備蓄米は「いつもの21万トン」 ― 2026年10月03日

備蓄米と「いつもの21万トン」
備蓄米というのは、いざというときのために取っておく米である。非常食の缶詰と同じで、多ければ安心、少なければ不安になる。これは難しい経済学ではなく、家庭の米びつでも同じ話だ。ところが政府の備蓄米は、米不足対策で約59万トン放出された結果、在庫が約32万トンまで減った。政府自身が「100万トン程度が必要」と言っているのだから、計算上は68万トンほど足りないことになる。米びつの底が見えているのに、「まだ入っています」と言われても、見る側としては少々落ち着かない。

そこで補充である。当然、「どれくらい買うのだろう」と思う。ところが農水省が買い戻す予定は21万トンだという。ここで算数の時間になる。68万トン足りなくて21万トン買う。先生なら「途中式を書きなさい」と言いそうである。もちろん役所にも理由はある。毎年20万トンほど買い、5年かけて入れ替える仕組みだから、まずは例年通りということらしい。しかし今回は、備蓄が三分の一まで減っている。台風で屋根が吹き飛んだ家に、「今年も瓦を二十枚持ってきました」と言われたような気分になる。まず飛んだ枚数を数えたくなるではないか。

しかも話はさらにややこしい。昨年までは米が足りないと言っていたのに、今度は民間在庫が大量に積み上がり、売り先を心配する声が上がっている。全国の米どころの知事や業界からは、政府にもっと買い上げてほしいという要望も出ている。不足すると大騒ぎ、余るとまた大騒ぎ。米というものは実に忙しい。儲かると思って抱え込んだ結果なら、身から出た錆と言われても仕方がないが、それでも「何とかしてほしい」と言っているのだから、政府が60万トン程度買い上げても罰が当たる話には見えない。

そもそも政府は、業者救済のために買うのではない。「100万トンは必要だ」と自分で決めたから買うのである。足りない備蓄を元に戻した結果として業者が助かるなら、それは副作用にすぎない。火事を消したら隣家まで助かってしまった、という程度の話だろう。むしろ気になるのは、100万トンが必要だと言いながら、その100万トンへいつ戻すのかがよく見えないことである。1年で戻すのか、3年なのか、5年なのか。その説明がないまま数字だけ21万トンと言われると、どうも釈然としない。

農水省という大きな役所があり、人もいて資料もあって会議もある。食糧部会まである。それだけの人が考えた末に出てきた数字が「いつもの21万トン」なのである。もちろん、深い理由があるのかもしれない。ただ、その理由が見えない。米びつが空に近づいたら、まず不足分を計算して買い足す。普通の家庭では簡単な作業なのだが、どうも役所になると話はずいぶん複雑になるらしいのである。ちゃんと説明しないからいつまでたっても農水省はポンコツ役所と言われてしまう。

作ってほしいのは笑顔よりコメ ― 2026年09月22日

作ってほしいのは簗農水大臣の笑顔よりコメ
農林水産大臣が交代した。引き継ぎ式では前大臣が新大臣に「メディアの前ではなるべく笑顔で」と助言し、新大臣も「意識して笑顔を作ります」と応じたという。なるほど、笑顔も大切だろう。しかし国民が知りたいのは大臣の口角の角度ではなく、コメ政策の中身である。令和の米騒動ではコメが足りなくなり、価格は高騰し、スーパーの棚から消えた。ところが今は景色が一変した。古米在庫が積み上がり、価格は下落している。銘柄や流通経路によっては新米より古米の方が高いという、なかなか理解に苦しむ。朝獲れのアジより昨日のアジが高い魚屋のようなものである。経営が成り立つわけがない。

そんな状況で迎えた新大臣の就任会見である。国民が聞きたいのは「なぜこうなったのか」「何を改めるのか」という説明だ。しかし示されたのは「需要に応じた生産」「備蓄の回復」「適正価格」といった聞き慣れた言葉ばかりである。前の会議でも聞いた気がするし、その前の会議でも聞いた気がする。農林水産省の会議室に額へ入れて飾ってあっても不思議ではない。まるでお寺の奥にずっとかかっている掛け軸である。特に不思議なのは数量の問題だ。備蓄米については21万トンの買戻しが示された。しかし備蓄水準を回復するというなら、最終的に何万トン備蓄するのか。残りをいつまでに、どれだけ調達するのか。そこが見えてこない。「健康のために運動しましょう」と言われて、体重何キロを目標にするのか分からないようなものである。米は気合いでも笑顔でも増えない。目標を上げなければ増えないのである。

