歪んだモンゴル火災報道 ― 2026年10月31日
モンゴル東部のヌムルグ自然保護区で大火災が起きた。焼失面積は約50万ヘクタール。東京都の面積のおよそ2.3倍にあたるという。草原が燃えたというより、地平線そのものが焦げたと言った方が早い。ところが世の中というのは不思議なもので、草原がどう燃えたかより、誰を叩けば気が済むかの方に関心が向くらしい。火災発生の報を聞くや否や、「日本のKDDI子会社の車から出火」との見出しが躍り、「また日本企業か」「早く謝れ」の大合唱が始まった。人類は火を消す技術より先に、誰かを犯人にする技術だけは磨いてきたらしい。
謝るのは実に簡単だ。頭を下げればよい。深々と、できれば九十度。カメラの前に並び、「誠に申し訳ございませんでした」と言えば絵になる。司会者も深刻そうな顔で頷けるし、評論家も「けしからんですね」と言うだけで一日分の仕事になる。なにしろ謝罪には専門知識がいらない。現場を見ていなくても語れるし、事情を知らなくても憤れる。しかし、事実関係が一枚も揃わないうちから頭だけ下げさせようとするのは、診察前に手術を始めるようなものだ。患者が誰かも分からないのに、メスだけが立派に磨かれている。
今回、現場にいた日本人はモビコムの越智CEO一人だった。モビコムはKDDIの出資先である一方、モンゴルの法律に基づいて設立され、現地の法令や監督の下で運営される企業である。熊本の半導体工場で火災が起きたとして、「TSMC本社の責任者を呼べ」と台北へ駆け出す人がいるだろうか。普通はいない。いたら消防署より先に病院の場所を教えられるだろう。しかも今回の訪問は、モンゴル側の国境港湾局の要請と許可に基づくものだった。車列は計五台。モビコム側の車両二台に加え、当局側の車両三台が先導と後方支援を担ったという。どう見ても日本人一人が探検隊長を務めていた図ではない。
ならば問うべきは別のところにある。誰が視察を企画し、誰がルートを決め、誰が安全管理を担ったのかということである。乾燥した草原へ車列を連ねて入るのである。遠足ですら引率の先生がいるのに、役人も警備関係者も揃っていて「誰が責任者か分かりません」では話にならない。寿司屋へ入って板前が見当たらないくらい落ち着かない。車両の火災対策はどうなっていたのか。消火手段は準備されていたのか。誰が最終判断を下したのか。当のモンゴル政府も調査を進め、首相自ら関係当局の責任を含めて検証を指示している。つまり現地では、いま虫眼鏡を持って事実を探している最中なのである。
ところが、その横では別の催しが始まっている。中華系メディア発の情報が流れ、日本企業の責任を印象づける見出しや憶測が広がった。複数の媒体が同じ内容を報じても、出所が一つなら証拠が増えたことにはならない。同じ話を十人で回し読みしても、新しい事実が十個生まれるわけではない。にもかかわらず、転載を重ねるうちに憶測は既成事実の顔をし始める。まるで楽譜も配られていないのに大合唱だけ始まった町内会のカラオケ大会である。誰も歌詞を知らないのに声量だけは立派だ。もちろん被害は深刻であり、環境回復への支援は惜しむべきではない。しかし、支援することと犯人扱いすることは別問題である。善意と責任論を一緒の鍋で煮込めば、だいたいろくな料理にならない。
昔の子供は「ごめんちゃいで済むなら警察はいらない」と言ったものだが、案外これは真理である。車両から発煙したことは分かっている。しかし、なぜ発煙したのか。どうして草原に燃え移ったのか。そして視察全体の安全管理に誰が責任を負っていたのか。まだ調べるべきことは山ほど残っている。頭を下げることはいつでもできる。今日でも明日でも来週でも間に合う。だが事実の確認には時間がかかる。原因究明より先にお辞儀の角度を測り始めるのは、火災現場で消火栓より記者会見場を探すようなものである。真実はお辞儀の角度からは出てこない。火事の跡から事実を掘り出すのは平身低頭ではなく虫眼鏡である。頭を下げるのは、そのあとでも遅くない。
謝るのは実に簡単だ。頭を下げればよい。深々と、できれば九十度。カメラの前に並び、「誠に申し訳ございませんでした」と言えば絵になる。司会者も深刻そうな顔で頷けるし、評論家も「けしからんですね」と言うだけで一日分の仕事になる。なにしろ謝罪には専門知識がいらない。現場を見ていなくても語れるし、事情を知らなくても憤れる。しかし、事実関係が一枚も揃わないうちから頭だけ下げさせようとするのは、診察前に手術を始めるようなものだ。患者が誰かも分からないのに、メスだけが立派に磨かれている。
今回、現場にいた日本人はモビコムの越智CEO一人だった。モビコムはKDDIの出資先である一方、モンゴルの法律に基づいて設立され、現地の法令や監督の下で運営される企業である。熊本の半導体工場で火災が起きたとして、「TSMC本社の責任者を呼べ」と台北へ駆け出す人がいるだろうか。普通はいない。いたら消防署より先に病院の場所を教えられるだろう。しかも今回の訪問は、モンゴル側の国境港湾局の要請と許可に基づくものだった。車列は計五台。モビコム側の車両二台に加え、当局側の車両三台が先導と後方支援を担ったという。どう見ても日本人一人が探検隊長を務めていた図ではない。
ならば問うべきは別のところにある。誰が視察を企画し、誰がルートを決め、誰が安全管理を担ったのかということである。乾燥した草原へ車列を連ねて入るのである。遠足ですら引率の先生がいるのに、役人も警備関係者も揃っていて「誰が責任者か分かりません」では話にならない。寿司屋へ入って板前が見当たらないくらい落ち着かない。車両の火災対策はどうなっていたのか。消火手段は準備されていたのか。誰が最終判断を下したのか。当のモンゴル政府も調査を進め、首相自ら関係当局の責任を含めて検証を指示している。つまり現地では、いま虫眼鏡を持って事実を探している最中なのである。
ところが、その横では別の催しが始まっている。中華系メディア発の情報が流れ、日本企業の責任を印象づける見出しや憶測が広がった。複数の媒体が同じ内容を報じても、出所が一つなら証拠が増えたことにはならない。同じ話を十人で回し読みしても、新しい事実が十個生まれるわけではない。にもかかわらず、転載を重ねるうちに憶測は既成事実の顔をし始める。まるで楽譜も配られていないのに大合唱だけ始まった町内会のカラオケ大会である。誰も歌詞を知らないのに声量だけは立派だ。もちろん被害は深刻であり、環境回復への支援は惜しむべきではない。しかし、支援することと犯人扱いすることは別問題である。善意と責任論を一緒の鍋で煮込めば、だいたいろくな料理にならない。
昔の子供は「ごめんちゃいで済むなら警察はいらない」と言ったものだが、案外これは真理である。車両から発煙したことは分かっている。しかし、なぜ発煙したのか。どうして草原に燃え移ったのか。そして視察全体の安全管理に誰が責任を負っていたのか。まだ調べるべきことは山ほど残っている。頭を下げることはいつでもできる。今日でも明日でも来週でも間に合う。だが事実の確認には時間がかかる。原因究明より先にお辞儀の角度を測り始めるのは、火災現場で消火栓より記者会見場を探すようなものである。真実はお辞儀の角度からは出てこない。火事の跡から事実を掘り出すのは平身低頭ではなく虫眼鏡である。頭を下げるのは、そのあとでも遅くない。
争う気はなかった性的暴行裁判 ― 2026年10月30日
2018年9月。当時大阪地検検事正だった北川健太郎被告が、酒に酔った部下の女性検事に性的暴行を加えたとして後に告発された。2024年に逮捕・起訴され、同年10月の初公判では起訴事実を認め、「争うことはしない」と述べて謝罪した。ところが、その二か月後に一転して無罪主張へ転換する。さらに約二年の中断を経て開かれた2026年10月の第二回公判では、「被害者は抗拒不能状態ではなかった」「同意があった」と全面的に争う姿勢を示した。弁護側は、当初は検察組織に迷惑をかけたくなかったため争わなかったが、その後の組織批判を見て方針を改めたと説明している。
無罪を主張すること自体は何もおかしくない。裁判で争う権利は誰にでもある。問題は、その説明をしている被告が元検事正だという点である。何十年も取り調べ室で他人の供述を聞き、話が変われば理由を問い、説明が曖昧なら追及してきた職業人だ。その人物が、最初は「争わない」と言い、二年後には「争う」と言う。そして、その理由として語ったのが「組織への償いだった」「組織批判を見て考え直した」である。聞いているうちに、事件の説明を聞いているのか、酔っぱらいの反省を聞いているのか分からなくなってくる。
そもそも妙だったのは「争うことはしない」という言葉である。普通の人は、やったなら「やりました」、やっていないなら「やっていません」と言う。ところが世の中には第三の言い方があるらしい。「争うことはしない」である。認めているようでいて、どこか認め切っていない。ラーメン屋で「大盛りにしますか」と聞かれて、「大盛りであることは争いません」と答えるようなものである。店員は困る。だから結局、大盛りなのか違うのか。法律の世界には独特の表現があるのだろうが、それを口にしたのが言葉の効果を熟知した元検事正であると思うと、何とも言えない引っ掛かりが残る。
どこかで聞いた話だと思った。叱られた子供の言い訳によく似ているのである。ガラスを割った子供が最初は「ごめんなさい」と頭を下げていた。ところが数日後になって、「実は僕は割っていません」と言い出す。理由を聞くと、「最初は黙っていようと思いました。でも家族まで僕と同じだと言われ始めたので、本当のことを話そうと思いました」と説明する。聞いている大人は困る。いやいや、家族の話ではない。ガラスである。最初から最後までガラスの話をしているのである。割ったのか割っていないのか。それだけを聞いているのに、話題がいつの間にか一家の名誉へ移っている。
