『べらぼう』最終回2025年12月16日

 『べらぼう』最終回
ドラマ『べらぼう』最終回は、蔦屋重三郎の死と再生をめぐる場面を中心に、江戸文化の軽妙さと人間的な温かさが交錯する幕引きとなった。枕元に現れた狐様のお告げで、「午の刻に拍子木の音が鳴れば、この世の幕引きだ」と告げられる。翌朝、蔦重は事切れたようにていの身体に寄りかかり、臨終の場面を迎える。そこへ吉原の仲間たちが駆けつけ、一同は悲しみに暮れる。やがて町に午の刻を知らせる鐘が響くと、南畝が「呼び戻すぞ」と立ち上がり、涙ながらに「俺たちは屁だーっ!」と絶叫する。仲間たちは輪になり、「屁!屁!屁!」と唱えながら踊り続け、蔦重を励まし続ける。すると蔦重がゆっくり目を開き、少しうんざりした表情で「拍子木…聞こえねえんだけど」とつぶやく。仲間たちが「へ?」と驚いた瞬間、拍子木が鳴り響き、幕が下りる。

この「拍子木」とは、江戸芝居で幕引きに打たれる合図であり、同時に蔦重の死期を告げる象徴でもある。つまり、彼が「拍子木が聞こえない」と言うのは、死を回避し、芝居的にもまだ終わらないという二重の意味を持つユーモラスな仕掛けだ。

この演出は、史実に残る蔦重の最期の逸話──昼時に死ぬと予告した──を踏まえつつ、ドラマ的に戯けた締め方をしたという。脚本家・森下佳子が語るように「嘘かホントかわからない死にざま」を描く意図がここに表れている。蔦重は江戸出版界の「メディア王」として、歌麿や写楽を世に送り出した文化の仕掛け人であり、反骨の出版人でもあった。最終回ではその歴史的評価を踏まえつつ、仲間たちの「屁!」の合唱による蘇生劇が描かれ、庶民文化の明るさと連帯感が強調された。

さらに劇中では、写楽の正体をめぐる謎も洒落として演出された。写楽の号「東洲斎」を逆さにもじって「斎東洲」とし、そこから「斎藤十郎兵衛」へと結びつける仕掛けである。これは史実の有力説──写楽=徳島藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛──を視聴者に分かりやすく示すためのフィクションであり、江戸的な言葉遊びの妙を活かしたものだ。実際には「逆さ読み」で完全に「写楽」になるわけではないが、音や字をもじることで「しゃらく」と読めるように仕掛けられている。江戸文化における狂歌や洒落本の伝統を踏まえた遊び心であり、写楽の正体をめぐる最大の美術ミステリーをドラマ的に印象づける工夫だ。

総じて最終回は、死と再生、史実とフィクション、悲劇と笑いを巧みに織り交ぜた構成であった。蔦重の「拍子木…聞こえねえんだけど」というセリフは、死の合図を拒むと同時に芝居の終幕をずらすメタ的な仕掛けであり、観客に「まだ終わらない」という余韻を残す。仲間たちの「屁!」の合唱は、庶民文化の明るさと連帯を象徴し、蔦重の生き様を軽妙に讃える。写楽の正体をめぐる言葉遊びは、江戸文化の洒落と謎を重ね、視聴者に文化史的な奥行きを感じさせる。

こうして『べらぼう』は、史実の蔦屋重三郎の功績──歌麿や写楽を世に送り出した文化の仕掛け人、反骨の出版人、そして「江戸のメディア王」──を踏まえながら、ドラマならではの戯けたユーモアで締めくくった。最終回は、蔦重の死を描きつつも「まだ終わらない」という余韻を残し、江戸文化の軽妙さと人間的な温かさを観客に強く印象づけた。その演出は同時に、血の通わぬ現代メディアへの痛烈な批評としても響いている。

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