共生社会と個人情報 ― 2026年05月09日
宮城教育大付属特別支援学校のニュースを見て、「うわあ、学校それはまずいだろう」と思った人は多いはずである。地下鉄で迷惑行為があったとして、一般の通報者を学校に招き、生徒名簿を見せた。しかも顔写真付き。保護者は「鉄道警察隊への提出用」として了承していたもので、見知らぬ第三者への公開は許されない。文科省も「目的外利用」と指摘し、学校は謝罪。当該生徒は登校拒否のまま卒業したという。
ここまで聞くと、学校が悪い。終わり。そういう話に見える。だが、世の中というのは、「終わり」で終わらない。むしろ、そこからギシギシと妙な音がし始める。まず地下鉄のトラブルというのは、本来ぜんぶ警察案件である。足を蹴られた、怒鳴られた、押された。これは学校の生活指導ではなく、鉄道警察隊の仕事だ。ところが今回の通報者は、制服やヘルプマークを見て、「学校へ知らせた方がいいのでは」と考えたのだろう。これ、なんとなく分かるのである。
昔の町内には、頼まれてもいないのに学校へ知らせに来る人がいた。「あそこの子、駅前でちょっと荒れてたよ」とか、「最近元気ないねえ」とか、そういうことを伝えに来る。いま風に言えば“地域連携”だが、昔は単なる世話焼きである。社会というのは、実はこういう余計なお節介で回っていた。そして、子どもを確認するために集合写真や卒業アルバムを見せるようなことも、昔は案外普通にあった。「ああ、この子ですか」「この帽子の子かな」と、地域と学校が雑に情報を擦り合わせる。かなり危ういのだが、その危うさ込みで社会は動いていた。今回も、学校側の感覚としては、おそらくそちらに近かったのではないか。「名簿を開示した」というより、「どの子か写真で確認した」という現場感覚である。
ところが、これを法律や報道の言葉へ翻訳すると、一気に響きが変わる。「確認のために写真を見せた」は、「顔写真付き個人情報を第三者へ提供した」になる。「どの生徒か確認した」は、「名簿を閲覧させた」になる。すると学校は、まるで秘密ファイルを外部へ流出させた組織のような輪郭を帯び始める。もちろん、保護者が怒るのは当然だ。顔写真付き名簿を第三者に見せられたのだから、「それは違うだろう」となる。当たり前である。そして「個人情報保護法違反」という言葉が出た瞬間、善意がきっかけの地域の中の揉め事だったものが、一気に全国ニュース級の“不祥事”へ変わる。
だが、この話でいちばん強い燃料を投げ込んだのは、実はメディアかもしれない。学校も、通報者も、保護者も、本来は「子どもをどう支えるか」という同じ円の中にいた。多少やり方を間違えたとしても、本来は地域と学校の間で調整される種類の話だった。ところが、そこへ「個人情報漏洩」「第三者閲覧」「目的外利用」という強い言葉が並ぶと、空気は一変する。学校は“不祥事側”になり、保護者は“被害者側”になり、通報者は“危険な第三者”になる。本来は、現場の雑で不器用な確認作業だったものが、全国消費型の炎上案件へ変換されてしまうのである。
すると学校側も縮こまる。地域住民も、「もう学校には言わない方がいいな」と考え始める。最近はどこへ行っても、「担当部署に確認します」「個人情報なのでお答えできません」「警察へご相談ください」である。スーパーでも病院でも役所でも、とにかく境界線がきっちり引かれている。全部、法律的には正しい。だが、それを徹底した先にあるのは、学校は教育だけ、地域は通報だけ、あとは全部警察へ、という社会である。たしかに安全だ。責任も発生しにくい。誰も境界線を越えないから、コンプライアンス事故も減る。しかし、それは本当に日本が目指してきた「共生社会」なのか。誤解されやすい子どもを地域で支えるとは、本来、多少の面倒や越境を引き受けることでもあったはずだ。学校と地域が、「まあまあ」と言いながら橋をかけ続けることで、なんとか成り立っていた部分がある。
もちろん、学校の対応は不用意だったのだろう。保護者が怒るのも当然である。メディアにも報じる役割はある。だが、本来みんなが目指していたのは、「誰を処罰するか」ではなく、「どう共生社会を維持するか」だったはずだ。学校も、保護者も、地域も、メディアも、もう少し落ち着いて、「この子たちを社会でどう支えるか」を考える余裕があれば、話は違う形になっていたのかもしれない。最近の社会は、白黒をつける速度だけは異様に速い。だが、共生社会というものは、本来そんな瞬発力ではなく、少し鈍く、少し不器用で、少し面倒くさいものだった気がするのである。