さらに会見では「適正価格」という言葉が何度も登場する。適正価格とは何だろう。5キロ2500円なのか、3000円なのか、3500円なのか。そもそも市場価格は大臣が決めるものではない。天候、需要、生産量、在庫の変化によって動く。大臣が朝起きて「今日は2980円でいこう」と決意しても、その通りにはならない。もしその通りになるなら、先物市場がなくなってもおかしくない。価格は願望ではなく結果だからである。本来問われるべきなのは、価格そのものではなく供給力だ。何万トン作れるのか。何万トン増やせるのか。なぜ足りなくなり、なぜ今度は余るのか。ところが報道も会見も価格の話ばかりで、生産量の話になると急に霧がかかる。温度計の数字だけ眺めて、暖房機やエアコンの話をしないのである。

どうも話は値段だけでは済まないらしい。今回の混乱の原因は、供給能力と需給調整の問題ではなかったか。なぜ価格上昇という市場シグナルが出ても増産が進まなかったのか。なぜ農家は作りたくても作れないのか。なぜ担い手が減り、農地集約が進まず、農業所得が不安定なのか。本来はそこを議論すべきである。しかし会見では備蓄と価格の話が目立ち、生産性向上や所得保障、規制改革について、どのような数値目標と実行計画を持つのかは見えてこない。火事が起きたのに家の構造はそのままで、消火器の補充だけ相談しているようなものだ。しかも火事の原因については、みんなが何となく視線を外している。「需要に応じた生産」という言葉への反省も感じられない。役所が需要を予測し、供給を誘導する仕組みに限界があることを、今回の混乱は示したはずである。

もちろん農業には時間がかかる。田んぼは工場ではない。昨日までテレビを作っていたラインで、今日は冷蔵庫を作るわけにはいかない。価格が上がったからといって、来週から田んぼが二倍に広がるわけでもない。だからこそ平時から生産性を高め、農地と担い手を確保し、供給力を強化しておく必要がある。ところが日本の農政は、役所が需要を予測し、供給を誘導し、そのうえ価格にも配慮する方向からなかなか離れられない。予測が外れると、不足から過剰へ、過剰から不足へと振り子のように揺れる。去年は「ないない」と騒ぎ、今年は「余った余った」と困っている。コメ不足を心配していたら、今度は古米の山を心配しているのだから、農政というものはなかなか忙しい。結局、就任会見で最も具体的だったのは笑顔だった。備蓄は「回復する」。価格は「適正にする」。生産は「需要に応じる」。しかし笑顔だけは「作る」と断言した。分かったことは一つである。笑顔は変わるらしい。しかし、行き詰まった農政をどう変えるのかは最後までよく分からなかった。国民が聞きたいのは口角の角度ではない。コメを何万トン作れるようにするのかである。笑顔については具体策が示された。だが収穫量については、まだよく分からないのである。そして誰にもわからない需要変化を今後も予測するということだ。

知事ら「もっと買い戻せ」 ― 2026年09月04日

山形知事「もっとコメを買い戻せ」
コメどころの知事たちが県庁の会見室で、「もっと買い戻してほしい」と声を張り上げている。ニュースは米価下落、概算金4割減、農家の嘆きを伝え、さらに民間在庫243万トンという数字を添える。読者は「そんなに米が余っているのか」と思わず茶碗を置く。しかし読み終えると胸に“モヤモヤ”が残る。炊きたてのご飯に小石が一粒まぎれ込んだような違和感である。その正体は、「もっと買え」という知事の要求だけでは、なぜ米価がこれほど乱高下するのか、その構造にまったく届いていないことだ。

現行の政府備蓄制度は100万トンを確保し、年間20万トンほどを入れ替える仕組みである。ところが2023年度には40万トンを超える需給ギャップが生じた。40万トンの振れ幅がある市場に、20万トンのローテーションで挑むのは、お茶碗一杯のご飯で大盛りの腹を満たそうとするようなものだ。制度の器が小さすぎるのである。しかも問題は備蓄量だけではない。需給の「許容ゾーン」そのものが狭く、少し不作になれば価格が跳ね上がり、増産すれば今度は余剰感で価格が沈む。まるで振り子が左右にブンブン振れ続けているような市場である。この振り子を抑えるには、備蓄とともに平時から一定の増産余力を確保し、需給の幅そのものを広げる必要がある。

