出口のない15%関税2026年02月23日

出口のない15%関税
相互関税をめぐるこの数カ月の騒ぎは、いったい何だったのか。国会は空転し、メディアは「日米交渉の正念場」と煽り、企業は大統領のSNSに一喜一憂した。だが蓋を開ければ、残ったのは虚しさである。米最高裁が相互関税を違憲と判断した瞬間、日本政府が胸を張った「25%から15%への引き下げ合意」は法的根拠を失った。そもそも文書化された約束ではなく、政治的妥協の産物だったのだから、砂上の楼閣が崩れるのは必然だったと言える。ところが判決の直後にトランプやホワイトハウス高官はこう語った。「相互関税は終わる。だが新たな追加関税を課す」。看板は外したが中身は同じ15%。国会での激論も政府の曖昧答弁も、結果が一ミリも動かないことを確認するための儀式に見えてしまう。週刊誌的に言えば、壮大な“茶番劇”だ。

もっとも、ここで徒労感に沈むのはまだまだ早い。新15%の背後には、米国が口にする「貿易収支の均衡」という終わりの見えない条件が潜む可能性がある。だが現実を見れば、日米の貿易収支が完全に均衡する日は来ないだろう。日本は自動車や機械で黒字を積み上げ、米国はサービスや消費で赤字を抱える構造だ。2020年代の統計でも日本の対米黒字は数兆円規模で推移しており、短期に逆転する兆候はない。構造を変えずに均衡だけを求めるのは、川の流れを手で止めるようなものである。

つまり今回の“置き換え劇”は、税率は変わらず出口だけが塞がれた状態を固定化する危険をはらむ。日本政府は「詳細は差し控える」と繰り返し、交渉の前提すら文書化しないまま妥結を発表した。その代償は大きい。EUが再交渉を堂々と要求できるのは、条件を文書で固めていたからだ。外交は密室から透明へ移る潮流にある。記録と合意を残す文化を持たないまま交渉に臨めば、後から解釈で押し切られるのは当然だ。

しかしここで「明文化すべきだ」という正論にも落とし穴がある。終了条件を文字に刻めば、それを達成できない限り関税は正当化されるという逆効果を招きかねない。達成不可能な貿易均衡が条件に書き込まれれば、15%は永遠に解けない鎖となる。明文化は盾にも鎖にもなる劇薬なのだ。相互関税騒動は怒りと虚無が同居する政治劇だったが、教訓も残した。日本が直面しているのは単なる税率の交渉ではなく、外交の作法そのものだ。密室の曖昧さに頼る時代は終わりつつある。明文化という劇薬を飲んで出口をこじ開けるのか、それとも霧の中を漂い続けるのか。選択は過酷だが、どちらを選ぶかで今後の経済外交は大きく変わる。3月の高市総理訪米はその方向性を定める重要な交渉となるだろう。