旧統一教会の解散命令の判決 ― 2026年06月27日
最高裁は旧統一教会への解散命令を適法と判断した。新聞は淡々とそう伝えているが、淡々と書かれているからといって中身まで淡々としているわけではない。今回の判断は、なかなかに重たい話である。理屈をざっくり言えばこうだ。刑事事件で有罪が確定していなくても、宗教法人が組織的・継続的に公益を害したと行政が判断し、その蓋然性を裁判所が認めれば法人格を失わせることができる。教義には立ち入らない。信仰も禁じない。あくまで外部行為の問題だ――というのである。しかし、説明が通ることと違和感が消えることは別問題だ。
たとえば「家には住んでいい。ただし家は取り壊す」と言われたらどうだろう。住む自由は残っていると言われても、たいていの人は首をひねるはずだ。最高裁は「内心の自由は侵害しない」と言う。しかし宗教活動は、頭の中で静かに念じていれば成立するほど単純ではない。集まり、語り合い、組織を維持し、活動を続ける。その基盤を失わせながら「信仰は自由です」と言われても、どこか帳尻が合わない感じが残る。もちろん旧統一教会に対して世間の風当たりが強いのは理解できる。高額献金や霊感商法に反発を抱く人は少なくない。しかし、ここで問われるべきなのは好き嫌いではない。
民主主義国家の司法は、「嫌われ者だから厳しくする」という発想から最も遠い場所にいなければならない。世論が右へ走れば司法は左を見る。世論が左へ走れば司法は右を見る。そのくらいでちょうどいい。ところが安倍元首相銃撃事件以降の空気を振り返ると、話は単純ではない。警備体制の不備という本来の論点は脇へ追いやられ、報道は一斉に旧統一教会へ向かった。政治家との関係、選挙支援、献金問題。連日その話題が続き、社会全体が一つの方向へ傾いていった印象は否定しがたい。
その一方で、信者側が訴えてきた拉致監禁や強制棄教の問題は、同じ熱量では扱われなかった。もちろん、それで献金問題が消えるわけではない。しかし片方だけを拡大鏡で見て、もう片方にはレンズを向けないのであれば、社会の認識は偏る。司法に求められるのは、その偏りから距離を取ることだ。今回の判断で気になるのは、解散命令という極めて重い処分と、その前提となる立証の重さが釣り合っているのかという点である。刑事有罪の積み重ねではなく、民事上の不法行為などを含めた総合評価で法人解散に至る。その制度設計は法律上認められているとしても、「公益」という言葉の伸び縮みひとつで国家が宗教法人の存続を左右できる構造には慎重であるべきだろう。
司法とは、本来は世の中の空気を測る風見鶏ではない。みんなが同じ方向を向いたときほど、「本当にそうか」と問い続ける役目を担う存在である。今回の判決が法的に正しいのかどうかは、これからも議論されるだろう。しかし、「嫌われた団体だから厳しい処分もやむを得ない」という空気が少しでも判断の背景に入り込んでいたのだとしたら、それは旧統一教会だけの問題では終わらない。法治国家というものは、誰からも擁護されたくないような相手の権利を、それでも守れるかどうかで試されるのである。そして、その試験は案外いつも、世間が拍手している最中にやって来る。
たとえば「家には住んでいい。ただし家は取り壊す」と言われたらどうだろう。住む自由は残っていると言われても、たいていの人は首をひねるはずだ。最高裁は「内心の自由は侵害しない」と言う。しかし宗教活動は、頭の中で静かに念じていれば成立するほど単純ではない。集まり、語り合い、組織を維持し、活動を続ける。その基盤を失わせながら「信仰は自由です」と言われても、どこか帳尻が合わない感じが残る。もちろん旧統一教会に対して世間の風当たりが強いのは理解できる。高額献金や霊感商法に反発を抱く人は少なくない。しかし、ここで問われるべきなのは好き嫌いではない。
民主主義国家の司法は、「嫌われ者だから厳しくする」という発想から最も遠い場所にいなければならない。世論が右へ走れば司法は左を見る。世論が左へ走れば司法は右を見る。そのくらいでちょうどいい。ところが安倍元首相銃撃事件以降の空気を振り返ると、話は単純ではない。警備体制の不備という本来の論点は脇へ追いやられ、報道は一斉に旧統一教会へ向かった。政治家との関係、選挙支援、献金問題。連日その話題が続き、社会全体が一つの方向へ傾いていった印象は否定しがたい。
その一方で、信者側が訴えてきた拉致監禁や強制棄教の問題は、同じ熱量では扱われなかった。もちろん、それで献金問題が消えるわけではない。しかし片方だけを拡大鏡で見て、もう片方にはレンズを向けないのであれば、社会の認識は偏る。司法に求められるのは、その偏りから距離を取ることだ。今回の判断で気になるのは、解散命令という極めて重い処分と、その前提となる立証の重さが釣り合っているのかという点である。刑事有罪の積み重ねではなく、民事上の不法行為などを含めた総合評価で法人解散に至る。その制度設計は法律上認められているとしても、「公益」という言葉の伸び縮みひとつで国家が宗教法人の存続を左右できる構造には慎重であるべきだろう。
司法とは、本来は世の中の空気を測る風見鶏ではない。みんなが同じ方向を向いたときほど、「本当にそうか」と問い続ける役目を担う存在である。今回の判決が法的に正しいのかどうかは、これからも議論されるだろう。しかし、「嫌われた団体だから厳しい処分もやむを得ない」という空気が少しでも判断の背景に入り込んでいたのだとしたら、それは旧統一教会だけの問題では終わらない。法治国家というものは、誰からも擁護されたくないような相手の権利を、それでも守れるかどうかで試されるのである。そして、その試験は案外いつも、世間が拍手している最中にやって来る。