そこで必要なのは、備蓄米を非常時の倉庫ではなく市場安定装置へと格上げする発想である。政府を市場の外に置くのではなく、平時から大口の市場参加者として位置づけ、価格が下落すれば買い入れ、上昇すれば放出する。ただし買い入れや放出の条件を細かくルール化してはならない。平時に必要なのは「年間にどれだけ備蓄するか」という単一のルールだけである。市場には大口のアンカーが不可欠であり、政府がその役割を担えば市場はその存在を前提に形成される。価格の上下は当然起きるが、それはビジネスとして割り切ることで生産性向上の原動力となる。

大きな買い手が一人いるだけで市場の性格が一変するのは、米市場も例外ではない。所得補償は他国のように別枠で行えばよく、現状でもならし制度や保険によって制度加入者には過去5年間の平均所得の9割が保障される仕組みがある。したがって「価格が暴落すれば明日にでも廃業」という報道は煽り過ぎであり、実際には大きな変動は大口アンカーとして政府が平時から市場に参加することで抑制できる。これこそが市場を機能させるための最低条件である。

一方で、民間在庫243万トンの問題も避けて通れない。在庫が膨らんだ背景には、生産量と消費量の関係、集荷、販売、流通などの問題がある。JAだけでなく、県の生産誘導や農業政策も無関係ではない。それなのに「国はもっと買い戻せ」という議論だけに終始すれば、なぜ民間在庫がここまで積み上がったのかという本質が見えなくなる。農家の声を聴けと言いながら、農家の経営を揺らす需給構造には触れない。消費者の声を聴けと言いながら、価格が振れやすい狭い需給ゾーンにも目を向けない。これでは「国だけを悪者にしていないか」と感じても不思議ではない。米袋の陰で誰がどれだけ積んでいるのか、その影が見えないままなのだ。

だから本当に農家と消費者の声を聴くなら、知事が言うべきは「もっと買え」ではなく「米の需給構造と備蓄制度を改革せよ」である。備蓄規模を見直し、政府を市場の大口参加者として位置づけ、買い占め売り惜しみをある程度抑止できるようにする。同時に、需給の許容ゾーンを広げるため、平時から一定の増産余力を確保する必要がある。40万トンを超える需給変動が起こり得る市場で、100万トンを5年で回す現在の制度だけで十分と言えるのか。制度は昭和のままどころか、中身は古古古米である。問題は「もっと買え」ではない。政府が市場の外に立ち、供給余力も狭いまま放置されている制度そのものを改めよ、という点にある。そこまで踏み込んでこそ、胸に残ったモヤモヤは晴れ、朝ごはんを気持ちよくいただけるのである。

「シカ」し法律がない鹿駆除 ― 2026年09月03日

山肌いっぱいにシカの大群
南アルプス上空を飛んだヘリから、山肌いっぱいにシカの大群が見えた。二児山北側のササ草原に、ざっと見ても500頭。まるで高山植物バイキングの行列である。高山植物は食われ、土壌は露出し、山は痩せていく。だが捕獲は難しい。登山しないと現場に行けず、資材の搬入も搬出も困難。シカは人の手が届かない高地に逃げ込み、積雪減少で越冬まで可能になった。温暖化の影響もあるだろうが、それだけでは説明できない規模で山が食べ尽くされている。

ふもとの町ではクマが生ゴミをあさったと騒がれるが、原因を生ゴミだけに求めるのは早計である。山そのものが壊れているからだ。クマは基本的に単独で行動し、木の実を拾い、冬眠し、ひとりで山を歩く「孤高の山の住人」である。一方、シカは群れで山を食い尽くす。団体旅行どころか団体食事会である。クマが「どんぐりの前菜はまだかな」と待っているうちに、シカはどんぐりを生む木の芽や樹皮まで食べてしまう。厨房そのものを食べてしまうようなもので、仕入れを全部食べ尽くす勢いである。これではクマは山で食事ができず、人里へ降りてくるしかなくなる。

行政は「生ゴミを片付けましょう」と呼びかける。しかし、それだけでは問題の半分しか見ていない。人里でクマを呼び寄せる原因を取り除くことは必要だが、山の食料を奪っているシカを放置すれば、問題は繰り返される。シカは繁殖力が高く、個体数を減らすには年間を通じた強い捕獲圧が必要だが、高山帯では民間ハンターが入ること自体が危険である。資材の運搬も、捕獲個体の搬出も難しい。行政職員が大集団で高山に入り、長期間活動することも現実的ではない。最も深刻な場所ほど、現在の捕獲体制から取り残されている。

