クマと人間の学習能力 ― 2026年10月26日

クマと人間の学習能力
京都の観光地にも住宅地にも、近ごろはクマが頻繁に現れる。クマは賢い動物だと言われる。ドアノブを回し、車のドアを開け、クーラーボックスを探し当てる。人間の置いた餌や生ごみの在りかを覚え、一度成功した場所へは何度でも戻ってくる。なるほど、その方面の才能は認めざるを得ない。列車の時刻表は読めなくても、弁当の在りかを嗅ぎ当てる能力にはなかなかのものがある。人間だって、これほど熱心に学習するのは給料日と特売日、そして何故かクマと同じゴミの日くらいである。

ところが、その賢さに少々疑問を投げかける数字もある。JR北海道によれば、クマとの衝突事故は2015年度の24件から2025年度には76件へ増加した。シカとの衝突事故も1,961件から3,478件へ増えている。もちろん事故件数だけで知能は測れないし、生息数も違う。それでも増加率だけ見れば、クマの事故は約3倍、シカは約1.8倍である。賢者と呼ばれる動物としては、あまり胸を張れる成績ではなさそうだ。

もっとも、それはクマやシカの責任とも言い切れない。仲間が事故に遭っても、その情報が群れ全体に共有される仕組みがないからである。クマにはテレビも新聞もSNSもない。環境省の速報が山奥まで届くこともない。人間社会なら事故が起きればニュース速報が流れ、専門家が解説し、有識者会議が開かれ、報告書が作られる。報告書を読むための会議まで開かれることもある。クマ社会には、そうした無駄も含めて一切存在しないのである。

ここで重要なのは、利益と損失の違いである。クーラーボックスは現場に残る。ごみ置き場も残る。車の中の食べ物も残る。だから餌の情報は何度でも発見される。一方、列車にはねられた経験は本人と一緒に消える。利益は現場に残り、損失の経験は死んだ個体とともに消えるのである。人間は時々、「何頭か駆除すれば他のクマも懲りるだろう」と期待する。しかし、危険の記憶は個体ごとに途切れ、餌の情報だけが環境の中に残り続ける。そうなれば学習の方向は自然に決まる。人里は危険な場所である前に、魅力的な餌場なのだ。

考えてみれば、人間社会もあまり威張れない。事故が起きれば再発防止策を作る。不祥事が起きれば第三者委員会を設置する。そして、よく似た事故や不祥事が再び起きる。そのたびに前回の報告書を探し出し、「教訓を生かしたい」と神妙な顔で語る。人間は豊かな情報共有の仕組みを持っている。ところが共有された情報が期待通りに活用されるとは限らないらしい。どうやら学習というものは、私たちが思っているほど万能ではないのである。

増えるのは「人間を恐れるクマ」ではなく、「人間社会の利用法を覚えたクマ」かもしれない。クマは今日も線路や道路を使いごみ置き場へ向かう。人間は今日も廊下を使って会議室へ向かう。どちらも餌場を目指している点では、それほど大きな違いはない。違いがあるとすれば、人間はその途中で報告書を作ることくらいだろう。

世間はクマを森の賢者として語りたがる。しかし統計と行動を並べてみると、そこに見えるのは利益には敏感で、危険には案外鈍感な大型哺乳類の姿である。そしてその特徴だけなら、人間もあまりクマやシカを笑えそうにない。結局、人里との距離を保つには個体数管理を軸とした抜本的な対策しかないのだろう。だが、その話になると途端に議論は保護か安全かの堂々巡りを始める。どうやら学習能力については、人間も野生動物にそれほど大きな差をつけらないらしい。