根拠なき『貧困徴兵』論2026年06月18日

経済的に厳しい子が自衛隊就職
六月の国会という場所は、ときどき時空のねじが一本ゆるむ。すると令和の議場に、なぜか昭和の空気がふわりと流れ込んでくる。今回の一幕も、まさにそんな“ねじのゆるみ”だった。参議院決算委員会で、立憲民主党の女性議員が「自衛隊に行くのは経済的に厳しい子どもたち。豊かな子どもは自衛官にならない」と発言したのである。聞いた瞬間、「あれ、いま何年でしたっけ」とカレンダーを見直したくなった人もいたのではないか。場内の空気はみるみる冷え込み、防衛相からは「偏見に満ちた見方だ」と反論が飛んだ。議員は発言を撤回したが、失言というものは床に落とした豆腐みたいなものである。拾うことはできる。しかし元の姿には戻らない。

しかもこの議員、元教師だという。ここから話が少しややこしくなる。居酒屋で酔ったおじさんが言ったのなら、「また始まった」で済む。しかし長年教壇に立っていた人の口から出ると、「その考え方で子供を見ていたのか」と気になってくる。理科室の戸棚の奥に、ホルマリン漬けの古い歪んだ国家観でも保存していたのかと疑いたくなる。教育現場というのは、時に外界の変化から切り離され、独自の気候をつくりがちな場所である。その空気が、国会のマイクの前までついてきてしまったのかもしれない。

不思議なのは、この話に根拠らしい根拠が見当たらないことだ。防衛省は入隊者の家庭の年収を調査していない。つまり「貧しい子が自衛隊へ行く」という説には、肝心の数字が存在しない。ところが数字はないのに物語だけは元気である。まるで目撃者はいないのに都市伝説だけが商店街を闊歩しているようなものだ。現実には、景気が良ければ民間企業へ進む人が増え、不景気になれば安定を求める人が増える。警察も消防も自衛隊も、その影響を受ける。自衛隊だけが特別な生き物ではない。サバンナのシマウマの群れの中で、一頭だけ「私は経済的徴兵制です」と名札を下げて歩いているわけではないのだ。

防衛大学校ともなれば、教育熱心な家庭の子どもも少なくない。都市部の出身者もいれば地方出身者もいる。裕福な家庭もあれば、ごく普通のサラリーマン家庭もある。野球好きもいればアニメ好きもいるだろう。要するに自衛隊は、日本社会の縮図に近い。それを「貧しい子の集団」と決めつけるのは、水族館を一周して「魚とはマグロである」と結論づけるような乱暴さである。さらに最近は「経済的徴兵制」という便利な言葉がある。便利な言葉というのは厄介で、冷蔵庫の万能調味料と同じで、何にでもかけたくなる。安定した給料がほしい、福利厚生がしっかりしている、将来が不安だから公務員を目指す──こうした理由で職業を選ぶ人は山ほどいる。もしそれを全部「経済的強制」と呼ぶなら、日本中の会社員は毎朝、満員電車に揺られながら企業へ徴兵されていることになる。

もちろん生活のために人は働く。しかし人間というのは、そんなに単純な生き物でもない。災害派遣の映像を見るたびに思う。泥だらけになって土砂を運び、避難所で風呂を設営し、孤立した集落へ物資を届ける。あれを見て「なるほど、給料だけが目的ですね」と言う人はあまりいないだろう。若者の志望動機というのは弁当のおかずに似ている。唐揚げもあれば卵焼きもあり、ウインナーもある。給料も欲しいし、やりがいも欲しいし、誰かの役に立ちたい気持ちもある。ところが今回の話は、その弁当をのぞき込んで「なるほど、これは白飯ですね」と言っているようなものだった。国防の話になると、ときどき「屋根を直す金があるなら座布団を新しくしろ」という議論が現れる。しかし雨漏りが始まれば、最後にはその座布団もびしょ濡れになる。

結局のところ、今回の失言は一人の議員の問題というより、日本社会のどこかにまだ残っている古い歪んだ思い込みが、ふと顔を出した出来事だったのだろう。令和の国会で昭和の偏見が口を開き、多くの人が「ああ、まだ残っていたのか」と振り返った。失言は撤回できる。しかし、その失言を生んだ考え方まで消えたかどうかは別の話だ。押し入れの奥から出てきた古い扇風機というのは不思議なもので、もう使わないと言いながら、なかなか捨てられない。今回の騒動もまた、そんな古い考え方が国会のどこかにまだ置かれていることを教えてくれたのである。

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