そこで考えるべきなのが、自衛隊の高山行動能力である。消防や警察にも山岳救助の能力はあるが、救助と、高山帯に大規模な人員を投入し、装備や資材を運び、組織的に作業を続けることは別の能力である。自衛隊は厳しい環境での集団行動、野営、補給、ヘリ輸送を訓練している。人の手が届きにくい高山帯を「組織として継続的に管理する」ためには、その能力を活用する余地が大きい。

海外でも、ヘリを使った野生動物管理に軍や準軍事組織が関わる例はある。軍が野生動物駆除を本来任務としているからではなく、山岳地帯で大規模な人員を動かし、航空輸送と補給を組み合わせて活動できる能力を持つからである。同じ問題は日本にもある。

しかし日本では制度上の壁がある。自衛隊の任務に野生動物の捕獲は含まれず、災害対策制度も「ゆっくり進む生態系災害」を想定していない。山が裸になり、植生が失われ、クマが人里に降りてくるなら、それは鳥獣被害ではなく山の崩壊である。山も村も街も危機に陥ることが分かっているのに、「シカ」し法律がない前例がないなどと「クマ」っている場合ではなかろう。必要なのは、山そのものを守る新しい仕組みである。

東海林風うまいコメが喰いたい ― 2026年04月20日

東海林風うまいコメが喰いたい
スーパーの米売り場というのは、どうしてああ、いつも静かなんだろう。肉売り場はジュワジュワ、魚売り場はピチピチ、総菜売り場はガヤガヤしているのに、米売り場だけは妙に落ち着いている。袋がドンと積まれて、こちらを見ている。「わたしら、そんなに騒ぐほどのことじゃありませんよ」とでも言いたげだ。ところが最近、その静かな米売り場の外側で、業界とメディアが大騒ぎしている。「米価が下がった!」「在庫が増えた!」「大変だ!」まるで米袋が倉庫で泣き叫んでいるかのような報道ぶりである。しかし売り場の米袋たちは、どこ吹く風である。

特にブランド米。コシヒカリ、あきたこまち。この2つは売り場の真ん中で、どっしり腕組みしているような風格だ。値札を見ると、5キロ4000円台。平年の倍近い値段でも、眉ひとつ動かさない。「値下がり? ああ、あれはブレンド米の話でしょ」と、どっこい知らん顔である。一方、ブレンド米。こちらは売り場の手前で、ヤケクソ気味に値札をぶら下げている。「3000円割れたぞー」「特売だぞー」と、もってけドロボー風の声が聞こえてきそうだ。味も香りも控えめで、値段も下がりやすい。ちょっと需給が緩むと、すぐに値崩れしてしまう。「わたしら、代わりはいくらでもいますから……」とでも言っているようで、なんだか健気でもある。

しかし、ここで問題なのは、メディアがこの「2種類の米」をひとまとめにして報じてしまうことだ。「在庫が増えた」「米価が下がった」——いや、それはブレンド米の話であって、ブランド米はどっこい知らん顔である。そもそも米価というのは、在庫で決まるのではない。需要より供給が多ければ下がり、供給より重要が多ければ上がる。在庫はその「結果」であって「原因」ではない。ところがニュースは、在庫を原因のように扱う。「在庫が増えたから値下がりした」——いやいや、逆である。供給が多いから在庫が増え、値段が下がるのだ。

ブランド米は味が違う。香りが違う。粘りが違う。だから需要が減らない。だから値段も下がらない。だから在庫も増えない。だから業界がどれだけ騒いでも、知らん顔である。そして、ここで私は叫びたくなる。「わしは安いコシヒカリの熱々ご飯が欲しいのだ!」湯気の立つ白いご飯を、茶碗にこんもりよそって、そこに梅干しを1つ置いて、「うむ、これぞ日本の朝だ」と言いたい。しかし現実はどうだ。ブランド米は4000円台で仁王立ち。値下がりの気配など、どこにもない。

さらに言えば、「ブランド米をもっと植え付ければいいじゃないか」と思うのだが、これができない。なぜなら、もう苗床ができてしまっているからだ。米というのは、2〜3月に苗を作り、4〜5月に田植えをする。つまり、今さら「ブランド米を増やせ」と言っても、もう遅い。今年の供給はすでに決まっている。増やしたくても増やせない。この「供給の硬直性」こそが、ブランド米の値段を支えている。

