京大・吉田寮 責任の空白2026年03月21日

京大・吉田寮 責任の空白
京都大学の吉田寮問題が、またしても止まっている。寮自治会は建物補修と対話再開を求め、8858人分の署名を提出した。要求は一見もっともだ。「補修を示せ」「話し合いを再開せよ」。どこにも過激さはない。むしろ穏当ですらある。だが、この“穏当さ”こそが、問題の核心を覆い隠している。署名の前提には、ほとんど疑われることなく、ある了解が埋め込まれている。「補修の先に再入居があるのは当然だ」という了解である。しかし本来、それは「当然」ではない。そこにこそ、この問題のねじれがある。

吉田寮の建物は大学の所有だ。築年数はすでに半世紀を大きく超え、耐震や防火の面でも長年にわたり懸念が指摘されてきた。補修の内容、安全基準、そして誰を入居させるか――これらはすべて、最終的な責任を負う大学が決めるべき事項である。事故が起きれば責任を問われるのは大学であり、入居者ではない。にもかかわらず、現実には「責任は大学、権限は自治会」という逆転が続いてきた。誰が住むかを決める力を持つ側が、建物の安全や維持に責任を負わない。この構図は、ハンドルを握らずにアクセルだけ踏むようなものだ。進むことはできても、止まる責任は誰も引き受けない。

本来、入居者自治とは生活ルールの調整にとどまる。入居資格や施設の利用条件にまで及べば、それは自治ではなく、制度そのものへの介入である。もちろん、居住者が意見を述べることは当然許される。しかし、「意見」と「決定」は別だ。この区別が曖昧なまま維持されてきたことが、今日の混乱を生んだ。では、なぜここまで放置されたのか。理由は単純で、そして重い。大学が線を引かなかったからである。戦後の自治尊重の文化、対立を避ける組織体質、そして判断の先送り。その積み重ねが、制度の曖昧さを固定化させた。結果として生まれたのが、責任だけが残り、決定権が宙に浮く「制度の空白」だ。

時間はこの空白をさらに強固にした。慣行は既成事実となり、やがて“権利”のように振る舞い始める。本来は調整可能だった問題は、今や政治的・感情的な対立へと変質した。ハンドルを手放したまま走り続けた車が、いまさら急停止できないのと同じである。司法もまた、この空白を埋めることはできない。裁判所が扱うのは占有や退去の適法性に限られ、自治の範囲や統治のあり方そのものには踏み込めない。大学は和解という現実的選択をしたが、その後も補修計画を示さない現状を見る限り、「先送り」は続いている。

一方で、自治会側の主張が社会的に広く支持されているとも言い難い。8858人という署名は一定の規模ではあるが、約2万2000人の学生と数千人規模の教職員を擁する京都大学全体から見れば、決定的な総意とは言いにくい。加えて、署名には学外の賛同者も含まれているとみられ、大学の施設運営や責任の所在に直接関わらない立場の意思がどこまで意味を持つのかという問題も残る。

構造のねじれが共有されるほど、この問題は「自治の擁護」ではなく「既得権の維持」と受け止められていく。結局のところ、問われているのは理念ではない。責任を負う主体が、その責任に見合う権限を持っているかという、統治の基本である。問題は対話ではない。決めるべき主体が決めてこなかった――その不作為の責任を、大学が引き受け、責任を果たすという当たり前の決断が求められている。