Netflix『ボローズ』2026年05月27日

Netflix『ボローズ』
Netflix『ボローズ』という作品、最初の一歩からして足場がぬかるんでいる。Netflixが「ストレンジャー・シングスが当たったから、今度は老人でやってみよう」と、スーパーの特売チラシの裏にでも書いたような発想で企画を立ち上げた時点で、すでにイヤな予感しかしない。老人を描きたいのではない。“老人という食材で、もう一度同じ型を焼き直したい”という、どうにも食欲のわかない動機が透けて見える。

その“老人版ストレンジャー・シングス”を任されたのが、40代前半の脚本家と監督たちである。まだ身体のどこも本格的には壊れていない年齢だから、発想も素直すぎる。「老人の恋愛? 若者の恋愛をゆっくりにすればいいでしょ」。その結果どうなるか。70代の男女が20代のように急に恋に落ち、急に走り、急にベッドへなだれ込む。老人の皮をかぶった若者ドラマ——いや、皮ですらない。仮面をつけた若者のコスプレである。

生活の手触りも決定的に欠けている。薬の時間は来ないし、夜中に目が覚めることもない。階段は軽やかに上り下りでき、関節は一度もきしまない。痛みがないというより、痛みという概念そのものが存在していないかのようだ。もし本当にこんな老人がいるのなら、医学界はすぐさま研究チームを送り込み、数年後にはノーベル賞の壇上に立っているだろう。老人のリアリティが、作品のどこにも落ちていない。

一方で、同じNetflixには『親愛なる八本脚の友だち』のような作品がある。こちらは老婦人の生活の重さ、孤独、身体のきしみ、夜勤の疲労——そうしたものを逃げずに、削らずに、丁寧に積み上げていく。触れればぬめりそうなタコの質感まで含めて、世界に手触りがある。結果として、タコのほうがよほど人間らしく見えてくる。老いのリアリティとは何かを、タコが静かに教えてくれる。

つまり『ボローズ』の問題は、文化差でも演技力でもなく、出発点の動機と、それを形にする制作体制の歪みだ。老人を描くための作品ではなく、老人を“設定として配置しただけ”のフォーマット商品。人生の重さを背負わせる気が最初からないのだから、どれだけ俳優が踏ん張っても、どれだけ音楽が盛り上がっても、画面の中の老人は軽い。煮込みが足りないおでんの大根みたいに軽い。結局この作品は“老人の物語”を装いながら、最後まで老人に触れることができなかった。そこにいるのは年齢だけを上乗せされた若者たちであり、老人はどこにもいない。——いや、ひとつだけ年を取っていたものがある。それは、この企画そのものだったのかもしれない。

コメント

トラックバック