名誉教授という便利な免許証 ― 2026年10月29日

名古屋大学と安全保障技術研究推進制度
防衛省の安全保障技術研究推進制度に名古屋大学が初めて採択されると、反対する研究者らが記者会見を開いた。名古屋大学名誉教授の池内了氏は「防衛省が軍事利用するなら軍事研究だ」「踏み越えてはならない一線を越えた」と非難し、研究費を「麻薬のようなもの」とまで評したという。だが、記事を読んで最初に浮かぶのは賛否ではない。理屈として成立しているのか、という素朴な疑問である。

防衛省が利用する可能性だけで軍事研究になるなら、現代社会は軍事研究の成果であふれている。GPSは軍事技術として生まれ、インターネットも軍事研究の系譜を持つ。AIも半導体も通信技術も、軍民両用であることは常識だ。もちろん、軍事利用され得ることと、大学が防衛研究に参加すべきかどうかは別問題である。だからこそ説明が必要なのだ。名古屋大学が取り組むの次世代通信技術を軍事研究と池内氏が呼ぶのは自由だが、なぜ大学が背を向けなければならないのか。その理由が語られない。気が付けば、軍事研究への批判が現代文明そのものへの難癖に変わってしまう。

さらに不思議なのは、防衛省だけが特別扱いされていることだ。防衛省は政府機関であり、自衛隊も民主的手続きを経て存在している。好き嫌いは自由だが、共同研究を「越えてはならない一線」と表現するなら、研究倫理の問題なのか、安全保障政策への反対なのかを明確にすべきだ。文科省の予算は清らかで、防衛省の予算は不純物入りという話でもあるまい。研究の独立性や公開性に問題があるなら議論になる。だが、防衛省だから駄目というだけでは、論理の足場が見えてこない。

最大の違和感は、結論そのものより、それが「名古屋大学名誉教授」という肩書とセットで語られることだ。報道も無名の市民としてではなく、名誉教授として紹介する。本人も社会も、その肩書が持つ権威と信用を前提にしているのである。率直に言えば、名誉教授とはそんなに偉いものなのか。過去の研究業績への敬意は当然だが、それは現在の発言を無条件に正しいものへ変える魔法ではない。肩書によって得られる信用だけを受け取り、発言内容への厳しい検証は遠慮してほしいという都合のよい話は成り立たない。権威を使う自由はある。しかし、使う以上、それに見合う説明責任から逃れる自由はない。

ところが、少なくとも記事に掲載された発言からは、その説明責任を果たしているようには見えない。「軍事だから悪い」「防衛省だから駄目」。これでは大学人の議論というより学級会である。学級会ですら賛成派と反対派が意見を出し合い、多数決くらいは取る。ところがこちらは結論だけが先に到着し、理由は後から息を切らして追い掛けてくる。安全保障環境の変化も、技術のデュアルユース性も、国際的な技術競争も視野に入らない。複雑な問題を複雑なまま扱うことこそ学問の役割のはずなのに、話は善玉と悪玉を色分けする紙芝居へと縮小されてしまう。

名誉教授とは過去の研究業績への敬意であって、未来の発言を保証する免許証ではない。ところが世の中には、その二つを混同する光景がある。勲章を免許証だと思い込み、肩書を論拠の代わりに使ってしまうのだ。宇宙の進化や銀河の形成を解き明かしてきた池内氏の功績に疑いはない。だが、その権威が「軍事だから悪い」という図式まで正当化してくれるわけではない。今回の記事から見えてくるのは、防衛研究の危険性よりも、権威と論理の落差である。宇宙の大規模構造は難解でも筋道がある。だが今回の議論は、ブラックホールに吸い込まれる前に、論理だけが先に蒸発してしまったらしい。

追加:
軍事研究という便利なお札

 世の中には便利なお札がある。額に一枚貼るだけで議論が終わる。「軍事研究」である。これを貼られた研究は、もはや説明の必要がない。AIであろうがロケットであろうが、半導体であろうが量子技術であろうが関係ない。何を研究し、どんな利益と危険をもたらすのか。そんな面倒な話は全部省略できる。「軍事研究です」。これで悪役決定。昔の時代劇なら悪代官の悪行を延々と描かなければならなかったが、こちらは三秒で済む。便利な世の中になったものである。

 だが、技術の世界は時代劇ほど単純ではない。GPSやインターネットは軍事分野にルーツを持つ。ロケットは人工衛星を打ち上げるが、ミサイルとも親戚である。AIは医療診断に使われる一方、軍事利用も可能だ。毒物研究は化学兵器につながり得るが、解毒剤にもつながる。気象学ですら軍事作戦に利用できる。現代の先端技術には軍民両用の性質を持つものが少なくない。この理屈を徹底し、軍事利用の可能性だけで研究を否定すれば、最後は「研究するな」という話になる。黒板とチョークも座標計算に使える。安全なのは石ころ遊びくらいだが、その石ころも投げれば武器になる。

 さらに不思議なのは、戦争被害と研究成果を一直線で結び付ける発想である。戦争を始める決定を下すのは国家や政治の側だ。核分裂の発見と核兵器使用の決定は同じではない。もちろん、研究者にも研究の目的や予見できる用途に応じた責任はある。しかし、研究成果を生み出す責任と、それを利用して戦争を決断する責任は別の問題である。包丁を作った鍛冶屋が、包丁を使った殺人の責任まで負うわけではない。ところが「軍事研究」というお札が貼られた瞬間、研究者は戦争責任者候補に昇格する。大学の研究室で数式を書いていたはずが、気付けば世界平和の破壊者である。ずいぶんな出世である。

 それにしても、この議論を語る人々の顔はどこか晴れやかだ。「軍事研究反対」と言えば善人になった気分になれるらしい。研究内容を読まなくても、安全保障や国際政治を考えなくても、とりあえず反対しておけば拍手がもらえる。会議室では反対決議の紙が回り、シンポジウムでは大きくうなずく人々が並ぶ。まるで善人免許の更新講習である。しかしAIも量子技術も宇宙開発も半導体競争も、その会議が終わるまで律儀に待ってはくれない。世界中の研究所が黙々と技術開発を進めている間、こちらは善人札と悪人札の配布に忙しい。便利なお札は研究だけではない。それを振り回す側にも効能があるのである。

 本来語るべきは、軍事研究への賛否ではなく、安全保障をどう実現するかだろう。自由社会をどう守り、技術的自立をどう維持するのか。抑止力をどう考えるのか。研究への規制が必要なら、何を、どんな理由で、どこまで規制するのかを具体的に論じればよい。ところが「軍事研究」という言葉が登場すると、安全保障の議論は消え、研究者の品評会だけが始まる。研究する人は悪い人。反対する人は良い人。実に分かりやすい。だが、分かりやすいことと現実を理解していることは別である。政策とは現実を動かす技術であって、道徳ラベルの張り合いではない。

 だから違和感が残る。「軍事研究」という言葉は勇ましい批判に見える。しかし実際には、安全保障という本題から目をそらし、研究という手近な標的を叩いているだけではないのか。本当に平和を語るなら、研究者を一律に悪者に仕立てるのではなく、自由社会を守るための現実的な制度と抑止を語らなければならない。そうでなければ、それは平和論ではない。駅前に新しくできた店のようなものだ。立派なのれんには「安心」「平和」「良心」と大書してある。しかし暖簾をくぐると棚は空っぽ。商品は何もない。それでも店主だけは満足そうな顔をしている。看板を掲げたことそのものが商品になっているからである。