映画『ヘイル・メアリー』 ― 2026年04月17日
映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観に行った。評判がいいし、SFと宇宙の匂いがするものには反射的に吸い寄せられる体質なので、これはもう仕方がない。ところが観てみると、これがなかなか妙な体験で、面白いのに、どこかで小骨が喉に引っかかるような感触が残る。まずロッキーである。あの異星人。機能的には合理的なデザインなのだが、どうしても時折どーもくんが脳裏を横切る。NHKのあの茶色いモフモフが、宇宙船の中で「ピピッ」とか言いながら歩いているような錯覚に襲われる。もちろん作品の価値を損なうほどではないが、あれはちょっとしたノイズだ。
そして科学描写。原作では、化学だの物理だの生物だのが、まるで積み木のように順序よく積み上がっていくのだが、映画ではそれが「はい、ここ一行で説明します」という勢いで圧縮されている。観客は筋は追えるが、思考の階段を一段ずつ登る楽しみは味わえない。まるで、ラーメン屋で「スープの仕込みは三日かかります」と言われたのに、出てきたのはカップ麺だった、みたいな気分になる。物語の発端は、太陽エネルギーを奪う宇宙微生物アストロファージの発見だ。熱を質量に変えて移動するという、物理学者が眉間にシワを寄せそうな設定だが、ここだけ“嘘”と割り切れば、あとは驚くほど論理的に進む。人類はこれを燃料にして光速に近い速度で飛ぶスピンドライブを作り、11年かけてアストロファージが増殖しないタウ・セティ恒星系に原因究明に向かう。まあ、やることが大胆である。
航行中に睡眠遺伝子が強く唯一生き残ったグレースは、異星人ロッキーと出会う。210度・29気圧・アンモニア大気という、地球人なら一瞬で蒸発しそうな環境に住むエリディアン。放射線の概念がないというのも、厚い大気に守られていたという理由がついていて妙に納得してしまう。こういう“理屈の通し方”は原作者の真骨頂だ。二人は科学を共通語に協力し、タウ・セティが無事だった理由が天敵タウメーバにあると突き止める。窒素に弱いタウメーバを、選択交配で耐性持ちに育てるという展開も、映画ではサラッと流されるが、本来はもっと汗と涙の研究プロセスがあるはずだ。
本作の心臓部は、科学が友情に変わる瞬間だ。ロッキーがグレースを救うため、自分にとって致死的な低温・低圧・酸素の世界へ飛び出すシーンは、どーもくんに見えるくせに胸を打つ。グレースもまた即席の高圧室を作ってロッキーを救い返す。ここで二人の関係は、単なる協力関係から“もう後戻りできない友情”へと変わる。終盤、タウメーバが予想外の進化を遂げ、ロッキーが遭難の危機に陥る。グレースは帰還を捨ててロッキーの元へ引き返す。引き返すと言ってもコンビニから自宅までとはわけが違う。徒歩で地球一周より彼方に引き返すのだ。そして、人類にはお手軽なプラスティックを利用して封じ込める。これも安易で肩透かしなどんでん返しなのが良い。最後にグレースはエリドに残り、科学教師として生きる。なんだかんだで、科学が二つの文明をつないだという、きれいな着地である。
総じて本作は、科学の骨格と物語の構造がしっかりした良作である。なのだが、どうにも“思考のプロセス”がギュッと詰め込まれすぎていて、こちらとしては、おでん屋で玉子を頼んだら、まだ中心がひんやりしていたような、そんな軽い肩すかしを食らう。味はいいのに、もう一歩あたたまっていてほしい、という惜しさが残る。それでも、科学と友情を結びつけるという作品の芯はちゃんと描かれていて、観る価値は十分にある。とくにラスト、グレースが異星人の子どもたちに理科を教えている場面は、知らない町の駄菓子屋にふらっと入ったときのような、妙にあたたかい空気が漂っていて、思わず頬がゆるむ。あの光景を見ていると、「宇宙も案外、隣の商店街くらいの距離感なのかもしれない」と思わせてくれる映画だった。
そして科学描写。原作では、化学だの物理だの生物だのが、まるで積み木のように順序よく積み上がっていくのだが、映画ではそれが「はい、ここ一行で説明します」という勢いで圧縮されている。観客は筋は追えるが、思考の階段を一段ずつ登る楽しみは味わえない。まるで、ラーメン屋で「スープの仕込みは三日かかります」と言われたのに、出てきたのはカップ麺だった、みたいな気分になる。物語の発端は、太陽エネルギーを奪う宇宙微生物アストロファージの発見だ。熱を質量に変えて移動するという、物理学者が眉間にシワを寄せそうな設定だが、ここだけ“嘘”と割り切れば、あとは驚くほど論理的に進む。人類はこれを燃料にして光速に近い速度で飛ぶスピンドライブを作り、11年かけてアストロファージが増殖しないタウ・セティ恒星系に原因究明に向かう。まあ、やることが大胆である。
航行中に睡眠遺伝子が強く唯一生き残ったグレースは、異星人ロッキーと出会う。210度・29気圧・アンモニア大気という、地球人なら一瞬で蒸発しそうな環境に住むエリディアン。放射線の概念がないというのも、厚い大気に守られていたという理由がついていて妙に納得してしまう。こういう“理屈の通し方”は原作者の真骨頂だ。二人は科学を共通語に協力し、タウ・セティが無事だった理由が天敵タウメーバにあると突き止める。窒素に弱いタウメーバを、選択交配で耐性持ちに育てるという展開も、映画ではサラッと流されるが、本来はもっと汗と涙の研究プロセスがあるはずだ。
本作の心臓部は、科学が友情に変わる瞬間だ。ロッキーがグレースを救うため、自分にとって致死的な低温・低圧・酸素の世界へ飛び出すシーンは、どーもくんに見えるくせに胸を打つ。グレースもまた即席の高圧室を作ってロッキーを救い返す。ここで二人の関係は、単なる協力関係から“もう後戻りできない友情”へと変わる。終盤、タウメーバが予想外の進化を遂げ、ロッキーが遭難の危機に陥る。グレースは帰還を捨ててロッキーの元へ引き返す。引き返すと言ってもコンビニから自宅までとはわけが違う。徒歩で地球一周より彼方に引き返すのだ。そして、人類にはお手軽なプラスティックを利用して封じ込める。これも安易で肩透かしなどんでん返しなのが良い。最後にグレースはエリドに残り、科学教師として生きる。なんだかんだで、科学が二つの文明をつないだという、きれいな着地である。
総じて本作は、科学の骨格と物語の構造がしっかりした良作である。なのだが、どうにも“思考のプロセス”がギュッと詰め込まれすぎていて、こちらとしては、おでん屋で玉子を頼んだら、まだ中心がひんやりしていたような、そんな軽い肩すかしを食らう。味はいいのに、もう一歩あたたまっていてほしい、という惜しさが残る。それでも、科学と友情を結びつけるという作品の芯はちゃんと描かれていて、観る価値は十分にある。とくにラスト、グレースが異星人の子どもたちに理科を教えている場面は、知らない町の駄菓子屋にふらっと入ったときのような、妙にあたたかい空気が漂っていて、思わず頬がゆるむ。あの光景を見ていると、「宇宙も案外、隣の商店街くらいの距離感なのかもしれない」と思わせてくれる映画だった。