戸籍と性自認2026年05月20日

戸籍と性自認
戸籍の「長女」を「子」に変えてほしいと申し立てたノンバイナリーの当事者の抗告審で、大阪高裁が、男女区分しかない戸籍制度について「憲法14条との関係で是正すべき状態にある」と言及した、というニュースである。これを読んだ瞬間、私は、これは夢かと思ってほほをつねった。だが、つねったほほだけが妙に現実的に痛く、逆にニュースのほうがふわりと浮き上がる。まるで、三塁側スタンドにめり込むようなファールボールが飛んでいったのに、打者が胸を張って「いまのはホームランです」と宣言し、審判が「まあ本人がそう言うなら」と帽子をくるっと回してうなずいてしまった瞬間のように、世界のほうがぐにゃりと揺れる。

もちろん、制度が多様なあり方に十分対応しているかという指摘があることは承知している。しかし、理解増増法が「性自認」という主観概念を制度側に持ち込んだことで、そもそへの前提が揺らぎ始めている。ベンチで選手が「今日はストライクゾーンが広めに感じる」とつぶやいたら、審判が「では広めで」と応じてしまうような噛み合わなさだ。気分とゾーンは別物である。

そもそも、いわゆる理解増進法は「互いの理解を深めましょう」というフェアプレー精神の確認に近く、いわばルールブック巻末の心得にあたる。その心得を手がかりに「制度は是正されるべき状態」とまで踏み込めば、話の階層は一段飛ぶ。心得は心得、ルールはルールであり、そこを混ぜ始めると、グラウンドの土は砂場のようにふわつき、ベースの位置まで曖昧になる。

さらにややこしいのは、「自分がどう思うか」という主観と、「制度がどう扱うか」という客観が混ざり合って語られがちな点である。個人がどんな生き方を選ぶかは完全に自由であり、どんなルーティンで打席に入ろうが誰も文句は言わない。しかし、戸籍や婚姻や親子関係といった制度は、ファールラインやフェンスのように誰が見ても同じ結果になる基準で運用されている。ここに「本人の認識」をそのまま持ち込めば、試合は成立しなくなる。打者は全員ホームランを主張し、守備は全員アウトを主張し、審判は判定に迷い、観客は「いま何点入ったのか」とざわつく。スコアボード係が電光掲示板の前で固まる光景が目に浮かぶ。だからこそ日本の制度は、性別変更に一定の医学的・身体的要件という外形的に確認可能な基準を置いてきた。それは内面を否定するためではなく、制度を制度として機能させるための“フェンス”である。

今回のように、「自認」を軸に戸籍表記の変更を求める議論が司法の場で扱われ、制度そのものが「是正すべき状態」と評されるに至ると、まるで審判が試合中に「ファールかどうかは本人の気持ち次第かもしれない」とつぶやき始めたかのような不安定さが漂う。理解を促すはずの枠組みが、かえって境界線を曖昧にしてしまったかのような皮肉である。個人の内面の自由と制度の客観的基準という本来別々に扱われるべき二つの領域が、同じホイッスルで同時に鳴らされている。吹くたびに「これはどちらの判定だったか」と首をかしげるような状況だ。今回の決定は、その混線が制度の根元にまで染み込み始めたことを示す、どこか落ち着かない“試合続行不能”のアナウンスを聞かされているような気分にさせるのである。

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