今回の説明も同じ構造に見える。組織が批判されたことと、事件の事実関係は本来別問題である。無罪なら最初から無罪を主張すればよい。有罪なら組織への批判とは関係なく責任を負えばよい。ところが話は、「同意があったのか」「抗拒不能状態だったのか」という本来の論点から離れ、「組織への償いだった」「組織批判を見て考え直した」という説明へ移っていく。組織を守るために争わなかったという話は、なぜ争わなかったのかの説明にはなっても、なぜ無罪なのかの説明にはならない。ところが肝心の部分が見えてこない。聞いている側は、事件の説明を聞いているのか、決意表明を聞いているのか分からなくなってくる。
さらに妙なのは、この説明を最も厳しく追及できる人物が、説明している本人だということである。もし被告席と検察官席を入れ替えたらどうなるか。「当時はこう考えていました」「後から考えが変わりました」と被疑者が供述した瞬間、元検事正は必ず聞くだろう。「それを裏付ける客観的根拠は何ですか」「なぜ二年前には言わなかったのですか」「供述が変わった合理的理由は何ですか」と。そう問い続けるのが検察官の仕事だったはずである。裁判の結論は証拠によって決まる。有罪か無罪かは法廷が判断する。しかし世間が聞きたいのは心境の変遷ではない。「組織への思い」でもない。正しい弁明はただ一つである。無実だというなら、その根拠は何なのか。その問いの重みを、本来誰よりも知っているはずなのが、ほかならぬ元検事正自身なのである。
無罪を主張すること自体は何もおかしくない。裁判で争う権利は誰にでもある。問題は、その説明をしている被告が元検事正だという点である。何十年も取り調べ室で他人の供述を聞き、話が変われば理由を問い、説明が曖昧なら追及してきた職業人だ。その人物が、最初は「争わない」と言い、二年後には「争う」と言う。そして、その理由として語ったのが「組織への償いだった」「組織批判を見て考え直した」である。聞いているうちに、事件の説明を聞いているのか、酔っぱらいの反省を聞いているのか分からなくなってくる。
そもそも妙だったのは「争うことはしない」という言葉である。普通の人は、やったなら「やりました」、やっていないなら「やっていません」と言う。ところが世の中には第三の言い方があるらしい。「争うことはしない」である。認めているようでいて、どこか認め切っていない。ラーメン屋で「大盛りにしますか」と聞かれて、「大盛りであることは争いません」と答えるようなものである。店員は困る。だから結局、大盛りなのか違うのか。法律の世界には独特の表現があるのだろうが、それを口にしたのが言葉の効果を熟知した元検事正であると思うと、何とも言えない引っ掛かりが残る。
どこかで聞いた話だと思った。叱られた子供の言い訳によく似ているのである。ガラスを割った子供が最初は「ごめんなさい」と頭を下げていた。ところが数日後になって、「実は僕は割っていません」と言い出す。理由を聞くと、「最初は黙っていようと思いました。でも家族まで僕と同じだと言われ始めたので、本当のことを話そうと思いました」と説明する。聞いている大人は困る。いやいや、家族の話ではない。ガラスである。最初から最後までガラスの話をしているのである。割ったのか割っていないのか。それだけを聞いているのに、話題がいつの間にか一家の名誉へ移っている。
今回の説明も同じ構造に見える。組織が批判されたことと、事件の事実関係は本来別問題である。無罪なら最初から無罪を主張すればよい。有罪なら組織への批判とは関係なく責任を負えばよい。ところが話は、「同意があったのか」「抗拒不能状態だったのか」という本来の論点から離れ、「組織への償いだった」「組織批判を見て考え直した」という説明へ移っていく。組織を守るために争わなかったという話は、なぜ争わなかったのかの説明にはなっても、なぜ無罪なのかの説明にはならない。ところが肝心の部分が見えてこない。聞いている側は、事件の説明を聞いているのか、決意表明を聞いているのか分からなくなってくる。
さらに妙なのは、この説明を最も厳しく追及できる人物が、説明している本人だということである。もし被告席と検察官席を入れ替えたらどうなるか。「当時はこう考えていました」「後から考えが変わりました」と被疑者が供述した瞬間、元検事正は必ず聞くだろう。「それを裏付ける客観的根拠は何ですか」「なぜ二年前には言わなかったのですか」「供述が変わった合理的理由は何ですか」と。そう問い続けるのが検察官の仕事だったはずである。裁判の結論は証拠によって決まる。有罪か無罪かは法廷が判断する。しかし世間が聞きたいのは心境の変遷ではない。「組織への思い」でもない。正しい弁明はただ一つである。無実だというなら、その根拠は何なのか。その問いの重みを、本来誰よりも知っているはずなのが、ほかならぬ元検事正自身なのである。
名誉教授という便利な免許証 ― 2026年10月29日
防衛省の安全保障技術研究推進制度に名古屋大学が初めて採択されると、反対する研究者らが記者会見を開いた。名古屋大学名誉教授の池内了氏は「防衛省が軍事利用するなら軍事研究だ」「踏み越えてはならない一線を越えた」と非難し、研究費を「麻薬のようなもの」とまで評したという。だが、記事を読んで最初に浮かぶのは賛否ではない。理屈として成立しているのか、という素朴な疑問である。
防衛省が利用する可能性だけで軍事研究になるなら、現代社会は軍事研究の成果であふれている。GPSは軍事技術として生まれ、インターネットも軍事研究の系譜を持つ。AIも半導体も通信技術も、軍民両用であることは常識だ。もちろん、軍事利用され得ることと、大学が防衛研究に参加すべきかどうかは別問題である。だからこそ説明が必要なのだ。名古屋大学が取り組むの次世代通信技術を軍事研究と池内氏が呼ぶのは自由だが、なぜ大学が背を向けなければならないのか。その理由が語られない。気が付けば、軍事研究への批判が現代文明そのものへの難癖に変わってしまう。
さらに不思議なのは、防衛省だけが特別扱いされていることだ。防衛省は政府機関であり、自衛隊も民主的手続きを経て存在している。好き嫌いは自由だが、共同研究を「越えてはならない一線」と表現するなら、研究倫理の問題なのか、安全保障政策への反対なのかを明確にすべきだ。文科省の予算は清らかで、防衛省の予算は不純物入りという話でもあるまい。研究の独立性や公開性に問題があるなら議論になる。だが、防衛省だから駄目というだけでは、論理の足場が見えてこない。
最大の違和感は、結論そのものより、それが「名古屋大学名誉教授」という肩書とセットで語られることだ。報道も無名の市民としてではなく、名誉教授として紹介する。本人も社会も、その肩書が持つ権威と信用を前提にしているのである。率直に言えば、名誉教授とはそんなに偉いものなのか。過去の研究業績への敬意は当然だが、それは現在の発言を無条件に正しいものへ変える魔法ではない。肩書によって得られる信用だけを受け取り、発言内容への厳しい検証は遠慮してほしいという都合のよい話は成り立たない。権威を使う自由はある。しかし、使う以上、それに見合う説明責任から逃れる自由はない。
ところが、少なくとも記事に掲載された発言からは、その説明責任を果たしているようには見えない。「軍事だから悪い」「防衛省だから駄目」。これでは大学人の議論というより学級会である。学級会ですら賛成派と反対派が意見を出し合い、多数決くらいは取る。ところがこちらは結論だけが先に到着し、理由は後から息を切らして追い掛けてくる。安全保障環境の変化も、技術のデュアルユース性も、国際的な技術競争も視野に入らない。複雑な問題を複雑なまま扱うことこそ学問の役割のはずなのに、話は善玉と悪玉を色分けする紙芝居へと縮小されてしまう。
名誉教授とは過去の研究業績への敬意であって、未来の発言を保証する免許証ではない。ところが世の中には、その二つを混同する光景がある。勲章を免許証だと思い込み、肩書を論拠の代わりに使ってしまうのだ。宇宙の進化や銀河の形成を解き明かしてきた池内氏の功績に疑いはない。だが、その権威が「軍事だから悪い」という図式まで正当化してくれるわけではない。今回の記事から見えてくるのは、防衛研究の危険性よりも、権威と論理の落差である。宇宙の大規模構造は難解でも筋道がある。だが今回の議論は、ブラックホールに吸い込まれる前に、論理だけが先に蒸発してしまったらしい。
追加:
軍事研究という便利なお札
世の中には便利なお札がある。額に一枚貼るだけで議論が終わる。「軍事研究」である。これを貼られた研究は、もはや説明の必要がない。AIであろうがロケットであろうが、半導体であろうが量子技術であろうが関係ない。何を研究し、どんな利益と危険をもたらすのか。そんな面倒な話は全部省略できる。「軍事研究です」。これで悪役決定。昔の時代劇なら悪代官の悪行を延々と描かなければならなかったが、こちらは三秒で済む。便利な世の中になったものである。
だが、技術の世界は時代劇ほど単純ではない。GPSやインターネットは軍事分野にルーツを持つ。ロケットは人工衛星を打ち上げるが、ミサイルとも親戚である。AIは医療診断に使われる一方、軍事利用も可能だ。毒物研究は化学兵器につながり得るが、解毒剤にもつながる。気象学ですら軍事作戦に利用できる。現代の先端技術には軍民両用の性質を持つものが少なくない。この理屈を徹底し、軍事利用の可能性だけで研究を否定すれば、最後は「研究するな」という話になる。黒板とチョークも座標計算に使える。安全なのは石ころ遊びくらいだが、その石ころも投げれば武器になる。
