伊東市政の迷走2025年09月11日

伊東市政の迷走
伊東市の政治は、もはや政策論争の舞台ではなく「田舎芝居」の見世物小屋と化している。図書館建設中止、メガソーラー反対、議会解散、市長不信任──本来なら地域の将来像を冷静に議論すべきテーマが、単なる権力ゲームの小道具にすり替えられてしまった。確かに田久保真紀市長の学歴詐称疑惑や説明責任の欠如は重い失点だ。だが議会側もまた「制度の番人」として冷静に対応するのではなく、全会一致で不信任を可決し、市長を政治的に吊し上げた。その光景は、まるで村社会の見せしめ裁判。制度の健全性を守るのではなく、地元政治の「誰が勝ったか」を競う権力ゲームに堕していた。結果、市長は議会解散という暴発に踏み切り、市政全体が迷走する悪循環を招いたのである。

本来なら、図書館建設の是非は政策的に議論されるべきだった。42億円という事業規模は人口6万人の自治体として他と比較すると必ずしも突出したものではない。むしろ教育・文化インフラとして地域経済に寄与し、将来世代への投資ともなり得る。にもかかわらず市長は「無駄遣い」とレッテルを貼り、代替案も出さずに建設中止を打ち出した。一方の議会は、まともな反論をせずに学歴詐称問題にすり替えて政争の材料に使い、市長攻撃に転化させただけだった。市民にとっては、政策論より「政局ショー」の印象ばかりが強まった。

メガソーラー問題も同じである。自然破壊や中国製パネル依存、再エネ賦課金の問題性といった具体的な論点を整理すれば、十分に政策論争の軸となり得たはずだ。田久保市長は議会全体がメガソーラーに賛成しているかのような構図を演出し、反市長運動をけん制する材料に使った。議会もまたメガソーラーに対する議論をせず詐称問題にのみ焦点化した。市長も議会も政策論ではなく、象徴的立場や政治的駆け引きが優先したことが、市政の混乱に拍車をかけた。

田久保市長が「迫害される改革者」を演じることで対抗したのもいただけない。55歳の市長を「ジャンヌ・ダルク」に見立てる支持層の熱狂は、地方政治特有の感情依存を物語っている。だが、その幻想に酔う一方で、制度や政策整合性を重視する若い世代からは冷めた視線を浴びているのも事実だ。結局、伊東市政の混乱は、市長と議会の双方が制度を軽んじ、物語と政局で市民を振り回した結果である。説明責任の空洞化が積み上げた政治的コストは決して小さくない。次の市長選で本当に問われるべきは、候補者個人の「物語」ではなく、制度をどう運用し、市民に説明責任を果たすのかという一点に尽きる。議会が再び「田舎政局劇」の演出に走るなら、伊東市は永遠に「漂流市政」のレッテルから逃れられないだろう。

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