プラダを着た悪魔2 ― 2026年05月17日
『プラダを着た悪魔』という映画には、昔から“二回目の同窓会”みたいな難しさがある。一回目は若さと勢いで「いやあ、変わらないねえ!」と盛り上がるのだが、二回目になると料理の味より先に「みんな膝、大丈夫?」みたいな空気が漂い始める。今回の続編も、まさにその“同窓会の空気”をたっぷりまとって登場した。
まずミランダを演じるメリル・ストリープ。前作では、彼女が編集部に入ってくるだけで空気がスーッと凍り、社員の背筋が冷凍マグロみたいにピンと伸びたものだが、今回はさすがに少し丸くなった。もちろん威圧感は健在だ。だが、あの“歩く業務用冷凍庫”のような迫力ではなく、いまは“高級ホテルのワインセラー”くらいの冷え方である。上品で重厚だが、耳たぶが痛くなるほどではない。パワハラ防止やコンプライアンスが定着した時代を思えば、これはこれで年輪として自然なのだろう。とはいえ、“毒の減ったミランダ”というのはどこか「激辛カレーを中辛にしました」みたいで、うまいのだが妙に拍子抜けする。
一方、ナイジェル役のスタンリー・トゥッチは実にいい。年齢を重ねるほど味が出る、完全に“熟成型俳優”である。皮肉が角砂糖みたいに丸く溶けていて、嫌味なのに妙に口当たりがいい。ミランダが少し揺らいだからこそ、ナイジェルの安定感が際立つ。揺れる通勤電車でただ一人、絶対に転ばない“つり革名人のおじさん”みたいな安心感である。
そしてアンドレア役のアン・ハサウェイ。彼女が再びファッション業界のドアを開ける瞬間には、「ああ、この常連また来たのね」という妙な安心感がある。衣装も会話もテンポも「はいはい、これこれ」と観客に思い出させる。だが何より驚くのは、彼女の美しさが“着せ替え人形の保存状態そのまま”であることだ。どの服を着ても、どの角度から見ても、まるで新品の箱から出したばかりのリカちゃん。二十年経っても日焼けも色あせもない。続編の中で唯一、前作と同じどころか“進化して帰ってきた存在”である。
問題はそのあとだ。ここまで前作のレシピを丁寧になぞっておきながら、最後の最後で“記者に戻らない”という着地になると、なんだかラーメンを完食したあと、丼の底にメンマ一本だけ取り残されていたような、あの“締まりきらない感じ”が残る。食べ終わったのに、なぜか口の中だけまだ営業中なのだ。
そして最大の惜しさが“噴水問題”である。前作の名場面といえば、パリのパレ・ロワイヤルの噴水に携帯を投げ込む、あの「もう私は自由です」という瞬間だった。だったら続編でも当然、“ミラノ噴水スマホ投棄事件”をやるべきだったのである。しかもミラノにはちゃんと立派な噴水――カステッロ広場の噴水――がある。あれほど前作をなぞっておきながら、なぜ最後の一手を打たないのか。これはもう、鍋いっぱいにカレーを仕込んでおきながら、最後にルーだけ入れ忘れたような惜しさである。
そもそも「プラ悪に捨てスマ」は単なるストーリー上の出来事ではない。あれは“断絶の儀式”であり、アンドレアが自分の人生を取り戻すための象徴的な行為だった。同じ展開ではさすがに能がないという誹りを制作陣が気にしたのだとしても、工夫の余地はいくらでもあったはずだ。たとえば、捨てたはずのスマホがなぜか戻ってきて、アンドレアがそれをミランダに返し、静かに「ザッツ・オール(以上よ)」と言い残して去る――そんな“逆噴水”の儀式でも、前作の円環は美しく閉じたはずである。
結局この続編は、前作のレシピをかなり忠実に再現した“高級リメイク定食”なのだ。食材は豪華だし、調理も丁寧。だが最後の味付けだけ、なぜか別の店の料理人が入ってきたみたいに違う。だから観終わったあと、「うまかった気もするが、何かが引っかかる」という妙な満腹感が残る。ただしひとつだけ断言できる。アン・ハサウェイだけは完璧だった。あの美しさは、もはや演技というより“保存状態の奇跡”。結局この映画、コース料理としては少々首をひねるのだが、最後に出てきたデザートだけ異様にうまい。そして困ったことに、そのデザートは二十年前より艶がいい。
