高度人材育成と職業高校 ― 2026年10月25日

高度人材育成と職業高校
埼玉県立熊谷工業高校が、国の公立高校教育改革における「改革先導拠点」に選ばれたという。私立高校の授業料無償化による公立高離れへの対策として、埼玉県は国の補助金など約21億円を投入し、建築や電気など五学科を横断する学習や最新デジタル設備の導入を進めるそうだ。目標は「AI時代に対応する高度な実践的人材」の育成であり、新聞も期待を込めて報じている。もっとも役所も新聞も昔から新しい横文字が大好きだ。「高度人材」「DX」「イノベーション」。看板を掛け替えるたびに未来が近づいてくる気がするらしい。しかし看板を支える柱の話になると、なぜか急に口数が少なくなるのである。

新聞や役所の言う「高度人材」とは、きれいなオフィスでパソコンに向かう人か、先端ITを扱う技術者のことなのだろう。しかし世の中は画面の中だけでは動いていない。どれほど立派な設計図を描こうと、実際に鉄骨を組み、コンクリートを打ち、電線をつなぎ、機械を修理する人がいなければ現実には何も完成しない。停電になれば復旧する人が必要だし、水道が壊れれば直す人が必要だ。AIが未来を語っているあいだも、高所で命綱を付けて作業をしている人がいる。未来社会というものは、どうやら泥だらけの長靴の上に建っているらしい。

もちろん工業高校でデジタル教育を進めること自体は悪い話ではない。今どきの建設機械も工作機械もコンピューター抜きでは動かない。しかし人手不足の話になると、教育改革ばかりが注目されるのはいささか不思議である。建設、設備、電気、機械保全。どの業界も人が足りないと言われて久しい。それなのに若者へ示される将来像は、「責任は重いが給料はそこそこ」「社会を支えるが評価は控えめ」というものだったりする。これで人が集まらないと嘆くのは、魚を減らした池の前で「最近は魚が釣れない」と首をひねるような話だ。原因の方が、自分から逃げていくのである。

お役所は人手不足になるたびに会議を開き、有識者は報告書を書き、新聞は深刻そうな顔で特集を組む。そして最後はたいていAIか外国人労働者の話になる。もちろんそれぞれ必要な場面はあるだろう。しかし、技能者が集まらない理由を考えるなら、まず待遇や社会的評価の話から始めるべきではないか。ところがそちらはあまり語られず、「人材確保策」「リスキリング」「成長戦略」と新しい言葉ばかり増えていく。病気の診断は避けながら、薬の包み紙だけを毎年新しくしているようなものである。中身が効かないのに包装だけ立派になっていく。

産業というものは富士山によく似ている。山頂には研究者や経営者や高度技術者がいる。しかし、その雄大な姿を支えているのは広大な裾野であり、現場の技能者や職人である。裾野を削りながら頂上だけ高くしようとしても長続きするはずがない。ドイツなどでは職業教育と実務訓練が社会の中に組み込まれ、技能者が専門職として評価されている。だから若者も誇りを持ってその道を選ぶ。対して日本では、ときどき「勉強しないと楽な仕事に就けない」などという言葉を耳にする。職人不足を嘆きながら職人を罰ゲームのように語るのだから、ずいぶんな国である。

21億円をかけて最新設備をそろえるのは結構である。むしろ必要な投資だろう。しかし本当に工業高校を魅力ある学校にしたいなら、卒業した技能者が高い収入を得て、社会から尊敬される仕組みを整える方が先ではないか。子どもたちが「あの仕事は格好いい」「あの資格を取れば一人前だ」と憧れるようになれば、定員割れや募集停止を心配する必要も小さくなる。21億円の機械は十年もすれば古くなる。しかし職人への敬意は故障もしないし、更新費用もかからない。もっとも、日本社会は何十年もその投資を見送ってきた。最近は職人不足が問題だと言いながら、職人を支えるDXの話ばかりしている。脚立が足りないのではない。上る人が足りないのである。