米売り場を歩いていると、ブレンド米が「わたし、値下げしました……」としょんぼりしている横で、ブランド米が「人生塞翁が馬」とでも言いたげな顔をしている。同じ米袋なのに、こうも態度が違うのかと感心してしまう。結局のところ、今回の「米価下落騒動」は、「米が下がった」のではなく、「ブレンド米が下がった」だけの話である。ブランド米はどっこい知らん顔で、4000円近辺にどっしり腰を据えている。そして、在庫ばかりを報じて需給メカニズムを説明しないメディアこそ、この騒動のいちばんの「混乱の元凶」なのだ。

東海林さだお追悼と太陽光発電 ― 2026年04月18日

東海林さだお追悼と太陽光発電
東海林さだおさんが亡くなった。若いころ、仕事でくたびれた頭をふっと軽くしてくれる一服の清涼水であり、夜、布団に入ってから読むとそのまま眠りに落ちてしまう安眠枕でもあった。世間では『あさって君』が高く評価されているが、私にとっては、あのエッセーと挿絵の「丸かじりシリーズ」こそ最強だった。惜しい、残念、無念――どれだけ言葉を並べても足りない。しばらくブログの文体を東海林風にアレンジして、ささやかな追悼の意を表したい。

まずは太陽光発電をおかずにしたい。「太陽光は正義である」と言い切る人が増えてきた。こちらは何もしていないのに、なぜか少しだけ後ろめたい気分にさせられる。学級委員長というのは、昔からそういう力を持っている。給食の牛乳を飲み残すと「骨が弱くなる」と言ってくるタイプである。こちらとしては牛乳より揚げパンの油のほうが気になっていたのだが、そういう話は聞いてくれない。

太陽の光で電気をつくる。たいへん結構である。煙も出ないし、音も静かだ。パネルの黒光りなんか、妙に“働き者の背中”みたいで、ちょっと頼もしい。あれを見ていると、休日でも会社に来て書類を整理していそうな雰囲気がある。ところがである。その“やさしさ”がどういう仕組みで成り立っているのかと考えはじめると、話が少々込み入ってくる。だいたい、やさしいものというのは裏で苦労している。豆腐だって、あれだけ柔らかいのに、作るのは案外手間がかかる。

山野を覆い尽くしたメガソーラーは地球に優しいのだろうか。木を切る。土が出る。雨が降ると、その土が流れる。これはまあ、見れば分かる話である。川が濁るのも、見れば分かる。問題はその先である。森の土や落ち葉というのは、ただのゴミではなくて、どうやら栄養らしい。それが川を下り、海に届く。海では植物プランクトンがそれを使って増える。ここまでは理科の時間に聞いたような気もする。あの頃はプランクトンと聞くと給食のわかめスープを思い出したものだが、どうも関係はないらしい。だが、わかめはわかめで、あれはあれで独自に頑張っている。

そのプランクトン、何をしているかというと、CO₂を取り込んでいる。CO₂は水に溶けると少し酸っぱくなる性質がある。つまり海は、空気中のCO₂が増えると、じわじわと酸っぱくなっていく。これを酸性化というらしい。最近よく聞く話である。そこでプランクトンの出番である。増えればCO₂を取り込む。減れば取り込まない。当たり前といえば当たり前だが、この当たり前がどうも効いてくる。山が変わり、海に届くものが変わると、このプランクトンの働きも少し変わるらしい。プランクトンも材料が届かないと腹が減って仕事ができないのだ。料理番組で材料が揃っていないときの、あの気まずさに似ている。

結果としてどうなるか。海はもともとCO₂で少しずつ酸っぱくなっている。その流れは止まらない。そこへCO₂を取り込む側の力が弱くなると、どうなるか。これはまあ、強い者が弱くなる話ではなく、弱い者がさらに弱くなる話である。踏ん張りが効かなくなる、と言ったほうが早いかもしれない。梅干しを食べたあとに水を飲むと、余計に酸っぱく感じる、あの感じである。海も「ちょっと待って」と言いたいだろう。

では砂漠ならどうか。「何もないから大丈夫」と言われる。しかし何もないようで、どうもいろいろあるらしい。踏むと怒られそうなものが、うっすらと表面を覆っている。生物被膜というらしい。名前だけ聞くと、冷蔵庫の奥に貼りついている謎の膜みたいだが、実際は砂漠の大事な“皮膚”である。そこへ重機が入る。これを「何もないところの活用」と言い切るには、やや勇気がいる。砂漠のほうも「いや、あるよ」と言いたいに違いない。