さらに不思議なのは、戦争被害と研究成果を一直線で結び付ける発想である。戦争を始める決定を下すのは国家や政治の側だ。核分裂の発見と核兵器使用の決定は同じではない。もちろん、研究者にも研究の目的や予見できる用途に応じた責任はある。しかし、研究成果を生み出す責任と、それを利用して戦争を決断する責任は別の問題である。包丁を作った鍛冶屋が、包丁を使った殺人の責任まで負うわけではない。ところが「軍事研究」というお札が貼られた瞬間、研究者は戦争責任者候補に昇格する。大学の研究室で数式を書いていたはずが、気付けば世界平和の破壊者である。ずいぶんな出世である。
それにしても、この議論を語る人々の顔はどこか晴れやかだ。「軍事研究反対」と言えば善人になった気分になれるらしい。研究内容を読まなくても、安全保障や国際政治を考えなくても、とりあえず反対しておけば拍手がもらえる。会議室では反対決議の紙が回り、シンポジウムでは大きくうなずく人々が並ぶ。まるで善人免許の更新講習である。しかしAIも量子技術も宇宙開発も半導体競争も、その会議が終わるまで律儀に待ってはくれない。世界中の研究所が黙々と技術開発を進めている間、こちらは善人札と悪人札の配布に忙しい。便利なお札は研究だけではない。それを振り回す側にも効能があるのである。
本来語るべきは、軍事研究への賛否ではなく、安全保障をどう実現するかだろう。自由社会をどう守り、技術的自立をどう維持するのか。抑止力をどう考えるのか。研究への規制が必要なら、何を、どんな理由で、どこまで規制するのかを具体的に論じればよい。ところが「軍事研究」という言葉が登場すると、安全保障の議論は消え、研究者の品評会だけが始まる。研究する人は悪い人。反対する人は良い人。実に分かりやすい。だが、分かりやすいことと現実を理解していることは別である。政策とは現実を動かす技術であって、道徳ラベルの張り合いではない。
だから違和感が残る。「軍事研究」という言葉は勇ましい批判に見える。しかし実際には、安全保障という本題から目をそらし、研究という手近な標的を叩いているだけではないのか。本当に平和を語るなら、研究者を一律に悪者に仕立てるのではなく、自由社会を守るための現実的な制度と抑止を語らなければならない。そうでなければ、それは平和論ではない。駅前に新しくできた店のようなものだ。立派なのれんには「安心」「平和」「良心」と大書してある。しかし暖簾をくぐると棚は空っぽ。商品は何もない。それでも店主だけは満足そうな顔をしている。看板を掲げたことそのものが商品になっているからである。
防衛省が利用する可能性だけで軍事研究になるなら、現代社会は軍事研究の成果であふれている。GPSは軍事技術として生まれ、インターネットも軍事研究の系譜を持つ。AIも半導体も通信技術も、軍民両用であることは常識だ。もちろん、軍事利用され得ることと、大学が防衛研究に参加すべきかどうかは別問題である。だからこそ説明が必要なのだ。名古屋大学が取り組むの次世代通信技術を軍事研究と池内氏が呼ぶのは自由だが、なぜ大学が背を向けなければならないのか。その理由が語られない。気が付けば、軍事研究への批判が現代文明そのものへの難癖に変わってしまう。
さらに不思議なのは、防衛省だけが特別扱いされていることだ。防衛省は政府機関であり、自衛隊も民主的手続きを経て存在している。好き嫌いは自由だが、共同研究を「越えてはならない一線」と表現するなら、研究倫理の問題なのか、安全保障政策への反対なのかを明確にすべきだ。文科省の予算は清らかで、防衛省の予算は不純物入りという話でもあるまい。研究の独立性や公開性に問題があるなら議論になる。だが、防衛省だから駄目というだけでは、論理の足場が見えてこない。
最大の違和感は、結論そのものより、それが「名古屋大学名誉教授」という肩書とセットで語られることだ。報道も無名の市民としてではなく、名誉教授として紹介する。本人も社会も、その肩書が持つ権威と信用を前提にしているのである。率直に言えば、名誉教授とはそんなに偉いものなのか。過去の研究業績への敬意は当然だが、それは現在の発言を無条件に正しいものへ変える魔法ではない。肩書によって得られる信用だけを受け取り、発言内容への厳しい検証は遠慮してほしいという都合のよい話は成り立たない。権威を使う自由はある。しかし、使う以上、それに見合う説明責任から逃れる自由はない。
ところが、少なくとも記事に掲載された発言からは、その説明責任を果たしているようには見えない。「軍事だから悪い」「防衛省だから駄目」。これでは大学人の議論というより学級会である。学級会ですら賛成派と反対派が意見を出し合い、多数決くらいは取る。ところがこちらは結論だけが先に到着し、理由は後から息を切らして追い掛けてくる。安全保障環境の変化も、技術のデュアルユース性も、国際的な技術競争も視野に入らない。複雑な問題を複雑なまま扱うことこそ学問の役割のはずなのに、話は善玉と悪玉を色分けする紙芝居へと縮小されてしまう。
名誉教授とは過去の研究業績への敬意であって、未来の発言を保証する免許証ではない。ところが世の中には、その二つを混同する光景がある。勲章を免許証だと思い込み、肩書を論拠の代わりに使ってしまうのだ。宇宙の進化や銀河の形成を解き明かしてきた池内氏の功績に疑いはない。だが、その権威が「軍事だから悪い」という図式まで正当化してくれるわけではない。今回の記事から見えてくるのは、防衛研究の危険性よりも、権威と論理の落差である。宇宙の大規模構造は難解でも筋道がある。だが今回の議論は、ブラックホールに吸い込まれる前に、論理だけが先に蒸発してしまったらしい。
追加:
軍事研究という便利なお札
世の中には便利なお札がある。額に一枚貼るだけで議論が終わる。「軍事研究」である。これを貼られた研究は、もはや説明の必要がない。AIであろうがロケットであろうが、半導体であろうが量子技術であろうが関係ない。何を研究し、どんな利益と危険をもたらすのか。そんな面倒な話は全部省略できる。「軍事研究です」。これで悪役決定。昔の時代劇なら悪代官の悪行を延々と描かなければならなかったが、こちらは三秒で済む。便利な世の中になったものである。
だが、技術の世界は時代劇ほど単純ではない。GPSやインターネットは軍事分野にルーツを持つ。ロケットは人工衛星を打ち上げるが、ミサイルとも親戚である。AIは医療診断に使われる一方、軍事利用も可能だ。毒物研究は化学兵器につながり得るが、解毒剤にもつながる。気象学ですら軍事作戦に利用できる。現代の先端技術には軍民両用の性質を持つものが少なくない。この理屈を徹底し、軍事利用の可能性だけで研究を否定すれば、最後は「研究するな」という話になる。黒板とチョークも座標計算に使える。安全なのは石ころ遊びくらいだが、その石ころも投げれば武器になる。
さらに不思議なのは、戦争被害と研究成果を一直線で結び付ける発想である。戦争を始める決定を下すのは国家や政治の側だ。核分裂の発見と核兵器使用の決定は同じではない。もちろん、研究者にも研究の目的や予見できる用途に応じた責任はある。しかし、研究成果を生み出す責任と、それを利用して戦争を決断する責任は別の問題である。包丁を作った鍛冶屋が、包丁を使った殺人の責任まで負うわけではない。ところが「軍事研究」というお札が貼られた瞬間、研究者は戦争責任者候補に昇格する。大学の研究室で数式を書いていたはずが、気付けば世界平和の破壊者である。ずいぶんな出世である。
それにしても、この議論を語る人々の顔はどこか晴れやかだ。「軍事研究反対」と言えば善人になった気分になれるらしい。研究内容を読まなくても、安全保障や国際政治を考えなくても、とりあえず反対しておけば拍手がもらえる。会議室では反対決議の紙が回り、シンポジウムでは大きくうなずく人々が並ぶ。まるで善人免許の更新講習である。しかしAIも量子技術も宇宙開発も半導体競争も、その会議が終わるまで律儀に待ってはくれない。世界中の研究所が黙々と技術開発を進めている間、こちらは善人札と悪人札の配布に忙しい。便利なお札は研究だけではない。それを振り回す側にも効能があるのである。
本来語るべきは、軍事研究への賛否ではなく、安全保障をどう実現するかだろう。自由社会をどう守り、技術的自立をどう維持するのか。抑止力をどう考えるのか。研究への規制が必要なら、何を、どんな理由で、どこまで規制するのかを具体的に論じればよい。ところが「軍事研究」という言葉が登場すると、安全保障の議論は消え、研究者の品評会だけが始まる。研究する人は悪い人。反対する人は良い人。実に分かりやすい。だが、分かりやすいことと現実を理解していることは別である。政策とは現実を動かす技術であって、道徳ラベルの張り合いではない。
だから違和感が残る。「軍事研究」という言葉は勇ましい批判に見える。しかし実際には、安全保障という本題から目をそらし、研究という手近な標的を叩いているだけではないのか。本当に平和を語るなら、研究者を一律に悪者に仕立てるのではなく、自由社会を守るための現実的な制度と抑止を語らなければならない。そうでなければ、それは平和論ではない。駅前に新しくできた店のようなものだ。立派なのれんには「安心」「平和」「良心」と大書してある。しかし暖簾をくぐると棚は空っぽ。商品は何もない。それでも店主だけは満足そうな顔をしている。看板を掲げたことそのものが商品になっているからである。
稲は実ったのか ― 2026年10月28日
財政論争には不思議な癖がある。借金が何兆円増えた、財政赤字が何%になった、日銀がどれだけ国債を買った。皆が熱心に数字を数える。しかし、その資金がその後どうなったのかを追いかける人は案外少ない。まるで農家が収穫を見ずに肥料代の領収書だけを眺めているようなものである。
統合政府論では、政府の負債と日銀の資産を相殺できるかどうかが議論になる。だが、さらに一歩引いて見れば、日銀の負債は民間の資産でもある。結局、誰かの負債は誰かの資産なのだ。政府、中央銀行、企業、家計を含めて眺めれば、負債と資産は複雑な網の目のようにつながっている。にもかかわらず、議論はしばしば負債だけを切り取って進められる。木を見て森を見ないとは、まさにこのことである。
