Michael マイケル ― 2026年06月20日
久々に「映画ってこうでなくっちゃ」と思わせてくれる作品に出会った。配信で何でも見られる時代になり、映画館へ行く理由はどこか理屈っぽくなる。「映像がきれいだから」「音響がいいから」「話題作だから」。そんな説明はいくらでもできる。だが本当に面白い映画は、そうした理由づけを一瞬で吹き飛ばす。この作品はまさにそれで、ポップコーンをつまむ手が止まり、気づけばスクリーンの中へ引きずり込まれていた。しかも中心で躍動するマイケルが本物ではないというのだから、映画という芸術はつくづく油断がならない。
まず圧倒されるのが、少年時代のマイケルを演じたジュリアーノ君だ。Instagramで46万人を超えるフォロワーを持ち、マイケルになりきった動画で人気を集めてきた“界隈の有名人”である。キレのあるダンスやムーンウォークはお手のものだが、映画で見せた再現力はその延長線を軽々と飛び越えていた。肩の入り方、首の傾け方、つま先の返し方、兄弟との呼吸の合わせ方まで、まるで当時の空気を肺いっぱいに吸い込んで育ったかのようだ。なお、少年期の歌唱はマイケル本人の音源などを使った口パクなのだが、これがまた映像と恐ろしいほど噛み合っていて、「いや、これ歌ってるよね?」と脳が勝手に納得してしまう。こうして観客は開始早々、「これは役者だ」ではなく「これはマイケルだ」と受け入れてしまうのである。
その基準が観客の中にできあがったところへ、今度はジャファー・ジャクソンが現れる。甥なのだから似ていて当然だろうと思っていたら、その予想を軽々と飛び越えてくる。声質も身体のしなりも、独特のリズムの取り方も驚くほど自然で、単なる物真似ではなく、音楽が身体の中を通り抜ける感覚まで継承しているように見える。観客はそのまま抵抗をやめ、「ああ、成長したマイケルだな」と自然に受け入れてしまう。特殊メイクの存在も、見ているうちにどうでもよくなる。映画が作り出した幻影の方が、現実より強くなってしまうからだ。
さらに追い打ちをかけるのが音である。IMAXの低音は腹の底を押し上げ、キックは胸板を叩き、ボーカルは鋭く空間を切り裂いていく。単なるライブの再現ではなく、人々の記憶の中にある「マイケル・ジャクソン体験」を再構築しているため、時として本物以上に本物らしく感じられる。本物を見せるのではなく、本物を見たときの興奮を再現する──映画ならではの離れ業である。そして何より賢かったのは、晩年を主題にしなかったことだ。スキャンダルや裁判を正面から描けば重厚にはなるが、作品が目指したのは転落ではなく上昇であり、検証ではなく熱狂であり、天才が世界を席巻していくエネルギーそのものだった。
振り返れば、少年期の圧倒的な再現力、大人期の説得力ある存在感、身体を揺さぶる音響、そして黄金期に焦点を絞った構成。それらが精密な歯車のように噛み合い、一つの巨大な熱量を生み出していた。映画館を出るころには、作品の出来を分析する気さえ薄れ、「もう一度あの音を浴びたいな」と思っている自分がいた。結局のところ、この映画の最大の成功はそこにある。巨大なスクリーンを見上げ、理屈を忘れて二時間夢中になる──そんな当たり前で贅沢な喜びを、久しぶりに取り戻させてくれたのである。
まず圧倒されるのが、少年時代のマイケルを演じたジュリアーノ君だ。Instagramで46万人を超えるフォロワーを持ち、マイケルになりきった動画で人気を集めてきた“界隈の有名人”である。キレのあるダンスやムーンウォークはお手のものだが、映画で見せた再現力はその延長線を軽々と飛び越えていた。肩の入り方、首の傾け方、つま先の返し方、兄弟との呼吸の合わせ方まで、まるで当時の空気を肺いっぱいに吸い込んで育ったかのようだ。なお、少年期の歌唱はマイケル本人の音源などを使った口パクなのだが、これがまた映像と恐ろしいほど噛み合っていて、「いや、これ歌ってるよね?」と脳が勝手に納得してしまう。こうして観客は開始早々、「これは役者だ」ではなく「これはマイケルだ」と受け入れてしまうのである。
その基準が観客の中にできあがったところへ、今度はジャファー・ジャクソンが現れる。甥なのだから似ていて当然だろうと思っていたら、その予想を軽々と飛び越えてくる。声質も身体のしなりも、独特のリズムの取り方も驚くほど自然で、単なる物真似ではなく、音楽が身体の中を通り抜ける感覚まで継承しているように見える。観客はそのまま抵抗をやめ、「ああ、成長したマイケルだな」と自然に受け入れてしまう。特殊メイクの存在も、見ているうちにどうでもよくなる。映画が作り出した幻影の方が、現実より強くなってしまうからだ。
さらに追い打ちをかけるのが音である。IMAXの低音は腹の底を押し上げ、キックは胸板を叩き、ボーカルは鋭く空間を切り裂いていく。単なるライブの再現ではなく、人々の記憶の中にある「マイケル・ジャクソン体験」を再構築しているため、時として本物以上に本物らしく感じられる。本物を見せるのではなく、本物を見たときの興奮を再現する──映画ならではの離れ業である。そして何より賢かったのは、晩年を主題にしなかったことだ。スキャンダルや裁判を正面から描けば重厚にはなるが、作品が目指したのは転落ではなく上昇であり、検証ではなく熱狂であり、天才が世界を席巻していくエネルギーそのものだった。
振り返れば、少年期の圧倒的な再現力、大人期の説得力ある存在感、身体を揺さぶる音響、そして黄金期に焦点を絞った構成。それらが精密な歯車のように噛み合い、一つの巨大な熱量を生み出していた。映画館を出るころには、作品の出来を分析する気さえ薄れ、「もう一度あの音を浴びたいな」と思っている自分がいた。結局のところ、この映画の最大の成功はそこにある。巨大なスクリーンを見上げ、理屈を忘れて二時間夢中になる──そんな当たり前で贅沢な喜びを、久しぶりに取り戻させてくれたのである。