ここまで聞くと、学校が悪い。終わり。そういう話に見える。だが、世の中というのは、「終わり」で終わらない。むしろ、そこからギシギシと妙な音がし始める。まず地下鉄のトラブルというのは、本来ぜんぶ警察案件である。足を蹴られた、怒鳴られた、押された。これは学校の生活指導ではなく、鉄道警察隊の仕事だ。ところが今回の通報者は、制服やヘルプマークを見て、「学校へ知らせた方がいいのでは」と考えたのだろう。これ、なんとなく分かるのである。
昔の町内には、頼まれてもいないのに学校へ知らせに来る人がいた。「あそこの子、駅前でちょっと荒れてたよ」とか、「最近元気ないねえ」とか、そういうことを伝えに来る。いま風に言えば“地域連携”だが、昔は単なる世話焼きである。社会というのは、実はこういう余計なお節介で回っていた。そして、子どもを確認するために集合写真や卒業アルバムを見せるようなことも、昔は案外普通にあった。「ああ、この子ですか」「この帽子の子かな」と、地域と学校が雑に情報を擦り合わせる。かなり危ういのだが、その危うさ込みで社会は動いていた。今回も、学校側の感覚としては、おそらくそちらに近かったのではないか。「名簿を開示した」というより、「どの子か写真で確認した」という現場感覚である。
ところが、これを法律や報道の言葉へ翻訳すると、一気に響きが変わる。「確認のために写真を見せた」は、「顔写真付き個人情報を第三者へ提供した」になる。「どの生徒か確認した」は、「名簿を閲覧させた」になる。すると学校は、まるで秘密ファイルを外部へ流出させた組織のような輪郭を帯び始める。もちろん、保護者が怒るのは当然だ。顔写真付き名簿を第三者に見せられたのだから、「それは違うだろう」となる。当たり前である。そして「個人情報保護法違反」という言葉が出た瞬間、善意がきっかけの地域の中の揉め事だったものが、一気に全国ニュース級の“不祥事”へ変わる。
だが、この話でいちばん強い燃料を投げ込んだのは、実はメディアかもしれない。学校も、通報者も、保護者も、本来は「子どもをどう支えるか」という同じ円の中にいた。多少やり方を間違えたとしても、本来は地域と学校の間で調整される種類の話だった。ところが、そこへ「個人情報漏洩」「第三者閲覧」「目的外利用」という強い言葉が並ぶと、空気は一変する。学校は“不祥事側”になり、保護者は“被害者側”になり、通報者は“危険な第三者”になる。本来は、現場の雑で不器用な確認作業だったものが、全国消費型の炎上案件へ変換されてしまうのである。
すると学校側も縮こまる。地域住民も、「もう学校には言わない方がいいな」と考え始める。最近はどこへ行っても、「担当部署に確認します」「個人情報なのでお答えできません」「警察へご相談ください」である。スーパーでも病院でも役所でも、とにかく境界線がきっちり引かれている。全部、法律的には正しい。だが、それを徹底した先にあるのは、学校は教育だけ、地域は通報だけ、あとは全部警察へ、という社会である。たしかに安全だ。責任も発生しにくい。誰も境界線を越えないから、コンプライアンス事故も減る。しかし、それは本当に日本が目指してきた「共生社会」なのか。誤解されやすい子どもを地域で支えるとは、本来、多少の面倒や越境を引き受けることでもあったはずだ。学校と地域が、「まあまあ」と言いながら橋をかけ続けることで、なんとか成り立っていた部分がある。
もちろん、学校の対応は不用意だったのだろう。保護者が怒るのも当然である。メディアにも報じる役割はある。だが、本来みんなが目指していたのは、「誰を処罰するか」ではなく、「どう共生社会を維持するか」だったはずだ。学校も、保護者も、地域も、メディアも、もう少し落ち着いて、「この子たちを社会でどう支えるか」を考える余裕があれば、話は違う形になっていたのかもしれない。最近の社会は、白黒をつける速度だけは異様に速い。だが、共生社会というものは、本来そんな瞬発力ではなく、少し鈍く、少し不器用で、少し面倒くさいものだった気がするのである。