もちろん、だから借金はいくら増えてもよいという話ではない。しかし同時に、借金が増えたから悪いという話でもない。重要なのは、その資産が何を生み出したかである。百兆円の負債が百兆円の資産を生み、その資産が設備投資や研究開発や新規事業へ流れたなら、そこからさらに新しい所得と価値が生まれる。一方で、資産として積み上がるだけで動かなければ、経済への効果は限定的になる。問題は資産の存在ではなく循環なのである。
財政投資を巡る議論では、「ピラミッドを建てても意味がない」という比喩がよく使われる。それは一理ある。しかし資金はピラミッドの中で止まらない。建設会社の売上になり、労働者の給与になり、消費や投資へ流れていく。ケインズが「穴を掘って埋めるだけでもよい」と述べたのは、穴そのものに価値があるからではなく、資金循環に価値があるからだった。経済とは完成品の品評会ではない。所得と支出が巡り続ける過程そのものが重要なのである。
しかし近年の議論は少し奇妙だ。かつての「政府は何もするな」という極端な市場万能論は勢いを失ったが、その代わりに「政府が正しい投資先を選べる」という発想が目立つようになった。だが未来が見える者などいない。官僚も政治家も企業経営者も同じである。成功する事業は事前には分からない。民間企業が数打てば当たる方式で発展してきたのもそのためだ。むしろ政府が未来を完全に見通せると考える方が、よほど危険な楽観主義かもしれない。
結局のところ、本当に重要なのは政府が何を作ったかではなく、資金が社会をどう巡ったかなのである。借金を語る人も、通貨発行を語る人も、往々にして帳簿から目を離せない。しかし経済成長は帳簿の中では起きない。誰かの負債が誰かの資産となり、その資産が投資となり、雇用となり、技術となり、新しい価値となることで初めて生まれる。日本の財政論争は今日も肥料代の計算に熱中している。だが、どれほど高性能な電卓を用意しても稲は育たない。本当に見るべきなのは帳簿ではなく、その先の収穫なのである。
統合政府論では、政府の負債と日銀の資産を相殺できるかどうかが議論になる。だが、さらに一歩引いて見れば、日銀の負債は民間の資産でもある。結局、誰かの負債は誰かの資産なのだ。政府、中央銀行、企業、家計を含めて眺めれば、負債と資産は複雑な網の目のようにつながっている。にもかかわらず、議論はしばしば負債だけを切り取って進められる。木を見て森を見ないとは、まさにこのことである。
もちろん、だから借金はいくら増えてもよいという話ではない。しかし同時に、借金が増えたから悪いという話でもない。重要なのは、その資産が何を生み出したかである。百兆円の負債が百兆円の資産を生み、その資産が設備投資や研究開発や新規事業へ流れたなら、そこからさらに新しい所得と価値が生まれる。一方で、資産として積み上がるだけで動かなければ、経済への効果は限定的になる。問題は資産の存在ではなく循環なのである。
財政投資を巡る議論では、「ピラミッドを建てても意味がない」という比喩がよく使われる。それは一理ある。しかし資金はピラミッドの中で止まらない。建設会社の売上になり、労働者の給与になり、消費や投資へ流れていく。ケインズが「穴を掘って埋めるだけでもよい」と述べたのは、穴そのものに価値があるからではなく、資金循環に価値があるからだった。経済とは完成品の品評会ではない。所得と支出が巡り続ける過程そのものが重要なのである。
しかし近年の議論は少し奇妙だ。かつての「政府は何もするな」という極端な市場万能論は勢いを失ったが、その代わりに「政府が正しい投資先を選べる」という発想が目立つようになった。だが未来が見える者などいない。官僚も政治家も企業経営者も同じである。成功する事業は事前には分からない。民間企業が数打てば当たる方式で発展してきたのもそのためだ。むしろ政府が未来を完全に見通せると考える方が、よほど危険な楽観主義かもしれない。
結局のところ、本当に重要なのは政府が何を作ったかではなく、資金が社会をどう巡ったかなのである。借金を語る人も、通貨発行を語る人も、往々にして帳簿から目を離せない。しかし経済成長は帳簿の中では起きない。誰かの負債が誰かの資産となり、その資産が投資となり、雇用となり、技術となり、新しい価値となることで初めて生まれる。日本の財政論争は今日も肥料代の計算に熱中している。だが、どれほど高性能な電卓を用意しても稲は育たない。本当に見るべきなのは帳簿ではなく、その先の収穫なのである。
インドに抜かれた日本 ― 2026年10月27日
国際通貨基金(IMF)の世界経済見通しによると、日本の名目GDPは2027年にもインドと英国に抜かれ、世界6位へ後退する見通しだという。ニュースではインドの高成長や円安が理由として語られる。しかし、それではまるで日本が昨日まで順調に成長していたかのような話である。日本が追い抜かれたのは昨日今日の出来事ではない。30年以上積み重なった低成長が、ようやく順位という形で見えるようになっただけだ。
経済成長は複利で積み上がる。日本の名目GDP成長率は過去35年間で平均すれば年1%程度にとどまった。一方、米国は年4.8%、インドは年12.4%前後で成長してきた。この差を35年間積み上げると、日本の経済規模は約1.36倍にしかならないのに対し、米国は約5.16倍、インドは約12.2倍になる。毎年数%の差だから大したことはないと思っていても、複利の世界ではやがて取り返しのつかない格差になる。インドが奇跡を起こしたのではない。米国もインドも普通に成長を続けただけである。日本だけがほぼ足踏みを続けてきたのである。
その理由として、少子高齢化や人口減少がよく挙げられる。しかし、それでは原因と結果を取り違えていないだろうか。将来に希望があり、所得が伸び、雇用が安定していれば、人は家庭を持ち、子どもを育てようと考える。反対に、賃金は上がらず、将来不安ばかりが膨らめば、結婚や出産は先送りされる。人口減少は突然降ってきた天災ではない。成長できない経済が、その進行を早めてきた面もある。高齢化は日本だけの現象でもない。欧州にも同じ課題を抱える国は多いが、投資によって生産性を高め、成長している国もある。人口構造だけで停滞が決まるというなら、経済政策など最初から必要ないだろう。
では日本は何をしてきたのか。ひと言で言えば、将来への投資をためらい続けてきた。景気が悪いから支出を抑える。需要が不足する。企業は設備投資を見送る。賃金は伸びず、消費も増えない。税収が伸びないので財政赤字が問題になる。そして赤字を減らすために、さらに支出を削る。この発想を長年主導してきたのが財務省である。景気や成長よりも財政規律を優先し、経済の体温より家計簿の数字を重視してきた。一方の日銀も、長く続いたデフレから十分に脱却できず、「どうせ成長しない」という空気を経済全体に定着させた。財務省は規律を守ったと言い、日銀は責務を果たしたと言うだろう。確かに目標は守られた。しかし35年後に残った現実は、低成長と順位低下だった。
もちろん、支出さえ増やせば成長するわけではない。無駄な事業まで正当化するつもりもない。しかし、インフラ、科学技術、教育、人材育成といった将来の生産力を高める投資まで抑え込めば、成長する力そのものが衰える。企業で言えば、売上が落ちたので設備投資を削り、競争力が低下した結果、さらに売上が落ちるようなものだ。そんな経営を続ければ市場から退場するしかない。ところが国家になると、成長しないのは高齢化のせい、賃金が上がらないのは人口減少のせいと説明される。原因は毎回どこかへ旅に出る。しかし、投資を絞った政策だけは、いつも現場に残っているのである。
それなのに、インドに抜かれるというニュースになると、まるで現在の政権だけの責任であるかのような議論が始まる。しかし、35年間の成長格差を一つの政権だけで説明できるはずがない。問われるべきは、誰が総理だったかではなく、なぜ日本が長期にわたり投資を避け続けたのかである。
GDP順位は国威発揚のための運動会ではない。毎年の成長率が積み重なった結果にすぎない。インドが突然走り出したのではない。世界は普通に歩き続けていたのである。その間、日本は靴代を惜しみ、靴底が擦り切れても「倹約に成功した」と胸を張っていた。そして気が付けば、後ろにいると思っていた国々の背中を眺める立場になっていた。
して今になって「なぜ抜かれたのか」と驚いている。驚くべきは順位ではない。35年間、成長のタネを食べ続けながら、収穫が増えないことだけは不思議がっていたことである。世界は特別な魔法を使ったわけではない。ただ投資し、成長し、その果実を積み上げただけだ。日本だけが、その当たり前を忘れていただけなのである。
経済成長は複利で積み上がる。日本の名目GDP成長率は過去35年間で平均すれば年1%程度にとどまった。一方、米国は年4.8%、インドは年12.4%前後で成長してきた。この差を35年間積み上げると、日本の経済規模は約1.36倍にしかならないのに対し、米国は約5.16倍、インドは約12.2倍になる。毎年数%の差だから大したことはないと思っていても、複利の世界ではやがて取り返しのつかない格差になる。インドが奇跡を起こしたのではない。米国もインドも普通に成長を続けただけである。日本だけがほぼ足踏みを続けてきたのである。
その理由として、少子高齢化や人口減少がよく挙げられる。しかし、それでは原因と結果を取り違えていないだろうか。将来に希望があり、所得が伸び、雇用が安定していれば、人は家庭を持ち、子どもを育てようと考える。反対に、賃金は上がらず、将来不安ばかりが膨らめば、結婚や出産は先送りされる。人口減少は突然降ってきた天災ではない。成長できない経済が、その進行を早めてきた面もある。高齢化は日本だけの現象でもない。欧州にも同じ課題を抱える国は多いが、投資によって生産性を高め、成長している国もある。人口構造だけで停滞が決まるというなら、経済政策など最初から必要ないだろう。
