東海林さだお追悼と太陽光発電2026年04月18日

東海林さだお追悼と太陽光発電
東海林さだおさんが亡くなった。若いころ、仕事でくたびれた頭をふっと軽くしてくれる一服の清涼水であり、夜、布団に入ってから読むとそのまま眠りに落ちてしまう安眠枕でもあった。世間では『あさって君』が高く評価されているが、私にとっては、あのエッセーと挿絵の「丸かじりシリーズ」こそ最強だった。惜しい、残念、無念――どれだけ言葉を並べても足りない。しばらくブログの文体を東海林風にアレンジして、ささやかな追悼の意を表したい。

まずは太陽光発電をおかずにしたい。「太陽光は正義である」と言い切る人が増えてきた。こちらは何もしていないのに、なぜか少しだけ後ろめたい気分にさせられる。学級委員長というのは、昔からそういう力を持っている。給食の牛乳を飲み残すと「骨が弱くなる」と言ってくるタイプである。こちらとしては牛乳より揚げパンの油のほうが気になっていたのだが、そういう話は聞いてくれない。

太陽の光で電気をつくる。たいへん結構である。煙も出ないし、音も静かだ。パネルの黒光りなんか、妙に“働き者の背中”みたいで、ちょっと頼もしい。あれを見ていると、休日でも会社に来て書類を整理していそうな雰囲気がある。ところがである。その“やさしさ”がどういう仕組みで成り立っているのかと考えはじめると、話が少々込み入ってくる。だいたい、やさしいものというのは裏で苦労している。豆腐だって、あれだけ柔らかいのに、作るのは案外手間がかかる。

山野を覆い尽くしたメガソーラーは地球に優しいのだろうか。木を切る。土が出る。雨が降ると、その土が流れる。これはまあ、見れば分かる話である。川が濁るのも、見れば分かる。問題はその先である。森の土や落ち葉というのは、ただのゴミではなくて、どうやら栄養らしい。それが川を下り、海に届く。海では植物プランクトンがそれを使って増える。ここまでは理科の時間に聞いたような気もする。あの頃はプランクトンと聞くと給食のわかめスープを思い出したものだが、どうも関係はないらしい。だが、わかめはわかめで、あれはあれで独自に頑張っている。

そのプランクトン、何をしているかというと、CO₂を取り込んでいる。CO₂は水に溶けると少し酸っぱくなる性質がある。つまり海は、空気中のCO₂が増えると、じわじわと酸っぱくなっていく。これを酸性化というらしい。最近よく聞く話である。そこでプランクトンの出番である。増えればCO₂を取り込む。減れば取り込まない。当たり前といえば当たり前だが、この当たり前がどうも効いてくる。山が変わり、海に届くものが変わると、このプランクトンの働きも少し変わるらしい。プランクトンも材料が届かないと腹が減って仕事ができないのだ。料理番組で材料が揃っていないときの、あの気まずさに似ている。

結果としてどうなるか。海はもともとCO₂で少しずつ酸っぱくなっている。その流れは止まらない。そこへCO₂を取り込む側の力が弱くなると、どうなるか。これはまあ、強い者が弱くなる話ではなく、弱い者がさらに弱くなる話である。踏ん張りが効かなくなる、と言ったほうが早いかもしれない。梅干しを食べたあとに水を飲むと、余計に酸っぱく感じる、あの感じである。海も「ちょっと待って」と言いたいだろう。

では砂漠ならどうか。「何もないから大丈夫」と言われる。しかし何もないようで、どうもいろいろあるらしい。踏むと怒られそうなものが、うっすらと表面を覆っている。生物被膜というらしい。名前だけ聞くと、冷蔵庫の奥に貼りついている謎の膜みたいだが、実際は砂漠の大事な“皮膚”である。そこへ重機が入る。これを「何もないところの活用」と言い切るには、やや勇気がいる。砂漠のほうも「いや、あるよ」と言いたいに違いない。

結局のところ、太陽光発電そのものが悪いわけではない。屋根の上にちょこんと載せる分には、たいへん具合がよろしい。文句を言う理由が見当たらない。漬物を漬けたり梅酒を造ったりするのと同じ延長線上の「自家製」として捉え、「自分の家で電気が作れる」という“ベランダ太陽光発電所”を開設するのに、目くじらを立てる気はさらさらない。だが山を丸ごと使うとなると、話は別である。どうも最近は、CO₂という科目だけで通知表をつけているようで、それが満点なら他は見ない、という採点法になっているらしい。体育も図工も家庭科も、全部「まあいいや」で済ませるタイプである。

しかし世の中、そう単純でもない。山と海はつながっていて、その間にいるものも、いろいろ仕事をしている。みんな黙って働いているのだ。学級委員長には一度、バッジを外して、山の土を手に取ってみていただきたい。見た目はただの土である。だがどうも、あれがいなくなると、海のほうまで少し困るらしいのである。土というのは、見た目よりずっと働き者なのだ。