映画『52ヘルツのクジラたち』 ― 2026年06月15日
映画『52ヘルツのクジラたち』を見ていると、どうしてこうも悲劇を積み上げるのが好きなのかと首をかしげたくなる。虐待があり、孤独があり、共依存があり、さらにトランス青年の苦悩があり、最後には死まで登場する。もちろんどれも現実にある問題だが、あまりに次々と皿が出てくると、視聴者のほうが先に「すみません、もうお腹いっぱいで…」と言いたくなる。注文していないのに「本日の不幸盛り合わせ」を店員が真顔で追加してくる、あの感じである。
トランスジェンダーが登場すると、日本のドラマは高い確率で親との葛藤をメインディッシュに据える。事件が主題でも恋愛が主題でも、気がつけば話は家族関係へと流れ込んでいく。もちろん現実にも親の無理解はある。しかし、あまりに繰り返されると「はい、ここで親と衝突します」という定番コーナーに見えてくる。悲劇の雨雲がどの方向から流れてくるのか、視聴者のほうが先に天気図を読めてしまうのである。
興味深いのは、性的マイノリティの描かれ方に、どこか役割分担のようなものが見えることだ。ゲイは比較的軽やかな日常の中で描かれ、『おっさんずラブ』や『きのう何食べた?』では恋愛や暮らしの機微が丁寧に扱われる。しかし養子縁組や相続、介護や老後といった“現実の重さ”が出てくると、物語は急にそっと目をそらす。レズビアンは社会との摩擦や孤独を抱えながら描かれるが、トランスほど悲劇の中心には置かれず、かといって明るい日常劇の主役にもならない。スーパーの棚の端に置かれた、誰も手に取らないけれど確実にそこにある商品、あの感じである。
そしてトランスには、なぜか最も重い荷物が集中する。家族との対立、身体への葛藤、社会からの孤立。もちろん現実の課題を描くことは必要だ。しかしドラマになると、それ以外の姿が見えにくくなる。働くこと、笑うこと、友人と過ごすこと、恋をすること。誰にでもあるはずの日常が、悲劇の陰に押し込まれてしまう。まるで冷蔵庫の奥に押し込まれた豆腐のように、存在はしているのに、誰も取り出さない。
その点、アメリカドラマ『レジデント』は少し空気が違う。外科部長ベルの息子ジェイクは男性パートナーと共に養子を迎えるが、作品はその事実だけを延々と問題化しない。家族は戸惑い、受け入れ、そして普通に暮らしていく。「理解されるまで」だけでなく、「理解された後」がちゃんと描かれている。日本のドラマがよく忘れてしまう、あの“生活の続き”がそこにはある。
考えてみれば、多くの人の人生は悲劇だけでできているわけではない。傷つく日もあれば笑う日もある。失敗する日もあれば、何事もなく終わる退屈な日もある。ところが日本のドラマは、ときどきその退屈な日常を飛び越え、一足飛びに悲劇へ向かおうとする。しかし本当に社会の理解を深めるのは、案外その退屈な日常のほうではないだろうか。恋愛して、働いて、失敗して、愚痴をこぼして、翌朝また起きる。その当たり前の繰り返しの中にLGBTの人たちが自然に存在している。そんな姿がもっと描かれるようになったとき、「かわいそうな人の物語」から「同じ社会で生きる人の物語」へと、ドラマは静かに進化するのかもしれない。
トランスジェンダーが登場すると、日本のドラマは高い確率で親との葛藤をメインディッシュに据える。事件が主題でも恋愛が主題でも、気がつけば話は家族関係へと流れ込んでいく。もちろん現実にも親の無理解はある。しかし、あまりに繰り返されると「はい、ここで親と衝突します」という定番コーナーに見えてくる。悲劇の雨雲がどの方向から流れてくるのか、視聴者のほうが先に天気図を読めてしまうのである。
興味深いのは、性的マイノリティの描かれ方に、どこか役割分担のようなものが見えることだ。ゲイは比較的軽やかな日常の中で描かれ、『おっさんずラブ』や『きのう何食べた?』では恋愛や暮らしの機微が丁寧に扱われる。しかし養子縁組や相続、介護や老後といった“現実の重さ”が出てくると、物語は急にそっと目をそらす。レズビアンは社会との摩擦や孤独を抱えながら描かれるが、トランスほど悲劇の中心には置かれず、かといって明るい日常劇の主役にもならない。スーパーの棚の端に置かれた、誰も手に取らないけれど確実にそこにある商品、あの感じである。
そしてトランスには、なぜか最も重い荷物が集中する。家族との対立、身体への葛藤、社会からの孤立。もちろん現実の課題を描くことは必要だ。しかしドラマになると、それ以外の姿が見えにくくなる。働くこと、笑うこと、友人と過ごすこと、恋をすること。誰にでもあるはずの日常が、悲劇の陰に押し込まれてしまう。まるで冷蔵庫の奥に押し込まれた豆腐のように、存在はしているのに、誰も取り出さない。
その点、アメリカドラマ『レジデント』は少し空気が違う。外科部長ベルの息子ジェイクは男性パートナーと共に養子を迎えるが、作品はその事実だけを延々と問題化しない。家族は戸惑い、受け入れ、そして普通に暮らしていく。「理解されるまで」だけでなく、「理解された後」がちゃんと描かれている。日本のドラマがよく忘れてしまう、あの“生活の続き”がそこにはある。
考えてみれば、多くの人の人生は悲劇だけでできているわけではない。傷つく日もあれば笑う日もある。失敗する日もあれば、何事もなく終わる退屈な日もある。ところが日本のドラマは、ときどきその退屈な日常を飛び越え、一足飛びに悲劇へ向かおうとする。しかし本当に社会の理解を深めるのは、案外その退屈な日常のほうではないだろうか。恋愛して、働いて、失敗して、愚痴をこぼして、翌朝また起きる。その当たり前の繰り返しの中にLGBTの人たちが自然に存在している。そんな姿がもっと描かれるようになったとき、「かわいそうな人の物語」から「同じ社会で生きる人の物語」へと、ドラマは静かに進化するのかもしれない。