結局のところ、太陽光発電そのものが悪いわけではない。屋根の上にちょこんと載せる分には、たいへん具合がよろしい。文句を言う理由が見当たらない。漬物を漬けたり梅酒を造ったりするのと同じ延長線上の「自家製」として捉え、「自分の家で電気が作れる」という“ベランダ太陽光発電所”を開設するのに、目くじらを立てる気はさらさらない。だが山を丸ごと使うとなると、話は別である。どうも最近は、CO₂という科目だけで通知表をつけているようで、それが満点なら他は見ない、という採点法になっているらしい。体育も図工も家庭科も、全部「まあいいや」で済ませるタイプである。

しかし世の中、そう単純でもない。山と海はつながっていて、その間にいるものも、いろいろ仕事をしている。みんな黙って働いているのだ。学級委員長には一度、バッジを外して、山の土を手に取ってみていただきたい。見た目はただの土である。だがどうも、あれがいなくなると、海のほうまで少し困るらしいのである。土というのは、見た目よりずっと働き者なのだ。

備蓄米の買い戻しで米価高 ― 2026年02月17日

備蓄米の買い戻しで米価高
時事通信が「政府備蓄米の買い戻しが米価を押し上げる恐れ」と報じた。備蓄が適正水準を割り込み、農水省が対応に苦慮しているという構図だ。しかし、この報道は本質を外している。問題は買い戻しそのものではない。日本のコメ需給が、すでに構造的に逼迫している点にある。主食用米の需要は、直近の需給見通しで697万〜711万トン程度とされている。長期的には人口減少や食生活の変化を背景に減少傾向と説明されてきたが、足元では訪日客需要の増加などもあり下げ止まりの動きがみられ、従来想定より高い水準で推移している。一方生産は2022年が約679万トン、2023年は670万トン前後、2024年は猛暑の影響もあり680万トン前後となっている(いずれも主食用米、農林水産省統計ベース)。単純計算でも年間20万~30万トン規模の不足が続いてきたことになる。

この不足は在庫の取り崩しで吸収されてきた。その結果、市場の緩衝材は薄くなった。昨年、政府が約60万トンの備蓄米を放出したのは、まさにその延長線上の措置である。注目すべきは、これだけの数量が市場に出てもほとんど価格が崩れなかったことだ。需給に余裕があれば相場は軟化する。高止まりが続いたという事実は、累積不足が相当規模に達していたことを示している。その状況は輸入動向にも表れている。国内価格の上昇を受け、関税枠外での輸入米が急増している。高関税を支払っても採算が合う水準に達したからだ。枠外輸入が“爆発的に増加”しているという現象は、市場が国内不足を補おうとしている証左にほかならない。国内に余剰があれば、関税を払ってまで輸入する合理性はない。

2025年産は統計上増産となった。しかし夏の高温で等級低下が進み、歩留まりは悪化している。収穫量すべてが主食用として流通するわけではない。実効ベースでは700万トン前後にとどまる可能性が高く、711万トン需要を十分に満たす水準とは言い難い。在庫を積み増せる局面にはない。

さらに市場心理を左右しているのが政策シグナルの揺らぎだ。昨年の小泉農相は需給逼迫を踏まえ増産方針を掲げた。供給力を強化する方向性を明確に示したのである。しかし高市政権下の鈴木農相は増産に慎重姿勢を示し、方針は曖昧になった。コメは短期で生産が増える作物ではない。中期的な供給見通しが不透明になれば、「将来も不足が続く」との観測が価格に織り込まれるのは自然な流れだ。この状態で政府が備蓄米を買い戻せば価格が反応するのは当然である。だがそれは原因ではない。薄い市場に追加需要が入るから動くのだ。とはいえ放出分の買い戻しは制度上の義務であり、履行しなければ備蓄は痩せ、食料安全保障の土台が弱まる。価格が高止まりしたまま買い戻し、それがまた価格をつりあげる踏んだり蹴ったりの現象だ。

「買い戻しが価格を押し上げる」という単純な図式では、本質は見えない。需要は711万トン規模へと下げ止まり、生産は追いつかず、在庫は削られ、備蓄は放出され、輸入は急増し、政策は揺れた。こうした累積の結果として現在の価格が形成されているのであって、価格を動かしているのは備蓄ではない。需給構造そのものだ。報道メディアは、政府や識者の発言をそのまま流すのではなく、難しい計算ではないのだから、数量の整合を自ら確かめた上で真実を報じるべきである。

