東海林風CO2と残菜問題 ― 2026年04月21日
残菜というのは、どうにも扱いが難しい。食卓の端に取り残された煮物の人参。嫌われているわけでもないのに、気がつくと皿の隅でぽつんとしている。ポテトサラダのすくい損ねた一塊も、妙に粘り強く皿にへばりつき、取ろうとすると広がる。どれも捨てるには惜しいが、これだけで一品になるかといえば心許ない。「惜しい」と「いらない」の中間にあるのが残菜である。いま世間で盛大に繰り広げられている脱炭素の「エコエコ大作戦」も、この残菜の扱いに似ている。あちこちから野菜の端っこをかき集め、高級調味料を惜しげもなく投入し、最新鋭の圧力鍋――メタネーション装置――を据えて再調理する。しかし材料をばらしてまたくっつけるようなもので、どうにも手間がかかる。普通に新しい材料で一品こしらえたほうが早いのではないか、と箸先が止まる。それでも「特製eメタンです」と出されると、一応は箸を持つが、「そこまでして食わなきゃならんのか」と思う。台所の隅から町内会の視線がじわっと効いてくる。「ちゃんと食べなさい」という、あの無言の圧である。
そこへ現れたのが、期待の新人・SMR(小型モジュール炉)だ。「残菜の出にくい最新式の万能鍋」という触れ込みで、町内会でも噂になる。我が家にも一台ほしい気がする。しかしどんな鍋でも十年も使えばお焦げがつく。SMRとて例外ではなく、気がつけば“残りかす”が溜まってくる。「話が違うじゃないか」と町内会が騒ぎ出し、「あのお焦げはどうするんですか」と詰め寄る。そこで人は考える。見えなければいいのではないか、と床下に押し込む。しかし床下は案外狭く、十年分も押し込めばパンパンだ。しかも自分の家の床下だと思うと落ち着かない。町内会も妙に詳しくなり、「床下は危ないらしいですよ」と知識を披露してくる。
ではどうするか。ここで出てくるのが核変換である。溜まったものをそのままにせず、性質そのものを変えてしまおうという発想だ。長く置くと厄介なものを、時間をかけて扱いやすいものにしていく。ちょうど、ぬか床に放り込んだ野菜が、気がつけば漬物になっているようなものだ。手を入れ、様子を見ながら、じわじわと変えていく。いわば、これはエネルギー界のぬか床である。ただし、まだ「うまく漬かるか様子見」の段階で、町内会に説明しても納得はされにくい。さらにその先には、核融合という“そもそも残り物がほとんど出ない台所”が控えているらしい。ここまで来れば町内会も静かになるかと思いきや、「その鍋、いつ来るんですか」と一言。夢の話は嫌いではないが、夕飯の支度は今日もある。夢を食べて生きるわけにはいかないところが、なんとも悩ましい。
こうして眺めると、残り物をどう扱うかに知恵を絞り、高い道具を持ち出して右往左往している姿は、どこか滑稽でもある。もちろん無駄ではないが、そればかりに熱中すると、肝心の台所全体を忘れてしまう。結局必要なのは「残菜をどう食べきるか」ではなく、「そもそもちゃんと食える飯をどう用意するか」である。町内会に言われて渋々食べる飯ではなく、最初から箸が進む飯だ。無理に温め直した残り物は、やはり残り物の味がする。だったら早いところ、新しい釜でまっとうな飯を炊いたほうがいい。エネルギーの未来は、そのあたりにあるような気がする。
そこへ現れたのが、期待の新人・SMR(小型モジュール炉)だ。「残菜の出にくい最新式の万能鍋」という触れ込みで、町内会でも噂になる。我が家にも一台ほしい気がする。しかしどんな鍋でも十年も使えばお焦げがつく。SMRとて例外ではなく、気がつけば“残りかす”が溜まってくる。「話が違うじゃないか」と町内会が騒ぎ出し、「あのお焦げはどうするんですか」と詰め寄る。そこで人は考える。見えなければいいのではないか、と床下に押し込む。しかし床下は案外狭く、十年分も押し込めばパンパンだ。しかも自分の家の床下だと思うと落ち着かない。町内会も妙に詳しくなり、「床下は危ないらしいですよ」と知識を披露してくる。
ではどうするか。ここで出てくるのが核変換である。溜まったものをそのままにせず、性質そのものを変えてしまおうという発想だ。長く置くと厄介なものを、時間をかけて扱いやすいものにしていく。ちょうど、ぬか床に放り込んだ野菜が、気がつけば漬物になっているようなものだ。手を入れ、様子を見ながら、じわじわと変えていく。いわば、これはエネルギー界のぬか床である。ただし、まだ「うまく漬かるか様子見」の段階で、町内会に説明しても納得はされにくい。さらにその先には、核融合という“そもそも残り物がほとんど出ない台所”が控えているらしい。ここまで来れば町内会も静かになるかと思いきや、「その鍋、いつ来るんですか」と一言。夢の話は嫌いではないが、夕飯の支度は今日もある。夢を食べて生きるわけにはいかないところが、なんとも悩ましい。
こうして眺めると、残り物をどう扱うかに知恵を絞り、高い道具を持ち出して右往左往している姿は、どこか滑稽でもある。もちろん無駄ではないが、そればかりに熱中すると、肝心の台所全体を忘れてしまう。結局必要なのは「残菜をどう食べきるか」ではなく、「そもそもちゃんと食える飯をどう用意するか」である。町内会に言われて渋々食べる飯ではなく、最初から箸が進む飯だ。無理に温め直した残り物は、やはり残り物の味がする。だったら早いところ、新しい釜でまっとうな飯を炊いたほうがいい。エネルギーの未来は、そのあたりにあるような気がする。