イタリア司法の国民投票2026年03月25日

イタリア司法制度改革の国民投票
イタリアで実施された司法制度改革の国民投票は、反対53%・賛成47%で否決された。この結果を政権不信とみるのは的外れだ。問われたのは人気ではなく制度そのもの。否決されたのは、政権ではなく「政治が司法に手を入れること」だった。今回の改革案は、検察と裁判官の人事を分離し、昇進や配置をより独立的な仕組みに改めるなど、司法の権限構造に手を入れる内容だった。いわば「司法の内部統治」を変える試みである。だからこそ国民は敏感に反応した。背景には、イタリアに蓄積された政治不信がある。戦後の同国は小党乱立と連立崩壊を繰り返し、政権交代は70回超。政策より延命が優先される政治のもとで、信頼はすり減った。一方で1990年代の汚職摘発、いわゆるマーニ・プーリテ作戦によって検察は既存政治を追い詰め、「政治を裁く存在」としての地位を確立する。

多くの国でも政治より司法は信頼されやすい。だがイタリアでは、その関係が例外ではなく常識になった。政治は腐敗しうるが、司法が正す――この前提が共有されている以上、司法改革は自動的に「政治介入」とみなされる。今回の否決は、その帰結にすぎない。とはいえ、賛成47%は軽くない。これは現行制度への不満の裏返しでもある。裁判の長期化や内部の固定化といった問題は広く認識されており、改革の必要性自体は消えていない。安定した政権基盤を持つジョルジャ・メローニ政権が、より穏健な形で再提案する余地は十分にある。

この事例が突きつけるのは、むしろ日本の現実だ。日本の司法は三権分立やチェック機能といった形式は整っている。だが、その多くは実効性に乏しい。実態としては最高裁判所事務総局が裁判官の任命・昇進・配置を一元的に握る「司法官僚制」によって運用されている。本来、国民審査や国会の関与は監視機能として設計されている。しかし、最高裁判事の国民審査で罷免された例は一度もなく、実質的な審査として機能しているとは言い難い。制度はあるが、作用していないのである。人事権が統制として機能する構造のもとで、裁判官が組織の評価から完全に自由であるとは言い難い。その結果は数字に表れる。刑事裁判の有罪率は99%台。行政訴訟でも国側の勝訴が大半を占める。これらが直ちに不公正を意味するわけではないにせよ、司法が外部からほとんど検証されないまま自己完結している構造を示している。

必要なことは単純だ。権力を分散し、可視化することに尽きる。裁判官人事を外部有識者を含む独立機関に委ね、行政機能と切り離す。地域ごとの司法評議会を設け、中央集権的な運用を改める。いずれも憲法改正を要せず、裁判所法の改正で実現可能だ。イタリアでも司法は見えにくい。だがそれは、信頼の上に成り立つ不可視性である。日本の問題は違う。検証の仕組みが弱いまま、不可視性だけが残っている点にある。司法の独立とは、閉じることではない。開かれることで初めて成り立つ。見えない司法は独立ではない。責任なき権力にすぎない。

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