では日本は何をしてきたのか。ひと言で言えば、将来への投資をためらい続けてきた。景気が悪いから支出を抑える。需要が不足する。企業は設備投資を見送る。賃金は伸びず、消費も増えない。税収が伸びないので財政赤字が問題になる。そして赤字を減らすために、さらに支出を削る。この発想を長年主導してきたのが財務省である。景気や成長よりも財政規律を優先し、経済の体温より家計簿の数字を重視してきた。一方の日銀も、長く続いたデフレから十分に脱却できず、「どうせ成長しない」という空気を経済全体に定着させた。財務省は規律を守ったと言い、日銀は責務を果たしたと言うだろう。確かに目標は守られた。しかし35年後に残った現実は、低成長と順位低下だった。
もちろん、支出さえ増やせば成長するわけではない。無駄な事業まで正当化するつもりもない。しかし、インフラ、科学技術、教育、人材育成といった将来の生産力を高める投資まで抑え込めば、成長する力そのものが衰える。企業で言えば、売上が落ちたので設備投資を削り、競争力が低下した結果、さらに売上が落ちるようなものだ。そんな経営を続ければ市場から退場するしかない。ところが国家になると、成長しないのは高齢化のせい、賃金が上がらないのは人口減少のせいと説明される。原因は毎回どこかへ旅に出る。しかし、投資を絞った政策だけは、いつも現場に残っているのである。
それなのに、インドに抜かれるというニュースになると、まるで現在の政権だけの責任であるかのような議論が始まる。しかし、35年間の成長格差を一つの政権だけで説明できるはずがない。問われるべきは、誰が総理だったかではなく、なぜ日本が長期にわたり投資を避け続けたのかである。
GDP順位は国威発揚のための運動会ではない。毎年の成長率が積み重なった結果にすぎない。インドが突然走り出したのではない。世界は普通に歩き続けていたのである。その間、日本は靴代を惜しみ、靴底が擦り切れても「倹約に成功した」と胸を張っていた。そして気が付けば、後ろにいると思っていた国々の背中を眺める立場になっていた。
して今になって「なぜ抜かれたのか」と驚いている。驚くべきは順位ではない。35年間、成長のタネを食べ続けながら、収穫が増えないことだけは不思議がっていたことである。世界は特別な魔法を使ったわけではない。ただ投資し、成長し、その果実を積み上げただけだ。日本だけが、その当たり前を忘れていただけなのである。
クマと人間の学習能力 ― 2026年10月26日
京都の観光地にも住宅地にも、近ごろはクマが頻繁に現れる。クマは賢い動物だと言われる。ドアノブを回し、車のドアを開け、クーラーボックスを探し当てる。人間の置いた餌や生ごみの在りかを覚え、一度成功した場所へは何度でも戻ってくる。なるほど、その方面の才能は認めざるを得ない。列車の時刻表は読めなくても、弁当の在りかを嗅ぎ当てる能力にはなかなかのものがある。人間だって、これほど熱心に学習するのは給料日と特売日、そして何故かクマと同じゴミの日くらいである。
ところが、その賢さに少々疑問を投げかける数字もある。JR北海道によれば、クマとの衝突事故は2015年度の24件から2025年度には76件へ増加した。シカとの衝突事故も1,961件から3,478件へ増えている。もちろん事故件数だけで知能は測れないし、生息数も違う。それでも増加率だけ見れば、クマの事故は約3倍、シカは約1.8倍である。賢者と呼ばれる動物としては、あまり胸を張れる成績ではなさそうだ。
もっとも、それはクマやシカの責任とも言い切れない。仲間が事故に遭っても、その情報が群れ全体に共有される仕組みがないからである。クマにはテレビも新聞もSNSもない。環境省の速報が山奥まで届くこともない。人間社会なら事故が起きればニュース速報が流れ、専門家が解説し、有識者会議が開かれ、報告書が作られる。報告書を読むための会議まで開かれることもある。クマ社会には、そうした無駄も含めて一切存在しないのである。
ここで重要なのは、利益と損失の違いである。クーラーボックスは現場に残る。ごみ置き場も残る。車の中の食べ物も残る。だから餌の情報は何度でも発見される。一方、列車にはねられた経験は本人と一緒に消える。利益は現場に残り、損失の経験は死んだ個体とともに消えるのである。人間は時々、「何頭か駆除すれば他のクマも懲りるだろう」と期待する。しかし、危険の記憶は個体ごとに途切れ、餌の情報だけが環境の中に残り続ける。そうなれば学習の方向は自然に決まる。人里は危険な場所である前に、魅力的な餌場なのだ。
考えてみれば、人間社会もあまり威張れない。事故が起きれば再発防止策を作る。不祥事が起きれば第三者委員会を設置する。そして、よく似た事故や不祥事が再び起きる。そのたびに前回の報告書を探し出し、「教訓を生かしたい」と神妙な顔で語る。人間は豊かな情報共有の仕組みを持っている。ところが共有された情報が期待通りに活用されるとは限らないらしい。どうやら学習というものは、私たちが思っているほど万能ではないのである。
増えるのは「人間を恐れるクマ」ではなく、「人間社会の利用法を覚えたクマ」かもしれない。クマは今日も線路や道路を使いごみ置き場へ向かう。人間は今日も廊下を使って会議室へ向かう。どちらも餌場を目指している点では、それほど大きな違いはない。違いがあるとすれば、人間はその途中で報告書を作ることくらいだろう。
世間はクマを森の賢者として語りたがる。しかし統計と行動を並べてみると、そこに見えるのは利益には敏感で、危険には案外鈍感な大型哺乳類の姿である。そしてその特徴だけなら、人間もあまりクマやシカを笑えそうにない。結局、人里との距離を保つには個体数管理を軸とした抜本的な対策しかないのだろう。だが、その話になると途端に議論は保護か安全かの堂々巡りを始める。どうやら学習能力については、人間も野生動物にそれほど大きな差をつけらないらしい。
ところが、その賢さに少々疑問を投げかける数字もある。JR北海道によれば、クマとの衝突事故は2015年度の24件から2025年度には76件へ増加した。シカとの衝突事故も1,961件から3,478件へ増えている。もちろん事故件数だけで知能は測れないし、生息数も違う。それでも増加率だけ見れば、クマの事故は約3倍、シカは約1.8倍である。賢者と呼ばれる動物としては、あまり胸を張れる成績ではなさそうだ。
もっとも、それはクマやシカの責任とも言い切れない。仲間が事故に遭っても、その情報が群れ全体に共有される仕組みがないからである。クマにはテレビも新聞もSNSもない。環境省の速報が山奥まで届くこともない。人間社会なら事故が起きればニュース速報が流れ、専門家が解説し、有識者会議が開かれ、報告書が作られる。報告書を読むための会議まで開かれることもある。クマ社会には、そうした無駄も含めて一切存在しないのである。
ここで重要なのは、利益と損失の違いである。クーラーボックスは現場に残る。ごみ置き場も残る。車の中の食べ物も残る。だから餌の情報は何度でも発見される。一方、列車にはねられた経験は本人と一緒に消える。利益は現場に残り、損失の経験は死んだ個体とともに消えるのである。人間は時々、「何頭か駆除すれば他のクマも懲りるだろう」と期待する。しかし、危険の記憶は個体ごとに途切れ、餌の情報だけが環境の中に残り続ける。そうなれば学習の方向は自然に決まる。人里は危険な場所である前に、魅力的な餌場なのだ。
考えてみれば、人間社会もあまり威張れない。事故が起きれば再発防止策を作る。不祥事が起きれば第三者委員会を設置する。そして、よく似た事故や不祥事が再び起きる。そのたびに前回の報告書を探し出し、「教訓を生かしたい」と神妙な顔で語る。人間は豊かな情報共有の仕組みを持っている。ところが共有された情報が期待通りに活用されるとは限らないらしい。どうやら学習というものは、私たちが思っているほど万能ではないのである。
増えるのは「人間を恐れるクマ」ではなく、「人間社会の利用法を覚えたクマ」かもしれない。クマは今日も線路や道路を使いごみ置き場へ向かう。人間は今日も廊下を使って会議室へ向かう。どちらも餌場を目指している点では、それほど大きな違いはない。違いがあるとすれば、人間はその途中で報告書を作ることくらいだろう。
世間はクマを森の賢者として語りたがる。しかし統計と行動を並べてみると、そこに見えるのは利益には敏感で、危険には案外鈍感な大型哺乳類の姿である。そしてその特徴だけなら、人間もあまりクマやシカを笑えそうにない。結局、人里との距離を保つには個体数管理を軸とした抜本的な対策しかないのだろう。だが、その話になると途端に議論は保護か安全かの堂々巡りを始める。どうやら学習能力については、人間も野生動物にそれほど大きな差をつけらないらしい。
高度人材育成と職業高校 ― 2026年10月25日
埼玉県立熊谷工業高校が、国の公立高校教育改革における「改革先導拠点」に選ばれたという。私立高校の授業料無償化による公立高離れへの対策として、埼玉県は国の補助金など約21億円を投入し、建築や電気など五学科を横断する学習や最新デジタル設備の導入を進めるそうだ。目標は「AI時代に対応する高度な実践的人材」の育成であり、新聞も期待を込めて報じている。もっとも役所も新聞も昔から新しい横文字が大好きだ。「高度人材」「DX」「イノベーション」。看板を掛け替えるたびに未来が近づいてくる気がするらしい。しかし看板を支える柱の話になると、なぜか急に口数が少なくなるのである。