まずミランダを演じるメリル・ストリープ。前作では、彼女が編集部に入ってくるだけで空気がスーッと凍り、社員の背筋が冷凍マグロみたいにピンと伸びたものだが、今回はさすがに少し丸くなった。もちろん威圧感は健在だ。だが、あの“歩く業務用冷凍庫”のような迫力ではなく、いまは“高級ホテルのワインセラー”くらいの冷え方である。上品で重厚だが、耳たぶが痛くなるほどではない。パワハラ防止やコンプライアンスが定着した時代を思えば、これはこれで年輪として自然なのだろう。とはいえ、“毒の減ったミランダ”というのはどこか「激辛カレーを中辛にしました」みたいで、うまいのだが妙に拍子抜けする。
一方、ナイジェル役のスタンリー・トゥッチは実にいい。年齢を重ねるほど味が出る、完全に“熟成型俳優”である。皮肉が角砂糖みたいに丸く溶けていて、嫌味なのに妙に口当たりがいい。ミランダが少し揺らいだからこそ、ナイジェルの安定感が際立つ。揺れる通勤電車でただ一人、絶対に転ばない“つり革名人のおじさん”みたいな安心感である。
そしてアンドレア役のアン・ハサウェイ。彼女が再びファッション業界のドアを開ける瞬間には、「ああ、この常連また来たのね」という妙な安心感がある。衣装も会話もテンポも「はいはい、これこれ」と観客に思い出させる。だが何より驚くのは、彼女の美しさが“着せ替え人形の保存状態そのまま”であることだ。どの服を着ても、どの角度から見ても、まるで新品の箱から出したばかりのリカちゃん。二十年経っても日焼けも色あせもない。続編の中で唯一、前作と同じどころか“進化して帰ってきた存在”である。
問題はそのあとだ。ここまで前作のレシピを丁寧になぞっておきながら、最後の最後で“記者に戻らない”という着地になると、なんだかラーメンを完食したあと、丼の底にメンマ一本だけ取り残されていたような、あの“締まりきらない感じ”が残る。食べ終わったのに、なぜか口の中だけまだ営業中なのだ。
そして最大の惜しさが“噴水問題”である。前作の名場面といえば、パリのパレ・ロワイヤルの噴水に携帯を投げ込む、あの「もう私は自由です」という瞬間だった。だったら続編でも当然、“ミラノ噴水スマホ投棄事件”をやるべきだったのである。しかもミラノにはちゃんと立派な噴水――カステッロ広場の噴水――がある。あれほど前作をなぞっておきながら、なぜ最後の一手を打たないのか。これはもう、鍋いっぱいにカレーを仕込んでおきながら、最後にルーだけ入れ忘れたような惜しさである。
そもそも「プラ悪に捨てスマ」は単なるストーリー上の出来事ではない。あれは“断絶の儀式”であり、アンドレアが自分の人生を取り戻すための象徴的な行為だった。同じ展開ではさすがに能がないという誹りを制作陣が気にしたのだとしても、工夫の余地はいくらでもあったはずだ。たとえば、捨てたはずのスマホがなぜか戻ってきて、アンドレアがそれをミランダに返し、静かに「ザッツ・オール(以上よ)」と言い残して去る――そんな“逆噴水”の儀式でも、前作の円環は美しく閉じたはずである。
結局この続編は、前作のレシピをかなり忠実に再現した“高級リメイク定食”なのだ。食材は豪華だし、調理も丁寧。だが最後の味付けだけ、なぜか別の店の料理人が入ってきたみたいに違う。だから観終わったあと、「うまかった気もするが、何かが引っかかる」という妙な満腹感が残る。ただしひとつだけ断言できる。アン・ハサウェイだけは完璧だった。あの美しさは、もはや演技というより“保存状態の奇跡”。結局この映画、コース料理としては少々首をひねるのだが、最後に出てきたデザートだけ異様にうまい。そして困ったことに、そのデザートは二十年前より艶がいい。