枠外輸入米前年比96倍? ― 2026年01月31日

枠外輸入米前年比96倍?
関税341円/kgが課される「枠外輸入米」が、前年比約96倍の9万6779トンに急増したという。輸入元の大半は米国(7万5638トン)で、台湾(7024トン)、ベトナム(4515トン)が続いた。高関税を支払ってでも海外から米を調達するという選択は、国内市場における「価格」と「実効供給」のバランスがすでに崩壊していることを意味する。これは単なる価格差の問題ではない。2023年度以降に進行した食用米の実質的不足と、在庫があるにもかかわらず価格が下がらない構造的高止まりが、臨界点を超えた結果である。

事の発端は2023年度(令和5年産)に遡る。猛暑による品質悪化で白未熟米が増加し、精米歩留まりが大きく低下した。生産量は670万トンと表面上は平年並みだったものの、歩留まりの悪化による実質的な供給減は約10万トンに及んだ。一方で需要は外食回復や在留外国人の増加も重なり685万トン前後に膨らみ、需給ギャップは約25万トンへと拡大した。

翌2024年度(令和6年産)も状況は改善しなかった。生産量は679万トンにとどまり、需要は農水省自身が後に上方修正したとおり711万トンに達した。2年間で累積した不足は約57万トンにのぼり、民間在庫は150万トンへと急減した。市場で自由に動かせる「フリー在庫」は歴史的な薄さとなり、スーパーからはコメが消えた。やっと店頭に並んだ米袋の価格に市民は目を疑った。それでも農水省は「コメはある」と強弁し、春先まで備蓄米の放出をためらい続けた。ようやく放出に踏み切ったものの、量も品質も限られ、銘柄米の不足を補うには到底及ばず、実効性は乏しかった。

2025年度(令和7年産)は718万トンと増産に転じ、数量上は需給がほぼ均衡した。しかし、前年度までの累積不足は解消されず、倉庫に積み上がった在庫の多くは「売約済み」として確保されたものだった。統計上の在庫が回復しても、一般市場に出回る流通量は極端に少ないままだったのである。市場はこの「実効供給の乏しさ」という需給ギャップを正確に認識し、価格に反映させた。その結果、標準米は5kgで3500円を超え、銘柄米は5000円台という異例の高値が定着した。

にもかかわらず、農水省やメディアは「在庫は余っている」とのアナウンスを繰り返している。彼らが根拠としたのは玄米ベースの総在庫であり、そこには加工用や動かすことのできない売約済み在庫がすべて含まれている。消費者が手にする主食用米の動態とは別物であり、現実の需給は依然として供給が不足だ。農水大臣は「価格形成は市場に任せる」と静観を決め込んだが、市場が需給ギャップを反映して高値を付けている以上、政府の「在庫は十分」という認識こそが誤りだったことになる。市場に委ねるならば、政府は自らの需給把握の誤りを認め、統計情報の不備を是正する責任がある。

混乱に拍車をかけたのが、鈴木農水大臣による「備蓄米が70万トン不足しているため買い上げる」という発言だ。市場が高値で喘ぐ局面において、政府が不足した備蓄枠を埋めるために買い増しを行えば、市場からさらに米が吸い上げられ、価格が下支えされるのは自明の理である。しかし政府は、この買い上げが価格を押し上げるリスクを隠し、国民には「不足を補うための善後策」という誤ったメッセージとして伝えた。この政治的パフォーマンスが、結果として価格下落を阻害する要因となったことは否定できない。

本来、2026年度(令和8年産)は需給緩和のため、さらなる増産と流通の柔軟化が現実的な選択肢となるべき年だった。石破政権では増産を指示したが、続く高市政権では「農家所得の安定」を優先し、高値維持を容認する姿勢が強まった。結果、市場は安全弁を欠いたまま硬直化し、高関税を払ってでも輸入米を仕入れる方が合理的となる異常事態を招いている。米価高騰はもはや天候の問題ではない。需給の実態を見誤り、誤った情報を発信し続けた政策判断の連鎖が、日本の米市場を歪めている。

結局、輸入米急増の本質は「国内産のコメが足りない」という一点に尽きる。総選挙のさなか、語られるべきは目先の米価だけではなく、農水省の統計の欠陥そのものである。総在庫という「数字上の安心」を優先し、実効供給量という「市場の真実」を無視し続けた行政の責任を明らかにすべきだ。農水大臣が「市場に任せる」と言い切るならば、まず自らの需給認識の誤りを正す必要がある。正しい現状認識が共有されなければ、米不足と高騰という「政治が生んだ人災」は終わらない。