新聞や役所の言う「高度人材」とは、きれいなオフィスでパソコンに向かう人か、先端ITを扱う技術者のことなのだろう。しかし世の中は画面の中だけでは動いていない。どれほど立派な設計図を描こうと、実際に鉄骨を組み、コンクリートを打ち、電線をつなぎ、機械を修理する人がいなければ現実には何も完成しない。停電になれば復旧する人が必要だし、水道が壊れれば直す人が必要だ。AIが未来を語っているあいだも、高所で命綱を付けて作業をしている人がいる。未来社会というものは、どうやら泥だらけの長靴の上に建っているらしい。
もちろん工業高校でデジタル教育を進めること自体は悪い話ではない。今どきの建設機械も工作機械もコンピューター抜きでは動かない。しかし人手不足の話になると、教育改革ばかりが注目されるのはいささか不思議である。建設、設備、電気、機械保全。どの業界も人が足りないと言われて久しい。それなのに若者へ示される将来像は、「責任は重いが給料はそこそこ」「社会を支えるが評価は控えめ」というものだったりする。これで人が集まらないと嘆くのは、魚を減らした池の前で「最近は魚が釣れない」と首をひねるような話だ。原因の方が、自分から逃げていくのである。
お役所は人手不足になるたびに会議を開き、有識者は報告書を書き、新聞は深刻そうな顔で特集を組む。そして最後はたいていAIか外国人労働者の話になる。もちろんそれぞれ必要な場面はあるだろう。しかし、技能者が集まらない理由を考えるなら、まず待遇や社会的評価の話から始めるべきではないか。ところがそちらはあまり語られず、「人材確保策」「リスキリング」「成長戦略」と新しい言葉ばかり増えていく。病気の診断は避けながら、薬の包み紙だけを毎年新しくしているようなものである。中身が効かないのに包装だけ立派になっていく。
産業というものは富士山によく似ている。山頂には研究者や経営者や高度技術者がいる。しかし、その雄大な姿を支えているのは広大な裾野であり、現場の技能者や職人である。裾野を削りながら頂上だけ高くしようとしても長続きするはずがない。ドイツなどでは職業教育と実務訓練が社会の中に組み込まれ、技能者が専門職として評価されている。だから若者も誇りを持ってその道を選ぶ。対して日本では、ときどき「勉強しないと楽な仕事に就けない」などという言葉を耳にする。職人不足を嘆きながら職人を罰ゲームのように語るのだから、ずいぶんな国である。
21億円をかけて最新設備をそろえるのは結構である。むしろ必要な投資だろう。しかし本当に工業高校を魅力ある学校にしたいなら、卒業した技能者が高い収入を得て、社会から尊敬される仕組みを整える方が先ではないか。子どもたちが「あの仕事は格好いい」「あの資格を取れば一人前だ」と憧れるようになれば、定員割れや募集停止を心配する必要も小さくなる。21億円の機械は十年もすれば古くなる。しかし職人への敬意は故障もしないし、更新費用もかからない。もっとも、日本社会は何十年もその投資を見送ってきた。最近は職人不足が問題だと言いながら、職人を支えるDXの話ばかりしている。脚立が足りないのではない。上る人が足りないのである。
新聞や役所の言う「高度人材」とは、きれいなオフィスでパソコンに向かう人か、先端ITを扱う技術者のことなのだろう。しかし世の中は画面の中だけでは動いていない。どれほど立派な設計図を描こうと、実際に鉄骨を組み、コンクリートを打ち、電線をつなぎ、機械を修理する人がいなければ現実には何も完成しない。停電になれば復旧する人が必要だし、水道が壊れれば直す人が必要だ。AIが未来を語っているあいだも、高所で命綱を付けて作業をしている人がいる。未来社会というものは、どうやら泥だらけの長靴の上に建っているらしい。
もちろん工業高校でデジタル教育を進めること自体は悪い話ではない。今どきの建設機械も工作機械もコンピューター抜きでは動かない。しかし人手不足の話になると、教育改革ばかりが注目されるのはいささか不思議である。建設、設備、電気、機械保全。どの業界も人が足りないと言われて久しい。それなのに若者へ示される将来像は、「責任は重いが給料はそこそこ」「社会を支えるが評価は控えめ」というものだったりする。これで人が集まらないと嘆くのは、魚を減らした池の前で「最近は魚が釣れない」と首をひねるような話だ。原因の方が、自分から逃げていくのである。
お役所は人手不足になるたびに会議を開き、有識者は報告書を書き、新聞は深刻そうな顔で特集を組む。そして最後はたいていAIか外国人労働者の話になる。もちろんそれぞれ必要な場面はあるだろう。しかし、技能者が集まらない理由を考えるなら、まず待遇や社会的評価の話から始めるべきではないか。ところがそちらはあまり語られず、「人材確保策」「リスキリング」「成長戦略」と新しい言葉ばかり増えていく。病気の診断は避けながら、薬の包み紙だけを毎年新しくしているようなものである。中身が効かないのに包装だけ立派になっていく。
産業というものは富士山によく似ている。山頂には研究者や経営者や高度技術者がいる。しかし、その雄大な姿を支えているのは広大な裾野であり、現場の技能者や職人である。裾野を削りながら頂上だけ高くしようとしても長続きするはずがない。ドイツなどでは職業教育と実務訓練が社会の中に組み込まれ、技能者が専門職として評価されている。だから若者も誇りを持ってその道を選ぶ。対して日本では、ときどき「勉強しないと楽な仕事に就けない」などという言葉を耳にする。職人不足を嘆きながら職人を罰ゲームのように語るのだから、ずいぶんな国である。
21億円をかけて最新設備をそろえるのは結構である。むしろ必要な投資だろう。しかし本当に工業高校を魅力ある学校にしたいなら、卒業した技能者が高い収入を得て、社会から尊敬される仕組みを整える方が先ではないか。子どもたちが「あの仕事は格好いい」「あの資格を取れば一人前だ」と憧れるようになれば、定員割れや募集停止を心配する必要も小さくなる。21億円の機械は十年もすれば古くなる。しかし職人への敬意は故障もしないし、更新費用もかからない。もっとも、日本社会は何十年もその投資を見送ってきた。最近は職人不足が問題だと言いながら、職人を支えるDXの話ばかりしている。脚立が足りないのではない。上る人が足りないのである。
ボルボの馘首とEUの過信 ― 2026年10月24日
ボルボが世界で約2500人の人員削減に踏み切る。そのうち約2000人は本国スウェーデンである。人口規模で換算すれば、日本なら2万人超の人員削減に近い大量馘首だ。経営陣は中国市場の低迷や関税問題、事業環境の変化を理由に挙げる。しかし企業が苦境に陥るたびに登場する説明はだいたい同じだ。「構造改革」「事業転換」「市場環境の変化」。どれも間違いではないが、最後に代償を支払う人物の名前は隠されている。請求書を渡されるのは現場の従業員である。経営戦略の失敗は難解な経営用語に化け、解雇通知となって届く。今回の人員削減もまた、一企業のリストラというより、欧州自動車産業が抱いた二つの幻想の清算と見るべきだろう。
第一の幻想は、脱炭素を掲げれば世界が予定表どおりEVへ移行するという発想である。もちろんEVそのものが失敗だったわけではない。充電設備は増え、電池性能も向上した。しかし技術の進歩と、根本的な制約の解消は別問題だ。とりわけ寒冷地では、バッテリー性能の低下と暖房による電力消費という課題が今も残り劇的な解決には至っていない。北欧の長い冬に航続距離は縮み、利用者は暖房の使用さえ気にしなければならない。未来の技術は魅力的だが、消費者は未来に住んでいるわけではない。今日、便利で安心して使えるかどうかで判断する。政策担当者は未来から現在を眺めるが、消費者は現在から未来を眺める。その違いを見誤れば市場は動かない。
ところがEUは市場や技術の成熟を待つより先に結論を決めた。脱炭素という目標から逆算し、事実上EVを勝者として扱ったのである。本来、どの技術が生き残るかは競争が決める。企業が失敗し、改良し、価格を下げ、消費者が選ぶ。その過程で技術は磨かれる。ところが欧州は競争の結果を待たず、思想と政策で勝者を指名した。計画経済が繰り返し失敗したのは、市場より賢い計画担当者が存在しなかったからだ。それにもかかわらず、欧州は自分たちだけは例外になれると思ったらしい。しかし市場は命令を聞かなかった。市場には投票箱はないが、消費者には財布がある。そして財布はしばしば政策より正直である。
第二の幻想は、中国という巨大市場への期待だった。欧州メーカーはその規模に魅了され、現地生産や技術協力を進めてきた。しかし中国は単なる顧客ではない。国家主導で産業を育成し、自国企業を競争力ある存在へ押し上げるためなら技術も盗む権威主義国家でもある。外国企業が技術を持ち込み、中国企業が経験を蓄積し、やがて競争相手となる。この構図は日本企業も経験してきた。さらに皮肉なのは、EVシフトを進めるほど中国依存も深まったことだ。電池や重要鉱物の精錬など供給網の要所には中国が座っている。脱中国を唱えながら、中国なしでは脱炭素政策を進められない。石油依存から脱却すると宣言しながら、新たな依存先へ駆け込んでいたようなものだった。
しかもボルボ自身は現在、中国の吉利グループ傘下にある。中国市場の成長に期待し、中国資本の傘下に入り、その中国市場の競争激化に苦しむ。なかなか皮肉な事業計画である。かつて成長の象徴だった市場が、今では利益を圧迫する側に回った。その事実は、グローバル化が常に相互利益をもたらすという楽観論の危うさを物語る。欧州は市場開放と相互利益を信じた。しかし国際競争は道徳教育ではない。どの国も自国の利益を追求し、企業を育て、産業を守る。こちらだけが理想を語っても、相手まで同じ理想を共有してくれる保証はない。欧州は市場規模に酔い、中国は産業育成に集中した。その結果、理想を語った側より現実を見ていた側が力をつけたのである。
