に過ぎない。現場を揺るがしているのは、むしろ中国や東南アジアに依存した“下流”の製品群だ。医療資材に限らず、建築資材や包装材といった生活インフラの末端部分で供給のほころびが生じているにもかかわらず、政府の説明は「必要量は確保」「流通の目詰まり解消」といった総論に終始する。これでは、現場の実感と噛み合うはずがない。

本来、示すべきはシンプルな構図だったはずだ。生命維持に直結する国産医療資材は比較的安定している。一方で、輸入依存の高い下流製品は国際サプライチェーンの影響を受けやすい――その違いを明確にしたうえで、どこにリスクがあり、どう手当てするのかを具体的に語る。それだけで、不安の質は大きく変わっただろう。

結局のところ、TBSは危機を盛り、政府は安心を盛った。だが、国民が欲しかったのは、そのどちらでもない。どこが大丈夫で、どこが危ういのか――ただそれだけの、分解された事実である。ナフサ不足が浮き彫りにしたのは資源の問題ではない。情報の扱い方そのものだ。構造を見ずに語れば、危機は簡単に増幅され、同時に見えなくもなる。――それでもなお、同じ語り口は繰り返されるのだろう。

ミサイル防空の限界2026年04月09日

ミサイル防空の限界
米国・イスラエルとイランの緊張が続く中、湾岸諸国がウクライナ製の迎撃ドローン導入に踏み切った事実は、現代戦の構造変化を端的に示している。イラン製「シャヘド」は一機5万ドル前後という安価さで、低空・低速というミサイル防空の死角を突き、サウジやUAEの防空網を揺さぶり続けてきた。対するパトリオットは一発400万〜1200万ドル。実に80〜240倍のコスト差で消耗戦を挑まれれば、いかに高性能な防空網であっても持続は困難だ。実際、米軍は湾岸で数百発規模の迎撃を強いられ、在庫逼迫が報じられた。高額兵器体系が安価な無人機に食い潰される構図は、もはや皮肉ではなく必然である。被害は数字以上に深刻だ。2019年のアブカイク石油施設攻撃ではサウジの石油生産が一時半減した。以降もアブダビの石油施設などで火災が相次いでいる。いずれも低空侵入する無人機が防空網を突破した事例であり、ミサイル防空が万能ではないことを世界に突きつけた。

この構造的限界に対し、実戦で解を示したのがウクライナである。ロシアが一晩に数百機規模のシャヘドを投入する中、ウクライナは簡素な設計と分散生産を前提とした迎撃ドローン体系を構築した。単価を数千ドルに抑え、同価格帯で撃ち落とすという「非対称性の逆転」を現実のものとしたのだ。湾岸諸国が技術共有に動いたのは当然と言える。レーザーや電子戦も開発は進むが、出力や天候の制約から広域展開には限界がある。レーザーが「点の防御」にとどまるのに対し、面に分散して飛来する低速目標へ対処するには、現時点で迎撃ドローンが唯一の現実的な解である。

そしてこの変化は、日本にとって最も重くのしかかる。日本の防空はPAC-3やイージス艦に象徴される高速ミサイル迎撃に偏重し、低空・低速・安価な無人機への備えは極めて脆弱だ。三方向を中・露・北に囲まれ、多様な無人機脅威に晒される日本にとって、この空白は致命的である。沿岸にインフラが密集する地理条件は、むしろ低空侵入を容易にする。にもかかわらず、制度は現実に追いついていない。航空法は人口集中地区での飛行を制限し、自衛隊法は小型無人機対処を明確な任務として位置づけていない。武器使用基準も都市上空での運用を想定外としている。装備・運用・法制度のすべてがドローン時代から取り残されている。日本は決して丸腰ではないが、無人機に対してのみ丸腰に等しい――この最も危険な中間状態にある。

湾岸諸国の決断は、ミサイル防空の限界を直視した結果だ。対照的に日本は、その限界を認識しながらも制度改正を先送りしてきた。中東の炎上は遠い出来事ではなく、日本の脆弱性を映す鏡である。政府や国会は目先の石油価格に一喜一憂している場合ではない。原油備蓄基地や原子力発電所が標的となれば、国家の根幹が揺らぐ。もはや「ミサイルを置くかどうか」という旧来の論点にとどまる余裕はない。ミサイル防空の限界を直視し、迎撃ドローンを含む多層的な防空レイヤーを制度として整備することは、国家存立のための不可欠な前提条件である。