日本の食料安全保障を守るためには、統計の死角を取り除き、市場の実態を正確に反映する情報へと改めることが不可欠である。しかし、農政の構造問題を批判する議員はいても、統計処理そのものの誤りを正面から指摘する議員はほとんどいないので問題を長引かせている。現場の実態に即した政策判断が行われるよう、政治の側にも抜本的な姿勢転換を求めたい。

柿と大根のおすそ分け ― 2025年11月16日

柿と大根のおすそ分け
秋になると、農家の友人が「豊作で捨てるには忍びないから」と言って、大根や柿をおすそ分けしてくれる。実は昨日も、先週も、老人クラブの仲間から柿やサラダ菜をいただいたばかりだ。大きな大根を二本ももらえば、夫婦二人では半月はもつ。柿は関西では今年豊作らしく、何かの集まりがあるたびに誰かが持ってきてくれるのだが、正直なところ、もう食べ飽きてしまった。最近では、熊の出没が話題になっており、庭先の柿を早めに処分したほうがよいという話も耳にする。そんな事情もあってか、私の周囲では柿のインフレーションが続いている。ありがたいけれど、冷蔵庫にも胃袋にも限界がある。

さて、目の前にある立派な大根をどうすべきか。大根は、煮物、炒め物、サラダ、漬物など、調理法の幅が広く、台所では頼もしい存在だ。特に秋冬の旬には甘みが増し、味が染みやすくなるため、家庭料理において重宝される。煮物なら「豚バラ大根」や「鶏大根のにんにく煮」、「ブリ大根」などが定番。醤油、みりん、酒を使った甘辛い味付けが基本で、肉の旨味が大根に染み込むと、主菜としての満足感も高い。圧力鍋や電子レンジを使えば、短時間で調理できるのもありがたい。

葉付きの大根なら、葉も無駄にはできない。「じゃことの炒め煮」や「ふりかけ」にすれば、ご飯が進む一品になる。シャキシャキとした食感と香ばしさが魅力だ。漬物としては「紅白なます」や「浅漬け」、「柚子胡椒なます」などがあり、保存性にも優れ、箸休めにぴったり。さらに、「ふろふき大根」や「大根ステーキ」といった、素材の味を活かしたシンプルな料理も捨てがたい。

葉は栄養価も高く、炒め物や菜飯、味噌汁などに活用できる。保存するなら、冷蔵でも冷凍でも可能で、下茹でしておけば煮物や汁物にすぐ使える。一本の大根で主菜から副菜までこなせるのだから、やはり台所の味方である。とはいえ、冷蔵庫の空きと相談しながら、さて、どう使い切ったものか。そんなことを考えるのも、秋の楽しみのひとつかもしれない。

秋の夕暮れとコスモス ― 2025年10月30日

秋の夕暮れとコスモス
夕方5時を過ぎると、もう日は傾き、空気がひんやりしてくる。あれほど「猛暑だ」と嘆いていたのが嘘のように、今では長袖が手放せない。昨日、ようやくキンモクセイの香りが漂ってきた。子どもの頃の記憶をたどると、いつもこの香りの中で運動会をしていた気がする。昔の体育の日あたりがその季節だったが、今年は少し遅れて秋がやってきたようだ。庭のコスモスも、ようやく遅咲きの花が咲き始めた。家人と連れ立って近所のコスモス畑へ出かけると、そこは一面の花の海。風に揺れる花々が夕陽を受けてきらめき、遠くでは虫の声が響いていた。秋の夕暮れとコスモスほど、季節を実感させてくれる組み合わせはない。

コスモスはキク科コスモス属の植物で、秋を代表する花だ。原産地はメキシコ。明治時代に日本へ渡来し、今ではどこの町でも見られる身近な花になった。学名 Cosmos bipinnatus はギリシャ語の「kosmos(秩序・調和・美)」に由来し、その整った花姿が名前の意味をよく表している。日本語の「秋桜(あきざくら)」という呼び名は当て字で、1977年に山口百恵が歌った『秋桜』によって広く知られるようになった。

開花期は9月から10月が見ごろ。早咲きの品種は6月頃から咲き始め、晩秋まで長く楽しめる。短日植物なので、日照時間が短くなると花を咲かせる性質があるという。花言葉は「乙女の真心」「調和」「謙虚」。色によっても意味が少しずつ異なるそうだ。

コスモスの季節が過ぎれば、京都はいよいよ紅葉のシーズンに入る。
けれど最近は嵐山や大原でクマの出没が相次ぎ、通行止めのニュースも耳にする。観光の書き入れ時に、なんとも“クマった話”である。