ボルボの2500人削減は、単なる業績不振のニュースではない。脱炭素の理想を技術の現実より先に置いたこと。そして巨大市場への期待を警戒心より優先したこと。その二つの過信が招いた結果である。環境政策は産業政策の代用品ではない。巨大市場は利益の保証人でもない。有望な技術への投資と、その技術に会社の命運を賭けることも別である。ボルボは長年、安全で頑丈な車を作ることで評価を築いてきた。しかし企業に本当に必要なのは、衝突試験に耐える車だけではない。流行や政治目標、市場幻想との衝突にも耐えられる経営戦略である。車の衝突試験には合格できても、経営戦略の衝突試験には不合格だったらしい。そして理想を語った政治家も、戦略を描いた経営者も職を失わない。脱炭素グローバリズムが振り出した手形を、最後に現金で支払わされたのは現場の労働者だったのである。
第一の幻想は、脱炭素を掲げれば世界が予定表どおりEVへ移行するという発想である。もちろんEVそのものが失敗だったわけではない。充電設備は増え、電池性能も向上した。しかし技術の進歩と、根本的な制約の解消は別問題だ。とりわけ寒冷地では、バッテリー性能の低下と暖房による電力消費という課題が今も残り劇的な解決には至っていない。北欧の長い冬に航続距離は縮み、利用者は暖房の使用さえ気にしなければならない。未来の技術は魅力的だが、消費者は未来に住んでいるわけではない。今日、便利で安心して使えるかどうかで判断する。政策担当者は未来から現在を眺めるが、消費者は現在から未来を眺める。その違いを見誤れば市場は動かない。
ところがEUは市場や技術の成熟を待つより先に結論を決めた。脱炭素という目標から逆算し、事実上EVを勝者として扱ったのである。本来、どの技術が生き残るかは競争が決める。企業が失敗し、改良し、価格を下げ、消費者が選ぶ。その過程で技術は磨かれる。ところが欧州は競争の結果を待たず、思想と政策で勝者を指名した。計画経済が繰り返し失敗したのは、市場より賢い計画担当者が存在しなかったからだ。それにもかかわらず、欧州は自分たちだけは例外になれると思ったらしい。しかし市場は命令を聞かなかった。市場には投票箱はないが、消費者には財布がある。そして財布はしばしば政策より正直である。
第二の幻想は、中国という巨大市場への期待だった。欧州メーカーはその規模に魅了され、現地生産や技術協力を進めてきた。しかし中国は単なる顧客ではない。国家主導で産業を育成し、自国企業を競争力ある存在へ押し上げるためなら技術も盗む権威主義国家でもある。外国企業が技術を持ち込み、中国企業が経験を蓄積し、やがて競争相手となる。この構図は日本企業も経験してきた。さらに皮肉なのは、EVシフトを進めるほど中国依存も深まったことだ。電池や重要鉱物の精錬など供給網の要所には中国が座っている。脱中国を唱えながら、中国なしでは脱炭素政策を進められない。石油依存から脱却すると宣言しながら、新たな依存先へ駆け込んでいたようなものだった。
しかもボルボ自身は現在、中国の吉利グループ傘下にある。中国市場の成長に期待し、中国資本の傘下に入り、その中国市場の競争激化に苦しむ。なかなか皮肉な事業計画である。かつて成長の象徴だった市場が、今では利益を圧迫する側に回った。その事実は、グローバル化が常に相互利益をもたらすという楽観論の危うさを物語る。欧州は市場開放と相互利益を信じた。しかし国際競争は道徳教育ではない。どの国も自国の利益を追求し、企業を育て、産業を守る。こちらだけが理想を語っても、相手まで同じ理想を共有してくれる保証はない。欧州は市場規模に酔い、中国は産業育成に集中した。その結果、理想を語った側より現実を見ていた側が力をつけたのである。
ボルボの2500人削減は、単なる業績不振のニュースではない。脱炭素の理想を技術の現実より先に置いたこと。そして巨大市場への期待を警戒心より優先したこと。その二つの過信が招いた結果である。環境政策は産業政策の代用品ではない。巨大市場は利益の保証人でもない。有望な技術への投資と、その技術に会社の命運を賭けることも別である。ボルボは長年、安全で頑丈な車を作ることで評価を築いてきた。しかし企業に本当に必要なのは、衝突試験に耐える車だけではない。流行や政治目標、市場幻想との衝突にも耐えられる経営戦略である。車の衝突試験には合格できても、経営戦略の衝突試験には不合格だったらしい。そして理想を語った政治家も、戦略を描いた経営者も職を失わない。脱炭素グローバリズムが振り出した手形を、最後に現金で支払わされたのは現場の労働者だったのである。
サイバー攻撃と国会 ― 2026年10月23日
火事が起きている。しかもボヤ騒ぎではない。企業の基幹システムが停止し、顧客情報が流出する。自治体や医療機関まで攻撃の標的となり、社会を支える神経網そのものが揺さぶられている。ところが、その火事のすぐ横にある国会では、週刊誌が報じた政治家の疑惑をめぐる論戦が連日続く。サイバー防衛の議論は数分で終わり、疑惑追及には何十分、時には何時間も費やされる。燃えている家の前で隣人の噂話に花を咲かせているようなものだ。しかも私たちは野次馬ではない。その家の持ち主である。自分たちの家が燃えているのに、隣の話ばかり気にしているのだから、笑うに笑えない。
もちろん政治家の不正を追及するなと言うつもりはない。権力の監視は民主主義の根幹であり、国会の重要な役割である。しかし目の前で火の手が上がっているなら、まず消火を急ぐのが常識だろう。週刊誌報道には見せ場がある。鋭い質問も苦しい答弁もテレビ映えする。質問と答弁がかみ合わなければニュースにもなる。しかしサイバー攻撃は国会中継の盛り上がりなど待ってはくれない。攻撃者は侵入し、潜伏し、弱点を探し続ける。被害の検知や復旧に拍手はないが、国民生活を支えるのはむしろその地味な仕事なのである。
しかも問題は外からの攻撃だけではない。日本には古いシステムが今も数多く残されている。中にはサポートが終了したPHPなど、更新の止まった技術基盤の上で動き続けるものもある。脆弱性が見つかれば、民間企業の現場は直ちに動き出す。担当者はサーバーの状態を確認し、夜中まで点検作業を続ける。場合によっては売上への影響を覚悟しながらホームページを緊急停止し、利用者への説明に追われる。攻撃者はゼロから城壁を破ろうとしているわけではない。閉め忘れた勝手口を探しているのである。サポート切れのシステムは、その勝手口になりかねない。今回のPHPの古い穴は深刻だ。サーバー丸ごと乗っ取られる。
だが、その頃国会では何が話し合われているのか。企業や自治体の担当者が眠れぬ夜を過ごし、病院や公共機関がシステム障害に備えて緊張を続ける横で、相変わらず週刊誌記事をめぐる応酬が続いている。現場は火消しに奔走しているのに、政治だけが火の勢いより噂話の真偽を優先しているように見える。会社なら緊急対策本部が立ち上がる局面で、永田町だけが平常運転なのである。
電力、物流、医療、行政は情報システムという神経系で結ばれている。病院が止まれば診療が滞り、自治体が機能不全になれば住民サービスが麻痺する。物流が止まれば店頭から商品が消え、工場が止まれば生産も止まる。現代社会は便利になった分だけ、システム障害への耐性を失った。火事が起きてから消火器を買いに走るのでは遅い。消火器の予算や配置を議論している間に家が燃え尽きれば、損害は取り返せない。
世界の主要国はこの危険を前提として動いている。サイバー防衛の強化に多額の予算を投じ、人材育成や監視体制の整備を進めている。一方、日本も対策を進めてはいるが、その危機感が国会審議の時間配分に表れているとは言い難い。米国が何十台もの消防車を並べている横で、日本はまだバケツの数を数えているようなものだ。火事の規模が違うのではない。消火に用意している水の量が違うのである。
必要なのは看板や計画書ではない。強力な司令塔、十分な予算と専門人材、重要インフラの監視体制、そして自治体や医療機関を含めた復旧訓練である。国会が問うべきは計画書のページ数ではなく、攻撃を受けたとき何を守り、どこまで被害を抑え、何時間で社会機能を回復できるのかという現実的な能力だ。国民の生命と暮らしを支える基盤を守ることは、一省庁だけに任せて済む問題ではない。
国会の時間は有限である。何に時間を使っているかを見れば、その国が何を優先しているかが分かる。疑惑があれば追及すればよい。しかし火事の消火を後回しにしてまで続けることなのか。民間企業では脆弱性が見つかればホームページを止める。売上が減ると分かっていても止める。火事だからである。ところが国会は違うらしい。こちらは家が燃えていても、まず隣人の噂話から片付ける。サポートの切れたシステムが放置されるのも、サイバー防衛の予算が伸びないのも、攻撃への備えが後手に回るのも、結局は同じ理由である。政治が火事より噂話を優先しているからだ。
国会は火災報知器ではない。消防署である。ベルを鳴らし続けるだけなら誰でもできる。火を消す人がいなければ家は灰になる。今、国会が向き合うべきなのは週刊誌の見出しではない。静かに、しかし確実に燃え広がりつつある日本の社会基盤そのものなのである。
もちろん政治家の不正を追及するなと言うつもりはない。権力の監視は民主主義の根幹であり、国会の重要な役割である。しかし目の前で火の手が上がっているなら、まず消火を急ぐのが常識だろう。週刊誌報道には見せ場がある。鋭い質問も苦しい答弁もテレビ映えする。質問と答弁がかみ合わなければニュースにもなる。しかしサイバー攻撃は国会中継の盛り上がりなど待ってはくれない。攻撃者は侵入し、潜伏し、弱点を探し続ける。被害の検知や復旧に拍手はないが、国民生活を支えるのはむしろその地味な仕事なのである。
しかも問題は外からの攻撃だけではない。日本には古いシステムが今も数多く残されている。中にはサポートが終了したPHPなど、更新の止まった技術基盤の上で動き続けるものもある。脆弱性が見つかれば、民間企業の現場は直ちに動き出す。担当者はサーバーの状態を確認し、夜中まで点検作業を続ける。場合によっては売上への影響を覚悟しながらホームページを緊急停止し、利用者への説明に追われる。攻撃者はゼロから城壁を破ろうとしているわけではない。閉め忘れた勝手口を探しているのである。サポート切れのシステムは、その勝手口になりかねない。今回のPHPの古い穴は深刻だ。サーバー丸ごと乗っ取られる。
