自転車の子供同乗 ― 2026年05月16日
いやはや最近の日本という国は、なんでもかんでも「規制」という名の味の素をパッパッと振りかけて、どんな料理も同じ味にしてしまうクセがついたらしい。自転車に子どもを乗せる年齢がどうだ、座席の形がどうだ、反射材の位置がどうだと、まるで駅弁の仕切りをピンセットで微調整しているような細かさである。しかもそれを国家公安委員長が記者会見で真顔で語り、新聞が深刻そうに報じ、国民が「ふむふむ」と頷いているのだから、海外の人が見たら「これは行政漫才か」と思うに違いない。
本来こういう話は、まず家庭や地域の判断でサラッと片づくはずだった。危なければ近所のおじさんが「おーい、ちょっと気をつけなよ」と声をかける。譲り合い、少し干渉し、しかし踏み込みすぎない。その“ぬるま湯のような距離感”で秩序を保ってきたのが、日本社会の妙味だった。ところが今は、注意すればトラブル、干渉すればクレーム、下手をすればSNSで炎上。結果として、誰も言わない。いや、言えない。すると行政が「では規則で定めます」と乗り出してくる。しかも実に細かい。遠足のしおりの「持ち物リスト」より細かい。
だが、この細かさ、秩序を強くするどころか、人間の判断力を弱らせる。「ルールに書いていないのでできません」「規則に従っただけです」。そんな“無責任な優等生”が社会のあちこちで増えていく。自分で考えず、責任も負わず、とにかく規則集だけを見て動く。まるで、レシピ通りにしか料理できないのに、包丁だけはやたら新品の人みたいである。組織というのは、本来は現場で判断できる人間がいて初めて強くなるのだが、規制が増えすぎると、その判断力そのものが干からびていく。
しかも驚くのは、こうした生活作法レベルの問題まで警察が担わされていることだ。警察官とは本来、凶悪犯罪や暴力事件、組織犯罪への備えに力を注ぐべき存在である。ところが現実には、「子どもを何歳まで後ろに乗せてよいか」という、ほとんど家庭内ルールに近い領域まで関わらされている。もちろん安全基準は必要だ。しかし本来なら、道路整備や自転車レーン、交通教育で支えるべき問題まで、何でも「取り締まり」に変換してしまうのは、ちょっと乱暴である。たとえるなら、包丁が切れないからといって、料理人ではなく警察官を呼ぶようなものだ。
そもそも道が狭いのは行政の責任である。道が危ないから規制する、というのは、どこか話が逆転している。本来なら道路を広げ、自転車レーンを整備し、地域で子どもを見守り、互いに譲り合う社会をつくるべきだった。それを飛ばして、「細かい禁止事項」を増やし続けるのは、行政の怠慢というより、“人間を信用しなくなった社会”の姿なのかもしれない。
日本文化の良さとは、本来もっと柔らかく、もっと人間くさく、もっと大らかなものだった。譲り合い、少し世話を焼き、しかし踏み込みすぎない。その自然な秩序を取り戻さない限り、規則集ばかりが分厚くなり、肝心の人間の判断力だけが薄くなっていく。弁当の仕切りを几帳面に並べ替えているうちに、肝心の飯そのものが冷えてしまっては、なんとも味気ない話である。
本来こういう話は、まず家庭や地域の判断でサラッと片づくはずだった。危なければ近所のおじさんが「おーい、ちょっと気をつけなよ」と声をかける。譲り合い、少し干渉し、しかし踏み込みすぎない。その“ぬるま湯のような距離感”で秩序を保ってきたのが、日本社会の妙味だった。ところが今は、注意すればトラブル、干渉すればクレーム、下手をすればSNSで炎上。結果として、誰も言わない。いや、言えない。すると行政が「では規則で定めます」と乗り出してくる。しかも実に細かい。遠足のしおりの「持ち物リスト」より細かい。
だが、この細かさ、秩序を強くするどころか、人間の判断力を弱らせる。「ルールに書いていないのでできません」「規則に従っただけです」。そんな“無責任な優等生”が社会のあちこちで増えていく。自分で考えず、責任も負わず、とにかく規則集だけを見て動く。まるで、レシピ通りにしか料理できないのに、包丁だけはやたら新品の人みたいである。組織というのは、本来は現場で判断できる人間がいて初めて強くなるのだが、規制が増えすぎると、その判断力そのものが干からびていく。
しかも驚くのは、こうした生活作法レベルの問題まで警察が担わされていることだ。警察官とは本来、凶悪犯罪や暴力事件、組織犯罪への備えに力を注ぐべき存在である。ところが現実には、「子どもを何歳まで後ろに乗せてよいか」という、ほとんど家庭内ルールに近い領域まで関わらされている。もちろん安全基準は必要だ。しかし本来なら、道路整備や自転車レーン、交通教育で支えるべき問題まで、何でも「取り締まり」に変換してしまうのは、ちょっと乱暴である。たとえるなら、包丁が切れないからといって、料理人ではなく警察官を呼ぶようなものだ。
そもそも道が狭いのは行政の責任である。道が危ないから規制する、というのは、どこか話が逆転している。本来なら道路を広げ、自転車レーンを整備し、地域で子どもを見守り、互いに譲り合う社会をつくるべきだった。それを飛ばして、「細かい禁止事項」を増やし続けるのは、行政の怠慢というより、“人間を信用しなくなった社会”の姿なのかもしれない。
日本文化の良さとは、本来もっと柔らかく、もっと人間くさく、もっと大らかなものだった。譲り合い、少し世話を焼き、しかし踏み込みすぎない。その自然な秩序を取り戻さない限り、規則集ばかりが分厚くなり、肝心の人間の判断力だけが薄くなっていく。弁当の仕切りを几帳面に並べ替えているうちに、肝心の飯そのものが冷えてしまっては、なんとも味気ない話である。