下水管内ガス中毒死 ― 2025年08月03日
昨日、埼玉県行田市。老朽化した下水管の点検中、作業員がマンホールに転落。後を追って救助に入った3人の同僚も次々に倒れ、4人全員が命を落とした。硫化水素による中毒死。防げたはずの死である。現場は、直径わずか90センチ、深さおよそ10メートルの下水管。中には約1.8メートルもの汚泥が堆積し、有毒ガスが高濃度で充満していた。硫化水素は、低濃度では腐卵臭があるが、ある閾値を超えると嗅覚を麻痺させ、数回吸い込んだだけで意識を失わせる。まさに、沈黙の毒である。驚くべきは、現場に転落防止のロープも安全帯も、換気装置も設置されなかった可能性があるという。しかも、事前のガス濃度測定も不十分だった可能性が高い。これらは、いずれも法律で義務付けられている“最低限の備え”だ。にもかかわらず、それがなかった。
今回の点検は、同県内の八潮市で起きた道路陥没を受けた緊急対応の一環。委託業者が市の依頼で作業を行っていた。背景にあるのは、公共工事の“最安値落札”という制度設計だ。コストを削る圧力はまず安全対策に向けられ、末端の作業員にしわ寄せがいく。さらに、下請け・孫請けの多重構造が責任を希薄にし、「危険を感じても口をつぐむ」空気を現場に蔓延させる。そして、いつものように作業を始め、二度と戻らない人が出る。これでは200年前の前近代的な坑内作業環境と変わらない。厚労省の統計では、2004年から2023年までに硫化水素による事故は68件、死亡者は36名。致死率は約4割。それだけ危険性が知られているにもかかわらず、なぜ“同じ死”が繰り返されるのか。一因は、法制度の形骸化にある。労働安全衛生法や酸素欠乏症防止規則は存在するが、違反の罰則は軽く、監督官庁のチェックも限られている。安全対策は“書類の上では完璧”でも、現場では見て見ぬふりがまかり通る。命を守るはずのルールが、現場では空文化しているのだ。
結果、今回の事故のような“予防可能な死”が発生する。そして、また一歩、人が地下に降りる仕事から遠ざかっていく。危険と低賃金がセットになった点検作業の担い手は年々減り、誰もやりたがらない「社会の基盤維持」が静かに崩れ始めている。制度改革は待ったなしだ。総合評価方式への移行、安全対策費の明示・義務化、作業員の拒否権保障、自治体間での安全基準の統一、そして事故時には第三者による徹底検証。命をコストで換算するような公共事業のあり方に、終止符を打たねばならない。都市の血管とも言える下水管。その中に潜り、私たちの「当たり前の生活」を黙って支える仕事がある。その命がこんなにもあっけなく失われてよいはずがない。いま必要なのは、“誰が悪かったか”を問うことではない。この構造を変えない限り、次の犠牲者も確実に出る。
今回の点検は、同県内の八潮市で起きた道路陥没を受けた緊急対応の一環。委託業者が市の依頼で作業を行っていた。背景にあるのは、公共工事の“最安値落札”という制度設計だ。コストを削る圧力はまず安全対策に向けられ、末端の作業員にしわ寄せがいく。さらに、下請け・孫請けの多重構造が責任を希薄にし、「危険を感じても口をつぐむ」空気を現場に蔓延させる。そして、いつものように作業を始め、二度と戻らない人が出る。これでは200年前の前近代的な坑内作業環境と変わらない。厚労省の統計では、2004年から2023年までに硫化水素による事故は68件、死亡者は36名。致死率は約4割。それだけ危険性が知られているにもかかわらず、なぜ“同じ死”が繰り返されるのか。一因は、法制度の形骸化にある。労働安全衛生法や酸素欠乏症防止規則は存在するが、違反の罰則は軽く、監督官庁のチェックも限られている。安全対策は“書類の上では完璧”でも、現場では見て見ぬふりがまかり通る。命を守るはずのルールが、現場では空文化しているのだ。
結果、今回の事故のような“予防可能な死”が発生する。そして、また一歩、人が地下に降りる仕事から遠ざかっていく。危険と低賃金がセットになった点検作業の担い手は年々減り、誰もやりたがらない「社会の基盤維持」が静かに崩れ始めている。制度改革は待ったなしだ。総合評価方式への移行、安全対策費の明示・義務化、作業員の拒否権保障、自治体間での安全基準の統一、そして事故時には第三者による徹底検証。命をコストで換算するような公共事業のあり方に、終止符を打たねばならない。都市の血管とも言える下水管。その中に潜り、私たちの「当たり前の生活」を黙って支える仕事がある。その命がこんなにもあっけなく失われてよいはずがない。いま必要なのは、“誰が悪かったか”を問うことではない。この構造を変えない限り、次の犠牲者も確実に出る。