映画『宝島』 ― 2026年05月21日
映画『宝島』を見ていると、どうにも落ち着かない。沖縄の物語を見ているのか、それとも脚本家の胸の内でゴロゴロ言っている火山活動を見せられているのか、途中から判然としなくなる。画面のあちこちで反米感情が噴き上がり、人間ドラマがそっと身を引いてしまう。人物より先に主張が歩き出してしまった、そんな印象である。映画というのは、まず人がいて、そのあとに言葉がついてくるものだが、本作はどうも順番が逆転している。
暴動の場面に至っては、車がひっくり返り火の手が上がり人々は石を投げて叫ぶ、盛り上がれば盛り上がるほど、こちらの心が冷えていく。沖縄には「ぬちどう宝(命こそ宝)」という言葉がある。命を大切にし、まずは話し合い、要請、要望といった形で声を積み重ねていく。そうした沖縄の心のありようを思えば、映画の描き方はどうしても沖縄の心と噛み合わない。どこか、現代の不法な反基地闘争の映像を“沖縄の本音”として貼り付けたような違和感が残る。火や怒号を大写しにすれば沖縄の痛みが表現できる、という短絡的な発想が透けて見えるのだ。
そのズレのしわ寄せをまともに受けているのがヤマ子こと広瀬すずである。孤児として育ち、教師となり、恋人オンちゃんを失い、さらに混血児ウタと関わる。いくらでも深掘りできる人物なのに、なぜかどんどん薄くなる。気がつくと、人物ではなく“立場”になっている。教師であれば子どものわずかな変化に気づくはずだが、映画のヤマ子は妙に鈍い。これは演技の問題ではなく、役の設計が最初から平板なのである。広瀬すずの存在感が、脚本の隙間に吸い込まれてしまったようだ。せっかくの素材を前に、包丁を入れずにそのまま皿に載せてしまったようなもったいなさがある。
ウタの扱いも惜しい。米軍高官の妾の子という設定は、戦後沖縄の核心に触れる重たいものだ。しかし、その重さがほとんど伝わってこない。痛みも迷いも描かれないまま話が進み、最後に事情が明かされても「そうだったのか」と頭で理解するだけで、心が動かない。オンちゃんが浜辺で骸骨として見つかり、ウタが暴動の混乱で撃たれて死ぬという事実は、本来なら胸に迫るはずの材料である。だが、そこへ至る積み上げがないため、ただ情報として提示されるだけになってしまっている。観客が感情を寄せる前に、物語のほうが先に走り去ってしまうのだ。
結局のところ、この映画は順番を急ぎすぎている。人物を描く前に意味を背負わせ、感情を積み上げる前に結論を言ってしまう。その結果、沖縄の静かな暮らしも、人の機微も、少しずつ画面の端へ押しやられていく。最後に残るのは、炎と怒号と、そして脚本家の主張だけである。言いたいことがあるのは悪くないが、言葉が前に出すぎると、人が後ろに下がってしまう。映画というのは、本来その逆であってほしい。人が立ち、そこに物語が寄り添う。その順番が守られていないと、どうにも落ち着かないのである。
暴動の場面に至っては、車がひっくり返り火の手が上がり人々は石を投げて叫ぶ、盛り上がれば盛り上がるほど、こちらの心が冷えていく。沖縄には「ぬちどう宝(命こそ宝)」という言葉がある。命を大切にし、まずは話し合い、要請、要望といった形で声を積み重ねていく。そうした沖縄の心のありようを思えば、映画の描き方はどうしても沖縄の心と噛み合わない。どこか、現代の不法な反基地闘争の映像を“沖縄の本音”として貼り付けたような違和感が残る。火や怒号を大写しにすれば沖縄の痛みが表現できる、という短絡的な発想が透けて見えるのだ。
そのズレのしわ寄せをまともに受けているのがヤマ子こと広瀬すずである。孤児として育ち、教師となり、恋人オンちゃんを失い、さらに混血児ウタと関わる。いくらでも深掘りできる人物なのに、なぜかどんどん薄くなる。気がつくと、人物ではなく“立場”になっている。教師であれば子どものわずかな変化に気づくはずだが、映画のヤマ子は妙に鈍い。これは演技の問題ではなく、役の設計が最初から平板なのである。広瀬すずの存在感が、脚本の隙間に吸い込まれてしまったようだ。せっかくの素材を前に、包丁を入れずにそのまま皿に載せてしまったようなもったいなさがある。
ウタの扱いも惜しい。米軍高官の妾の子という設定は、戦後沖縄の核心に触れる重たいものだ。しかし、その重さがほとんど伝わってこない。痛みも迷いも描かれないまま話が進み、最後に事情が明かされても「そうだったのか」と頭で理解するだけで、心が動かない。オンちゃんが浜辺で骸骨として見つかり、ウタが暴動の混乱で撃たれて死ぬという事実は、本来なら胸に迫るはずの材料である。だが、そこへ至る積み上げがないため、ただ情報として提示されるだけになってしまっている。観客が感情を寄せる前に、物語のほうが先に走り去ってしまうのだ。
結局のところ、この映画は順番を急ぎすぎている。人物を描く前に意味を背負わせ、感情を積み上げる前に結論を言ってしまう。その結果、沖縄の静かな暮らしも、人の機微も、少しずつ画面の端へ押しやられていく。最後に残るのは、炎と怒号と、そして脚本家の主張だけである。言いたいことがあるのは悪くないが、言葉が前に出すぎると、人が後ろに下がってしまう。映画というのは、本来その逆であってほしい。人が立ち、そこに物語が寄り添う。その順番が守られていないと、どうにも落ち着かないのである。