共同親権が施行 ― 2026年04月03日
4月1日、共同親権(選択制)が施行された。父母の対等性、国際標準――耳触りのいい言葉が並ぶ。だが、現場の空気はまるで違う。理念だけが先走り、子どもの安全という最優先事項が制度の陰に押し込められている。離婚後も父母が重要事項を合意して決める。それが共同親権の建前だ。だが、家庭裁判所の実務や各種調査を見れば、離婚紛争の相当割合がDVや高葛藤状態を含むのは周知の事実である。研究によって幅はあるものの、3〜4割に達するとの指摘もある。もはや例外ではない。この現実を前にすれば、共同親権は「協働できる親」を前提に設計された制度であり、すべての家庭に適用するには無理がある。選択制とは言え理想の家族像に依存した、危うい制度と言わざるを得ない。力関係の強い側が選択を支配する構造になりやすいからだ。
もっとも、共同親権の理念自体を全面否定するのは公平ではない。片親による恣意的な関係遮断を防ぎ、養育責任を父母双方で担うという考え方には合理性がある。問題は、その前提が崩れているケースにまで制度を機械的に適用している点だ。DVや支配関係が残る家庭での「合意」は、対等な協議ではない。圧力の延長にすぎない。
現実に何が起きているか。別居後も父親が「親権者として当然だ」と学校に押しかけ、子どもを連れ帰ろうとして警察沙汰になる。母親は避難先を知られまいと神経をすり減らすが、父親は学校を突破口に情報を得ようとする。子どもは怯え、泣き続ける。こうした「親の権利の暴走」は、制度によって正当化されることでむしろ強化される。共同親権は、場合によっては加害側に拒否権という強力なカードを与え、支配の継続を制度的に支える構造を持つ。
しわ寄せは現場に来る。学校や医療機関はすでに悲鳴を上げている。どちらの親に情報を渡すのか。DV加害側が現れたときどう対応するのか。重要事項の合意はどう確認するのか。本来の業務とは無関係の判断を迫られ、教育や医療の現場が、事実上、家庭裁判所の代行をさせられている。家裁調査官や心理職の体制も追いつかず、自治体の支援も不十分なまま制度だけが先行した。安全装置を付けずに車を走らせているようなものだ。
海外ではどうか。多くの国で、DVの疑いがある場合には共同親権の適用を慎重に制限し、子どもの意思の尊重や専門職の関与を制度の中核に据えている。共同親権は理念だけで機能する制度ではない。厳格な安全装置と実務体制があって初めて成り立つ。日本は外形だけを取り入れ、その中身を整備しないまま走り出した。これでは「なんちゃって国際標準」と言われても仕方がない。
共同親権は美しい理念ではある。しかし、理念は子どもを守らない。守るのは制度設計であり、運用であり、現場を支える体制だ。必要なのは称賛ではない。DV・高葛藤事案の明確な除外基準、現場判断を支える実務指針、専門職の抜本的増員――そうした具体策を伴う再設計である。事件が起きてからでは遅い。その当たり前を、これ以上先送りしてはならない。残念ながら、悪質な親は確実に存在する。性善説だけでは共同親権は成り立たない。だからこそ必要なのは、適切な公権力の介入である。それは過剰な干渉ではない。子どもの人権を守るという、国家に課せられた最低限の責務にすぎない。
もっとも、共同親権の理念自体を全面否定するのは公平ではない。片親による恣意的な関係遮断を防ぎ、養育責任を父母双方で担うという考え方には合理性がある。問題は、その前提が崩れているケースにまで制度を機械的に適用している点だ。DVや支配関係が残る家庭での「合意」は、対等な協議ではない。圧力の延長にすぎない。
現実に何が起きているか。別居後も父親が「親権者として当然だ」と学校に押しかけ、子どもを連れ帰ろうとして警察沙汰になる。母親は避難先を知られまいと神経をすり減らすが、父親は学校を突破口に情報を得ようとする。子どもは怯え、泣き続ける。こうした「親の権利の暴走」は、制度によって正当化されることでむしろ強化される。共同親権は、場合によっては加害側に拒否権という強力なカードを与え、支配の継続を制度的に支える構造を持つ。
しわ寄せは現場に来る。学校や医療機関はすでに悲鳴を上げている。どちらの親に情報を渡すのか。DV加害側が現れたときどう対応するのか。重要事項の合意はどう確認するのか。本来の業務とは無関係の判断を迫られ、教育や医療の現場が、事実上、家庭裁判所の代行をさせられている。家裁調査官や心理職の体制も追いつかず、自治体の支援も不十分なまま制度だけが先行した。安全装置を付けずに車を走らせているようなものだ。
海外ではどうか。多くの国で、DVの疑いがある場合には共同親権の適用を慎重に制限し、子どもの意思の尊重や専門職の関与を制度の中核に据えている。共同親権は理念だけで機能する制度ではない。厳格な安全装置と実務体制があって初めて成り立つ。日本は外形だけを取り入れ、その中身を整備しないまま走り出した。これでは「なんちゃって国際標準」と言われても仕方がない。
共同親権は美しい理念ではある。しかし、理念は子どもを守らない。守るのは制度設計であり、運用であり、現場を支える体制だ。必要なのは称賛ではない。DV・高葛藤事案の明確な除外基準、現場判断を支える実務指針、専門職の抜本的増員――そうした具体策を伴う再設計である。事件が起きてからでは遅い。その当たり前を、これ以上先送りしてはならない。残念ながら、悪質な親は確実に存在する。性善説だけでは共同親権は成り立たない。だからこそ必要なのは、適切な公権力の介入である。それは過剰な干渉ではない。子どもの人権を守るという、国家に課せられた最低限の責務にすぎない。