ゴミ出し工夫でクマが減るのか2026年06月11日

ゴミ出し工夫でクマが減るのか
去年の日本は、どうもクマにとって「人里観光キャンペーン元年」だったらしい。秋田では住宅街にふらりと現れ、富山では犬の散歩中の女性を襲い、仙台では県庁近くのマンションに十時間も居座った。まるで旅行サイトの口コミを読みながら「今日はここに泊まろう」と宿を探している旅人のようである。結果は死者6人、負傷者200人超。数字だけ見れば立派な非常事態だ。ところが、その後に聞こえてきたのは「来年はクマの数をどうするか」ではなく、「出てきたらどう対応するか」という話ばかりだった。クマの側からすれば「今年もよろしくお願いします」である。

よく「ゴミ出しが悪いからクマが来る」と言われる。もちろん無関係ではない。しかし、それは空腹で街へ出た人が、たまたま目に入ったラーメン屋の赤提灯につられて暖簾をくぐるようなものだ。提灯があるから街へ来たのではない。先に「腹が減った」がある。山ではシカが下草を食べ尽くし、イノシシが地面を掘り返し、ドングリは凶作続き。山の食堂には「本日休業」の札がぶら下がったままだ。クマは仕方なく人里へ降り、そこで見つけたゴミをあさる。ゴミは原因というより、下界で見つけたデザートに近い。メインディッシュがないなら、せめて甘いものでも、というわけだ。

本来、人身被害が繰り返し発生した地域では、翌年に向けて重点的な管理を行うのが自然な発想である。北米などでは個体数管理や問題個体の排除を含めた総合的な対策が広く行われている。しかし日本では、環境省は「共存」を掲げ、農林水産省は鳥獣被害対策を担いながらも個体数管理の主導権は持たず、自治体は人員不足を訴える。結果として、「誰がどこまで責任を持つのか」が曖昧なままになる。人間の縄張りには行政の境界線がびっしり引かれているのに、クマはそんな線を見てくれない。役所の都合を理解して山を下りてくるほど、律儀な動物でもないのである。

自治体からは「猟師の高齢化が深刻でして」という説明も聞こえてくる。確かにそれは事実だろう。しかし、だから何もできないという話にはならない。被害が集中している地域へ周辺自治体の捕獲人員を集中的に投入すればよい。火事が起きれば消防は応援を呼ぶ。豪雨災害が起きれば自治体の枠を超えて職員が派遣される。クマだけが「担当者不足なので仕方ありません」で済まされる理由はない。必要なのは鉄砲の数より、制度の設計である。

ところが政府のクマ対策会議で前面に出てくるのは、AIカメラ、ドローン、情報共有システム、ゴミ管理、麻酔銃といった対策だ。どれも必要ではある。しかし、それらはあくまで市街地へ出てきた後の対応策である。火災で言えば消火器の話であって、なぜ火事が増えたのかという議論ではない。肝心の個体数管理や生息域管理の議論は、どうにも後景へ追いやられている。火元は山にあるのに、議論はいつも街角の消火器の前で終わってしまう。

六人が命を落としている以上、本来問われるべきなのは「クマが現れた後にどうするか」ではなく、「なぜ毎年のように現れるのか」である。対症療法だけを積み重ねても、人里へ降りてくるクマが減らなければ被害は繰り返される。クマにも事情はあるのだろう。しかし、人間にも生活がある。共存という言葉を本気で使うなら、まずは現実の個体数と生息環境に向き合うことから始めるべきだ。

人もクマも、もう十分に様子見はした。増えすぎた大型動物と市街地で「共存」するのは、言葉で言うほど簡単な話ではない。玄関先でクマと鉢合わせして「お先にどうぞ」と譲り合えるほど、人間は器用でも胆力があるわけでもないのである。山で静かに暮らしてもらうためにも、人間側が本気で山と個体数に向き合うしかない。そろそろ必要なのは掛け声ではなく、本気の対策だろう。

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