だが、その頃国会では何が話し合われているのか。企業や自治体の担当者が眠れぬ夜を過ごし、病院や公共機関がシステム障害に備えて緊張を続ける横で、相変わらず週刊誌記事をめぐる応酬が続いている。現場は火消しに奔走しているのに、政治だけが火の勢いより噂話の真偽を優先しているように見える。会社なら緊急対策本部が立ち上がる局面で、永田町だけが平常運転なのである。
電力、物流、医療、行政は情報システムという神経系で結ばれている。病院が止まれば診療が滞り、自治体が機能不全になれば住民サービスが麻痺する。物流が止まれば店頭から商品が消え、工場が止まれば生産も止まる。現代社会は便利になった分だけ、システム障害への耐性を失った。火事が起きてから消火器を買いに走るのでは遅い。消火器の予算や配置を議論している間に家が燃え尽きれば、損害は取り返せない。
世界の主要国はこの危険を前提として動いている。サイバー防衛の強化に多額の予算を投じ、人材育成や監視体制の整備を進めている。一方、日本も対策を進めてはいるが、その危機感が国会審議の時間配分に表れているとは言い難い。米国が何十台もの消防車を並べている横で、日本はまだバケツの数を数えているようなものだ。火事の規模が違うのではない。消火に用意している水の量が違うのである。
必要なのは看板や計画書ではない。強力な司令塔、十分な予算と専門人材、重要インフラの監視体制、そして自治体や医療機関を含めた復旧訓練である。国会が問うべきは計画書のページ数ではなく、攻撃を受けたとき何を守り、どこまで被害を抑え、何時間で社会機能を回復できるのかという現実的な能力だ。国民の生命と暮らしを支える基盤を守ることは、一省庁だけに任せて済む問題ではない。
国会の時間は有限である。何に時間を使っているかを見れば、その国が何を優先しているかが分かる。疑惑があれば追及すればよい。しかし火事の消火を後回しにしてまで続けることなのか。民間企業では脆弱性が見つかればホームページを止める。売上が減ると分かっていても止める。火事だからである。ところが国会は違うらしい。こちらは家が燃えていても、まず隣人の噂話から片付ける。サポートの切れたシステムが放置されるのも、サイバー防衛の予算が伸びないのも、攻撃への備えが後手に回るのも、結局は同じ理由である。政治が火事より噂話を優先しているからだ。
国会は火災報知器ではない。消防署である。ベルを鳴らし続けるだけなら誰でもできる。火を消す人がいなければ家は灰になる。今、国会が向き合うべきなのは週刊誌の見出しではない。静かに、しかし確実に燃え広がりつつある日本の社会基盤そのものなのである。
ドラマ:ブラッサム宇野千代不在 ― 2026年10月22日
宇野千代という人は、世間が考える「立派な女性」とは少し違う。恋をする。失敗する。借金をする。また恋をする。また失敗する。それでも懲りない。普通の人間なら、人生で何度か痛い目に遭えば少しは慎重になるものだが、この人は懲りるどころか、次に面白そうなものを見つけては、そちらへ歩いていってしまう。だから宇野千代をモデルにしたドラマと聞けば、多くの人は、岩国の町に収まりきらない娘が、世間の常識をものともせず、自分の人生を切り開いていく物語を想像する。ところが『ブラッサム』を見ていると、どうも様子が違う。
主人公は父に苦しめられ、地域社会に苦しめられ、恋愛に苦しめられ、時代に苦しめられる。周囲の理不尽に耐えながら成長する。朝ドラとしては王道であり、視聴者にも分かりやすい構図である。しかし、宇野千代という素材に限って言えば、いささか行儀が良すぎる。そこにいるのは、どこかで見たような受難型ヒロインであって、後年の宇野千代を思わせる型破りな人物ではない。見えてくるのは反発より従順さであり、冒険心より被害者性である。苦難を乗り越える物語にはなっていても、苦難などものともせず突き進む人物の物語にはなっていない。
そもそも大正初期の岩国は、ドラマが描くような同調圧力ばかりの町だったのだろうか。高等女学校があり、文学に興味を持つ少女たちがいて、全国の雑誌文化も流れ込んでいた時代である。古い価値観は確かに根強かった。しかし同時に、新しい価値観も育っていた。だからこそ宇野千代のような人物が生まれたのではないか。町中が同じ価値観だけで動く閉鎖社会だったなら、彼女は自分の個性を伸ばす前に押し潰されていただろう。歴史の面白さは、古いものと新しいものがせめぎ合うところにある。社会の圧力ばかりを強調すれば、そこからはみ出す人間が生まれる土壌まで見えなくなってしまう。
東京行きの描かれ方にも同じ違和感がある。ドラマの主人公は、周囲の事情に追い立てられて故郷を離れる人物に見える。しかし宇野千代の人生から伝わってくるのは、追放より脱出、いや、脱出というより飛び出しである。故郷が嫌いだったからではない。故郷にとどまるより、広い世界を見たかった。面白い人間がいる場所へ行きたかった。何か新しいことが始まりそうな場所へ移りたかった。その旺盛な好奇心こそが、彼女の人生を動かしたエンジンだったはずだ。周囲に押し出されて動くのと、自分から面白そうな場所へ飛び込むのとでは、同じ上京でも意味がまるで違う。
だから配役論も、本当は演技力の問題ではない。石橋静河が悪いという話ではないのである。例えば河合優実なら、もっと反発心や我の強さが見えたかもしれない。かつての石原さとみや、若い頃ののんなら、町に収まりそうにない空気を自然に漂わせたかもしれない。しかし本質はそこではない。どんな女優であっても、主人公が「耐える人」として書かれていれば、宇野千代の怪物性は見えてこない。必要なのは、苦難に耐える演技ではなく、周囲が眉をひそめようがお構いなしに好奇心を追いかける人物の造形である。問題は配役より先に、人物設計にある。
結局、このドラマへの違和感は、史実との細かな食い違いではない。履歴書は宇野千代なのである。岩国もある。女学校もある。教員生活もある。上京もある。しかし肝心の人格が薄い。描かれているのは宇野千代の人生であって、宇野千代の生命力ではない。宇野千代とは、本来「頑張れ」と応援したくなる人ではなく、「またやったのか」と呆れながらも目が離せなくなる人である。常識に押し潰された人ではなく、常識の方が持て余した人だった。だからこそ何度失敗しても面白く、何度転んでも物語になる。『ブラッサム』を見終えるたびに思う。宇野千代を主人公にしたはずなのに、いちばん不在なのは宇野千代その人である。
主人公は父に苦しめられ、地域社会に苦しめられ、恋愛に苦しめられ、時代に苦しめられる。周囲の理不尽に耐えながら成長する。朝ドラとしては王道であり、視聴者にも分かりやすい構図である。しかし、宇野千代という素材に限って言えば、いささか行儀が良すぎる。そこにいるのは、どこかで見たような受難型ヒロインであって、後年の宇野千代を思わせる型破りな人物ではない。見えてくるのは反発より従順さであり、冒険心より被害者性である。苦難を乗り越える物語にはなっていても、苦難などものともせず突き進む人物の物語にはなっていない。
そもそも大正初期の岩国は、ドラマが描くような同調圧力ばかりの町だったのだろうか。高等女学校があり、文学に興味を持つ少女たちがいて、全国の雑誌文化も流れ込んでいた時代である。古い価値観は確かに根強かった。しかし同時に、新しい価値観も育っていた。だからこそ宇野千代のような人物が生まれたのではないか。町中が同じ価値観だけで動く閉鎖社会だったなら、彼女は自分の個性を伸ばす前に押し潰されていただろう。歴史の面白さは、古いものと新しいものがせめぎ合うところにある。社会の圧力ばかりを強調すれば、そこからはみ出す人間が生まれる土壌まで見えなくなってしまう。
東京行きの描かれ方にも同じ違和感がある。ドラマの主人公は、周囲の事情に追い立てられて故郷を離れる人物に見える。しかし宇野千代の人生から伝わってくるのは、追放より脱出、いや、脱出というより飛び出しである。故郷が嫌いだったからではない。故郷にとどまるより、広い世界を見たかった。面白い人間がいる場所へ行きたかった。何か新しいことが始まりそうな場所へ移りたかった。その旺盛な好奇心こそが、彼女の人生を動かしたエンジンだったはずだ。周囲に押し出されて動くのと、自分から面白そうな場所へ飛び込むのとでは、同じ上京でも意味がまるで違う。
だから配役論も、本当は演技力の問題ではない。石橋静河が悪いという話ではないのである。例えば河合優実なら、もっと反発心や我の強さが見えたかもしれない。かつての石原さとみや、若い頃ののんなら、町に収まりそうにない空気を自然に漂わせたかもしれない。しかし本質はそこではない。どんな女優であっても、主人公が「耐える人」として書かれていれば、宇野千代の怪物性は見えてこない。必要なのは、苦難に耐える演技ではなく、周囲が眉をひそめようがお構いなしに好奇心を追いかける人物の造形である。問題は配役より先に、人物設計にある。
結局、このドラマへの違和感は、史実との細かな食い違いではない。履歴書は宇野千代なのである。岩国もある。女学校もある。教員生活もある。上京もある。しかし肝心の人格が薄い。描かれているのは宇野千代の人生であって、宇野千代の生命力ではない。宇野千代とは、本来「頑張れ」と応援したくなる人ではなく、「またやったのか」と呆れながらも目が離せなくなる人である。常識に押し潰された人ではなく、常識の方が持て余した人だった。だからこそ何度失敗しても面白く、何度転んでも物語になる。『ブラッサム』を見終えるたびに思う。宇野千代を主人公にしたはずなのに、いちばん不在なのは宇野千代その人である。