映画『急に具合が悪くなる』 ― 2026年07月18日
映画『急に具合が悪くなる』は、パリ郊外の介護施設を舞台にした、静かな長編である。老いと病、介護と芸術──重い言葉を並べればいくらでも硬くなる主題を、濱口竜介監督は196分の対話と沈黙で、そっと形にしていく。主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒は、互いの呼吸を確かめるように場を共有し、長尺にもかかわらず観客の集中を切らさない。難解な哲学映画を予想していた身には、肩すかしのように自然で、気づけば時間が過ぎている。
岡本多緒の語りは、淡々とどこか乾いた線で描かれたようにぶれない。マルキシズムの抽象論は少し遠く感じられるが、「地方の人間は、リベラリストの資本主義批判に違和感を覚える」という一言は、妙に胸に残る。黒崎煌代が演じる重度ASDの若者も、視線の揺れや声のテンポの乱れが、説明よりも先に“そこにいる”という事実を伝える。高齢者同士が互いの身体を支え合う場面は、濱口作品が探ってきた身体性の延長にありながら、より生活の温度に近い。触れ合う手の動きが、言葉よりも雄弁だ。
福祉制度の矛盾も、数字ではなく人の姿として描かれる。施設長のエフィラは、丁寧なケアを施すほど機能回復して介護度が下がり、施設の収入が減るという倒錯した現実に直面する。理念ではなく、彼女の肩の落ち方や視線の沈み方が制度の冷たさを語る。劇中劇のあと、長塚京三が「訳す必要はない」と静かに告げる場面も印象的だ。言語を越えて、同じ場にいることそのものが理解になる──そんな確信が、余白のように画面に漂う。
終盤、京丹波・和知の展望台からの風景が挿入される。山陰本線が山間を縫い、由良川がゆるやかに流れ、赤いアーチ橋がその上にかかる。京都人なら誰もが胸の奥にしまっている懐かしい構図だが、物語の中では「もはや帰れない場所」として映る。主人公はその風景を背に、故郷ではなく、フランスの介護施設で他者と最期を迎える道を選ぶ。国家や血縁よりも、身体を安心して預けられる他者──その結びつきこそが、人の最後の拠り所になる。
196分の二人の長い対話と高齢者同士の触れ合う沈黙は、冗長ではなく、線の細い絵が少しずつ輪郭を濃くしていくような時間だ。介護や認知症を扱う社会派映画でありながら、人間が他者と共に生き、老い、支え合うとは何かという問いへ静かに収斂していく。終映後に残るのは物語の結末ではなく、「誰に身体を預けて生きるのか」という、控えめだが深い問いである。良い映画だった。
岡本多緒の語りは、淡々とどこか乾いた線で描かれたようにぶれない。マルキシズムの抽象論は少し遠く感じられるが、「地方の人間は、リベラリストの資本主義批判に違和感を覚える」という一言は、妙に胸に残る。黒崎煌代が演じる重度ASDの若者も、視線の揺れや声のテンポの乱れが、説明よりも先に“そこにいる”という事実を伝える。高齢者同士が互いの身体を支え合う場面は、濱口作品が探ってきた身体性の延長にありながら、より生活の温度に近い。触れ合う手の動きが、言葉よりも雄弁だ。
福祉制度の矛盾も、数字ではなく人の姿として描かれる。施設長のエフィラは、丁寧なケアを施すほど機能回復して介護度が下がり、施設の収入が減るという倒錯した現実に直面する。理念ではなく、彼女の肩の落ち方や視線の沈み方が制度の冷たさを語る。劇中劇のあと、長塚京三が「訳す必要はない」と静かに告げる場面も印象的だ。言語を越えて、同じ場にいることそのものが理解になる──そんな確信が、余白のように画面に漂う。
終盤、京丹波・和知の展望台からの風景が挿入される。山陰本線が山間を縫い、由良川がゆるやかに流れ、赤いアーチ橋がその上にかかる。京都人なら誰もが胸の奥にしまっている懐かしい構図だが、物語の中では「もはや帰れない場所」として映る。主人公はその風景を背に、故郷ではなく、フランスの介護施設で他者と最期を迎える道を選ぶ。国家や血縁よりも、身体を安心して預けられる他者──その結びつきこそが、人の最後の拠り所になる。
196分の二人の長い対話と高齢者同士の触れ合う沈黙は、冗長ではなく、線の細い絵が少しずつ輪郭を濃くしていくような時間だ。介護や認知症を扱う社会派映画でありながら、人間が他者と共に生き、老い、支え合うとは何かという問いへ静かに収斂していく。終映後に残るのは物語の結末ではなく、「誰に身体を預けて生きるのか」という、控えめだが深い問いである。良い映画だった。